嗅いだだけで脳内が色褪せてしまいそうな、そんな古い紙のにおいがいい。私がここにしがみつく理由なんてそれで十分だ。革新的改装計画も利便性の向上に伴う利用者の増大も全て断ってしまった。壁におとなしく収まっている本を一冊取り出して窓辺に座る。空中に映し出される光の羅列よりもこっちの方がよっぽどいい。
陽ざしが強い。窓の外を見ると、雲を突き抜けそびえたつはるか遠くのビルの群れがギラギラと光を跳ね返していた。それがまるで一つの光の塔のようで、以前本で読んだ摩天楼という言葉が頭をよぎる。ネオンライトに照らされた誘蛾灯のような摩天楼。本の中にあったのは、暗闇の中に巣食う摩天楼だった。まさか作者も全く逆の摩天楼が出来るとは思わなかっただろう。カーテンを閉めて座りなおした。
一呼吸、二呼吸。微かに木々のざわめく音が聞こえる。時間の流れがゆっくりになっていくのを感じる。時代に取り残された片隅で、私は今日も紙の本をめくる。
思考は現実から切り離される。時代も、年齢も、性別も、住む世界さえ違う、そんな彼らの内面に深く深く潜っていく。文字を追うごとに。見えないはずのものが見え、聞こえないはずの音が聞こえる。息遣いや胸の高鳴りまでもが理解できる。この没入感こそが読書の醍醐味だ。
きりのいいところまで読み終ると、いつの間にか雨が降っていた。慌てて窓を閉めるが少しカーテンが濡れている。時計を見るともうお昼前だ。もう少し読み進めてもよさそうな気はしたが、以前それですっかりお昼を忘れていたことがある。私はおとなしく離れに戻ることにした。こんな辺鄙なところに利用者は来ないとは思うけど、一応OPENの札をCLOSEDに変えて小走りで図書館を出た。
お昼を食べて少しのんびりしていると携帯電話が鳴った。空中に電話主の名前が示される。久しぶりに見た名前に、私は少し呆れた。通話マークを押すとホログラムは彼女の姿を映し出す。
「しおり、悪いんだけどそっちには行けなさそう」
「……いきなり何の話よ」
あかりがこちらに来るとは聞いていない。わざわざそういう連絡を律儀に寄こす奴だとは思っていなかった。
「いやさ、随分ほったらかしにしてるからそっちの様子でも見に行こうかなと思ってたんだけど、下の天気見たら雨だったんだ」
「はぁ。というか今、上にいるの?」
窓の外の摩天楼を見る。雨雲から先はすっかり見えなくなっていた。
「泊まる場所を探してたらそうなった。雲の上にいると天気のことを忘れるからいけない」
そう言ってケラケラ笑う。確かに、これは雨のことなんて考えてないような顔だ。
「別に雨くらいどうってことないでしょ。移動手段くらいいくらでもあるのに」
「そういうわけにもいかないよ。エンジンバイクは雨の中走れないんだから」
「あんたまだアレ乗ってんの? 化石でしょうに」
「いいでしょうが。エンジンバイクは古来よりロマンの乗り物なんだよ」
ほんの少しだけ沈黙が流れる。
「大体、それを言い出したらしおりも大概でしょ」
あかりが子供みたいに笑う。一瞬、記憶の中の彼女と重なった。セーラー服と夕焼け。今と違って短い髪。夏よりも熱い、手の温度。忘れていたくらい、昔の記憶だった。
「そうね。お互い、中身は何も変わっちゃいない」
「そういうこと。じゃあ、また今度」
「ええ、また今度」
ホログラムは空気に溶けて消えていく。両目を手で覆い、天井を仰いだ。ほのかに熱を帯びている。
湿気を含んだ風がわずかに入ってきた。むせるような雨のにおいがした。ほこりや草や土のにおいが入り混じった、雨のにおいだった。
あの日も雨が降っていた。
「なぁ、電子化はこのまま紙を絶滅させると思う?」
窓辺で本を読んでいた私がよほど珍しかったのだろう。あかりは突然話しかけてきた。無邪気な目をしていた。悪気はないと見ただけでわかるような。正直、こういった手合いは慣れていた。
「さぁ。本の行く末なんて興味ないわ」
本に目を戻して私は言った。
「それでいいの?」
「何が?」
「もはや絶滅危惧種の本読みとして、本の権威を復興させようとか思わない?」
「思わない」
いらいらしながら質問に答える。ここまでズケズケと聞いてくるこいつは一体何なんだろう。
「なんで?」
「なんだっていいでしょ。私はこの何もかもデジタルで済む時代にアナログ書籍を読んでる馬鹿。それでこの話はおしまい」
読書どころじゃなくなったから、私は教室を出ようと立ち上がった。歩き出そうとして手を掴まれる。
「気を悪くしたならごめん。でもさ、雨が止むまで少し付き合ってよ」
叱られた子犬のように見えた。私は手を振り払うが歩き出せない。このまま立ち去るのはバツが悪い気がした。
「私もさ、馬鹿なんだ」
恥ずかしそうに彼女は笑った。
「エンジンバイクって知ってる? 私あれが好きでさ」
石油の一種を燃やして走るバイク。本で読んだことはあった。昔はそれが移動手段として用いられていたらしい。
「でも、今どき乗ってる奴なんてほとんどいない。ましてや今から乗りたい奴なんて、うん、まぁ馬鹿だと思う」
「だから、その、君と話がしてみたかったんだ」
「私みたいな馬鹿と?」
「そう。君みたいな馬鹿と」
夢を見ていた。あかりとの初めての会話だった。あんな会話をしたからだろう。未だに、私たちは馬鹿らしい。
窓の外を見る。昨日と変わらず摩天楼は光り輝いている。遠くでエンジンの響く音がした。それが現実なのか、記憶の中なのかは分からない。結局、どれだけ時が流れようが私たちは変わらない。