やあ弟子くん。意外に燕尾服も似合うじゃないか。とても今日が初舞台には見えないよ。
何? こう見えてかなり緊張してる? 大丈夫だよ、ちょっと私のアシスタントをするだけじゃないか。息が苦しいって、それ、ネクタイがきつすぎるんじゃないかね。ああほら、シャツの襟もとに皺ができちゃってる。もう少し緩めて。そこに鏡あるから。
やれやれ。それなら、あがり症な弟子くんのために、師匠のとびきりダメダメだった時代の話をしてあげようか。そのうちにネクタイも緊張も緩むだろう。え、やかましいって、仮にも師匠に向かってひどい言いぐさだなあ。
まあ聞きなよ。ショーが始まるまでのちょっとした暇つぶしだと思ってさ。
これは、私がまだ駆け出しだった頃の話だ。そうだな、もう三十年は前になるかな。
弟子くんもちょっと聞いたことくらいはあるだろう? 私がまだ駆け出しマジシャンだったときのひどい有様はさ。
端的に言うと、ものすごくド下手だった。「ド下手」という言葉で既に稚拙さが強調されているにも関わらず、「ものすごく」という強調の副詞を使いたくなるほどひどかった。これならまだ素人が見様見真似でやった方が上手いだろうと師匠に罵倒されたことさえある。
服から鳩を出そうとしてもたつき、まったく見当はずれのところから鳩がのこのこ出てきたり、タネを意識しすぎるあまりカードの切り方が不自然になったり、その結果仕込んだダネまで壊滅したり。
ちびっこ向けの手品ショーで、仕掛けが子どもたちに見抜かれてしまって逆に大ウケしたこともある。そのときはショックでしばらく夜も眠れなかった。これならまだ、ドン引きされてぬるい空気が流れる方が数百倍ましだと思ったね。師匠からは、哀れみの眼差しと共に「お前、芸人の方が向いてるんじゃないか」なんてアドバイスを頂戴したが。
もちろん練習を欠かしたことはなかった。朝早くから夜遅くまで、暇さえあれば訓練した。しかし、もともと不器用なたちなのか、これがなかなか上達しなかった。
私は途方に暮れて様々な人に助言を乞うた。出来の悪すぎる弟子を哀れんだ師匠が、その人脈の一部を紹介してくれたのさ。しかしその多くは、最初は私の実演を見ていろいろな助言をしてくれるものの、今打ち込んでいる練習時間の長さと私の修行歴を聞いた後に押し黙ってしまった。中には、きっと違う才能があるはずだからと謎の激励を送ってくれる者もいた。フォローになんてなるわけもない。
ちょうど二十人目の助言者に「君はたぶん……もっと違う職の方が向いてるんじゃないかな。芸人とか」と言われたのは、私が二十八歳になった年の暮だった。
もうそろそろ年貢の納め時なのか。私はちらつく雪とクリスマスツリーをセンチメンタルな気分で眺めながら、ぬるい缶コーヒーをあおった。
二十八歳手品師見習い、スーパーのレジ打ち週四勤務、彼女なし独身男性である。キリマンジャロだか何だかの苦みが、喉に染み渡った。ところで弟子くん、君何歳だっけ。二十四? 若いねえ。今になってみたら二十八だって十分に若いんだが、当時の私はもうおっさんの入り口に立っているように思えたものだ。
学生時代の友達はほとんどがそろそろ社会になじんできたころで、早いやつはもう結婚して家庭を持っていた。一番虚しかったのは、学生時代に手ひどく私を振った元カノが、二児の母になったことを偶然知ってしまったときだったな。もちろん、皆が皆同じような「幸せ」への道をたどっているわけじゃないと理解はしていた。感情が追いつくかどうかは別の話だ。
街は、来たるクリスマスと年末に向けて、お祭り騒ぎの前の静かな高揚感に満ちていた。私は一人で街の広場のベンチに座って、ぼうっとその様子を眺めていた。私はこのそわそわした空気が昔から好きだった。
それは、手品を披露する前の緊張感にも似ていた。プレゼントのラッピングをほどく瞬間、クリスマスツリーの電飾が一斉に灯る瞬間、その年初めての雪が肩にひらひら落ちてきたことに気付く瞬間、その一秒一秒に確かに宿る光がいとおしかった。その光を生み出せる人間になりたかった。
でも、それももう擦り切れてしまった夢の成れの果てなのかもしれなかった。意固地になってずっと続けてはいたけれど、もう私には、自分が本当にマジシャンになりたかったのかどうかも分からなくなっていた。昔から私は綺麗なものが好きだった、それだけだったのだから。
ベンチにじっと座ったままの怪しい男に近寄ってくる人間は、一人もいなかった。街の人々はみんな忙しい。瞬く間に移り変わっていく人波を見ていると、めまいがしそうだった。
──だめだ、だめだ。暗くなっていてもしょうがない。
弟子くん、私との付き合いが数年来になる君ならわかるだろうが、私は生来楽観的な人間だ。気を取り直して、私は手品の基礎練習をすることにした。もともとその広場は、手品師も含めたいろんな大道芸人が、芸を披露しがてら練習をする場所でもあった。私の仲間もいくらかそこで小金を稼いでいたものだ。私? 聞くまでもないだろう、気を遣ってくれるな。
そこで始めたのは、簡単なコインマジックの練習だった。弟子くんも最初やったろう。体のあちこちからコインが消えたり出てきたり増えたりするやつさ。
それは当時の私が、唯一習得していた技だった。
くるくる、指先でコインを回す、次の瞬間には消えている。おもむろに左手を開くと、消えたはずのコインが乗っている。握って、開く。二つに増えているコイン。
もう一度握る。ふっと息を吹きかける。手のひらを開くと、また姿を消している。ぱちん、と指を一鳴らし。すると、消えていたはずの硬貨がどこからともなく降ってきて手のひらに収まる。
なぜか、これだけは得意だった。これをコイン以外でした途端に失敗するのだが。どうしてもしのぎを削りたいときは、この手品だけで乗り切っていた時期もある。
もはや手遊びに近かった。観客もいない。私は延々とコインを消し、再び取り出し、時折増やしたり減らしたりしながら時間を無為に過ごした。
いつしか、日はとっぷり暮れていた。イルミネーションがぽつぽつと灯りだす。帰宅ラッシュが落ち着いたのか、人波もいくらかまばらになっていた。
今日も何事もなく一日を終えてしまったことに、私は徒労感を覚えた。もう帰ろう。家に帰って、夕飯にモヤシ炒めを食べて、寝てしまおう。明日もバイトで、朝は早いのだ。
そう思って立ち上がろうとしたそのとき、私は一人の女の子がじっとこちらを見つめていることに気がついた。
小学校低学年くらいだろうか。長い髪をおさげにして、仕立てのよさそうなコートを着込んでいた。いつからそこにいたのか、丸い頬が寒さでりんごみたいに赤かった。近くに親や友達らしき人物の姿はなく、ただずっと一人で私を見つめているようだった。
私がそちらに気がついたことを察したのか、女の子はとことことこちらに寄ってきた。
「ねえお兄さん。ママがいないの」
ぎりぎり「お兄さん」と称されたことを少し嬉しく思いながら、私は女の子に目線を合わせて問いかけた。
「お嬢さん、迷子かい」
「ううん。迷子なのはママのほう」
しかつめらしい顔をして、彼女は言った。
これは困ったなあ、近くの交番どこだっけ。
そんなことを思いながらも、辺りをぐるっと見渡してみたが、親御さんらしき人はどこにも見当たらない。互いに無関心そうな人たちが、ぱらぱらと通り過ぎていくだけだ。
どうしたものかと悩む私をよそに、女の子は私のコートの裾を引っ張って言う。
「それよりお兄さん、さっきのやつもう一回やって」
「えぇ。お母さんを探しにおまわりさんのところに行こうよ」
「もう一回」
「うーん」
ずいぶんくっきりした、意志の強そうな目元だった。うん。あんなの見たら断れないよ。大体、普段なかなか満足に手品を見せられる立場でもなかったからね。期待してますってきらきらした目で見られたら、そりゃあまんざらでもない。
「一回だけだよ」
私が頑張って仕方なさそうな感じを装って言うと、女の子はにこっと笑って頷いた。
「いいかい。よーく見ててね」
言われるまでもなく、彼女は穴が開くんじゃないかというほど私の手元に目を凝らしていたが、まあ前口上も手品の内だ。
何もないことを示すように、芝居がかった仕草で、ひらりと両手をかざして見せた。
ぱん、と打ち合わせる。開いた手のひらには、一枚の硬貨が姿を現している。閉じて、もみこむようにしてからもう一度開くと、そこにもうコインはない。
右手でピースサインを出して見せる。二本指を閉じて。開いて。指と指の間に現れるコイン。街灯の明かりにきらりと銀色が反射して光る。
女の子が、わあ、とため息にも似た声を漏らした。ちょっと得意になりながら、私はそのコインを自分のポケットにしまった。途端に、彼女は不満げに唇を尖らせる。
「もう終わっちゃうの?」
「すっかり夜だからね。ところでお嬢さん、コートのポケットに何か入ってるんじゃないか」
「え?」
女の子がコートのポケットをそっと探る。やがて取り出されたのは、私がさっきまで使っていたのとそっくりな、小さな銀色の円盤。
「うそ!」
ぱっと少女が顔を輝かせるのを見て、私は心底満ち足りた気持ちになった。もうなんでもいい。どんなに稚拙な手品でも、これで誰かを笑顔にすることができる。それで十分だった。
「それ、チョコレートだよ。お兄さんからプレゼント」
「すごい! すごいね! お兄さんも魔法使いなんだね!」
ぴょんぴょん跳ねながら、女の子は言った。
魔法使いだなんておこがましいけれど、無邪気な誉め言葉が純粋に嬉しかった。すべて報われた気がした。正直、そのときちょっと涙ぐみそうになったくらいだ。こんな手品しかできないし、渡せるのはたかだかコインチョコだけれど、喜んでくれる人がいるなら私はまた明日からも頑張れる。あるいは、頑張ってもいいのだと思えた。
「お兄さん、あのねあのね」
「ん、何かな」
しばらくきらきらした目でチョコレートを眺めていた女の子が、子猫のようにするっと身を寄せてきた。それから、こそばゆいような小さな声で、内緒話をするようにそっと私に耳打ちする。
「めありもね、魔法が使えるのよ」
言っちゃった! なんていたずらっぽく笑いながら、女の子はぱっと私から身を離す。めありとはまたハイカラな名前だな、とぼんやり思いながら、私は「魔法が使えるの?」と大げさに驚いてみせた。ないしょだよ、ないしょだよ、と繰り返しながら、おさげを跳ねさせて彼女は曇りのない瞳で私を見上げる。
「あのね、見ててね、見ててね。お兄さん以外には、ないしょだからね」
かわいらしいものだ。一体どんな魔法を見せてくれるんだろう。
私は幼い少女を微笑ましく思いながら、「どんな魔法かな」と優しくおどける。魔女っこなんとかだろうか、それとも異国のおとぎ話の魔法使いだろうか。
ちょっとわくわくする私の視線の先で、女の子は胸の前で祈るように手を組む。さっきと打って変わって真剣な面持ちの彼女は、そこに向かって「えいっ」と気の抜けるような声をかけた。
途端。
その小さな手のひらから、ぶわっと大輪の赤い薔薇が花開いた。
うん。何を言っているか分からないと思うが、まあ聞け弟子くん。
女の子の手から、薔薇の花が現れた。それもただの花じゃない。蕾がぽん、と現れたと思ったら、その手元で蕾がほころんで、まるでビデオの早回しを見ているみたいに花びらが開いていったんだ。
私がぽかんとしているうちに、薔薇はあとからあとから何本も現れた。花はその小さな白い手いっぱいに咲き乱れて、見る間に花びらだけになって散っていく。茎も葉も、さらさら散って後にはもう何も残らなかった。瑞々しい花の匂いが、彼女の手元から薫り高く私の鼻先をくすぐった。
いつの間にか、街にちらついていた雪はひどくなっていたようだった。しんしんと降ってくる雪は、半ば吹雪といってもいいくらいの勢いで、もはや辺りには人っ子一人いなかった。私と少女を取り囲むようにして、柔らかにつむじ風が渦巻いた。ちらついた雪と散っていった薔薇の花びらがまだらになって入り混じった。赤と白が私の周囲をぐるぐる回って踊っているようだった。儀式的な、何か途中で止められないような踊り。
なにこれ、なにこれ、と戸惑う私の前で、ぱんっ、と風船が割れる音に似た、何かがはじけるような音がした。瞬間、目がくらむような白さに視界が覆われた。
反射的に目を閉じて、それから私はおそるおそる目を開いた。吹雪はいつしかやんでいた。目の前には、何事もなかったかのような少女の笑顔があった。
「チョコのお礼!」
ぴしっと私を指さして、女の子は言った。
いや、正確に言うと指さしたのは私じゃなかった。彼女は、私の首元にいつのまにかついていた、赤と白の斜めストライプがお洒落な蝶ネクタイを指さしていたのだ。
「えっ、今の、えっ」
「あっ、ママだー!」
年甲斐もなくうろたえる私をよそに、女の子ははじかれたように駆け出して行った。その先には、少女の母親と思しき女性の姿があった。背が高く、女の子と揃いのコートを身にまとっていた。
「ちょっと、あなたどこに行ってたの。ずいぶん探したのよ」
「ねーねーママ、あのお兄さんも魔法が使えるんだよ」
「馬鹿なこと言ってないでさっさと帰るわよ。今夜は冷え込むんだから」
親子を引き留めることもできず、私はただ立ち尽くした。やり取りをする声はあっという間に遠ざかっていった。ポケットの中に駄菓子屋で買ったコインチョコはなく、首元には真新しい蝶ネクタイが残されていた。広場には、元の雑踏のざわめきが戻っていた。
吹きすさぶ冷たい風の中に、ふわりと薔薇が香った気がした。
話はこれでおしまいだ。
いまだにあれがなんだったのか、私には分からない。ものすごく高度な手品師だったのか、はたまた女の子は本当に魔法使いだったのか。
え? このネクタイ? そうそう、その時の。お洒落だろう、この斜めストライプ。
師匠の作り話じゃないのかって? さてねぇ。弟子くんも仕掛ける側として、真実を見抜く目くらい養わなくちゃね。
さあさあ、ショーがもう始まるようだ。
今日も最高の舞台にしよう。なんせ、私は魔法使いだからね。