あの日のことは今でも覚えている。大学付近の交通量が少ない通りに面する六畳のワンルームに、ボクはいた。フローリングは熱帯夜に特有の、足の裏に張り付くような熱っぽさを持っていて、真っ暗な部屋の中にノートパソコンの青白いデスクトップだけを浮かべていた。
ボクは画面の向こうにいる彼女に話しかける。
「どう? ちゃんと聞こえている?」
一人きりの部屋に小さく声が響く。ほんの少しだけ間を置いて、彼女が応えた。
「ちゃんと聞こえているわよ。でも、壁に立てかけた方が楽かしら?」
少しの間、ガタガタと荒っぽく動く画面が続き、胸元が深く開いたピンクフリルのネグリジェが大写しになった。別に目を背ける必要がある間柄でもないのだけど、なにか居心地が悪いむずむずする感じがした。
ボクは少しだけ注いだワンコインの赤ワインに口を付けた。木目調のテーブルにグラスを戻すときの、コツンという音が妙に大きく感じる。
いくつか話題を振ってみたけどことごとく失敗して、長くまとまった会話にはならなかった。普段は同じ部屋で時間を過ごすボクと彼女は、こういったオンラインの、手が触れ合わない会話が苦手なようで、ちょっとした隙間に沈黙ができてしまう。飲みきりサイズのボトルを選んだことを少しだけ後悔した。
「広島まではすぐだった? 遅延はしてなかったようだけど」
「そうね。三時間もかからなかったわ。宿もビジネスホテルが駅前で見つかったし、六時前には部屋で落ち着いていたわ。そっちは大丈夫なの? 被害はない?」
「うん。今朝のが最後だったみたいだね。大きかったのは昨日の一回だけで、きっと、もう収まったんじゃないかな」
手遊びするようにグラスを回した。ふうわりとした甘い匂いが、窓の外から差し込む雨の香りに混ざる。軍手とキャンドルと一緒に百円ショップで買ってきた細長いグラスは、軽くて薄っぺらくって、とても格好の付くものではないけれど、ボクにとってはそれでも十分に感じていた。
「そう。でも気を付けてよ。……ごめんね。なんだか私一人逃げたみたいよね」
彼女がやや控えめに語る。長い髪が画面端にチラチラと映り込んでいる。ボクはゆっくりと首を横に振ったけれど、正直なところ否定も肯定もなくって、それはクセのようなものだ。
「気にしないで。ボクは過去二十年で少なからず二、三回は地震にあっているけど、今までも何ともなかったしさ。これ以上の揺れは来ないだろうと思ったから、急に遠くまでは避難する気にならなかっただけだよ」
「私はどうしても不安になっちゃって。昨日の夜も眠れなくって。きっと何もないとは私も思うけど、万が一のことを考えると、ね」
ボクはゆっくりと首を縦に振って、彼女の言葉を飲み込んだ。ノートパソコンの右端に目をやると時刻は十時を回ろうかとしている。その隣のバッテリーのアイコンは、三分の一くらいまで削れていた。
「そろそろケーキを食べて寝ようかな」
「ほんとに一人でも誕生日のお祝いするのね」
「やっぱり変かな?」
仕送りの、レトルトカレーなんかが入っていた段ボールには保冷剤を敷き詰めていて、その中からコンビニで買ってきた半額のケーキを取り出す。
「変じゃないと思うし、たまにはケーキも良いんじゃない? でも、一人だと心細くないかしら」
「別に、賑やかにお祝いをしたいわけでもないんだ。でも、二十一歳になるって感覚がよく分からなくてさ。何か節目みたいなことでもすればいいのかなって思って」
カーテンが打ち付けられる音で雨が強くなったことに気がついて、窓を閉めた。立ち上がる瞬間の、「ケーキは好きだし」っていう言い訳するみたいな付け足しは、もしかしたら聞こえなかったかもしれない。
「二十一になったって、何も変わらないわよ。今までもそうだったんじゃないの?」
「うーん。今までは、それこそ十九から二十になるときは、歳を重ねるって感じだったんだけどね。なんか二十一になるっていうのは、むしろ二十歳が『終わる』って感じがしてさ。何も変わらないだろうとはボクも思うんだけど、どうしてもジッとしてる気にならなかったんだ。そういうの分からない?」
ショートケーキに小さいロウソクを刺して、ライターで火を灯した。机の上がゆらめく暖色の光に包まれたけど、画面越しにはあまり伝わってないようだった。そういや、このロウソクは去年ケーキ屋で買ったものの残りだっけ?
彼女は少し返答に悩んでいたみたいだったけど、大きなあくびと一緒にやっぱりよく分からないなー、と咳いた。
「もう、二時間も話していたのね。ごめんね。今日は疲れたからもう寝たいわ」
「うん。おやすみ。ボクもすぐに寝るよ」
「おやすみ。一週間もしたら帰るから、お祝いはそのときね」
そう彼女が言い終わるのを待って、パソコンを閉じる。
シンとした真四角の部屋。変わらず聞こえているのは、壁掛け時計のリズムと雨音だけ。 ふっ、とロウソクを吹き消すと、部屋の中は心地の良い暗さとロウの香りで包み込まれていた。