朝から、ニンゲンが鳴いていた。
夏が来る。嘲るような全力さで、私を苦しめる夏が。太陽も草木もニンゲンも、いじらしいほどに真っ直ぐで、俯く私を執拗に責め立てる。濃い夏の色彩を見ないようにしながら、熱されたアスファルトを凝視することだけが、この夏を乗り切る方法なのだ。
甲殻に伝う汗を鎌で拭いながら、私は洗濯物を取り込んでいた。
余すとこなく嫌いな夏だが、この鳴き声だけは許せた。私は彼らの声が好きだった。美しく、不思議で、神秘的な音。私も、こんな声が出せたらいいのに。
母親に押しつけられた家事に疲れ、ふと二階のベランダから町を見下ろした。日光の強さか、屈折率の問題か、町は異様に眩しい。走り回る子供たちの声が、やけに耳につく。
「あ、見つけた! ほら、あそこ!」
道路に沿うように、街路樹が立ち並ぶ。その中の一本を囲い、子供たちが木を見上げていた。その手には虫網が握られている。どうやらニンゲン捕りに励んでいるらしい。
おしっこかけられるから、止めたほうがいいのに……。
「捕まえた!」
意に反して、歓声が上がった。網を地面に押しつけている子供と、網の中を覗き込む子供。視認は出来ないけど、おそらくその中で静かに震えているニンゲン。
ぼんやりとした幼い頃の思い出と重なり、私は思わず笑みを浮かべた。しかし、ニンゲンを取り上げた一人の子供を見て、笑顔が引っ込んだ。
あの子たち、ニンゲンを──。
「うわ、お前止めとけって」
「大丈夫だって! おい、見とけよ!」
ギャッ。短い叫び声が上がる。
「うわ気持ちわり~、こいつらの血って赤いんだな」
「ちぎったのに、腕動いてるよ!」
彼らの手の中でもがくニンゲンを想像して、嫌な気持ちになった。しかし、そういう残酷な姿こそ、本来の私たちの姿なのだ。道徳心という作られた概念を教わる前。本能で生きる彼らにとっては、当たり前の行動なのかもしれない。
小さな頃、私もそうだった。
仲が良かったあの子の隣で、ニンゲンを引きちぎって、笑っていたような気がする。おもちゃで遊ぶ感覚で、四肢をもいで、水に浮かべたりして、そんな風に夏を過ごしていた気がする。
四肢の無くなったニンゲンを想像すると、あれだけ濃かった夏色が、一瞬白黒に見えた。疲れたのかもしれない。家事は一旦中止して、一度休むことにした。
エアコンの効いた一階のリビングに戻ると、蒸れてかゆかった甲羅に冷気が入り込んで、とても気持ちが良い。この瞬間は何ものにも代えがたい。苦があるからこそ、幸福が際立つ。
甲殻に滲んだ汗をタオルで拭いながら、麦茶を淹れ、ソファに座り込んだ。テレビをつけると、お昼のニュースがやっていた。左上には、数字で一時五分。まだ、お母さんは帰ってこないはずだ。
「今年も夏休みに入り、旅行シーズンが到来しました! そこで今日は、旅行におすすめの穴場スポットを紹介していきます! 題して『夏におすすめ! 穴場スポット五選!』です!」
そのまますぎる企画名が、テレビの中で叫ばれ、私の意識は鮮明になった。ぼうっとしてしまっていたみたいだ。
生放送だからか、音量調節が間に合わなかったのだろう。大きすぎる拍手の音が耳をつんざいた。
「まずは第五位──」
冷たい麦茶を啜りながら、なんとはなしにテレビを眺める。海、山、海、山。案の定、といえばいいのか。なぜ暑い季節に外へ行くのだ。どうかしている。海なんて、泳げない私たちが行ってどうするというのだろう。
「では最後に、第一位は──」
そのときテレビに広がった一つの画像に、私の目は奪われた、
「三沢県の曙神宮です~」
そのテレビの画面は、ニンゲンで埋め尽くされていた。ご神木を間近から撮った写真らしい。木に何十としがみつき、枝のあちこちから、紐のようなものでニンゲンたちがぶら下がっていた。そしてその紐は、首の部分に結びつけられている。
衝撃的な映像に、思わずテレビから目を逸らした。二、三人なら全然大丈夫だが、これだけ密集されるとさすがに気持ちが悪い。
「ここの神社では、たくさんのニンゲンがクビツリをするんです~。ニンゲンのクビツリと言えば、夏の風物詩。全国でもかなりよく見られる現象ですが、ここはひと味違います。なぜか曙神宮のご神木では、大量のニンゲンがクビツリを行うんですね~。日本の絶景十選に数えられるだけあり、毎年観光客が数万匹単位で訪れるようです。虫生で一度は行きたいスポットですね!」
信じられないというのが、率直な感想だった。こんなグロテスクな光景が、日本の絶景十選に入っているとは。世間の感覚は分からない。口に残る麦茶の苦みが、なんだか不快に感じる。
「というわけで今日は、ニンゲンを研究している専門家の方に来ていただいております。池下あきらかさんです~」
「あなたの知識をハイジャック! どうも、池下あきらかで~す」
紹介されたのは、顔中に皺が刻まれた、胡散臭い年寄りだった。中途半端に笑いを狙った自己紹介は、うっすらとスベったらしく、はは……という苦笑がテレビから漏れ聞こえていた。池下は、ゴホンと咳をして座り直す。
「ニンゲンのクビツリという行動はですね、科学的にもまだ解明されてないんですよ。謎まみれなんです。だからこそ、興味がそそられるんですね」
えー、そうなんだーというキンキンとした声の後に、不思議ですねーという薄い相槌が返ってきた。池下はニコニコとした表情を浮かべる。少し早口になった。
「クビツリはですね、自ら命を絶つという行為なんですよ。これはこの星に住む唯一の知的生物である我々からすれば、全く理解ができない。つまり、ニンゲンだけがとる行動なんです。命を繋いでいくことだけが使命のこの世界で、一見逆行しているようにみえるこの行動。うーん、面白い。面白すぎますねえ」
池下は笑みを浮かべながら、う~んと考え込むような仕草をとった。
「オスもメスも行うので、求愛行動ではないだろうし……そっか、命を絶つ時点でそんなはずはないのか……」
彼は顔を上げ、柏手のように鎌を打ち鳴らして続ける。
「そう、今日は少し時間が余っているらしいので、ニンゲンについて教えてさしあげましょう!」
それまでにこやかに聞いていたアナウンサーやコメンテーターたちは、より一層笑顔になって、「ぜひお願いします!」と声を上げた。
確かに、年がら年中ニンゲンを見ている割には、私も彼らについてはあまり深く知らなかった。個体によって、なぜここまで顔が違うのかとか、私たちにはない、この独特の鳴き声はなんだろうとか、素肌を見せず、草などで身体を覆っているのはどうしてなのだろうとか。
ニンゲンは嫌いではない。むしろ私は好きだ。ソファから少し身を乗り出して、池下の解説に耳を傾けた。
「皆さんもご存じのとおり、ニンゲンはこの地球に存在する、ただ唯一の動物です。同じ星で生活しているというのに、我々とは構造が全然違う。不思議なものです。具体的には、三つほどあげられるでしょう。一つ目は、身体の構造。彼らは外殻というものを持たず、足も二本しかない。鎌も持ち合わせてはいませんから、自衛できるような武器もありません」
ニンゲンはそこら中にいるから、私も観察したことがある。彼らは鎌じゃなくて、五つの突起が、腕の先についている。どうやらそれぞれを自由に動かせるようで、見ようによっては植物のようにも見える。その突起を使って、器用に木の上へ登っているのを見掛けたことがある。
「二つ目は、発声の仕方です」
池下がそう言ったとき、ケバケバしいニュースキャスターが割り込んだ。
「あ、ニンゲンの鳴き声って不思議な感じですよね! 季節によって色んなバリエーションがあって、なんだか楽しい気持ちになったり、悲しい気持ちになったり、私、彼らの鳴き声好きです!」
「そう。そもそも彼らには、私たちにはない器官があることが分かっています」
彼は、自分の首のあたりを鎌で何度か叩き、言った。
「我々は、その器官を声帯と呼んでいます。これは膜状になっており、息を吐き出すときにこれを震わせ、音を出しているのです。しかも、彼らは口の構造が我々と違う。口を大きく開けたり、横に広げたり、さらに舌と呼ばれる器官が中にあります。だから、様々な音を表現できるのです」
「でも、僕らにも口はありますし、ここから出る音で、こうやって意思疎通をしてますよ?」
コメンテーターの一人が疑問を口にした。確かにそうだ。声帯というやつが無くたって、わたしたちは言葉を話すことができる。それなら、なんで私たちと構造が違うのだろう。なんのために、声帯が?
池下が答えた。
「私たちは、声帯を震わすことではなく、こうやって、破裂音や、クリック音を駆使しています。ここの間隔や強さを変えることで、様々な意味を持たせて会話しているんですね。では、声帯があることでなにができるか。それは、空気を震わせることです。これを、音波と呼びます」
「音波?」
「そう。皆さんがいつも聞いている、独特な彼らの鳴き声がこれです。強弱や高低を変化させることで、会話をしている。我々には出すことの出来ない、一種のなめらかさのようなものがありますよね」
池下は続ける。
「そして彼らが声を出すとき、二つのパターンがあることがわかっています。一つは、強弱や高低はあまり変わらないパターン。もう一つは、高低を強調し、一定の長さで声を出し続けるパターンです。こちらの方が、声量が大きい傾向にあります。おそらく、皆さんがよく町で聞くのはこちらのパターンでしょう」
外から、ニンゲンの鳴き声が聞こえている。そうか、こっちはそのパターンなのか。聞いていると、楽しくなってくる。もしわたしにも声帯があれば、あんな風に鳴いてみたいなと、少し思った。
池下は、「すみません、長くなっちゃいました」と言って、頭を鎌でぽりぽりと掻いた。触覚が気持ちよさそうに震えていた。
「三つ目はですね」
そして、彼はこう言った。
「感情がないということです」
*
私の中学への通学路は、ドブ川に沿って続いていて、学校までの道のりは腐敗臭といっしょに記憶されている。濁った川では、ぷかぷかと浮いているニンゲンの水死体を見つけることもあった。
私たちは死んでも、放っておかれたりしない。誰かが葬式をして、弔ってくれる。けれど彼らはどうだろう。誰に気付かれることもなく、ただ腐っていくのを待っているだけ。弔われる命と、弔われない命。その間には、いったいどんな違いがあるのだろう。
今日もドブ川の濁りを見つめながら歩く。夏になると、心なしか臭いが倍増しているように感じられる。ただでさえ死にそうなほど熱いのに、全く気が滅入る。ハンカチで汗を拭ったり、鼻を覆ったり。そんなことをしていると、昨日のニュースが脳裏にちらついた。
──感情がないということです。
今も聞こえている、伸びやかなニンゲンの鳴き声。ビニール袋を潰したような声しか出せない私からすれば、彼らの綺麗な声が心底うらやましい。彼らに感情がないなんて信じられない。解説を最後まで聞いておけば良かったと後悔した。
昨日、池下あきらかが三つ目の解説をしようとしたその途端に、母が帰宅した。どうやら外でいけ好かない事があったようで、池下の解説をかき消すように、彼女はわめき立てた。
ちょっと聞いてよ──。
それからはあまり記憶がない。確か、順番抜かしを咎められた話だったか。母の怒りが収まるまでひたすら首を上下に動かして賛同の意を示し、やっと過ぎ去った頃には次の番組が始まっていた。
母はシングルマザーだった。私を産んだ直後にお父さんを食べたからだ。メスがオスを食べるのは、五世帯あれば一世帯がそうなるようで別段珍しくはない。母の問題点は、それがどうしても受け入れられず、ただ現実逃避をし続けていることだった。
そして時には、私に暴力を振るうことだってあった。今も右鎌にある痣が痛む。最初は紫色だったが、今は周りが黄色くなって、とても見られたものではなかった。
「おはようございま~す」
ふと顔を上げると、いつの間にか門の前まで来ていた。生徒会と先生たちのあいさつが聞こえてくる。目の前を会釈しながら通り過ぎ、今日の一日について思いを馳せた。
今日は月曜なので総合がある。私は総合が嫌いだった。グループワークをしたり、作文をさせられたり、基本的にろくなことがない。
朝練に励む野球部を横目に、校舎に入った。下駄箱で上靴に履き替え、自分のクラスがある二階へと向かう。教室に入ると、クーラーの冷気と、男子の叫び声が出迎えてくれた。男子たちが円を作って騒いでいるようだ。
「くっそーいけー!」
「負けるなデスサピエンス! そこだそこ!」
騒ぎの中心を覗き込むと、一つの机を戦場にして、二人のニンゲンが取っ組み合っていた。その周りは、彼らの血で汚れている。鮮烈な赤色が視界に飛び込んできて、体温が急激に下がった。
命が、弄ばれている。
立ちすくんでいる私の横から、男子たちの会話が聞こえてきた。
「なあ、これ何やってんの?」
「お前、ヒューマンファイト知らねぇの?」
「知らねえ。なにこれ、面白そう」
「捕ってきたニンゲンを闘わせて、どっちのニンゲンが強いか決めるんだよ。ちなみに負けた方は、給食に出てくるデザートを勝った方に渡す。面白いぜ。お前も一匹捕ってきたら闘わせてやるよ」
そのとき、周囲で歓声が上がった。どうやら決着が付いたらしい。しばらくの騒がしさが過ぎ去った後、負けた方の男子が言い放った。
「くっそー、お前、弱いんだよ!」
数瞬の後、短い叫び声が上がった。まさか。
「うわ、お前残酷すぎ」「それどうすんだよ」
ニンゲン捕りをしていた子供たちが、脳裏にフラッシュバックした。彼らもこんな残酷な遊びをするためにニンゲン捕りをしていたのだろうか。彼らを、命を無下に扱うために、命をおもちゃとするために。
一体、この差はなんなんだろう。私たちと彼らは、何が違うのだ。なんの権利があって、私たちは彼らで遊べるのだ。
やり場のない怒りを胸で膨らませていると、ニンゲンを殺したその男子が、こちらに歩いてきた。張り付いたような笑顔の裏に、狂気を感じて、思わず足がすくんでしまう。
「おいお前、どけよ。邪魔」
あ、ごめん……と声にならない声で言って横に移動する。彼は私の後ろにあったゴミ箱にニンゲンを放り投げると、何事もなかったように踵を返し、また輪の中へと戻っていった。
ニンゲンがゴミ箱にあたるゴトッという音が、耳の中で響いた。
ゴミ箱の中は、身体が固まって覗けなかった。
「悔しいから、俺、今度黒ニンゲン持ってくるよ!」
彼は高らかな声でそう言うと、他の取り巻きたちが一層騒ぎ始めた。
「え、黒ニンゲン持ってんの!? すげー、見てみたい!」
「でもそれはずるだよ。身体能力が桁違いじゃないか」
「うるせえ、絶対そいつで勝ってやるからな! デザートは全部俺のもんだ!」
二回戦に入ったようなので、私は馬鹿騒ぎをしている男子たちから離れ、自分の席に崩れ落ちるようにして座った。前から三列目。椅子が冷たくて気持ちいい。やっと自分の空間にたどり着けたような気がする──いや。
ここにそんな場所はない。
私の目の前の席では、まるで私なんていないかのように、大声で女子たちが騒ぎ立てていた。男子の声と合わさって、耳が痛い。
女子の一人が言う。
「ねえみんな、これ見てよ!」
彼女が鞄についたストラップのようなものを掲げたかと思うと、周りにいた三人の女子たちが「いや~んかわいい~」と嬌声をあげた。
「これなんか他のやつと違うよね~?」
「あ、気付いた? これね──」
彼女はストラップを鞄から外してみんなの方へと見せているようだった。気付かれない程度にちらりとそちらを見ると、彼女の手に握られていたそれは、ニンゲンだった。
「これね、ここらへんにいるニンゲンじゃなくて、白ニンゲンなんだ」
「へ~、目の色が青くてきれ~い。これどこにいるの? いいな~」
「いいでしょ~。お父さんが海外出張でね。お土産に持って帰ってきてくれたの。わざわざ剥製にしてストラップにしてもらっちゃった!」
「えー、ずる~い!」
ニンゲンで騒いでいる女子たちを見て、吐き気を催す。ストラップにするために殺したということだろうか。友達に自慢したいがために? そんなくだらない見栄のために、命を一つ捨てたってこと?
「ていうかそのニンゲン、すごい顔してるね」
「そうなの。剥製にする前、ひと息で殺せなかったらしくて。苦しみながら死んじゃったみたい。可愛そうだよね」
「えー、かわいそ~う」
『かわいそう』か。無責任な言葉だと思う。自分はそうならないと思っているから、そんな言葉が使えるんだ。相手に寄り添った気になっているだけだから、そんな言葉が──。
「ちょっと、あいつこっち見てるよ」
女子の一人がこっちを指さした。いつの間にか睨んでしまっていたらしい。やばいと思って、すぐに目線を下げる。
「ちょっと、こっち見ないでくれる?」
「ご……ごめ──」
そこで、チャイムが鳴った。
こちらを睨みつけていた女子も、ずっと騒いでいた男子も、みんな解散して自分の席につく。
私はクラスになじめない。ニンゲンだって生きているのに。自分の手の中で命が消えることをなんとも思っていない。そんな人たちとは仲良くなれないし、なりたくもない。
今日は風がなかった。環境係が換気のために窓を開けたけれど、もちろんカーテンは踊らない。留まって濁ったドブ川みたいな教室の空気は、ずっと息苦しいままだった。
国語、美術、数学、体育、社会と乗り越え、いよいよ総合の時間。担任の女教師が入ってくる。その大きくて黒い瞳で教室全体を一瞥してから、「起立」と号令をかけた。
学級委員長の気をつけ礼を淡々とこなし着席すると、担任はくるりと背中を向け、チョークで黒板に走り書きをする。今日はなんだと、皆が黒板を凝視する。
チョークの音。少しのざわめき。担任が書き終え振り返ると、黒板には、『命の授業』と書き記されていた。
「今日は、命について学ぼうと思います」
担任はゆっくりとクラスを見回す。
「最近この学校で、ニンゲンを使った遊びが流行っているようです。このクラスはやっていないと先生は信じてるんだけど……」
一筋の光が差したような気がした。今日の総合は道徳の授業でもあるらしい。ニンゲンを、命を簡単に傷つけるみんなと合わない私は、間違っていないんだと安心した。
先ほどまで静かだった男子は、目線を互いに交わしながら小声でざわざわしている。
「先生はやってないと思ってるけど、万が一そんなことをしている生徒を見掛けたら、教えて下さいね」
その言葉を聞いて、自分が嫌になった。多分、今日見たことを、私は先生に教えることはないだろう。こんなにみんなの行動に疑問を持っているのに、報復を恐れて一歩を踏み出せない。気の弱さは、昔から私の弱点で、自分の嫌いなところだった。
「命の授業って、何するんですか~」
ゴミ箱の彼が、気だるげな声で言った。その無神経さに腹が立つ。先陣切ってゲームをしていたのはお前なのに。
「今から説明しますからね」
担任はそう言うと、一度咳き込んでから続けた。
「この命の授業では、みんなに『命』とは何か、ということを考えてもらうきっかけとなるような活動を行っていきたいと思っています」
ちょっと待っていてね、と彼女は言って、一度教室を出て行ってしまった。教室がざわざわし始める。
そのまま少し待っていると、担任が帰ってきた。彼女の鎌の先端ではなんと、ニンゲンが布団のような格好で掛かっていた。担任が一歩進むごとに、彼の四肢がプラプラ揺れる。プラスチックで出来た透明な箱を教卓の上にドンと置き、その中にニンゲンを入れて蓋を閉めた。
ニンゲンは箱の中に入れられても、暴れようとしない。まるで自分の運命を悟ったかのように大人しく座り込んでいる。感情がないと池下は言っていたが、本当にそう見える。
「お待たせしました。今日からこのクラスでは、この子を飼おうと思います」
クラスがざわめいた。と同時に、私の心もざわめいた。こんな小さな箱に閉じ込めるなんて……間違っている。
担任はそして、信じられない一言を言い放った。
「そしてこの子が十分に育った後、みんなにはこの子を食べて貰おうと思います」
先ほど差したと思った光が、目の前で消えた。大人も子供も、何も分かっていない。狭い所に閉じ込めた挙げ句食べるだなんて。それが命の授業として正当化されてしまうなんて。
「ニンゲンを育てて、その命を頂く。そうすることによって、みんなには命の尊さを知ってほしいんです」
狂っている。彼女の笑顔が、張り付いているシールのように見え、甲羅に悪寒が走った。裏側の、ずっとずっと奥の方に、恐怖が芽生え始める。
「これからみんな協力して、このニンゲンを育てていってあげてください。この子はもうクラスメイトです。名前はこれから、みんなで決めてあげましょうね」
担任は鎌を器用に使い箱を持ち上げ、その大きな瞳でニンゲンを覗き込んだ。
「飼うとなると、みんなでお世話をしてあげなくてはいけません。それで──」
あ、嫌な予感がする。
「確か倉科さんはまだなんの係にもなっていませんでしたね」
先生が私の名前を呼ぶと、クラスメイトの視線が一斉にこちらを向いた。責められているような錯覚に陥って、思わず下を向いてしまう。
「それじゃあ倉科さんには、いきもの係をやってもらおうと思います。箱のなかを掃除してあげたり、餌をあげたり。ニンゲンの飼育は、みんなの先頭に立ってやってあげてくださいね」
有無を言わせぬ物言いだった。
「よろしくお願いしますね」
「……」
「返事は」
「……はい」
こうして私は、ニンゲンを育てることになった。
その後クラス会議でニンゲンの名前を決めることになったが、なんと三十分ほど使っても決まらなかった。その理由はただ一つ。案が一つも出なかったからだ。
一度も手を挙げない生徒たちに対し、担任は叱責を飛ばした。
あなたたちが名前を決めなくちゃ、この子に対する責任感が芽生えないよ。先生は絶対口だししないから。どれだけかかっても絶対あなたたちだけで決めて。
無責任なのは先生の方だ。何が命の授業だ。命を弄ぶ授業じゃないか。閉じ込めて名前つけて、成長したら食べて──そんなの、ただの拷問じゃないか。
そして私はその愚かな行為を、率先してやらなければならない。味方もいないこの教室で。
「名前、どうしよ」
放課後。人気のない教室で、私はニンゲンが入った箱を覗き込んで独り言ちた。もちろん相談に乗ってくれるクラスメイトなんていないし、先生もあんなことを言っていた手前、きっと自分で考えろと言うだろう。
なんとなく前を向く。夕暮れ差し込む、人気のない教室。舞っている埃がチラチラと視界に入る。学校に入学して、初めて教室で、落ち着くと思った。
箱の中から、ニンゲンがこちらをじっと見てくる。適当に敷き詰められた土にあぐらをかいて座っている姿は、可愛らしいものがあった。上手に切った葉っぱを纏っているから、生殖器があるかは分からないけれど、きっとこれはオスだと思う。顔立ちははっきりとしているし、顎の部分から毛が生えているし。
「名前……」
決めかねて、なんとなく自分の鎌で箱をリズミカルに小突いてみる。するとニンゲンは立ち上がって、顔を壁に押しつけた。教室の中で、初めて仲間が出来た気がした。
しかし興味を失ったのか、ニンゲンは私から目をそらしてまた座り込んでしまった。もう六時間目が終わってから三十分以上は経っている。さっさと決めて帰ろう。
ニンゲン。やっぱり種族名からもじるのがいいだろうか? ニンゲンの学名は──確かホモサピエンスだったはずだ。それなら──。
「……ホモかな」
いやいやと頭を振る。あまりにも安直すぎる。でも、ホモという響きは悪くはない。ここを基軸にして考えるのも良さそうだ。個人的に、古風な名前にしたい。となれば──。
「ホモタロウ」
私がぼそっとそう言うと、ニンゲンの顔が歪んだ。
口角、と言っただろうか、口の両端をあげて歯をむき出し、目を細めている。怒っているようには見えない。もしかして、喜んでいるのだろうか。もう一度、名前を呼んでみた。
「ホモタロウ」
すると彼は、顔を上下に振って頷いた。どうやら気に入ったらしかった。
「なんだ、感情あるんじゃん」
池下は嘘をついていた。解説なんて聞かないでもよかった。自分で確かめるのが一番。
決まりだね、と箱に顔を近づける。彼はその歪んだ顔を崩そうとはせずに、嬉しそうに頷き続けていた。
こうして彼はホモタロウという名前になった。箱は、それまで使っていなかった机を一つ引っ張り出して一番後ろに配置し、その上に置いておくことにした。
「あ、そうだ」
ホモタロウに餌をあげないといけないんだった。初日で餌を与え忘れて餓死なんて羽目になったら、目も当てられない。
私は担任が置いていってくれたニンゲン用のエサをひっつかんだ。世の中にはニンゲンショップというものがあって、ニンゲンを飼いたいという人がそこに赴いてニンゲンを購入するそうだ。そこにこのエサも売っているらしい。
──無くなったら自分で買い足してね。
そう言っていた気がする。経費は私持ちということだろうか? 信じられない。
缶の中から一つ茶色の塊を取りだして、箱の中に入れてみた。ホモタロウはちらっとそのエサを見ると、ゆっくり近づき、何度か匂いを嗅いでからそれに噛みついた。
「お、食べてる食べてる」
咀嚼音が汚かったけど、それも愛嬌だと思えた。明日から、私がこの子を育てていく。その先にあるのがホモタロウを食べるという行為だと思うと、やはり狂ったちぐはぐさを感じた。
私の方は一度も見ずに、ホモタロウは一心不乱にエサを食べている。ホモタロウの行く末を想像して、目を離すことができなかった。そのままその姿を見つめていると、なんと六時を知らせる市内放送が聞こえてきた。瞬間我に返る。
さすがに残りすぎだ。母も心配しているかもしれない。
素早く鞄を取り上げて、私は教室を出た。扉を閉めたときに気付く。
「あ、鍵……」
その日の授業が終わって最後に帰る人は、教室の鍵を閉めて職員室に返さないといけない。はやる気持ちを抑えながら、小走りで教室へと戻り、黒板の横に引っかけてある鍵を取った。と、そのとき。
──おい君。
教室のどこかから声がした。もしかして、まだクラスメイトが残っているのだろうか?
いや、と頭を振る。絶対私が最後のはずだ。今まで気付かなかったとは考えにくい。幻聴かな、となんとなく結論をつけて教室を出ようとすると、また声が聞こえてきた。
──おい、無視しないでくれ。
一体どこから──教室を一度見回す。人影はない。あるのは、ホモタロウが入っている箱だけ……まさか。
足早にホモタロウが入っている箱に近づく。もしかして、ホモタロウが喋ったというのだろうか。私たちの言葉を、話せるというのか。
ホモタロウはいつの間にか、両手を壁につけて足のストレッチをしていた。彼は、私が近づいてくるのを一瞥すると、私を見つめてこう言った。
「……君、助けてくれないか?」
あと水も──という言葉を全て聞き終えないまま、私は教室を飛び出した。
喋った。ニンゲンが喋った!
教室の鍵を閉めるのも忘れて、私はグラウンドを走り抜けた。校門の前まで走りきってから、乱れた息を整える。膝についた鎌が、自分の意思とは関係なく震えていた。
「おい倉科、どうしたんだこんな時間まで? 早く帰れよ~」
声がした方を見ると、生活指導の先生が立っていた。さすがにクラスで飼っていたニンゲンが喋ったとは言えず、「はい」と返事をして校門を出た。
あれはなんだったのだろう。今日は月曜日だし、そんなに疲れが溜まっているとは思えないけれど──。
顔に差す夕日に、目をしばたかせた。そうだ、帰るのが遅れているんだった。私は五割くらいの力を足に込めて、家に急いだ。こんなときでも、ドブ川は臭かった。
家に帰り玄関を開けると、見知らぬ靴があった。革張りで、高そうだ。お客さんだろうか。
恐る恐る「ただいま~」と中に向かって叫ぶと、廊下の先にあるドアが開いて、母が顔を覗かせた。そのまま私の前まで歩いてくる。
「あんた、遅かったのね。もう六時過ぎてるじゃない。何してたのよ」
「まあ、色々あってね……」
ふうん、とお母さんは興味なさそうに頷き、そうそう、と続けた。
「私、結婚するから」
「……は?」
晩ご飯出来てるから、ぐらいの温度感で言うので、一瞬意味を掴み損ねる。ケッコン、ケッコン、と何度か頭の中で反芻し、やっとその言葉が輪郭を伴った。
「結婚!?」
「そうよ。今日、来てるから」
まさかと思い当たり、玄関に並べてあった革靴を一瞥した。信じられない。私に何の一言もなく、勝手にそんなことを決めてしまうなんて。
「それ、本気で言ってるの?」
「そうよ」
「なんで私に相談せずに決めちゃうわけ!?」
「なに、あなたに関係ないでしょ?」
「関係あるよ!」
「ないわよ。万が一あなたが反対したって、私は結婚するしね」
母の身勝手さに言葉を失った。昔からそうだ。彼女は私にそもそも興味がない。物事を考えるとき、私のことは一切排除されている。お父さんが死んだときも、一番泣いたのは母だった。私だって悲しかったのに、母は「なんであんたが泣いてるの?」と言って、一度も慰めてくれたことはなかった。
簡単に言えば、自己中、なのだろう。
「明日から一緒に住むから、挨拶しときなさい。リビングにいるから」
何でもないことのように母は言う。
「そんな急に言われても──」
「しょうがないでしょう。明日から住むことになったんだから」
「でも──」
「ほら早く!」
凄い剣幕で言われたので、思わず萎縮してしまった。母に促されるまま、私はリビングへと足を踏み入れた。
「君がリムちゃんだね」
声を掛けてきたのは、母と同じ年齢くらいの、見るからにおじさんだった。なぜか勝手に若い人を想像してしまっていたのは、漫画の読み過ぎだったかもしれない。
「ここに座りなよ」
彼はテーブルの椅子を一つ引き、私をこまねいた。
いつものリビングなのに、知らないやつがいるだけで、全く違う空間へと変わってしまう。私は異常な居心地の悪さを感じながら、彼が引いた椅子に腰掛けた。母はその様子を、ドアの前から眺めていた。
「まずは自己紹介だね」
一見は優しそうな顔だ。一見は。
「僕は、阪本ヨウスケと言います。歳は、だいたい分かると思うけど、お母さんと同じ四十八歳ね。まだ今はぎこちないけど、少しでも君のお父さんに近づけるように頑張るから、仲良くやっていこう」
常に笑顔を浮かべていて、なかなか好印象だった。物腰の柔らかい物言いに、少しだが警戒心が緩んだ。今度は、私の番か。
「あの、私、倉科リムです。……あ、そうか、阪本になるってことなのかな」
母とヨウスケさんが、見つめ合い、ふふっと笑う。
「えーっと、急に結婚って言われて、正直戸惑ってますけど、少しずつ……」
「そうだね、少しずつでいい。距離を縮めていこう」
「そう……ですね」
ヨウスケさんはにっこりと笑い、母の方を見た。いつの間にか母は彼の隣まで来ていて、ヨウスケさんの隣に腰を下ろした。
「いやあ、なかなか緊張しちゃったよ。いつもはあんまり緊張しないタイプなんだけどな」
ヨウスケさんは顔をいっそう緩めて言った。
「え、そう?」
母は彼の顔を見てニヤリとした。
「私にプロポーズしたときも、ガチガチだったわよ。何て言ってたっけ? 確か──」
「あ、プロポーズの言葉は言わないでよ!」
ヨウスケさんの慌てた様子に、笑い声が響いた。私も思わず笑っていた。
最初はどうなることかと思っていたが、意外と大丈夫かもしれない──そう、安堵した瞬間だった。
「じゃあ、僕たちは今からセックスをするから」
表情が凍るとは、こういうことを言うのだろう。殴りつけられたような衝撃で、顔の筋肉が全部固まってしまう。動かない私を見て、彼は私の顔を覗き込んできた。生臭い口臭が、鼻をかすめた。
「大丈夫? 今から僕たちは──ああ、ごめんね。ちょっと直接的過ぎたかな? 僕たちは今から『交尾』をするからさ、さすがに見られたくないだろう? だから、外に出るか、二階へ行って欲しいんだよ」
「外はもう暗いから、二階にでも行っておきなさい。宿題あるんでしょ?」
「……」
何の言葉も出てこなかった。驚きとか、混乱とか、色んなものが喉に詰まったようだった。それでも身体は言うことを聞いてくれて、気付いたら、私は二階にある自分の部屋にいた。
自分のベッドに座って、大きく息を吐く。私が思春期だから、どぎまぎしてしまうだけだろうか。あんなにきっぱり言われるとは思っていなかった。そういうことは、隠してするものだと思っていたから。
これが、普通なのだろうか。
一階から、情事の音が聞こえてきた。あの二人がしているところを想像すると、吐き気が込み上がってくる。私はテレビをつけて音量を上げ、布団に潜り込み耳を塞いだ。それでも、母の喘ぎ声はその全てを通り抜けてきた。
結局夜が更けるまでその声は続いて、私はいつの間にか眠っていた。
お腹が減って、夜中に目が覚めた。晩ご飯食べてないな、と思ったが、今さら作ってと言えるわけもなく、もう一度、無理矢理眠った。
*
四隅が白濁した窓から外をみやると、雨が降っていた。町を囲うように伸びる山稜も、今日は霞む空気の向こうに白く滲んでいる。
ベッドの上で、寝返りを打った。次第に意識がはっきりとしてきて、昨日のことが思い出される。昨日は色々ありすぎた。ニンゲンを飼うことになって、彼が喋ったかと思ったら、お母さんは結婚をするし、そのまま──。
あの二人は、まだ一階にいるのだろうか。お母さんはパートでいつもいないが、ヨウスケさんはどうだろう。もしいたら、なんだか気まずい。しかも、身体がだるかった。今日の学校、休んでしまおうか──。
窓から雨を眺めていると、ふいにホモタロウのことが思い出された。
──おい君、ここから出してくれないか?
昨日のあれが幻聴で無かったとしたら……彼はあそこから出たがっているということだ。元いたところに戻りたがっているのだろうか。
もし今日、自分が学校を休んだら。そんなときのことを考えて、身震いした。
あそこには、ホモタロウからすれば敵しかいない。きっとヒューマンファイトに駆り出されるだろうし、そうでなくても、酷い扱いを受けるはずだ。その行為を止めるはずの教師だって、ホモタロウのことを最終的には食べようとしている気違いだ。
殺される可能性は──十分にある。
やっぱり行こうと思い直し、ベッドから起き上がった。時刻は七時十分。昨日あんなことがあったのに、気持ち悪いほどいつも通りの時間に起きてしまっている。
そっとドアに耳を寄せ、一階の物音を注意深く聞き取る──何も聞こえない。
どうやら母はもう仕事に行ったらしい。多分、ヨウスケさんも仕事に行っているはずだ。良かった、と胸をなで下ろす。
安心してドアを開け、階段を降りる。一段一段足を降ろす度に、空腹がみるみる大きくなっていった。昨日、晩ご飯を食べていないのだ、と、そこで思い出す。朝食は用意してくれているだろうか。
リビングのテーブルには、焼いた食パンとサラダ、ウインナー二本が、ラップに捲かれ置かれていた。良かったと、ラップを剥がす。
サラダの隣には、置き手紙があった。急いで書いたのか、絡まったミミズのような文字。なんだかろくなことが書いていないような気がした。読んでみる。
昨日はごめんね。ヨウスケさんのことばっかり考えちゃって、晩ご飯作るの忘れてたわ。「なんで言ってくれなかったの?」ってヨウスケさんに聞いたら、「君といるのが楽しすぎて、リムちゃんのことなんか頭によぎらなかった」だって。ほんと、あなたっていつも忘れられるわよね。かわいそうに。まあ、次からちゃんと作るわね。
「……」
手紙をぐしゃぐしゃにして、思い切りゴミ箱に突っ込んだ。その瞬間、血だらけの、あのゴミ箱に捨てられたニンゲンを思い出して、泣きそうになる。
──あなたってかわいそうね。
別に大したことじゃないのに、私は意外なほど食らっていた。なんでだろう、と少し考えて、思い当たった。そうだ、私は、孤独なのだ。
学校にも、この家にも、居場所がないような気がずっとしていた。そこに、ヨウスケさんがきて、今の手紙があって──追い詰められたのかもしれない。
いっそ、ニンゲンみたいに感情が無くなればいいと思った。そしたら孤独も、感じないで済むんだろう。それか、いっそ割り切って一人で生きて行けたら。一人で生きていく知恵と、心の強さが私にあったら。
嫌な感情に身を捩らせながら、ラップを外してパンに齧り付いた。憎らしいほど美味しかった。
教室につくと、ホモタロウの箱を置いている一番後ろの席に、クラスメイトが集まっていた。産毛が無意識のうちに逆立つ。嫌な予感がする。
「おい、こいつ強いのかな」
「闘わせてみようぜ」
騒ぎの中心から、そんな会話が、そんな会話だけが、輪郭を持って耳に飛び込んできた。だめだ、このままじゃあ、ホモタロウが──。
「やめて!」
気付いたら、声が出ていた。しまったと思うこともままならないうちに、クラスメイトの視線が一斉にこちらに向けられた。射貫かれたように、身体が動かない。
「何、文句あんの?」
そう言ったのは、ゴミ箱の彼だった。邪魔だと言われたときの彼の目がフラッシュバックする。怖い。
何も言えずに口ごもっていると、「もういいや、行こうぜ」と彼は言って、その場を立ち去っていった。着いていくようにして、周りのクラスメイトたちもホモタロウの周りからいなくなった。ほっと溜め息をつく。
ホモタロウが喋ったからみんなに囲まれていたのかと思ったが、クラスの反応を見るに、どうやら違うらしい。
勝手に助けたような気になって、そろりと彼の様子を覗き込んだ。昨日と何も変わらない格好で座っている彼を一瞥して、エサを入れる。食べようとしない。少し考えて、水を与えていないことを思い出した。ペットボトルの蓋にちょっと水を入れて置くと、彼は頭を突っ込むようにして水を飲んだ。悪いことをしたな、と感じたけれど、必死に水を飲む姿に、思わず笑みが零れた。
それから一日が、特に何事もなく過ぎていった。ゴミ箱の彼に何か言われるかもしれないと内心ビクビクしていたが、結局、それは杞憂に終わった。
放課後。クラスのみんなが帰って、担任の先生も職員室に戻って、教室には、私とホモタロウの二人だけになった。
昨日、ホモタロウが喋った時間だ。胸が高鳴る。
一日中考えた。昨日のあれは本当だったのか、私の気がおかしくなってしまっただけだったのか──。
静かになった教室には、雨の音だけが忙しなく響いている。きっと雨が止むころには、いや、あと数秒後には、結論が出ているはずだ。
私は彼を覗き込んだ。彼も私を見つめている。雨の音に滑り込ませるようにして、私は静かに言った。
「ねえ、あなた話せるの?」
「──ああ。話せるよ」
雨滴が窓を叩く音。風が笛を鳴らす音。そんな雑音が全て聞こえなくなって、ホモタロウの声だけがはっきりと聞こえた。心拍数がどっと上がり、声が上ずってしまう。
「あ、あの、昨日──」
「とりあえず、君の家につれていってくれないか」
ホモタロウは、両手をこちら側に押しつけながら、私を真っ直ぐに見据えて言う。予想もしていない展開に、頭が追いつかない。
「え──」
「ここで誰か入ってきたら出れなくなるかもしれない。今のうちに」
ホモタロウの有無を言わせぬ迫力に押され、こくりと頷いた。「早く」という催促にせかされながら、箱の蓋を開け、彼を鎌で優しく挟んだ。
「鞄に入れるよ」
「分かった。ありがとう」
ニンゲンの感触は柔らかかった。少しでも力を入れてしまえば、あっけなく潰れてしまうような──。そのまま彼を鞄の中にそっと入れて、鍵を手に取り教室を出た。しっかり鍵は閉め、今度はちゃんと職員室まで持って行く。
雨の中、傘を差す。横を流れる川は流れが早く、いつものよどみが無い。雨に紛れて、匂いも届かない。
何かが、動き出している。
鞄の高鳴りを感じながら、私は大きく家路を行く。
家に帰ると、母が夕食を作って待っていた。ヨウスケさんは、テーブルについていた。昨日のことが思い出されて逃げ出したくなったが、「おう、おかえり~」と何でもないような口調で言うので、とりあえず「ただいまです」と返す。
「あ、帰ってきたのね」
キッチンでフライパンを洗っていた手を止め、タオルで拭きながら母はこちらを見た。その顔を見て、昨日の手紙の一文が脳裏に蘇った。
──あなたかわいそうね。
「昨日はゴメンね。ごはんできてるから座りなさい」
うん、と返事をしたあと、「ちょっと待って」と言って二階に上がる。さすがにホモタロウを鞄に入れっぱなしにしてはおけない。自室に入って、鞄を開けた。
「やっと着いたか」
結構きれいにしてるんだな、と軽口を叩く彼に「ここで待っててね」と伝えて一階へと降りた。
匂いがしていたから分かっていたが、夕食はカレーだった。スパイシーな香りに、思わずお腹が鳴ってしまう。はやる気持ちを抑えて席に着いたとき、母が言った。
「ちょっとニンゲン乳買うの忘れたから、スーパー行ってくるわ」
「え、今から?」
「ええ。今日、特売日なのよ」
正直、ヨウスケさんと二人きりになるのは嫌だった。しかし、買い物についていくわけにもいかないし、諦めるしかなさそうだった。
「じゃあ、行ってきます」
そう声がして、リビングにはテレビの音しか聞こえなくなった。
目の前のヨウスケさんは、笑顔でこちらをずっと見ている。その舐め取るような視線に悪寒を感じ、逃げるようにカレーを食べようとした、その時だった。
「ちょっと待って、リムちゃん」
彼がそう言って身を乗り出し、私のスプーンを奪い取った。急な行動に、手持ち無沙汰になった右鎌は、スプーンを持った形のまま固まってしまう。
「僕はね、君と仲良くなりたいんだ」
作ったような笑顔を浮かべて、ヨウスケさんは言う。
「君も同じ気持ちのはずだよ」
恐る恐る頷いた。
「だから、繋がろう」
「……え?」
「はい、あ~んして」
すると、ヨウスケさんはスプーンに乗っているカレーに息を吹きかけた。湯気が煽られ、空気へと溶けていく。私はその様子を、困惑しながらぼうっと眺める。
そして彼は、それを私の口へと持ってくる。
「ほら、あ~ん」
「ちょ、ちょっと、止めて下さい!」
抵抗するように身を引くと、彼の顔から笑顔が無くなった。さっきまであった皺が、異常なほどどこかへ消えた。彫刻のような作り物めいた顔に、生理的な恐怖を感じる。
「仲良くなりたいんだろう? ほら、口」
断れば、何をされるか分からない。
本能が警鐘を鳴らしている。口を開けると、何の躊躇も無くカレーが入り込んできた。スプーンが歯にガンガン当たる。残らないよう、口に力を入れて舐めとっていく。
母のカレーはコクがあって好きだったのに、何の味もしなかった。
「おいしい?」
「……はい」
ヨウスケさんはよかったと微笑んで、もう一口と、カレーをスプーンですくう。
私はまたカレーを口に入れ込もうとしてくるのを見て、ちょっと待ってと手で制した。
「どうしたの? 熱かった?」
「いや、そうじゃなくて、自分で食べますし……」
彼の目が見開かれる。
「駄目だよ。俺が食べさせないと。君は僕の子供なんだからね」
彼は一度スプーンを置いて、両鎌をクロスさせた。
「本当は朝食も食べさせてあげたいんだけど、仕事が早くて駄目なんだ。ほんとにごめんな」
謝るヨウスケさんの顔は、真剣そのものだった。その顔を見て、私は諦めがついた。そうだ、ヨウスケさんは母が選んだ夫なのだ。最初から、まともな訳がなかった。一瞬でもいい人かもと思った、私が馬鹿だった。
また、自分の居場所が狭くなっていく。
「ほら、口開けて」
「……はい」
それから、二時間とも三時間とも思える夕食を乗り切った。チラリと時計を見ると、六時半。せいぜい二十分しか経っていなかった。ヨウスケさんが食器を台所へと持って行く。そのとき母が帰ってきたので、私は逃げるように階段へ向かった。しかし、ヨウスケさんの声が私を止めた。
「リム、ごちそうさまは?」
自室に戻った。驚くほどの疲労が、肩の上に乗っている。慣れた自室の空気を思いっきり吸いこんでも、良くなる気配はなかった。
一度部屋を見回すが、ホモタロウがいない。もしかして、逃げ出してしまったのだろうか──。よくよく考えてみれば、彼がここに居続けるメリットなどない。そう思ったとき、
「あれは変だな」
ホモタロウの声が真上から聞こえて、思わず身をかがめた。
彼はドアの上に乗っていた。気付かないはずだ。ドアを開け閉めして振り落としてやろうかと思ったが、虐待みたいになるのでやめた。
「君、一人で食事が取れないのか?」
「……見てたんだ」
顔が熱くなって、触覚が震えてしまう。昨日会ったばかりのやつに食事を与えてもらっているなんて、端から見れば滑稽以外の何ものでもなかっただろう。
「君の種族って、恥ずかしくなったら触覚が震えるんだな」
「うるさいな」
触覚に鎌を持っていった私を見て、ホモタロウは笑った。彼はベッドの上に飛び降りて言う。
「色々聞きたいことがありそうな顔してるな。実は俺も、君に頼みたいことがあるんだ。だからここに来た」
「頼みたいこと?」
そうか、私に頼みごとがあるからわざわざ家に来たんだな、と納得する。
「まずは、君の質問からにしよう。頼みごとはそのあとだ」
お預けにされたみたいで面白くなかったが、ホモタロウの事が知れるならいいだろう。知りたい欲求の方が強かったので、私は彼に質問した。
「じゃあまず、あなたはなんで喋れるの?」
ホモタロウをこうやって逃がしてきたのは、これが聞きたかったからといってもいい。彼は「いきなりそれか」と言って少し考えたあと、口を開いた。
「端的に言えば、俺は君たちに興味があったからだ」
「好きってこと?」
「まあ、そういうことだな」
でも。確認したいことがある。
「ニンゲンってそんなに知能が高いの? 私の知ってる限りでは、ニンゲンのこと賢いと思ったことなんてないんだけど」
ホモタロウは頭の後ろを掻きながら、ぽつぽつと語り始めた。
「えっと、まあそうだよな。はじめから話すよ」
はじめから、という文言に一瞬引っかかったが、いちいち聞いていても話が進まないので、お願いと先を促した。
「まず、君たちがこの地球に来る前の話だ」
急に壮大な話になって、思わず頭を捻る。話の腰を折るのは止めようと思ったところだが、口を出さずにはいられなかった。「ちょっと待って」と止める。
「えっと、私たちはこの地球で生まれて、何万年と暮らしてきたんじゃ──」
「まあ、とりあえず聞いてくれ」
彼はそう私を押しとどめ、よく通る声で滔々と話を続けた。
「今から二千年前、地球ではニンゲンを食物連鎖の頂点として、様々な生物が暮らしていた。しかし、その安寧を脅かしたのが君たちの先祖だ。といっても、せいぜい祖父母の代か。君たちの平均寿命は千年だったな」
ホモタロウはベッドの上で、ゆっくりと姿勢を変える。
「二千年前何が起こったかと言うと、君たちが地球にやってきて、この星を侵略し始めたわけだ。そして、ニンゲンを始め、地球の生き物という生き物は全て絶滅させられた。が、ニンゲンには奇跡的に生き残りがいたんだな。それがあいつらだ」
彼は棚のデットスペースに置いていたロケットの模型を指差した。あれは太古にあったとされる、宇宙飛行の装置だ。まだお父さんが生きていたとき、誕生日に買ってくれたものだった。
「君たちが侵略してきた丁度そのとき、月にそのロケットで旅行に行ってた奴らがいた。そいつらが、今いるニンゲンの先祖だ」
学校で教わってきたこととは全く違う歴史が、ホモタロウの口から語られていた。半信半疑のまま、さらに耳を傾ける。
「やがて生き残ったニンゲンは子孫を増やして、生存範囲を広げていった。けれど──」
ホモタロウはそこで口ごもる。けれど、なんだろう。
「今日までの二千年間、ニンゲンは命の危険にさらされ続けた。当たり前だ。地球には、君たちの種族が蔓延っていたからな」
彼はそして言う。
「ニンゲンは進化の過程で、感情を捨てた」
──感情がないということです。
池下あきらかの声が脳裏によみがえった。もうひとつの聞きたかったこと。期せずして答えを得られそうなので、少し心が踊る。
「感情は、脳みその前頭葉という部分が司ってる」
「ぜんとうよう?」
聞いたことがない。
「そう。そこを退化、つまり萎縮させたわけだ。感情ってのは、生存競争において不利に働くことも多い。例えば仲間が天敵にやられたとき、怒りに任せ、敵うわけがない敵に立ち向かってしまったりとかな」
なるほど。何となく理解できる。
「そしてその流れの中で、前頭葉が萎縮せず、脳みそをそのまま保持させたのが俺たちの一族だ。恐らく、君たちのような天敵が少ないところに拠点を持っていたんだろう」
これで繋がった、と、ホモタロウは指を立てた。
「だから、俺は君たちに興味を持つっていう感情があるし、君たちの言語を習得する情熱やらそもそもの容量があったわけだな」
ただし──と彼は続ける。
「ただし?」
「ああ。ただし。俺のように感情を持つニンゲンは、存外多いぞ」
「え、そうなの?」
「見たことないか? 苦痛に泣き叫んでいるような顔をしたニンゲンを」
脳裏に、クラスメイトが持っていた白ニンゲンのストラップが浮かんだ。確かにあのニンゲンの顔は凄まじい表情をしていた。遠目でも分かるほどだったから、近くで見たら、もっと凄い顔なのだろう。
「でも、俺が知る限り、ニンゲンには基本的に感情がない、ということに、君たちの間ではなっている」
「そうだね」
池下が言っていたことが、その証左だった。専門家と名乗っている者ですら、感情があるということを知ってか知らぬか、テレビで言うことは無かったのだ。もしかすると、あえて隠しているということもあるのかもしれない。
「あえて言ってないってこと?」
「おお、そうだ。物わかりが早いな」
驚いたような顔をして、彼は続ける。
「この星には、君たちの種族と、俺たちニンゲンの種族しか住んでいない。ということはだ、君たちの食料や、衣服や、家具や、まあ身の回りのものは全て、俺たちニンゲンでまかなわれているということだ」
確かに、と頷いた。例えばさっき食べたカレーに入っている肉はニンゲンのものだし、この部屋に敷いてあるカーペットだって、ニンゲンの『髪の毛』というもので出来たものだ。私たちの生活には、彼らがふんだんに使われている。
「そんな社会に生きている君たちが、ニンゲンの感情に気付いてしまったらどうだろう? 可愛そうとか思ったりするんじゃないか? ニンゲンを殺すのは良くないと、反対する勢力が出てくるかもしれない」
私だ、と思った。
「実際ニンゲンがこの星の覇権を握っていた時代は、家畜を殺して得た肉を食べるのは可愛そうだ、とかなんとか言って、色んな方向に攻撃をしかけていた集団も出てきていたそうだ。その集団のせいで、通行止めになったり、肉屋が襲撃されたり、貴重な建物が壊されたりとかなんとか……」
「なるほどね、ニンゲンに感情があるってことを認めたら、そういう暴動が起きるかもしれないってことか」
「そういうことだな」
私は今すぐ暴動を起こしたい。けれど、私は一人だった。一人では、何も出来ない。
「他に聞きたいことは?」
「うん、山のようにあるけど、先にホモタロウの頼み事を聞きたいかも」
彼はしばしの間逡巡するように困った顔をしてから、「分かった」と顔を上げた。
「俺の頼み事はだな……簡潔に言う」
無言で先を促した。
「俺たちの、主導者になってほしいんだ」
*
電車は大人のゆりかごだ。ガタンゴトンと、列車が私をあやしてくれる。肩から掛けたトートバックには、財布が一つと、お茶のペットボトルと、ホモタロウ。心地よい揺れに身体を漂わせて、彼は気持ちよさそうに眠っていた。
──次は~足立ヶ原~足立ヶ原~。
目的地の曙新宮前まで、あと二駅だ。節電でうす暗いし、外とは違って心地よく涼しい車内のこともあるし、気を抜いて、眠らないようにしなければならない。背筋を伸ばして、座り直したその流れで、車窓の外を眺めた。
市街地を離れて、電車は田舎を走っている。田んぼと田んぼの間に林を挟んだり、トンネルを抜けたり。こんなに遠く、一人で来るのは初めてのことだった。
曙神宮は恋愛成就とニンゲンのおかげで人気の観光スポットだったが(そういえば、ニュースでやっていた)今日は改修工事で閉まっているらしく、乗客はまばらだった。田舎の真ん中にぽつんとある神社だからか、周りにはなんの商業施設もない。そういう立地だから、曙神宮がお休みだと、このあたりは閑散とするのかもしれない。
「おい、今どこだ?」
トートバックの中から、ホモタロウの声が聞こえた。「今は足立ヶ原を過ぎたとこ」と答えると、「お、もうちょっとだな」と彼はトートバックから顔を覗かせた。
ホモタロウの顔を見て、昨日の、あの頼み事が思い出される。主導者。なんとも大層な響きだ。私にそんな役目が務まるのだろうか。ニンゲンの、道しるべになって欲しいだなんて。
「おい主導者様、心の準備は出来たのか?」
「え~? いや、あんまり実感が沸いてないというか……」
はは、とホモタロウが笑う。
「ま、そうだろうな。大丈夫。一緒にみんなと首を吊ってくれるだけでいいんだ。俺たちの儀式を一緒にやってくれるだけで、仲間だという信用は得られる」
「その、儀式ってなんだっけ? ずっと疑問に思ってたんだ。なんでニンゲンは、首に紐をくくりつけて木からぶら下がろうとするんだろうって。なんでそうやって、自分で死ぬんだろうって」
「それは昨日話しただろ?」
「ちょっと、色んな情報が一度に入りすぎて、頭がパンクしちゃったんだよ。もう一回、簡単でいいからさ」
ホモタロウは、渋々、といった様子で頷いた。コソコソと喋っている私を、向かいに座っていたお婆さんがちらりと盗み見た。独り言をしているように見えたのかもしれない。触覚が震えた。出来るだけホモタロウに耳を近づけて、小さな声で喋るように頼む。
「いいか、俺たちが首を吊るのは、簡単に言えば、恨みを忘れないためだ」
「ああ、そうそう、恨みね」
「ほんとに分かってるのか?」
訝しそうな表情を浮かべるホモタロウとは裏腹に、私はしっかりと昨日の事を思い出していた。私のベッドで胡座をかきながら、真剣な表情で滔々と語る、ホモタロウの姿を──。
『俺たちはな、君たちの種族に、恨みを持っているんだ』
私の質問に、彼はまずこう答えた。
『俺たちの先祖は、この地球で色んな問題を抱えながらも、まずまず上手くやってた。毎日働いて、帰ってきて、家族たちと笑い合って。そうやって過ごしていたんだ。でも、君たちがやってきた』
ホモタロウは、私に指を差した。
『あっという間に俺たち含め、地球の生命は滅ぼされ、運良く生き残った俺たちの先祖さえも、明日も生きられるかどうか分からない、地獄のような生活へと落ちぶれた。きっと、俺なんかが想像してもし足りないくらい、苦痛と涙に溢れた日々だったことだろう。その日々は、少なからず、今日まで続いているんだ』
彼の声に、熱気が帯びていく。
『今この瞬間だって、君たちに捕まり、食べられ、あるいは生きたままおもちゃのように扱われ、死んでしまいたい程の苦痛を受けている同士がいる。いつかは自分が殺されるんじゃないか。そんな恐怖に震えている、幸か不幸か、感情を持って生まれてきたニンゲンが大勢いる。そんなクソみたいな生活を作り出したのは、君──いや、君たちの先祖だ』
だから。
『死を持って、俺たちは君らに抗議をしているんだ。様々なところで首を吊って、自分の死体を見せつけて、いつか俺たちの苦痛が君らに伝わってくれれば──いや、違うな。今はもう、仲間たちに向けて、首を吊っている。そう。これは、プロパガンダなんだよ』
「そう、プロパガンダだったね」
「おう、そうだ」
なんだ、覚えてるじゃないか。ホモタロウは意外そうな顔をする。
「首を吊るやつはな、病気なんかで弱った老人とか、この世界で生き続ける恐怖で死を選ぶヤツとか、そういう死が間近に迫ったやつらなんだ。どうせ死ぬのなら、若い世代に、あるいはこの世界でもがこうとしている人たちに、何か出来ることはないか。そうやって彼らは、君たちへの恨みを訴えてるわけだな。『恨みを忘れるな』って。そして俺たちはその姿を見て、沸々と闘争心を沸き立てている。『俺たちの時代を取り戻すぞ』ってな」
「それで、戦争を仕掛けようとしているの?」
「ああ。みんなの指揮を上げるためにも、君に協力してもらいたい。こちらに寝返った者がいるというのは、強力な着火剤になる」
──鈴ノ森~鈴の森~。
アナウンスが聞こえた。時間帯もあるせいか、ここで降りる人はいない。車内は、私と、向かいのお婆さんと、あと一人、マスクとサングラスで顔を隠した、怪しげな男だった。
「ほんとに私でいいのかな」
よくよく考えてみれば、私はニンゲンたちが目の敵にしているそのものだ。そんなやつが彼らの本拠地に易々と受け入れてもらえるとは到底考えられない。なんだったら、殺されるような気もしている。
「大丈夫だよ」と、ホモタロウ。
「君は僕らに危害を加えようとしていない。しかもそれだけじゃなくて、俺たちを殺している同族を、嫌悪しているだろう?」
私は素直に頷いた。周りの同族は──近所の子供たちも、親も、クラスメイトも、先生だって──私と違う。絶対どこか、狂っている。周りが変なのか、私が変なのか、それは分からないけれど。
「こちらとしては、そっちの生活のこととか、身体的な弱点とか、色々君から聞いておきたいし、まあ、俺から話せばみんな分かってくれるよ」
「そっか」
──曙神宮前~曙神宮前です。お降りのお客様はお荷物を忘れないように──。
プシュー、とドアが開いて、私は立ち上がった。座席で熱くなったお尻を風が撫でて、とても気持ちよかった。外に出ると、本当に山の中だ。フェンスの向こうに茂る緑色の中には、ぽつぽつと肌色が見える。ホモタロウの家が近い。そんな実感があった。
どうやらサングラスにマスクの人も、ここで降りるみたいだった。彼は立ち止まって木を見ている私の横を通り過ぎて、改札口を潜っていった。その背丈に見覚えがある気がしたが、ホモタロウが「行こうぜ」と言ったので、すぐにそんなことは忘れた。
「いまごろお母さんたち、怒ってるかな」
曙神宮まで、五分ほどの道のりだ。緑豊かな道を歩きながら、私は心配事を口にした。
「そりゃあ学校も行かずに飛び出してるんだから、もしかしたら探してるかもな」
「帰ったら謝んなきゃ」
昨日ホモタロウに頼み事をされて曙神宮へ行くことになった。曙神宮は、彼が元々住んでいた家みたいなもので、遠征に遠出をしたところ、捕まってしまったという経緯だったらしい。
学校を休んでまで行くのは少し憚られたが、ホモタロウも持って帰ってきてしまったことだし、単身で学校に行くのは、絶対先生やクラスメイトに何か言われるだろうから気が引けた。加えて、ヨウスケさんや母ともこれといって顔を合わせたくない。消去法で、私は旅行を楽しむことにした。たまにはいいだろうと思ったのだ。
現在の時刻は、朝六時。人は全然おらず、まだ数は少ないが、ニンゲンの鳴き声も聞こえてくる。涼しいし、気持ちが良い。
「そういえばさ、ニンゲンってどうして鳴くの?」
「鳴く?」
私の鎌の上でバランスを取る遊びをしていたホモタロウは、不思議そうに振り返った。
「いつも鳴いてるよね。私、この鳴き声好きなんだ。綺麗だし、たまに情熱的なのとか、静かなのとか、色々なパターンがあるでしょう? 私もこんな声が出せたらいいのになあって──」
「ああ、歌のことか」
ウタ。聞き慣れない発音が飛び出てきた。まだ意味を伴っていないその言葉はしかし、すでに私の中で、とても大切な言葉にカテゴリーされた。ウタ。ウタ。いい響きだ。
「ニンゲンは歌を唄って感情表現するんだよ」
「ウタう」
「そう」
ホモタロウは口を大きく開けて、ウタをウタい出した。いつもの話し声からは想像も出来ないような、綺麗な声だった。耳にすっと入ってきて、心にすとんと落ちる。こびりついた不安のカスみたいなものを、すっかり拭い去ってくれる。
「凄い、上手だね」
「へへ、そうだろう。母ちゃん直伝だ」
ニンゲンのウタにはレパートリーがあって、それぞれの家で伝わっているものがあるらしい。時には自分で新しいパターンを作り出すニンゲンもいて、そういうニンゲンはコミュニティーの中でかなり崇められるようだった。
そして、感情のないニンゲンたちは、そのウタを真似して、自分の感情を表現する。ウタっている間だけは、感情が取り戻されるとか戻されないとか。少なくともホモタロウは、取り戻していると信じているらしい。だからニンゲンはみんなウタうのだと、彼は嬉しそうに語った。
「さあ、ここが俺のコミュニティーだよ」
鳥居を通り、手水舎を横目に石畳を最奥まで進むと、工事中の本殿の横に、いつかニュースで見たご神木があった。その眺めは、まさに圧巻。やっと登った朝日に照らされ、木漏れ日が緑色に光っていた。その中に漂う、クビツリをしたニンゲン。肌色が揺れている。
ニュースで見た画像よりも、それはいくらか神聖で、やはりテレビは物事を濁して汚くするフィルターか何かが掛かっているのだと思った。
「それじゃあ、みんなにお前のことを紹介する」
私が頷くと、ホモタロウは口に手を当て、私には分からない言葉で何かを叫んだ。朝の静寂に、彼の声が波となって響いた。私には、一生掛かっても出せない声だった。
しばらくすると、お祭壇の方から、幾十もの、砂利を踏みしめる音が押し寄せてきた。大波のようなその音に思わずそちらの方を見やると、私の前に、みっしりとニンゲンが整列した。いや、ホモタロウの前にだ。
彼は何かをしきりに話している。私の事を紹介しているのだろうか。彼が一瞬発声を止める度に、ニンゲンの群れから歓声が上がる。その様子に、その圧に、私はすっかり見入っていた。
そしてホモタロウが一際大きな声を出して、こちらを一瞥した。
「さあリム、一歩前に。出るだけでいい。じっとしていれば」
言われるがまま前に進み出ると、「うー、うー」とニンゲンたちが唸りだした。一定の間隔を開けて、声を揃えて。一瞬恐怖を感じてホモタロウを見たが、「大丈夫だ。俺らなりの歓迎だよ」と微笑まれたので、そうかと納得する。
これまでの人生からは考えられない、不思議な数秒間の後、ニンゲンの群れの中から、十匹ほどが前に出てきた。ホモタロウは言う。
「今から、こいつらと首を吊ってもらう。そのご神木で」
彼はもうすでにかなりのニンゲンが首を吊っている、例の木を指し示した。
「君が首を吊ってくれれば、俺たちの士気がもっと上がる。思いが一つになる。さあ、やってくれ」
植物のツタで出来た縄を渡された。注連縄のようだ。長くて太いから、数人のニンゲンが協力して、私に運んでくれた。ここまで来たらやるしかないと、私は巨木を見上げる。
「あそこに梯子があるだろ。あれを使って」
物置のような小さな建物に、梯子が立てかけられていた。私はそれを持って、木にかけ、よじ登った。ツタを太い枝に巻き付け、輪っかに結んだ。何十、下手すれば何百ものニンゲンたちの目が、こちらに向けられている。半ば背中を押されるようにして、私は梯子から飛び降りた。
首に、重力がかかる。だからといって、苦しいというものでもない。本当にこれでいいのだろうか──とぶらぶらしながら不安になったころ、ニンゲンの、すすり泣く声が聞こえた。それ以外にも、歓声を上げて両腕を伸ばしたり、私に土下座をしたりする者もあった。いつの間にかニンゲンの数はさらに増え、私が首を吊っている枝の上にでさえ、たくさんニンゲンが乗っていた。
ホモタロウの声が、不意に響いた。それは、ウタ、だった。彼の声に、次々とニンゲンたちの声が乗っていく。いくつもの声が、やがて一つの塊となったとき、私は感動に打ち震えた。プラプラと空中で揺れながら、彼らの声を全身に浴びていると、なんでも出来るような気がした。ここが、私の居場所だと思った。この狂った世界から、この子たちを守ってあげなくては。そう、涙ながらに思ったその時だった。
「うわあ、すごいニンゲンの量だね」
そう言いながら近づいてきたのは、さっき電車で見掛けた、サングラスとマスクの男だった。
「ねえ、リムはそこで何してるの? 早く帰ろう」
男は、私の名前を呼んだ。帰ろうとも言った。なぜ、なぜ私の名前を知っているのだ。
彼はニンゲンが密集しているギリギリのところまで私に近づくと、サングラスとマスクを取った。ヨウスケさんだった。
「駄目じゃない。僕らに何も言わないで出て行って。学校にも行ってないじゃないか。お父さん、びっくりして、思わずついてきちゃったよ」
両鎌を広げて、ヘラヘラと笑う。何がお父さん、だ。ストーカーまがいのことをして、どの口が父親を名乗っているんだ。
この前の、夕食を思い出した。私の口にカレーを入れるときの、なんとも言えない気持ち悪い顔。たまにもわっと顔に吹き掛かる、彼の吐息までがはっきりと思い出された。
「おい、大丈夫か」
いつの間にか、ホモタロウが隣にいた。だから、言った。
「ねえ、今からホモタロウたちは、私たちに戦争を仕掛けるんだよね?」
「ああ。そうだ」
「なら──」
さすがに少し躊躇する。彼は直接ニンゲンに何かしたわけでもない。けれど、いけ好かなかった。そして私はもう、家に帰るつもりは無かった。ここに、居場所を見つけたからだ。ニンゲンたちがいる、ここを。
もう我慢しない。なら、やるべきことは一つだ。
「あいつを殺して。あいつを、この戦争の、開始の狼煙にして」
「いいのか?」
「うん」
頷くと、ホモタロウが大声で呼びかけた。一斉に、ニンゲンたちがヨウスケさんの方を向く。彼は明らかに気圧され、「な、なんだよ」と眼を白黒させていた。
ふん、気味が良い。後ずさりをしているヨウスケさんを見て、腑に落ちた。私は、簡単に命を殺すことが嫌いだったんじゃない。弱い者いじめが嫌いだったんじゃない。ただ単に、お前らが嫌いだっただけなんだ。私に居場所を与えてくれない、お前たちが。
「リム、君たちの弱点を教えてくれ。どこを責めれば、君たちを倒せる?」
聞かれ、答えた。
「外殻は堅い。狙うなら、間接。外殻は鎧みたいになってる。私たちがそれでも動けるのは、膝とか肘とか、そこに隙間があるからだよ。そこは柔らかくなってるから、そこを抉るの」
「分かった。ありがとう。これで、君とはサヨナラだ」
「……え?」
待って、と声を出したが、ホモタロウの大音声にかき消された。すぐに、ニンゲンたちが鬨を上げる。集団の力。まるでそこに、一匹の怪獣が出現したように錯覚した。
地上にいたニンゲンは、ヨウスケさんの方へ。木の上、すなわち私の周りにいたニンゲンは、私の方へ襲いかかってきた。空中で何もできない私の間接の間に、ニンゲンたちが群がってくる。刃物のような何かで肉を抉られ、激痛が駆け上り、頭で爆発した。神経の中を苦痛が流れる道筋を、私はその時初めて知った。そして、ニンゲンたちの狡猾さも。
私は、騙されたのだ。
主導者になってくれ、と吹き込み首を吊らせ、私を捕えた。そこで私の弱点を聞き、そこを責める。思えば私が首を吊ったとき、彼らはただ泣いたり、歓声を上げたのではない。私を獲物だと、初めて私の種族を殺せるのだと、勇み立ち、興奮してのことだったのかもしれない。薄れる意識の中、ホモタロウの、汚い笑い声が耳を打った。
ああ、この世界は狂っている。結局どこにも、私の居場所はない。
足と、鎌の感覚がなくなった。きっともう、四肢は私についていないのだろう。痛みを通り越して、今は全身が熱い。
ヨウスケさんの断末魔が聞こえる。確かに、これだけはいい気味だ。私も、少なからず狂っていたのか。狂気が常識になれば、それはその世界の正しさになるのか。私はそんなことを考えながら、目を閉じた。ホモタロウの声が、最後に聞こえた。
「それじゃあな、気の良い虫けらめ」
*
夫と娘が帰ってこない。
朝目が覚めたら、横に夫がいない。仕事に行くには、まだ早いのに。嫌な予感がして二階に上がってみると、やっぱり娘もいなかった。
──何かおかしい。
そう思ったが、いや、とかぶりを振った。きっと、二人でどこかへ出かけているだけなのだろう。
もしかしたら散歩にでも行っているのかもしれない、とベランダを見やる。
すると、洗濯物を干す竿に、ニンゲンがぶら下がっていた。どうやら首を吊って死んでいるらしかった。まただ。色んなところで死にやがって。嫌だ、汚い。
私はベランダへ出て、ニンゲンが首を吊っている紐をそっと掴み、外へ放り投げようとした。そのときだった。ニンゲンが凄い光を放ち、爆音と共に視界が真っ白になった。ものすごい衝撃と、熱。四肢と頭が身体から離れるような、奇妙な感覚がした後、私は闇に放り投げられた。
そこには、暗くて寒い、孤独が渦巻いていた。
*
「緊急速報です」
いつもはロボットのようなアナウンサーだが、今日は珍しく取り乱している。
「今朝八時ごろ、全国各地で爆破事件が発生しました。死傷者、負傷者共に、過去に類をみない数に上っており、把握は困難な模様です。警察によると、爆破の原因はクビツリをしていたニンゲンだと考えられており、その死体を解剖分析したところ、爆発力が非常に高い爆弾が仕掛けられていた痕跡を確認したとのことです。これまでのニンゲンのクビツリ死体全てに爆弾が仕掛けられている可能性も考えられるため、もしニンゲンの死体を見つけた場合は、決して近づかないようにしてください。政府はこれを、ニンゲンたちの宣戦布告だと解釈し、『最大限の厳しい言葉で非難する。場合によっては、武力行使をも厭わない』と声明を出しております」
一息ついて、彼女は原稿から顔を上げた。
「この事件に伴い、このあとに放送を予定していたプロ野球リーグ戦の試合中継を取りやめ、ニンゲン専門家でもある池下総理大臣による緊急記者会見を放送致します。ご理解のほど──」
不意にカメラの裏側が慌ただしくなり、スタッフが一人、アナウンサーに紙切れを渡した。
「さらにニュースが入ってきました」
彼女の顔が青ざめる。
「えー、ただいま内閣総理大臣秘書室宛に、『ホモタロウ』と名乗る人物からの声明が届いたとのことです。先ほどの爆破事件の主犯格だと見られており、総理がいる国会議事堂前は、厳戒態勢が敷かれています。それでは、声明文を読み上げます」
空咳が一つ、スタジオに響いた。
「我々は、和睦を望んではいない。我々が望むのは、お前たちのいない地球だけだ。いくら白旗を振ろうとも、無駄だと思え。それはただの布だと思え。我々は屈しない。我々は殺すのを止めない。やられたことを、やり返すのみだ」
そして声明は、こう締められた。
「かよわきニンゲンより」