※本作は貴方の不快感を刺激しトラウマを引き起こす可能性のある描写、表現があります(一〇九ページ目以降。特に一一八ページ目からお気を付け下さい。最終ページには胸糞表現もございます)。閲覧には注意してください。
今日も無事に一日が終わった。帰りの電車で一息つく。今日はいつもより乗客が少なく、直ぐに座ることが出来た。窓の外は既に真っ暗で、街の灯が銀河の星屑の如く煌めいている。綺麗だ。そんな陳腐な感想しか吐けない程、私は疲れ果てていた。車内がやけに静かだったのもあるのだろう。折角座席に座れたにも関わらず、課題も予復習もせずに私は眠りこけてしまった。
気付いたら電車は高槻駅を過ぎていた。やばい。新快速に乗れなかった。これ帰り遅くなるやつだ。親に𠮟られるな。寝ぼけた頭でとりとめのないことを考えながら、意識を覚醒へと導く。そして周囲を見渡して驚いた。乗客が殆どいなかったのだ。腕時計を見ると針は八時三十五分を指している。私は首を捻った。この時間ならば多くの人が座席に座っているというのに。そう言えば、吹田駅でこの電車に乗った時から乗客は少なかったんだっけ。珍しいこともあるもんだと感じたが、流石にこの少なさはない。そして彼らも山崎駅までで皆降りて行った。
現在、車両内には私しかいない。電車の揺れる規則正しい単調な音が車内に響く。夜はどんどん更けていき、街の灯も少なくなっていく。穏やかな帰路だ。私はリュックから英語の教科書を取り出した。こんなに静かならば、勉強も捗るに違いない。電子辞書で単語を調べながら、異国の言葉を日本語に書き起こしていく。一見意味不明な文字の羅列が、自らの解る言語に結び付けられ、みるみるうちに意味を伴って目の前に現れる。言葉って不思議だ。知らない人には摩訶不思議な記号に意味を付与し、意味を知る人々に物事を伝えることができる。強い感情を込めると力を持ち、相手を揺さぶることもできる。最悪の場合、人の命を奪ったり、心を壊したりすることも……。
それにしても、次の駅に着くのが遅い。山崎駅と長岡京駅まではここまで長かったっけ。山崎駅からこの列車が出発してから既に二十分経過している。お陰様で明日の予習が終わりそうだ。次は何をしようか。読書もいいかもしれない。幸い課題も予復習も全て終わって……なかった。来週提出のレポート課題が未だ残っている。『道徳教育の大切さ』についてか。
──嗚呼、馬鹿馬鹿しい。
小学校から行われてきた道徳の授業を思い出し、私は独り嗤う。普段人をいじめている奴に限って正論を発表し、先生から褒められているのをよく目にした。その度に反吐が出そうになったが。今思い返しても不愉快な授業の数々だったのを覚えている。そしてそいつの言う事を讃え、手放しで褒めるクラスメート達の姿も。本当に腹が立つ。ついでに言うと胸糞悪い。リュックからスマホを取り出す。電源を入れるとホーム画面に新着情報が映し出される。セキュリティ対策やお得情報の中にあるニュース情報に思わず目が引き付けられた。
『NHK NEWS 五十一分前
JR吹田駅で転落事故 ライブでお伝えします』
マジかよ。ニュースを一目見て思ったのがそれだった。ということは、私が乗った電車は事故が発生する直前に来たやつだったのか。良かった。危うく家に帰れなくなるところだった。家に帰れないなんて大変だ。更に言うと帰らなかったら親の怒りがえげつないことになる。やれやれ今日は運が良い日だ。
次の駅には未だ着かないようだ。スマホの時刻を見ると、九時十五分と表示されている。電車に乗り込んでから早一時間が経つが、まだ京都駅はおろか長岡京駅にも着かない。普段ならば京都駅で長浜行きの新快速か野洲行きの普通に乗り換えている頃だというのに。私は首を傾げた。いくら何でも、此れは変じゃないか。外は漆黒に包まれ、橙色の灯が僅かに灯るだけである。私は再び首を傾げる。この区間は夜に街灯が多くない田舎町だっただろうか。やがて列車は長いトンネルに入った。風切り音を何とはなしに聞いていると、車両内にアナウンスが響き渡った。
「次は終点、かたす、かたすです。この電車は点検後回送列車となりますので、お忘れ物にご注意ください。ご乗車ありがとうございました」
「かたす駅……?」
私は我が耳を疑った。かたす駅なんて聞いたこともない。少なくともJR京都線には存在していない。訝かしむ私をよそに電車はトンネルを走り抜ける。そして寂れた小さな駅に停車した。見たこともない駅だが、ここが終点ならば電車から降りるしかない。私は溜息をついて駅に降り立った。刹那、全身を薄気味悪い何かが這いずり回った。ぞっとして周囲を見渡す。だが、ベンチに老婆が独り座っている以外に変化はない。乗り換え待ちをしている他の乗客だろうか。取り敢えず親に電話をしてから声を掛けてみるか。リュックからスマホを取り出し、家の電話番号を入力する。何回かコール音が響いた後、親が電話に出た。
「ちょっとあんた、早く帰って来なさいよ」
案の定親は怒っていた。心の中で嘆息しつつ、現状を報告する。
「お母さんごめん。京都行きの普通に乗ってたんだけど、終点がかたす駅って所に変更になって……」
「はあ? かたす駅⁉ あんたふざけてるの。そんな駅ないに決まってるでしょ」
「だよね……でも、終点だから仕方がないよ。今は後続の電車を待ってる」
「そう。兎に角今日中には帰って来るのよ」
彼女は言いたいことだけ言うと電話を切った。それも一方的に。こちらも電源を切り、そっと溜息をつく。途端にさっき感じたおぞましい感覚に全身が支配された。一瞬だったので良かったが、あれは明らかに良い物ではない。物凄く不気味で一刻も早くここから抜け出したかったが、電車が来ない限りそう問屋は降ろさない。深呼吸して周囲を注意深く見渡す。闇が濃く、駅周辺と近くの山にぽつぽつと灯りがあるのみだ。駅の入り口には朱塗りの鳥居があり、建物もあまりなく田圃が広がっているだけ。そして時折感じる気味悪い感覚。他者には伝わりにくい表現をするがあれだ。自分がいてはならない場所に来てしまった感じだ。一刻も早く立ち去らなければ。私はベンチに腰掛けていた老婆に声を掛ける。
「すみません、少しお聞きしたいことがありますが、お時間はよろしいでしょうか」
「はい、どうしましたかお嬢ちゃん」
老婆はにこやかに返事をした。彼女は頭に手をやると、白い帽子を脱ぎ去った。柔らかな白髪がふわりと揺れる。
「この駅に次の電車はいつ到着しますか」
「じき来るんちゃうか?」
彼女はほけほけと笑った。深々と頭を下げてホームに戻ろうとすると、服の裾を軽く捕まれる。振り返った先では老婆が笑みを浮かべていた。彼女の瞳が妖しく煌めく。
「お嬢ちゃん、タマヒメが泣いているからゆっくりしていき」
「タマヒメ……ですか?」
それは何処かで聞いた事のある単語であった。自分の記憶が正しければであるが。タマヒメとは玉姫稲荷または豊玉姫命を指す。豊玉姫命は『浦島太郎』に出て来る乙姫と同一視され、岡山県にて祭祀されている。一方の玉姫稲荷は本名を宇迦之御魂神と言い、素戔嗚尊の娘とされる。渡来人の秦氏が古くから祀っていた農耕神であり、狐と深い関わりを持つ。総本宮は京都の伏見稲荷大社であり、全国に四万を超える神社がある。玉姫稲荷はその一つだ。此処は一応京都府の中なので、乙姫様を祀っているとは考えにくい。ということは、彼女が言っている『タマヒメ』とは玉姫稲荷様のことを指すのかもしれない。
俄然好奇心が湧いてきた。私だって伊達に宗教学を専攻しているわけではない。『宗教』という言葉を聞いただけでアブナイ事を連想し社会から追放しようとする人々が大半を占めるこのご時世に於いて、私の存在は極めて異質だと自負している。周囲の人に汚物を見るような目を向けられ、親に白眼視されようと知ったことか。自分のしたい事をするのの何が悪い。
彼女の話をもっと聞きたい。私は勇気を出して聞き返してみた。
「もしかして玉姫稲荷様の事でしょうか」
「お嬢ちゃん、よう知っとるねえ。おばちゃん嬉しいわ」
相互を崩す老婆。玉姫稲荷様の加護を受けているのだろうか。それとも寂れた稲荷神社の神主が知り合いにいるのだろうか。
「いえ、大学で宗教学を専攻していまして……」
「そうかい……あんた未だ大学生なんやね」
可哀想に。彼女は小さく呟いた。
「ウコンの力はええよ、終わりの国を捨てられる」
「……それはどういう事でしょうか?」
老婆の言っていることが理解できず、私は尋ね返した。
「あのな、人は最後には終わりの国に行かにゃならん。だが、それは辛いことなんじゃ。だから人は終わりの国に行くのを嫌がる」
「何故ですか?」
「おや、お嬢ちゃんは怖くないのかえ? 皆嫌がるというのに。『嫌だ、怖い、まだ生きていたい』と口々に叫びながらな。いくら叫んでも喚いても、皆終わりの国に行かなければならんのじゃが」
此処まで来てやっと、私は彼女の言っていることを理解した。終わりの国は黄泉と同義だ。皆は死後黄泉へ行くのを恐れているのだ。しかし、『ウコンの力』でその定めから逃れられるという。
──逃げたら人間はどうなるんだろう。
死者は黄泉へ行くのが人の定めであり、この世の理である。理を破れば間違いなく世界は崩壊し、大いなる災厄が襲い掛かるだろう。どんなに嫌でも決まりは決まりだ。絶対に守らなければならない。思考をぐるぐる回していると、老婆が再び声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、あんたは終わりの国に行くのかい?」
「行くしかないと思いますよ」
私は思うが儘に答えた。直感ではあるが、この人には噓が付けないと思ったからだ。
「人間は最後に終わりの国に行く定めを背負っています。それを個人の都合だけで破るなど、あってはならないことだと思います。だから私は逆らいません……あくまでも定めであればという前提ではありますが。もし、定めではないのに終わりの国に行くことになれば、力の限り逆らうと思いますよ」
死ねという言葉はもう聞き飽きました。誰が何と言おうと此れは私の人生。他人に決められる物ではありません。
私の発言を聞いて、老婆は笑みを深くする。面白かったのだろうか。それとも、偉そうな事を言う私に呆れ見下しているのだろうか。確かに私は傲慢だろう。しかし、これが信条なのだから仕方ない。
「……『私の人生』ねぇ。お嬢ちゃんは随分と肝っ玉が座っているようね。それにしてもお嬢ちゃんは美しい色の魂を持っているねぇ」
再び老婆が奇妙な事を口にした。私の顔を眺め、ほうと溜息をつく。
「今の今まで下劣な輩に穢されていないとは……。こんな美しい娘が来れば上様もお喜びになるだろうて」
「上様とは誰のことですか? それに、私は美しくありませんよ。お世辞で美しいと言ったのも貴女が初めてです」
ブスと言われたことならば腐るほどある。親は勿論、クラスメート達や知り合い、果ては知らない人にまでも。実際、一度も『カレシ』という人などと付き合ったことはないし、友達だって出来にくい。誰だってブスとは付き合いたくないだろうし、いじめの標的にもなりやすい。そんな子供と誰が関わりたいと思うだろうか。『ブスに人権はない』とはよく言ったものだ。
おっと、昔の事を思い出して意気消沈しかけていたようだ。今は老婆と話している時だというのに何ということだ。これでは相手に失礼ではないか。私は彼女に詫びた。
「……すみません。少し考え事をしていまして、人の話を聞いていなかったようですね」
「いや、いいんじゃよ。もう直ぐ出来なくなるからねぇ」
「は?」
老婆の口から飛び出した言葉に驚き、私は聞き返す。彼女はふわりと笑った。
「じきに分かるよお嬢ちゃん」
なに、怖がる必要なんかないさ。そう言う彼女の瞳はより一層妖しい耀きを帯びていた。
後続の列車を待ちながら私は老婆との話を楽しんだ。彼女の話はとても面白かった。幻想的で興味深い物語、「チョウベエ」「ヤリ」「ユスド」「ジュウベエ」といった謎のワードの数々。彼女の話を聞くうちに、駅に降りた時に感じた嫌な感覚が少しずつ薄れていく。否、私がこの場に溶け込んでいくような感じか。取り敢えず不快感を感じなくなっただけでも有り難い。
「興味深い話です。勉強になりました」
「そうかいそうかい、そりゃあ良かった。お嬢ちゃんはこういう話は好きかね」
「はい。その為に宗教学を学んでいる位ですから」
私の言葉に彼女は相好を崩す。電車が来るまで老婆とずっと話していたい。思った矢先にパーカーのポケットに入れていたスマホが激しく震え出した。親からの電話だろうか。老婆に一言断りを入れ、私は電話に出た。
「まだ家の最寄り駅に着かないの⁉」
開口一番、親は受話器に向かって怒鳴り込んできた。声がキンキン響いて耳が痛い。おまけに電波が悪いのか雑音が入り込んで言葉が上手く聞き取れない。
……………………ネ
「駅員さんはいないの⁉ いないならば駅を出て交番に行きなさい。もう十時過ぎてるわよ。全くあんたはいっつもぼさっとしてるのね。大学生にもなって情けない」
……………シ……………………………
「分かった。交番に行く」
……………………ネ…………
「そう、兎に角早くしなさいね!」
電話はまた一方的に切られた。いつものことだし一方的に物申すのが彼女の性分だからどうしようもないが、少し不愉快だ。
「用事は終わったかい?」
老婆は私が電話をリュックに仕舞うと柔らかな笑みを零した。私はぎこちなく微笑み返す。顔が笑いを模ったのは何時ぶりだろう。いじめや嫌がらせがまだましだった頃の記憶を辿るが、よく思い出せない。もしかすると嫌な記憶に揉み消されたのかもしれない。でも今はそういう事を考える時間ではないし、感傷に浸る暇もない。交番に行って家に帰る方法を教えてもらわねば。
「媼殿、電車来ませんね」
「そうやね。それにしても『媼殿』とは。お嬢ちゃんは面白い事を言うね」
「いえ。流石におばあさんとかおばあちゃんなどとお呼びする訳にはいきませんので」
「そうかいそうかい。お嬢ちゃんは今どき見ない礼儀正しい娘やね。上様が気に入られるだろうて」
「どうでしょうか」
私は首を傾げた。このままでは老婆のペースに呑まれそうだ。さて、交番へ行く事をどうやって切り出そうか。彼女の話を遮るのは無粋であり失礼にあたる。話が途切れるのを待つか、それとも話の中で切り出すか。
「そういやお嬢ちゃん、あんた面白いものを持っていたね」
「面白い……物? ですか」
「ああ。あの黒くて四角の硯みたいなあれだよ」
「……スマホのことでしょうか」
言いながら私はスマホをリュックから取り出した。見慣れないのか、老婆は興味深々で私の手元を覗き込んできた。私は画面を彼女に見せながら機能を説明する。
「……で、これが離れた所にいる人と会話出来るページです。さっき私はこれを使って親と連絡を取っていました」
「そうかい。今どきはすごいねえ、遠く離れた人と喋れるとは。そして親は何て言っていたんだい?」
「電車が来ないようなら交番を探せと言われました」
今日中に帰ってこいとのことです。老婆は私の言葉に渋面になった。
「其れは大変じゃな」
「ですよね。待っていても電車は来ませんし、歩くしかなさそうです」
すみません嫗殿、この近辺に交番はありますか? 私の問いに彼女は首を横に振った。
「ないね……それにしても困ったね。お嬢ちゃんのような若い娘が夜道を歩くのは危険極まりないし、どうしたもんかえ」
「取り敢えず、また親に電話してみます」
老婆に頭を下げ、私は再び家に電話をかけた。今度はコール音が始まってすぐに受話器が取られた。
「ちょっともう十時過ぎてるのよ! 帰って来ないつもり⁉」
怒鳴られ耳が痛くなる。要件を言おうとしたが、口が音を紡ぐ間もなく言葉を封じられる。いつもそうだ。彼女の手前、私の発言権はないに等しい。
……シ…………ネ…………
「それで、交番は見付かった? 見付かったらお巡りさんに近くの駅への行き方を聞くのよ」
シ…………ネ…………シ……
「……あの、地元の人に聞いたら、この周辺には交番無いって」
ネ…………シ…………ネ………
「はぁ⁉」
何とか話の切れ目を見付けて要件を切り出す。親の声は更に不機嫌そうになった。
……シ…………ネ……
「そう。それなら歩いて近くの市街地を探しなさい。そうすればバスなりタクシーなりあるでしょう。決して人の家に泊まらせて頂こうなんて思っちゃ駄目。危ないし、第一相手にとっても迷惑極まりないからね」
………………シ…………ネ…………シ………
「大体、あんたは何で知らない駅に降りてしまったの。かたす駅なんて見た事も聞いた事もないわ」
…………ネ……………シ…………ネ………
「帰ってきたら、その駅について詳細に知らせなさい。嘘をついていたら承知しませんからね」
酷い雑音の中、親の電話は唐突に切れた。どっと疲労が押し寄せる。話しているだけでこんなに疲れるとは。顔を上げると、老婆の心配そうな瞳にぶつかった。私は顔の筋肉を動かして笑みを形作る。
「大丈夫ですよ媼殿。こんなのはいつものことですから」
「難儀なもんだねぇ。お嬢ちゃん、これからどうするんだい?」
「歩いて近くの市街地を探しなさいと言われました。媼殿、この街を案内して頂きたいのですが、いかがでしょうか」
「ええよ。ほんなら上様に会いに行くか?」
「……今日中に帰ってこいと言われていますので、後日改めてお訪ねいたします」
人気のない改札を潜り抜け、駅の入り口に降り立つ。目の前には大きな朱塗りの鳥居があり、注連縄の上に狐面と稲穂が飾られていた。続いている道は現代では珍しく舗装されていない。道の端に立つ電柱も木で作られたものであり、一昔前の日本の農村にタイムスリップしたかの様な錯覚に陥る。僅かな灯りに照らされるその先には、燈赤の光が沢山揺らめいていた。
後ろを見ると、トタン造りの錆び付いた駅が寂しげにこちらを見ている。刹那、一抹の不安が私を襲った。ここから離れれば家に帰れなくなるのではないか。考えた途端、駅に降り立った時に感じたおぞましい空気が肌を撫ぜる。私が前に進むのをためらっていると、老婆が優しく肩を叩いた。
「恐れることはないよ、お嬢ちゃん」
タマヒメ様も上様もお優しい方だからね。彼女に促され私は一歩を踏み出した。鳥居の前で一礼し柏手を打つ。
──玉姫稲荷様、上様、一般人の私が貴女方の神域に足を踏み入れる事をお許し下さい。
鳥居を潜った瞬間、周囲が更に暗くなった。光源が減ったのだろう。道の端にある街灯は古ぼけ、激しく瞬きながら蒼白い光を放っていた。それ以外の光源は無く、周囲の田畑と数少ない木造の古民家は漆黒に包まれている。古民家に灯りはなく自分と老婆以外に人気はない。
「媼殿、この地域には人は住んでいますか?」
「ああ。今は山の麓で祭が行われていてね、皆そこに集まっているんじゃ」
今日は久方振りに上様が麓に降りられる日でね、皆浮足立っておるんよ。北の方が亡くなられてから長い間引きこもっていたから、久し振りのお顔見せにタマヒメ様も感極まって泣いていらっしゃるのよ。楽しそうに語る老婆の話を私は注意深く拝聴する。今後の宗教研究に役立つに違いないからだ。
彼女の話によると、この地域一帯は『タマヒメ様』と『上様』の直轄領だそうだ。『上様』は『タマヒメ様』の息子であり、ここの住人に慕われているらしい。外部との接点はかたす駅以外皆無であり、人も滅多に来ないのだとか。電柱はあるものの電気もガスも水道も碌に通っていないので、皆昔ながらの暮らしをしているとのことだ。私は驚嘆した。外界との接触を断つその姿は将に『桃源郷』だ。この地域程、外界と隔絶し神様と深く結び付いている所は現代日本にはあるまい。私は今すぐにでも写真を撮りまくり、詳細な記録を採って教授に知らせたい気分に駆られた。一昔前の日本をそのまま閉じ込めたこの地域の存在を知れば、教授もきっと喜ぶに違いない。しかし、私は同時に考える。この地域の存在を人に知らせれば、瞬く間にこの桃源郷は心無い人々に壊されるだろう。そうなれば、住んでいる人々に申し訳無いし、神様も悲しむ。矢張り、一切の記録を取らず心の奥底に閉じ込めるだけにしよう。
舗装されていない砂利道を踏み締め、暗がりの中を進んでいく。一寸先は闇。将にその言葉が似合う夜道である。おまけに在所なのか道は複雑に入り組んでおり、元来た道が直ぐ分からなくなった。老婆の案内がなければ間違いなく迷っている。私はそう確信した。もし万が一明日家に帰る事になった時も彼女に道案内して頂かなければ。時間的にも距離的にも鑑みて、今日中に帰れる気がしない。
彼女は迷路の様な路地を迷わず進んでいく。その足取りは軽く、老いを感じさせない。鼻歌を歌いつつ意気揚々と山の麓に向かっているようだ。一方の私はというと、普段の不摂生と運動不足が祟り、足が段々疲れてきた。どんどん足が遅くなる私を見やり、老婆は心配そうな表情になる。
「お嬢ちゃん大丈夫かい? 一休みするかね」
「……大丈夫です。媼殿は本当に足腰が達者ですね。正直言って羨ましいです」
「いや、毎日あの山の石階段を上り下りしていたら自然とこうなるよ」
彼女はそう言って近くの山を指差した。小さな山ではあるが、標高は少し高めで日常的に上り下りするのは些か困難ではないかと思われた。
「……凄いですね。私は到底無理です」
老婆は『上様』の乳母であり、『タマヒメ様』のいる山頂と麓の村を繋ぐ役割を担っているらしい。今日は丁度お祭りの日で、上様が麓まで降りてくると共に外界から人が迷い込み易いという。その人の世話をするのも彼女の役目であるそうだ。
「……大抵の人間はわしの事を怖がってね、独りでここから出ようとするんじゃよ。そんな事をすれば間違いなく外界に出られんというのに」
その分お嬢ちゃんは素直に付いてきてくれるから有り難いわ。そう言って彼女は私の頭を撫でた。
夜はどんどん更けていく。闇が深くなる度、自分達が山に近付く度、燈赤の光は大きく鮮明になった。山頂まで螺旋状に続く燈赤が、太鼓の囃子や鈴の音で賑わう麓を優しく見守っており、それを見る老婆の瞳も穏やかである。出来る事ならば、この穏やかな光景をいつまでも守っていきたいと感じた。
歩き続けて十分程経っただろうか。私達は漸く麓に辿り着いた。麓の広場には太鼓や鈴、笛の音色、はしゃぐ老若男女の声に満ちており、今すぐ彼らの中に混ざって祭を楽しみたい気分になる。
「お嬢ちゃん、そんなに目を輝かせて……どうじゃ、ちょっと見て行かんかね」
腕時計を見ると、十時四十五分を指していた。今から帰るには中途半端な時間だ。電車で帰れれば確実に今日中に帰宅できるが、歩くとなれば間違いなく不可能だ。
──やっぱりここで一泊するしかないかも。
「すみません、私に考える時間を下さい」
老婆に一言断りを入れ、私は疲れた頭で考え始めた。
本来ならば夜通し歩いてでも家に帰るべきなのだろう。親の言う事は絶対。逆らえば必ず痛い目に遭う。しかし今は真夜中近く。街灯もない夜道を歩くなど危険極まりないし、バスやタクシーに乗ろうにもお金が全くない。盗難に遭わないよう最小限の金銭しか持ち歩かないのだが、今回はそれが裏目に出た。さて、一体全体どうしたものか。手持ちの金額はたった百八十円。これではタクシーはおろかバスにすら乗れない。つまり、暗闇の中を歩いて帰らないといけないと言う事だ。私は心の中で首を横に振った。そんなの無理に決まっている。例えこっぴどく叱られるとしても、一泊した方がいい。無料で匿ってくれる人を探さなければな。頭の隅で漠然と考えながら私は老婆の提案を受け入れた。
「……今から帰るとしても危険なだけなので、お祭りを見ていきます。外部の人間が祭を見ても大丈夫ですか?」
「ああ。むしろ大歓迎じゃよ」
老婆はそう言って笑顔で私の腕を引っ張った。
「ほらお嬢ちゃん、行くで」
彼女に促され私は祭の喧騒に足を踏み入れる。刹那、静かな暗闇が燈赤の光に切り裂かれた。余りの眩さに思わずきつく目を瞑る。
目を開けると、活気に満ちた祭の光景が飛び込んできた。麓の鳥居の前に大きな広場があり、広場を囲むように沢山の屋台が並んでいる。広場は村人達でごった返し、各々が祭を楽しんでいた。彼らは皆色鮮やかな着物を身にまとい、狐面を付けている。広場では太鼓や笛の演奏が行われており、巫女と思われる人々が神楽鈴を振って踊っていた。村人達も彼女達に倣い、見様見真似で体を動かしている。顔が面で隠れてはいるが、皆楽しそうなのが手に取るように分かった。
「ほら、屋台を見て回ろう」
老婆の言葉に促され、先ずは屋台から見学させてもらう事にした。屋台では素朴だが美味しそうな食べ物や、美しい工芸品などが店頭に陳列されていた。どれもが燈赤の光に照らされ、更に価値ある物として見るものに自身を売り込んでいる。鮮やかな隈取の狐面、簪、雛人形、竹蜻蛉、下駄や草鞋などの履物、色とりどりの布地、朴の葉に包まれたおこわ、団子、いなり寿司、御揚げさん、大根入りの膾、菜の花の胡麻和え。私は美味しそうな食べ物の匂いに釣られて思わずごくりと唾を飲み込んだ。老婆はそんな私を見てクスリと笑いを漏らす。
「お嬢ちゃん、お腹が空いているのかえ?」
「いえ……」
私は俯いて彼女の言葉を否定する。しかし同時に腹の虫が鳴いた。
私は恥ずかしさの余り顔を真っ赤にし、老婆は近くの露店の売り子と共に爆笑する。
「全く……噓はいけないよお嬢ちゃん。遠慮する事はないんだから」
「そうだよ。ほら、おばちゃんがおごったげるから好きな物を選びな」
売り子の人は笑顔で私の腕を引っ張った。申し訳なくて私は首を横に強く振る。
「いいですよそんなこと。リュックの中に夕ご飯はありますし、そんなに気を遣って頂かないでも」
駄目だ。私が夕ご飯を食べていないせいで彼女たちに迷惑を掛けている。人に迷惑を掛けてはいけないといつも言われているのに。おまけに此処は京都市内ではないから大丈夫かもしれないが、婉曲に帰れと言われている可能性も捨てきれない。もしそうならば、私は今すぐここを立ち去らないといけない。しかし今更あの暗い曲がりくねった路地を迷わずに戻れるだろうか。否、絶対に無理だ。上手い断り方が分からず口ごもっていると、シャツの裾を誰かがくいと引っ張った。
「どうして? とってもおいしいのに」
そこにいたのは、小さくて愛らしい五歳くらいの幼女であった。紅の着物を着て精一杯おめかししている。皆が付けている狐面は外されており、整った顔立ちを衆目に晒していた。さらさらしたおかっぱ頭と相俟って、日本人形の様な年不相応の落ち着いた雰囲気を醸し出している。彼女は持っていたおこわの包みを私の方にぐいと差し出した。
「ほら、たべてみてよ」
私は微笑んで彼女の申し出を断る。
「いいんだよ。それは貴女のご飯でしょう。私は自分のを持っているから人の物は貰えない」
ほら、私は自分のご飯を持っているから大丈夫だよ。私はリュックを漁り、スーパーで買ったおにぎりとパンを見せようとした。しかし、幾ら手で探っても見当たらない。おまけに、荷物が矢鱈少ない。更に言うと、持って来た筈の傘もない。私は首を傾げた。電車内でもかたす駅でも自分の荷物は全て回収したはずだ。第一、多くの荷物はリュックから出していない。
──どうしよう。
私は頭を抱えた。傘は兎も角、教科書や夕ご飯、ファイルなどは失くした場所の心当たりは全く無い。探そうにも何処を探せばいいのだろうか。失くしものに重要な物が沢山あるので、見つからないと大変なことになる。何よりも親が凄まじい形相で怒る。いつもは何があっても授業には必ず参加しろというのに、授業に出なくてもいいから傘を探せと言った程だ。
「おねえちゃん、だいじょうぶ?」
狼狽える私に幼女は心配そうな視線を向けた。駅で出会った老婆も売り子のおばちゃんも私の方を向いている。私は居たたまれなくなってリュックをからい直した。
「大丈夫ですよ……既に夕ご飯は食べていたようです」
だから心配いりませんし気遣う必要などございませんよ。そう言おうとした刹那、さっきよりも大きな音で腹の虫が啼いた。
「ほらほら、噓をつかないで素直にお成り」
老婆に笑いながらいなり寿司を差し出された私は、それを受け取るしかなかった。
広場の石に腰掛けながら私はいなり寿司をゆっくり味わう。御揚げと炒り胡麻の香ばしい香りと酢飯の甘酸っぱさが互いを引き立て合い、口の中で最上のご馳走に昇華させていく。老婆と幼女、売り子のおばちゃんに見守られ、長い時間を掛けて私は漸く一個目を食べ終わった。
「おいしかったでしょ!」
幼女に満面の笑みで顔を覗き込まれる。私は頷いた。
「皆様にはご迷惑をお掛け致しました。お気遣い痛み入ります」
私の言葉に彼女らは微笑む。私達の遣り取りを見守っていた周囲の人々も嬉しそうだ。彼らは渦中にいる私に近付き、様々な質問を投げかけた。出身地、名前、仕事をはじめとする基本情報から、好きなことや外界の様子など、彼らは好奇心旺盛であり質問は尽きない。私は皆の質問に出来る範囲で答えていたが、名前が思い出せなくて地味に焦っていた。そんな私の様子を見兼ねてか、はたまた遠慮の欠片もない村人に呆れたのか、とうとう老婆が皆の質問を強制終了してしまった。すると、彼らは自分達の境遇について私に語り始めた。口減らしの為に産まれた瞬間に殺された者、人柱として生き埋めにされた者、人身御供として捧げられた者、忌み仔として村人にいじめ殺された者、親から虐待された末に殺された者、いじめられて自ら命を絶った者……。老婆によると、此処は社会に必要とされなくなって命を断たれたものの、未だ寿命を満たしておらず『終わりの国』に行けない人々が集う場だという。行き場がなく理から外れた彼らを『タマヒメ様』と『上様』は温かく歓迎し、眷属として迎え入れた。だからこそここの住人は自分を殺した人々を恨む事無く穏やかな日々を過ごせるのだと。話の重さに私は息を吞む。
「……皆様、苦労されたのですね……」
苦労。そんな軽い言葉で語れる物では勿論ない。しかし、彼らは陳腐な表現にも怒らず狐面の奥で微笑んでいた。暫しの間静寂が空間を支配する。
真っ先に口を開いて静寂を破ったのは老婆であった。
「お嬢ちゃんもここに来たって事は、何か辛い事があったんじゃないかね」
「……死に至らない程のいじめが辛いと言うならばですが」
「充分に辛いよ」
近くにいた少女が私の言葉に応えた。いじめっ子に屋上から突き落とされたと言っていた子だ。彼女は私の手を取り、強く引っ張る。
「貴女も『タマヒメ様』に会ってみようよ。このままじゃ絶対に駄目だと思う」
老婆と少女に連れられ、私は山麓のお宮前に来ていた。赤い涎掛けをした狐の像が向かい合い、彼らの鼻先には果てしない石段と夥しい朱塗りの鳥居が並んでいる。鳥居の間にある石灯籠には柔らかな黄色の光が揺らめき、足元が真っ昼間の様に明るかった。
石段に足を踏み入れようとした時、スマホが激しく震えた。親だ。出ても怒られるし出なかったら更に怒られる。ならば選択肢は一つ。私は老婆に平謝りし、道の外れに腰掛けた。
親はかつてないくらい怒り狂っていた。
「もう日付超えたわよ! どうして帰って来ないの‼」
……シ…………ネ………シ…………ネ………
「調べたけれどかたす駅なんてなかったわよ。出鱈目を言ったのね。明日帰ったら覚悟しなさい」
シ……ネ……シ……ネ……シ……ネ……シ……ネ……シ……ネ…
「もしかして家出? 折角育ててやっているのに何様のつもり⁉ オトコとでも寝てるわけ」
…シ…ネ…シ…ネ…シ…ネ…シ…ネ…シ…ネ…シ…ネ…シ…ネ
「アンタってホントにジコチューね」
騒音が今までよりも激しい。おまけに親以外の人の声が聞こえる。
シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ
「私はお前をこんな子に育てた覚えはない。出ていけ」
シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ
「そんなこともわからないの。アンタ、バッカじゃないの」
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「お前なんてこの世にいらん」
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「アンタは学校に一人も友達がいないだろうね。だって、人を片っ端からいじめているもんね」
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「修学旅行の班があいつと一緒だなんて……そんなの絶対に嫌!」
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「あいつ? 殺してやりたい。けど、それを隠して友達付き合いをやってんのさ」
「へー。お前ってやっさしー」
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「いじめなんて無視すればいいのにどうしてそんなことに一々反応するの。学生は勉強。たかがいじめなんか学校や塾を休む理由になんてならないわよ」
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「あいつきしょいきしょいきしょいきしょいきしょい。死ね」
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「水上? インパクト強い苗字だね。いじめてやろうか」
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「で、あいつが余りにクソだからさ、センター試験当日もあいつ
いる部屋の入り口で『水上死ね』って何度も言ってやったのさ」
「おっ、やるじゃん。じゃあうちらも……せーの!」
「「「「「水上死ね、水上死ね、水上死ね、水上死ね、水上死ね」」」」」
「キャハハハハハ、あいつ反応してるよおっもしれー」
「あはははははは、たっのしー」
シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシ
「大人になってるのに何でこんな事も出来ないの?」
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「無視しなさいって何度も言っているじゃない。第一、大学生にもなっていじめなんてするか? あんたの被害妄想じゃないの」
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「あんたって本当に面倒くさい。何処で育て方を間違ったのかしら」
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「国立大学を折角薦めたって言うのにお高い私立大学に進んで」
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「本当はお金がないから第一志望以外には通わせたくなかったのよ。でも高卒じゃ働けないからわざわざ大学に行かせてやってんの」
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「まあ、あんたは結局バカだったって事ね。あんたの教育の為に使った時間と労力とお金を返して欲しいわ」
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「こっちはあんたの為を思ってやっているのに。この出来損ない」
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「あんたは第一志望に受からない。私の言った通りよ」
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「小さい頃からちゃんと教育した。沢山習い事もさせた。でも、何一つとしてモノにならないのはあんたがそれらをテキトーにやっているせいよ。そうやって私の時間と労力を無駄にするのよあんたは」
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「あんたなんて、うまなきゃよかった」
そしてスマホには意味をなさないノイズだけが残された。
呆然としていると、私の肩に軽く手が置かれた。私は勢い良く飛び上がる。後ろにいたのは柔らかな笑い声を漏らす青年だった。六尺を超える長身を蒼い狩衣で包み、肩には紫苑の薄衣を羽織っている。顔は村人同様狐面で隠しており、さらさらの白銀の髪が首元まで掛かっている。腰には太刀を佩いていて、堂々たる出で立ちは平安貴族を思わせた。皆が彼の事を『上様』と呼んでいるので、この人がきっと件の『上様』なのだろう。失礼千万な醜態を晒して狼狽する私に優しい眼光を向ける。しかしスマホに目を向けると、彼は険吞な雰囲気を纏った。
「その物からは良くない気が漂っているね。貸してごらん」
「はい……」
よく見ると、上様の手にある端末からは、ノイズと共にどす黒い靄が吹き出していた。私は戦慄した。彼は怯える私の頭を撫で、スマホを受け取る。
「あの……上様、それは一体……」
「如何やら君は良くない輩に目を付けられているようだね。でも、心配はいらないよ。お嬢さん、見ていなさい」
次の瞬間、上様は端末を地面に叩き付けた。更に白銀に光り輝く太刀を一閃させる。端末は粉々に砕け散り、靄も完全に消え失せる。同時に私の体が軽くなり、今まで感じていた違和感もなくなった。
「お嬢ちゃん、良かったね」
周りでは老婆をはじめとする村人達の喝采が鳴り響き、口笛まで吹く人もいた。訳が分からず目を白黒させる私の前に、上様は跪く。
「もう大丈夫だ、お嬢さん。俺の手を取ってくれないか?」
「へ?」
混乱を極める私に沢山の歓声が降り注ぐ。おめでとう、万歳。そういった言葉がうるさいほど耳に響く。此れは彼の手を取るしかなさそうだ。私は意を決して彼に手を伸ばす。
大きな手に腕を掴まれ、彼の胸元へ引き寄せられる。上を向けば、恐ろしく整った顔立ちの青年が私を覗き込んでいた。長い睫毛、筋の通った鼻梁、桜の花びらを思わせる薄い唇。染み一つない雪の様な肌が提灯の灯に映え、白銀の髪は燈赤の光を受け絹糸の如く輝いている。鋭利な琥珀の輝きに捉えられ私は身動きが出来なくなった。
「待っていたよ、俺の可愛いお嫁さん」
長い指が私の髪をいじり、顔の輪郭を撫でる。刹那、凄まじい眠気に襲われ、私の意識はブラックアウトした。
テレビを点けると、丁度ニュースが流れていた。
「昨日の二十時四分頃、JR吹田駅で大学生の水上蒼さん(十九歳、女性)が転落し、ホームを通過中の列車に撥ねられた事故について、新しい事が判明しました」
朝っぱらから物騒なとは思いながらも、何処か清々しい気分で朝食を食べ始める。
「駅の防犯カメラを調べたところ、転落した水上さんはホーム上で数人の大学生に絡まれ、線路に投げ込まれたという事が分かりました。しかし、撥ねられた直後に水上さんは姿を消しており、現場には彼女の持ち物が残されました。持ち物の破損状態が酷い事から、水上さんは即死したと見られますが、遺体は今日の九時現在、発見されていません。警察は水上さんの遺体を捜索すると共に大学生達の身元を調べています」
鮭の切り身を頬張っていると、友人からLINEが届いた。
『あいつ、死んだってな』
『ああ、そうみたいだな。死ねって何度も言っても自殺しなかったし罰が当たったんじゃない?』
『ははははははははは、そりゃあいいな。それじゃあ罰を与えたのってやっぱお前か? 凄いな。学力といい才能といい、神がかっているよなお前って』
友人と会話を楽しみつつも、俺は少し残念だった。あれが死んだのは嬉しい。一つの大仕事を成し遂げた気がするからだ。しかし一方では『楽しい玩具』がなくなったことに対する喪失感もある。
──だって学年全体を巻き込んで追い詰めて高一の頃から狙っていた第一志望に入れなくして努力を極限まで踏みにじって更に大学に入ってからも友達に命じていたぶっても自殺しない奴なんて滅多にいないじゃないか。
高校受験の時に気晴らしに虐めていた生徒は、第一志望に落ちた絶望の余り線路に身を投げて死んだというのに。ああつまらない。折角ならばあれが死ぬ前に強姦やら拷問といった社会的にアウトな事もしてみたかった。死んだ後の死体処理は面倒だが、絶対に見つからない方法がある。食べるか、切り刻んで煮込んでミキサーにかけて池や海に棄てればいいのだ。悪いことをして警察に捕まるのは、要領が悪いごく僅かなバカ共だけ。
ご飯を食べ終え、大学に行く用意をする。今日は特に念入りに。大きな仕事が控えているから気合いを入れなければ。そう、新しい『玩具』を探さないと。俺はほくそ笑む。そう、見つからなければ、何をしたって構わない。
「さあ、次は誰をいじめようかな」