伊崎亮(籠根而已)
七月、呼吸がうまくできなかった。
通学路の銀杏並木で少年は、教室での自分を思い出していた。
求められる表情を適切なタイミングで張り付けて、求められる言葉を間違えずに差し出す。まるで自分なんかないかのように仮面と演技ばかりを見せている。しばしば手元が狂って頓珍漢なことを言い、表情を間違える。そんな時に、何か言われる前に必ず「ごめん」と言う。そんな自分。
この道が終わって、電車に乗る自分も想像する。
スマホの画面が、読んでいる本の中身が誰に見られても変に思われないものであるかを絶えず意識する。家では楽しめるものがここでは素直に楽しめない。何より、笑ってはいけない。動いてはいけない。人の顔を見てはいけない。人をなるべく見ないようにしなければいけない。なぜなら、人に見られているのだから。
人を不快にさせてはいけない。自分を守るために、自分はしまっておかなければならない。
周りに人がいない今も、表情と動きの管理は続ける。なんとなく、そうしなければならないような気がするから。
顔に着けた仮面の空気穴は、持って生まれた鼻よりはるかに高い位置にある。
三十六度の空気は体温を埋もれさせ、自分と世界の境界を分からなくしている。
湯船で静かに溺れているような感じだ。
気が付くと、駅に続く階段を上っている。終わりが見えないと思いながら、次の一歩を踏み出す。
夏休みが始まってから二週間が経つ。少年は帰省先に向かう車の中で起床し、昼間の日光を取り込みながら外を眺めていた。
夏休みの前半は丸ごと宿題に費やした。そして、終わらせた。半分くらいは。ボーっとして過ごしたことに反省はある。でも手につかなかったのだから仕方がない。問題集の文字の上を目が滑っていつまでもその文字列が情報にならなかったのだ。
せっかく親族が集合するというのに、宿題なんてつまらないものに意識を占められていてはもったいない。
面倒ごとを頭から追いやって窓の外に目をやると、懐かしい住宅街と、その奥に連なる山々が視界に飛び込んできた。どうやらもうすぐ着くらしい。
帰省先のこの場所は、田園に山のそばまで追いやられたような住宅街と遠慮なく田畑を踏みつぶしながら進行する大型商業施設とがしのぎを削りあっている、どこにでもあるのどかな片田舎だ。
そして、どこにでもある田舎の常に違わず、この土地も非科学的な伝承を持っている。幼いころ祖母に聞いた話。この街ではまれに、時間が錯綜するという。突然違う時代に飛ばされたと言って、短期間にありえないほど老けて帰ってきた男がいたらしい。もちろん、そんな話を信じてはいない。よく神隠しがどうという言い伝えがあると聞くが、その類の作り話だろう。
この街は四方を山に囲まれている。その中でもひときわ標高が高く、絶景が見られると評判なのが、正面に見えるあの山だ。ここに来るとあの山を登るのが僕の習慣になっている。
車に積んだ荷物を運ぶ手伝いを終えて、そうめんを食べた後、家族に断って家を後にした。
家から十分も歩けば山道に入る。そしてそこから一時間ほどで山頂に到達する。山頂といっても、この山の最高点は建物で、展望台めがけてロープウェイに運ばれてくる観光客ばかりがいるような場所だから、山らしくはない。そこに行ったって、登った気がしない。
だから、僕のような自然に囲まれるために来た人は山頂まで登らない。
観光客にはあまり知られていないが、この山には、様々な所に椅子やベンチが配置されている。
それらは決まってコンクリートの山道から少し逸れたところにあり、座ると絵になりそうな小絶景を眺めることができるようになっている。
おそらく、歩いて登る人が目と足を休められるようにという配慮があって設置されたのだろう。そんな親切な休憩所の中に、僕の好きな場所がある。
山道の入り口から十五分ほど登ると、上り道が落ち着いてしばらく平坦な場所に出る。一見するに相変わらずのコンクリート道だけれど、この道のわきに立った白いガードレールの先には少し広いスペースがある。そのスペースにはもう使われていない錆びたバス停の標識が立っているので、その標識を目印にガードレールを越えて、丸石でできた階段を降りると、なだらかな渓流とそれを迎えるかのように斜めに置かれた推定三人掛けのベンチがある。
そのベンチの端に座ると、それまではせいぜい視線から上を占めるだけだった深緑が川面に反射して視界いっぱいに広がる。その光景は僕に時間を忘れさせる。絶景だ。森林浴とはよく言ったものだと思う。
久しぶりにあの翠緑に浸るべく、勢いよくガードレールを飛び越えてバス停の横を駆け抜けると、一瞬視界がぼやけて、目当てのベンチに先客が座っているのが見えた。
今日はあの景色を独占できそうにないことに、少年は少しがっかりした。
しかし、我を忘れてベンチに座るその男の後ろ姿に、不思議な好奇心も覚えた。一瞬止まった足取りを、もとより早めて彼のもとに向かった。
こちらが話しかける前に、彼が振り向いた。どこか落ち着く雰囲気をまとった青年だった。その青年は驚いたような顔をしてから、何かに納得したように頷いた。
「君も、ここに?」
優しい声だった。
「あっ、はい。好きなんです。この場所」
少し早口になってしまう。緊張しているわけではないけれど、年上の人と話すのはなぜか昔から苦手だ。
「そうなんだ」
青年はその答えをわかっていたかのように答えた。
「座る?」
そう言って自分が座るベンチの横に手を置いた。僕は返事もせずに、青年の隣に腰を下ろした。少しスペースを空けて。
これまでは先客がいたら迷わず踵を返していたから、この景色を他の人と見るのは初めてだ。そんなことをしたら、集中できなくなると思っていた。まして会話なんて、この時間を汚すだけだと思っていた。
ところが、違った。青年の隣は不思議と集中できたし、青年との会話はこの時間を彩った。青年は博識だった。視界に揺れる草花の名前も、川を下る魚の生態もよく知っていた。
そして、青年の口からゆっくり出てくる言葉にはえもいえない魅力があった。青年が一言発するごとに、目の前のスクリーンに世界が構築されてゆく。それは魔法のようで、端的に言えばこの上なく美しかった。
気付いた時には憧れていた。心酔していたと言ってもいいかもしれない。とにかく、この人のようになりたいと思った。だからこそ、話を聞いてほしいと思った。
「仮面があるんです」
明らかに説明不足のまま黙ってしまった僕が続く言葉を見つけるまで、青年は待ってくれた。
「着けることも外すこともままならない。でも、それではいけないと分かっているんです」
「どうしたら、生きやすくなるでしょうか」
それしか言えなかった。にもかかわらず青年は、ほとんど迷う様子もなく口を開いた。
「君は、空想をするのが好きだろ。時間を忘れて、自分と世界の境界線すら分からなくなるほどに深く、のめりこむようにとりとめのない思索に耽ることが」
自分でも気が付いていない部分を見透かされたような気分だった。確かに、あの銀杏並木を歩く三十分は周囲の目線が最も少なく、少年が最も自由に何かを考えることができる時間だった。そして少年は、その時間をどこか神聖視し、誰にも邪魔されたくないと思っていた。だから、空想が好き、というのは自分の本質を突いた言葉であるように思えた。
「はい」
意図せず期待の混じった返事になった。青年の次の言葉が楽しみで仕方がなかった。
「なら、それでいいよ」
それだけ? ひとつ頷いて再び顔を正面に戻した青年を見ながら、少年は出し抜かれたような気分になっていた。青年は僕のことなど忘れたかのように景色に見入っている。どうやら本当にそれだけのようだ。少年は諦めて目の前の景色に視線を戻して、青年の言葉の真意を考えることにした。
静まり返ると、それまでおとなしくしていた深緑が引力を取り戻す。少年はそれになすすべなく身を任せた。
空想をするのが好き。それは正しいのだろう。でもそれでいいなんて、文字通りに受け取るならただの現状の肯定でしかない。なにより、仮面のこととは全く関係がないように思える。思考が循環しているのをどこか他人事のように眺めながら、時間を浪費した。
「もう時間だ。楽しかった。ありがとう」
青年の声で我に返った。いつの間にか暑さはなくなって、夕焼け小焼けの後半部分が遠くに聞こえる。引き留めようかとも思ったけれど、青年の用事を邪魔する理由もなければ、足が痺れて立つこともできない。
「あっ……りがとうございました」
丸石の階段の一段目に足をかけている青年の背中にそう言うのが精いっぱいだった。
それから、足の痺れが取れるのを少し待ったが、兆しすらない。足先だけが痺れているのではなく、足全体が重い痺れを背負っているらしい。仕方がない。こういう時は荒療治だ。心の中でえいっと掛け声をかけて、立ち上がった。立っている感覚がないのを無視して、片足ずつ、交互に前に出す。階段が終わろうとするあたりでようやく足の感覚が返ってきた。そこからは速かった。バスの標識を通り過ぎ、ガードレールも問題なく飛び越えた。
家を目指して、来た道を下る。青年といる間に、どのくらいの時間が経ったのだろう。上方が樹冠に覆われていて、太陽の角度が分からない。葉の色が光を受けて明るいからまだ沈んではいないようだ。
それでも、帰りの山道は少し暗い。日の長い夏のイメージからかけ離れているからか、薄気味悪くすらある。
青年の答えがいまいち消化しきれない。あれはいったいどういう意味だったのだろう。考えながら、斜め上を向いた首をぐんと下ろして、ついさっき宙に投げた右足に命運を懸けて逆の足を浮かす。
目線の先には小さな水たまり。この山では、なぜか枷を感じない。
パシャッという小気味いい音を期待するも、裏切られた。
どころか、意表を突かれた。別の音が鳴ったからではない。音が鳴らなかったからだ。音だけではない。ほんの一瞬、何もかもが止まった。
「なんだ、これ」
放射状に散った水飛沫が重力を思い出して思い思いに飛び散るのを見届けてから顔を上げるも、特段変化は見つからない。カラスの声がする。水たまりが弾ける音はついに聞こえなかった。長い魚みたいな水飛沫は確かに止まって見えた。層流なんて言う現象を聞いたことがあるけれど、あれとも違う。いったい何だったのだろう。
「は~あ……」
疲れているのかもと思ったとたん、せき止めていたかのように大きな、声の混じったため息が出た。確かに今日はかなり頭を使った。退屈だったこの二週間の累計脳疲労なんてものを示す数字があったとしても、今日一日分に勝てないだろうと思うほどに。
早く帰って夕飯にありつきたい。記憶が正しければ、今日はすき焼きだ。力の抜けた背筋をうーんと伸ばすと、不意にさっきまでなかった違和感に襲われた。
何だ。何かが気持ち悪い。何が?
「わっ」
至近距離でこちらを見つめる見慣れないそれに、頭より早く、体が反応した。何かを促すかのような、とってつけたような白々しい笑顔。一歩引いてみれば、なんてことはない、ただの電柱に貼られた広告の貼り紙だった。幽霊の正体見たり枯れ尾花というやつだ。
しかし、ホッとすることはできなかった。少年の脳はその顔の正体に気付くと同時に、もうひとつの事実にも気付いていたからだ。そして、少年はそちらには気付いていないふりをしようとした。
……あの貼り紙はさっきまでなかった。
いつ貼られた? ため息をついて夕飯のことを考えたあの数秒に? それはあり得ない。そうだとしたら、貼ったやつがまだ視界にいるはずだろう。でもそんなやつ、前にも後ろにも……。
後ろに、人がいる。
青い靴にベージュのズボン。白と黒の縞々の服を身に着けた、自分より五つは幼い、どこか懐かしい雰囲気をまとう男の子。
目を合わせたとき、その子が犯人ではないことは直感的に分かった。その子は、小学生の頃の自分そっくりだったのだ。いや、そっくりどころか、当時の自分そのものだった。
「あ、君は……」
言いかけてやめた。なんとなく、言わない方がいい気がした。
彼は心配そうな顔でこちらを見ていた。年上がただの貼り紙にあれだけ驚くところを見たんだ。ちょっとおかしなやつだと思われてたって不思議じゃない。弁解の言葉を考えようとしたとき、ひとつの疑問にぶつかった。
この子はなぜここに?
思えば、少し不可解だ。夕方の山道に子供が一人。遊びに来たのなら、友達や家族が近くにいる方が自然だ。よく考えれば納得のいく答えを見つけられるような気もしたが、何か仮説が立ったところでそれが正しいという保証はどこにもない。それに、こんな状況なのに警戒心を持つどころか安心している自分がいた。
安心。それもそうだ。なぜか少年は、この男の子が自分自身なのではないかなどという突拍子もない考えを信じようとしていた。だからこそ、聞いてみたいことがあった。
「君は、好きだと思えることがある?」
彼の顔に浮かぶ心配の色が不安に変わったように見えた。しまった。唐突すぎたか。これでは逃げられたって仕方がない。そんなことを思っていると、意外にも彼の方から返事がきた。
「はい」
不思議そうな、でも少し、好奇心を含んだ声。彼の一言が、少年に懐かしい記憶を思い出させた。
そう。あの頃の自分は、色んなことに夢中になっていた。それらを夢中でやる自分に、仮面なんて存在しなかった。
その後も少年は、夢を見るかのように男の子の話を聞き続けた。何をするのが好きか。どんなことがつらいか。普段はなかなかうまくできない相槌も、意識していないのに手ごたえがよかった。男の子のほうも楽しいことを語りたくて仕方がない様子で、どれだけ会話が続いたとしても話し尽くせないと言わんばかりの勢いで話していたので、たまに口から出した言葉がもつれてその度に少し前から言い直した。
そんな調子で、のめりこむように会話をしていたある時、「おかえり~」という家族の声で少年は現実に引き戻された。
振り向くと、男の子はすでにいなくなっていた。少年は楽しみにしていたすき焼きをやっている間も、どこか上の空だった。会話はするけれど、自分の分身が返答しているようだった。
その夜、家族が寝静まった寝室で、少年は一人寝られずに今日あったことを考えていた。
過去の自分に似た、あの男の子との出会い。
彼との会話は心地よいものだった。自分は確かにあんなことができた。そうなるために、数々の苦難を耐え抜いた。誇らしい自分の影。
少年はもう理解していた。
あの男の子は自分ではない。正確には、自分そのものではない。
では何だったのか。
「記憶だ」
自分と呼ぶにはあまりにも心地のいい虚像。あの男の子は、自分の記憶が創り出したできすぎた自分の像であり、同時に、再現としてはできの悪い自分だった。
人の記憶というものは精巧なシステムではない。たいていの場合、何かを思い出そうとしても完全な形で思い出すことはできない。それが曖昧なものならなおさらだ。そのくせ、記憶の方からは唐突に呼んでもないものを投げつけられることがある。
そんな不便で迷惑な記憶に過去の自分について訊ねた結果、帰ってきた答えがあの男の子。確かに事実でできている。でも、あれが自分だと思うのはとんでもない誤解だ。
そう、とんでもない誤解。仮面の下は、何かに夢中になっている自分の顔はそんなに見苦しいものじゃないというのは、とんでもない誤解だ。
しかし、そのとんでもない誤解の先にしか、青年はいない。
考えるのが好きなだけではだめなのだ。考え続けなければ。
少年はそんなことを考えると、何かのつかえがとれたようにマットレスに倒れこみ、そのまま眠りに落ちた。
少年は夢を見た。
夢の中で少年は、凍った湖の上を歩いていた。
ゆっくり、されど着実に。理由もなく足は前に動き続ける。
どこへ向かっているのかはわからないけれど、辿り着きたい場所がある。
一寸先はすでに闇の中。一歩先に体重を支えうる足場があるか、不安になって、振り返る。
後方はるか遠くは、前方と同じく真っ暗闇。何も見えない。
後ろを向いたまま下を見ると、分厚そうな氷面が自分を映している。
澄んだ顔をしている氷面鏡は、下に隠した水の上に浮いているにすぎない。
ふと、足元を見る。
この下にも深さの知れない水がある。
でも、それを見ることは叶わない。
自分を支えるものが何なのか、ほとんど分からないまま、映って見えた自分を自分と信じて、なお前に、前に進む。
そうしなければ進めない。そうする他ないから、さらに一歩踏み出す。一歩。また一歩。
瞼がすんなり開いた。
午前七時くらいの空気感。カーテンが透けている。なんだか不思議と頭が冴える朝だ。
あれから三週間ほど経って、今日は帰省の最後の日。明後日からはまた、学校が始まる。
青年と出会い、過去の自分をみたあの日は、今でも心に曖昧で複雑な印象を残している。
窓の外にはひつじ雲。空が高くなってきたらしい。あんなに息苦しかった夏ももう終わるのかと思うと、少し不思議な感じがした。
あれから何度かあの場所に足を運んだけれど、青年も男の子も、その気配すらなかった。きっともう二度と会えない。そんな確信だけが、根拠もなく心に住み着いている。
それでも、今日はあのベンチへ出かけることに決めていた。誰にも会えなくても、何かを見つけられる気がしていた。なにより、このまま終わらせてしまうのは少しもったいないような気がした。
同じ寝室にいる家族はまだ誰も起きていない。起こしてしまわないように、そっとベッドを抜け出し、足音を殺して軋む階段を下りる。
玄関のドアを開けて、数歩。鶏みたいな閑古鳥の鳴く商店街に出ると、ほどよく暖かい空気が少年を包み込んだ。その次の瞬間、軽い風が熱の薄衣を飛ばしてしまった。こういう日はまるで、しょっぱいものと甘いものを交互に食べているかのようだ。暖かさが涼しさを、涼しさが暖かさを、互いに引き立て合う日和だ。ずいぶん過ごしやすくなった。あの時とは大違いだ。
あれから、言い伝えのことを考えてみた。この街ではまれに時間が錯綜する。
もしかすると自分は、それに遭遇していたのではないだろうか。あの男の子は幻想の産物だと割りきったけれど、もしあれが本当に過去の自分で、自分はあの時過去に飛んでいたのだとしたら……。もしそうなら、突然現れた貼り紙にも説明がつく。あれは過去にそこにあったものだったのだ。
それでも少年は、この考えを捨てた。少年にとって、自分の背中を押したあの男の子との出会いは、得体の知れない不思議な力にもたらされたものであるより、自発的な空想の中での出来事である方がよかった。
そんなことを考えているうちに、目的地が見えてきた。
ずいぶんあっけなく到着した。はやる気持ちにかかわらず、体は汗をかいていない。
とっくに錆び果てた看板を軍旗と掲げる健気なバス停は、心なしかあの時より頼りがいのありそうな様子で、変わらずそこに陣を構えている。そんな様子を横目に丸石の階段を下ると、またもあの時と変わらない三人掛けのベンチが見えた。
何ともなく、そのベンチに腰を下ろした。
近くに青年らしき人影はない。
それは予感していたことだから、特段落ち込む気持ちもなかった。
足先の芯を冷やす、早朝の川の呼吸。自分の体温が浮き彫りになっている。
何かを見つけられる気がしてここに来た。
熱い息も出なくなり、鼻の奥がツーンとしてきた。
視界の草木が変わっていることに気が付く。座ってからずっと焦点が合っていなかったらしい。
川を挟んで正面に茂る草むらに何やら火花が散っている。
少年は、青年との会話の一場面を思い出していた。
少年が青年の博識ぶりに夢中になっていた時、青年がベンチから見える川辺の草むらを指さして、「あれは大文字草と言うんだ」と言った。
あのときはどれがそうなのか分からなかったけれど、今なら分かる。
「大文字」の名を冠するにふさわしいその花は、幻想のように鮮やかな真っ赤を誇って咲いていた。
空を見上げ、両手をめいっぱい広げて、思いっきり息を吸う。
空気の軽さが身に染みる。