中学校への入学を控えていた侑依は、中学生活での生きづらさを和らげるべく、医師からは、性同一性障害という診断名を、両親からは、侑依斗という通名を与えられた。
小学校までは本名を使っていた。そのことでいじめられないかと心配した親が市役所で何度もかけあって、隣の校区の中学校に通うことになった。
中学一年、初夏。侑依が数学の居残り補習を終えて、下足室へと続く廊下を歩いていた時のことだった。壁の方を向いて、メトロノームと譜面台に開いた楽譜を涙目で睨みながらスネアを打っている、ムラのないきれいなこげ茶をした長いストレートヘアの少女が一人。うちの学校には音楽系の部活が吹奏楽部だけなので、その部員であることはわかった。半袖の白いセーラー服から伸びる日焼けとは縁のない細い腕には、うっすらと筋肉が浮いている。侑依の気にかかったのは、その透き通る肌をした横顔の美しさと、長い睫毛に囲まれた、琥珀色にも薄茶色にも見える丸い瞳を揺らす涙の理由だった。
声をかけずには、いられなかった。
その時の会話は、互いの名前とクラスを知り合うことこそできたものの、涙の理由は聞き出せずじまいの本当に短いものだった。それでいて、侑依の中学生活で格段、印象深い出来事になった。
侑依の二つ隣のクラスの美香は、あの会話以来、廊下ですれ違うことがあると、控えめな微笑みとともに小さく手を振った。そのたびに侑依は、脳から体の隅々を猛スピードで突き抜けていく、それまでは知らなかったときめきを覚えさせられた。
それと同時に、どうしようもない不安が侑依の心を覆い尽くす。
美香の目には、自分がどう映るのだろうかと。毎日、制服ではなく体操服のジャージを着て登校すること。侑依斗という通名を使っていること。サイドの髪を刈り上げたおかげで、女性的な丸みのある骨格が目立つ輪郭を。生まれつき小さくて、親に頼んで高額な治療を受けさせてもらってやっと、美香より五センチだけ高い、百五十センチに届こうとしている身長を。話し方の練習やボイストレーニングに取り組んではいるものの、どうしても不意に、幼さのある高い声が出ることも。
二人の距離は特に縮まらないまま、校庭のイチョウは黄色くなって、文化祭の季節がやってきた。侑依のクラスの出し物は、劇をすることになった。音響を担当することになった侑依は、文化祭二週間前、各クラスの裏方担当が集められる説明会に参加していた。機材の使い方の説明を聞いて、やっと解散する頃にはもう、全ての部活生が下校する時刻になっていた。
正門からの長い下り坂は、にぎやかな声と人波でごった返している。その中に、ぽつり。二十メートルほど前を一人で歩く美香だけが、侑依の目に留まった。侑依自身なぜだかわからないけれど、哀しい後姿だ、と思った。
よくよく見てみると、美香の前には、ラケットを肩に掛けた男子の群れを挟んで、吹奏楽部の面々が楽しそうに笑い合いながら歩いている。
「美香」
考えるよりも足が動くのが先だった。侑依は人ごみを走り抜け、美香の肩を叩いた。びくっとして振り向いた美香の頬には、目に納まり切らなかった涙が流れていた。
学校近くの公園のベンチで、美香の背中をさすり続ける侑依。しゃくりあげて泣きながら、吹奏楽部で、生まれつきの色素と体質による見た目から、仲間外れにされて陰湿な嫌がらせに遭っていることを告白する美香。二人を見守る星たちは、何かを囁きあうように、控えめなきらめきを放っている。
美香は真っ赤な目で侑依をしっかり捉え、
「もし私のそばにいて、侑依斗まで嫌な思いをすることがあったら」
侑依は続きを聞かずに、美香を力いっぱい抱き締めて言った。
「話してくれてありがとう」
それでもなお
「つらい思いをするのは、私だけでいい」
そう絞り出した美香の顎を、侑依はそっと引き上げる。二人の顔の距離は、ぐっと近付いた。
美香はゆっくりと目を閉じた。
侑依は、美香が今困っていることを打ち明けてくれて、彼女になってくれて、嬉しかった。こんな風に、色々とややこしい問題を抱えている自分を信じてくれて、頼ってくれる人がいるのだと。そして、美香になら自分の弱さや本音を、明かすことができる気がした。
実際、侑依自身に、わかりやすい変化があった。もともと、侑依の普段使う一人称は、俺だった。少しでも、軟弱な印象を与えないために。男として、扱ってもらえるように。でも美香と二人の場では、僕、なのだ。美香には、優しく丁寧に接することで安心感を与えたいと思っていた。それに案外、自分でもしっくり来てしまった。
侑依にとって、人生初の彼女。何気ない毎日が輝いた。そして、美香との思い出がひとつ増えるごとに、そのどれもが宝物になった。初デートで映画を見に行ったり、カラオケで美香の歌声を聴いたり。
なかでも特別、侑依を喜ばせたのは、美香から届いた年賀状。冬休みも残り半分ほどになり、ちょうど、そろそろ恋しくなってきた頃だった。丸っこいけれど、一画一画、丁寧なトメハネのある文字で、
あけましておめでとう
今年もヨロシクね
今年だけとは言わずにぜひ来年も再来年も……!
卒業式で一緒に写真を撮って
できれば同じ高校に行って
ずっと侑依斗といたいな
そう綴られていた。照れ屋な美香の口からは、なかなか聞けない言葉のひとつひとつが、侑依を幸せにしてくれた。
長期休みの終わりが近づくと必ず、一歩ずつ絶望に向かうような表情をしていた侑依だが、今回の冬休みが終わることは、嫌じゃなかった。美香に会える日々が、また始まる。そう思えると、大きな力になった。
寒さが厳しい二月のある日曜日、二人は電車で三十分ほど揺られ、海浜公園にやって来た。夏場は賑わう海辺も、冬は誰も寄り付かない。
それが良いのだ。侑依も美香もそれぞれに抱える、どうにもならない現実を、少しの間だけでも肩からおろして気を休めることができる。
二人は心ゆくまで寄り添いあい、手をしっかり繋ぎ、他愛ない会話に思いきり声を出して笑った。
しばらく砂浜でじゃれ合いながら歩いていた二人だったが、ふと、どちらからともなく、並んで海の方を向いて腰を下ろした。
海の方を向いたままの侑依からおもむろに零れたのは、
「あのさ」
あまりにも弱々しい声だった。
波音さえも遠慮がちな、世界から切り離された空白みたいな時間。
美香に右手を握られてやっと、侑依は口を開くことができた。
「どんなに気付かれたくなくても、知られたくなくても。誰がどう見てもわかってしまう。僕は心と、持って生まれた体が合ってない。でも物心ついた時からずっと、僕は男なんだ」
侑依は、ちらりと美香の方を向いてみて、ほっとした。美香は、なにも特別な話を聞くような表情は全然していなかったから。真剣だけれど、深刻そうにはない顔で頷いてくれた美香を見て、侑依は続きを話し始めた。
「ときどき。体のことを諦めてしまえたら、どんなに楽だろうって気持ちになる。自分の困った病気のために、病院に通わせてくれている親に申し訳ないとも思うし、なにより自分で自分が情けない。でも今は、もう疲れてしまったのかも」
寄せる波、返す波。ぼんやり眺める侑依は、遠い目をしていた。下を向き、ひと呼吸おいて、また侑依が話し出す。
「このまま体が成長すれば、今以上に僕は苦しめられる。それはもう、目に見えてんだ。いつも僕は、ナベシャツってのを着ているんだけど。胸を押さえるための、窮屈で息苦しいタンクトップでさ。毎朝、少し出てきた胸を恨みながら、そしてもうこれ以上は出てこないように祈りながら着けるんだ」
侑依の話にひたすら耳を傾ける美香は、首を縦に二回小さく振って、口を一文字に結び、大きなまばたきで溢れそうな涙をごまかす。その仕草は、泣きたいのは侑依本人であることを噛み締め、聞き手である自分が先に泣くのは違うのだと言い聞かせているかのようだ。
――美しい強さ。そんな言葉が似合うだろう。
美香が自分を見つめる視線の力強さに後押しされた侑依は、たっぷりと息を吸って、胸中のうち、言葉にできるもの全てを語る覚悟を決めた。
「胸は切ればなくなるけれど、立ちションできる身体になるためには、途方もない時間とお金がかかる手術が必要で。ホルモンの注射をすれば、声変わりできるし、筋肉もつきやすくなる。でもそれと引きかえに骨は脆くなって、あと、病気になりやすくなるから、しょっちゅう血を抜いて検査しないといけなくなるんだ。つまり、僕の憧れていた屈強な肉体なんてモノは、一生、手に入らないってことだなって」
侑依はもう止まらなくなって、いつになくきつい口調で続ける。
「しんどい思いをして、お金はなくなって、出来損ないの身体を手に入れて、ようやく戸籍の性別が書き換えてもらえる。その時には僕ら、いくつになっているんだろ」
そこまで言い切った侑依は、僕ら、と言ったことに恥ずかしくなり、うつむいて足元の砂を睨んだ。美香に握られていた右手を、ぽんぽんと叩かれて顔を上げると、
「侑依斗、私、事実婚とかそういうの、大丈夫なんだよね」
いつもと変わらない口調で言い放つ美香に、ついていけず口が半開きになってまばたきが増える侑依。畳みかけるように美香は、
「ナベシャツも毎日、私が洗濯するから」
と言って明るく微笑んだ。
暖房と、窓から射してくる西日のおかげで、ふんわりとぬくもっている帰りの電車の中。侑依は肩に寄りかかって眠る美香が、尊くて仕方がなかった。自分なりに、美香のことを大切にして、大好きで、守りたいと思っていた。けれども、美香はそれ以上に深いところで、自分のことを想ってくれている気がしてきた。これまで侑依が、カウンセラーにも親にも明かせなかった、焦りも不安も、そしてそのままの自分をも受け止め、包んでくれるのだから。
あと二駅。侑依は、そろそろ美香を起こそうか、というところだった。
なぜかはわからない。突然の恐怖が、侑依の心に現れた。今、肩に感じている温もりを手放すと、もう二度と触れることも、近づくことも出来なくなってしまうような。かたちのない、恐ろしさだった。
あと一駅になって、侑依はさすがに美香に声をかける。
「もう着くよ」
その声でうっすらと目を開けた美香がまだ眠そうに、うん、と可愛い返事をした時。侑依はさっきまでの、わけのわからない恐怖は、もう忘れていた。
絶望の瞬間は、侑依の意思に関係なくやってきた。
少し熱っぽく、体のだるい一日だった。
なんとなく調子は悪いが、来週から始まる期末テストの勉強をしなくては、などと考えながら夕食を済ませた侑依は、風呂に入ろうとしていた。なんの気なしに脱ぎ、洗濯機に投げ込もうとしたボクサーパンツに起こった異変に気付く。いつかは対峙することになると、わかっていたつもりだったその現実は、侑依の精神を崩壊させるのに十分過ぎた。
侑依は手に持っている、自分の体から出た物であることについて疑う余地のない血の付いたそれを、ぐちゃぐちゃに丸めて洗面所のゴミ箱に捨てた。さっき脱いだばかりのジャージだけを着て、ドアを激しく開けて飛び出し、突発的に台所へ駆け込む。迷うことなく包丁を手に取り、自身の下腹部を何度も何度も執念深く切りつけた。
それを母が必死に止めようとしても、母の悲鳴で駆け付けた父が、慌てふためきながら救急車を呼んでいる間も。
侑依は救急搬送先での外科的治療が済むと、入院することになった。いつものジェンダークリニックではなく、精神科の専門病院に。
そのことを美香に知らせるなんて、とても出来なかった。正気を失って閉鎖病棟に入った姿なんて、彼女にだけは絶対に見せたくない。あまりにも長い入院生活の間、美香に一目会いたいと考えなかった日など、一日もなかったのだが。
いつだって美香のことは侑依の頭から離れず、あの美しい横顔も、指通りの良いこげ茶の髪も、手の柔らかさも、温もりも、忘れかけていくひとつひとつが愛おしくてたまらなかった。それは二年半もかかってようやく退院しても、通信制の高校に一年遅れで入学することが決まっても、ずっと同じだった。
だからこそ、侑依は決めた。
もう体のことも、美香のことも、諦めてしまおうと。きっと日々に流されるうちにいつかは慣れて、心身が捻れたまま生きる苦しみからも、美香を忘れられないのに、少しずつ思い出せなくなっていく怖さからも逃れられる。
そう、信じてみることにした。
なあんだ。意外に大丈夫そうじゃないか。
家を出るまで侑依を困らせた心のさざ波は、スクーリング用の制服である赤い、チェックが入ったスカートのプリーツに隠されていった。
高校生の三年間は侑依にとって、歯がゆいような、でもいたって普通のような。時間が勝手に自分を押し流していく感覚に、抗うことはしなかった。
侑依は、女性としての生活を始めてからも、しばらくは短くカットしていた髪を、伸ばすようになっていた。
時間はかかったものの、心身ともに健康を取り戻した。
一人暮らしをしてみるべく、実家から遠く離れた大学に入学した。そこでさっそく、いくつかの恋もしてみた。
でも。
どの恋もすぐに、自分からあっけなく終わりにしてしまったのだ。そしてそのたびに、考えることがある。
ずっと美香のことを、大切にしたかったのに。守りたいと思っていながらいつも、美香に守られていた。叶うのならば、いつかまた巡り会うことがあったならば、美香を守り抜きたいと。
たしか、まだ教室にたどり着くのにも一苦労するキャンパスで桜が散るのを見た時、侑依は別になんとも思わなかった。
そう、あれは、葉桜が青々しくなり、新緑を感じていた時。
みずみずしいものが心で弾ける、どこか懐かしいあの感じ。
わからない。わからないままにしたいような、したくないような。もどかしくて、じりじりして。それでいい、と侑依は思った。
侑依の心境にも生活にも大した変化はないまま、夏休みが明けて、大学も後期の授業に忙しくなってきた頃。侑依は午後の授業が終わってからずっと、図書館にこもって書いていたレポートが一段落つき、今日はこのくらいにしようと外に出た。
その時、これまで気が付かなかったイチョウの木、そしてその黄色さを見て、侑依の足が止まった。
七年前、美香が夜の公園で泣いた日の記憶が、途轍もない勢いをもって侑依に押し寄せてきた。
美香に会いたい、と思った。
大学が冬休みに入った侑依は、急いで帰省した。実家の勉強机の引き出しに、中一の美香からもらった年賀状が、ちゃんと残っているのを確認する。ここに書かれた住所が変わっていなければ、もしかしたら。
手紙を書くのは得意でないが、これにかけてみよう。侑依はペンをとった。
美香へ
久しぶり。僕らはもう七年も前に自然消滅したのに、いきなり手紙を出して、ごめん。美香、元気にしているかな、どうか元気でいてほしい。
もうすぐ、成人式だね。こんな頼み、聞いてもらえるかわからないけれど、僕は美香の晴れ姿が見たい。あわよくば、その隣にいたい。
もしこんな突然で、わがままな願いを叶えてくれるのなら、返事を、どうかよろしく。
侑依斗より
力を込めて握りしめていたボールペンを机にそっと置いた侑依は、大きく息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。
届くだろうか。
どんなに想っても、中学生の姿しか知らない彼女に。
一月の第二月曜日。
侑依は今日のために新調したスーツを着て、姿見の前に立った。ナベシャツは相変わらず息苦しいな、と思いながら、ネイビーに水色と白のストライプが入ったネクタイを結ぶ。髪型をマッシュベースにして、襟足は短く切り揃えるスタイルにしてみたのが良かった。丸い輪郭が、さほど気にならない。ワックスでセットした前髪を軽く動かし、最後にもう一度ネクタイの結び目を整える。
鏡に映るのは、自分の一番会いたかった侑依斗だ。
さて、あとは。
これまでも、これからもずっと、一番愛しい人に会いに行くだけ。
成人式の会場には、みんな同じように見える、着飾った新成人が嫌というほど集っているけれど。侑依斗の目が、美香だけを映すのに時間は必要なかった。この場にいる誰もかなわない透明感。光を、その一身にあつめていた。
ほんとうに美しくて、侑依斗は声が出なかった。
――目が、合った。
「侑依斗、おかえり!」