道の向こう側にいた徹は私に気が付くと、軽く右手を上げて横断歩道の前で足を止めた。風のない曇った日で、嫌な明るさが私たちを照らしている。徹はイヤホンで音楽を聴いていて、左手はジーンズのポケットに入れていた。
私は道の反対側に徹がいることを彼が気付くよりも前に分かっていた。そして、あと数秒もしたら私に気付いてくれることも分かっていた。すると本当に数秒後、徹は私に気が付いて右手を上げた。
徹を見た瞬間、全身の細胞はさざめき、何とかして彼の全てを吸収してしまおうとする。一緒にいる時よりも離れているときの方が徹のことを考えているはずなのにいつも顔を忘れてしまう。どんな額だったのか、どんな目をしていたのか思い出せないが、彼の存在にはすぐに気が付くのだ。おかしな話だと思う。
行き交う車の隙間から徹を眺める。目の前を通り過ぎる車はどれも異世界の虚像みたいだった。行き交う人々も自分のつくり上げた窮屈な箱の中でせわしなく日常を削るつまらない人間に見える。私と徹ぐらいじゃないだろうか。現実を実直に優雅にまっとうに生きているのは。
信号が青になった。徹は速足で私の方に向かってくる。綺麗にアイロンのかかったシャツ、すらっとした手足。たった三日しか会ってなかっただけなのに、ひどく長い間会わなかったような気がする。
*
恐る恐る目を開けると、やはり目の前はいつもと変わらない光景だった。引っ越してから一年もたつのに開けられていない段ボール、雑に積み上げられた本、隣には襟ぐりのよれたTシャツを着た浩介が寝息を立てている。枕もとの時計を見るともう七時を過ぎていた。
「ねえ、遅刻するよ」
眉間に皺を寄せて苦しそうに眠る浩介の肩を揺する。うっすらと目をあけておはよう、と呟いた。声になるかならないかぐらいの、がさがさしたおはよう、だった。
浩介とは付き合って三年ほどになる。高校で数学の講師をしていて、時々サッカー部の面倒もみているらしい。学校のことも生徒のこともあまり聞いたことはなく、本当に勤めているのか不思議に思ってしまう。子供っぽいとかそういうのじゃないけれど、倒されてそのまま忘れられたぬいぐるみみたいな人だ。
友達を介して初めて食事したとき、彼はことごとく料理の中にあるねぎをよけていて、その姿を見たときに「あ、このひとだ」と思ってしまった。私の中でパズルのピースがぴったりとはまるような感覚だった。次の日には不動産屋に行って部屋を借りたし、その次の日には
「明日から一緒に住むので、そのつもりでいてください」
と言って鍵を渡した。彼は特に驚きもせず
「じゃあ明日からよろしくね」
とだけ言った。
昼休み、何か買いに行こうと思って財布を持って立ち上がると同僚の田淵さんに呼び止められた。
「聞いた?向井さんのこと」
噂話をするとき独特の、何とも言えない声量で田淵さんは言った。
「何かあったの?」
いつも丁寧にお化粧してある彼女の顔を見る。今日の口紅はピンクだ。私は田淵さんのはきはきしていて意志が強くて、少し口が悪いところが好きで仲良くしている。
「妊娠したから結婚するって。それで今月いっぱいで退社するらしい」
すれ違ったら頭を下げる程度の知り合いの寿退社について私は何と答えればいいのか分からなくて困ってしまった。ただ「五年付き合って結婚まで考えた恋人」に、「半年浮気していたフリーターの女の子を妊娠させて結婚するから別れを告げられた」ヘヴィな経験を持つ田淵さんの気持ちについて考える必要があると思った。凄惨な出来事だったけれど、恋人と別れてからの彼女はそれまでの「最低限度の妙齢の女性らしい生活」から「意識の高い健康的な生活」に変わったらしい。この世にはドラマチックと修羅をはき違える人が大勢いるけれど、彼女のその事件の後淡々と地獄を生きていた様子を見てこの人のことを大切にしよう、と思った。
「あなたはどうするの」
コーヒーを飲みながら田淵さんは尋ねる。どうするの、というのはつまり私と浩介のことで、彼女は私に「あなたはいつ結婚するの」と訊いているのだ。返事の代わりに少し笑うと
「私はいつか愛する人の喪主になるのが夢なのよ」
と彼女は真剣とも冗談とも取れる声で言った。顔を見ようと思ったけれど、髪が邪魔をして、どんな表情をしているのか分からなかった。
半年前から夢に出てくる徹という男のことだ。夢の中の私は現実世界の自我を完全に手放してしまっているらしく、浩介も田淵さんも夢の中には出てこない。徹は(夢の中で)私の恋人で、私は彼がいれば他に何もいらないというような恋をしているらしく――自分のことなのにらしいと言うのは変だが――とにかく映像も感情もとても鮮明だった。
妙なのは顔が分からないことで、半年も繰り返し夢の中で会っているのにどんな目をしているのか、目はいくつ付いているのかさえ分からないのだ。
顔も匂いも分からない徹に夢の中だけとは言え骨抜きにされている。悪いことをしているわけではないのに浩介に対して生ぬるい背徳感があった。
今日も家に帰れば浩介はいるし、眠れば徹とまた会うかもしれない。二人の恋人と生活するというのは帰るべき場所が分からなくなることだ。
夢の中にもう一人恋人がいるんです、そして現実の彼も夢の中の彼も同じくらい真剣に好きなんです、なんて馬鹿げたことは誰に言えるはずもなく、ただ日増しに膨らむ愛情と気持ち悪さが私を覆い尽くしてしまいそうだった。
会社からアパートまでは徒歩三十分ほどで、よほど急いでいなければ歩いて通勤している。途中、セイタカアワダチソウが沢山生えている土手があって、そこを意味もなく歩くのが好きだった。草なのか川なのか分からないけれど鼻腔にこびり付くような独特の匂いが一年中していて、どうしてだかその匂いを嗅ぐと無性に落ち着いた。ときどき好奇心に駆られて茂みの中へ入っていったりしたけれど、大抵は足や腕に白い切り傷を作るだけだった。
夕方の土手は特に好きで、あまり綺麗とは言えない川も夕日が反射して美しいし、野良猫や散歩する人たちが親戚のように感じられる。
背後に人の気配がしたので振り向くと、浩介だった。おかえりなさい、と言うと私の肩におでこをのせてただいま、と言った。
「学校はどう」
「もう少しで中間テストだからね」
それ以外はいつもと変わらないよ、と言いながら少し足を速めた。その「いつも」を私は知らないのにどうして教えてくれないの、と言いたかったが言わなかった。どれだけ尋ねたところで分かり切ってしまえないから、分かっているふりをするのがいちばん良いと思っている。浩介の背中と、金色に光る川面と、生い茂るセイタカアワダチソウを見て、浩介が未来なんかを見ませんように、と祈った。
*
「君の子供の頃の話が聞きたいのだけど」
キャンバス一面に不規則に描かれた線を眺めながら、突然徹は呟いた。雨の日の美術館は私たちの他に何人かいる程度で、いつもより無機質で冷たい感じがする。岡崎の美術館に行きたい、と言い出したのは私の方で、彼はあまり抽象画が好きではないけれど快く予定を立ててくれた。
「友達は好きだったのだけど学校が嫌いで、よく保健室とか更衣室とかに逃げてたかな」
徹は私の手を握りながらそっか、とだけ言った。徹は短い返事をいつも寂しそうに言うので、私を暗澹とさせる。違う答えを聞きたかったけれど、もう結構です、この話は終わりにしましょう、と言っているような気がするのだ。
清潔な空間は壁の匂いすらしなくて、もしかしてこの世に私と徹二人しかいないのではないだろうか、というほどだ。私の思考から抽象画は消えてしまって、ただ隣にいる徹の横顔が私の幸福だった。
「僕の子供の頃には興味はない?」
少しだけ強く手を握り徹は私に尋ねる。
欲しいわ。あなたが私と出会う前の過去も、今この瞬間も、この先の生活も。ぜんぶぜんぶ欲しい。あなたを産んでこの上ないくらいの愛情で育てたかったし、あなたの子供にもなりたかったし、あなたの子供を産みたい。
隣にいる彼の美しい横顔が崩れてしまわないように、私は聞こえなかったふりをした。
外に出ると雨はまだ降り続いていて、疎水沿いの並木がいつもより青い。すっかり茂った桜の葉は雨に細かく震えていて、普段は人も車も多い通りはまばらだった。湿気の所為か低気圧の所為か頭はぼうっとして耳だけがやけにはっきりしている。ざあざあと勢いよく流れる疎水の雨水、傘越しに見える徹の肩。いつか、何の前触れもなくその日は突然にやってくるに決まっている。何通りも想像した別れの言葉を告げられるシーンを脳内で再生する。つんと鼻の奥が痛くなって、目の前が滲みそうになった。
どうかした、と徹に言われてはっとした。駆け寄ってなんでもない、と言うと「そっか」と言った。
「今度は晴れた日に来て、動物園に行こう。お弁当も持って来て、インクラインを歩くのもいいわ。桜の季節じゃなくても綺麗なのよ」
いいね、と言ったと思う。雨と疎水とビニール傘の隔たりで聞こえにくかったけれど、多分そう呟いたはずだ。
*
「最近、考え込んでいることが多いね」
「そうかな、大して何も考えていないけれど」
今日は朝から二人で部屋中の掃除をしていた。浩介は休みの日になると一週間分の仕事の疲れからか、ほとんど一日中寝て過ごすので、こんなことは初めてだった。
「めずらしいじゃない、どうして掃除しようなんて言い出したの」
そう訊くと少し俯きながら「ただの気まぐれだよ」と言った。
外は馬鹿みたいな晴天で、なのに風が少しも吹いていなくて作り物みたいだった。電線も街路樹も何もかもが死んでいるみたいに思える。気にしないでおこう、と思ってもどうしても気にしてしまう違和感を打ち消すために、ひたすら手を動かした。
「結婚しよう」
本棚の整理に取り掛かっている時だった。「散歩に行こう」と同じくらいの自然さで声を掛けられたから、思わず脊髄反射で「うん」と言ってしまいそうになった。
「結婚しよう」
私を後ろから抱きしめる。頭の中に爆弾が落とされたみたいに急に白く光って私を飲み込んでしまった。鼓動が速くなり、変な汗が体中に滲む。何も考えられない。言いようのない感情が一度に押し寄せて、吐き気を催した。
何か返事をしなければと思えば思うほど何も考えられなくなり、遂には手に力が入らなくなって本を落としてしまった。
「本が」
「ああ、いいよ僕が拾うから」
浩介の腕が解かれる。さっきまでそこにあった体温が無くなって、私の背筋を冷たいものが撫でた。
結婚? それは未来への確約? 私の人生が欲しいの? 安定した生活? 普遍な人生のため?
浩介の愛情も好意も優しさも全て信じ切ってしまいたいのに、目の前の私じゃなくて未来を見てしまっていたことが悲しい。こんなにも素晴らしい人が、私の人生に責任を持つなんてそんな馬鹿な事するわけがない。
「シャンプー切らしてたでしょ、買ってくるね」
そう言い残して一人家を出た。
家に帰ると、電気もついていなくて恐ろしいくらいのがらんどうだった。
「浩介、いるの?」
呼びかけてもいつもの声は返ってこなくて、私の情けない声が部屋を突き抜けるだけだった。いないのは分かっているのに、どうしてか部屋中に浩介の空気が満ちている。不在がよりいっそう彼の存在を感じさせていた。
目を開けると、やはり浩介はいなかった。昨日私の中に落ちた爆弾はすっかり燃え尽きて、目の前に広がる焼け野原が皮肉なくらいに清々しい。寝ぼけた頭を無理やり起こして、しばらくベッドの上でぼうっとしているとインターホンが鳴った。カーディガンを羽織って外に出ると、スーツを着た男の人が二人立っていた。
「どちら様でしょうか」
二人とも初老で、年の割には体格がよくて、何より少し怖い目つきをしている。
「中島浩介さんと同居しておられる方ですね?」
「はい」
「府警の羽田といいます。昨日、中島さんを京都府青少年健全育成条例違反の疑いで逮捕しました」
府警、条例違反、逮捕。聞きなれない単語が次々に降りかかってくる。
全てがあまりにも突然で、今までに想像していた何通りもの別れの中にこんな展開は無かったから、もう何も考えることができなかった。
「お勤めの高校の女子生徒からの相談で発覚しました」
警察官は業務的に(当たり前だ)淡々と報告してくる。
「条例違反というのは」
「一年生の女子生徒に猥褻な行為をしたということです。あなた様にはお気の毒ですが、部屋を捜索させていただきたいのです」
はい、と返事するのと同時に二人は部屋に入ってきた。浩介が飲みかけで置いて行ったマグカップも、私のピアスも出しっぱなしの部屋へ、突然現れた他人が形を変えていく。段ボールに次々と浩介の仕事の資料やパソコンが詰められていった。
逮捕されるとき、何を考えたのだろう。女子生徒のこと? 私のこと? それとも自分のこと?
警察の人と一緒に、段ボールが私の横を通り過ぎていく。ご協力ありがとうございました、と言って二人は帰っていった。
*
最寄り駅を歩いていた。今日は私の方が速く仕事が終わったから、久しぶりに浩介の好きな魚の煮つけでも作ろうかと買い物に行く途中だった。駅からスーパーまで行くには公園の中を通るのが速いので、いつものように公園に入ろうとした時だった。奥のベンチに知っている人がいる。浩介だ。木の陰になってよく見えないけれど、相槌を打っているので誰かと一緒らしい。そのまま公園に入って見てみると、相手は制服を着た可愛い女の子だった。胸のあたりまであるロングヘアに、運動部なのだろう、少し日焼けした肌の子だった。受け持っている生徒かな、そんなことを考えながらぼうっと眺めていたら浩介はおもむろに少女の手を握った。
あ。
見たくないのに目が離せない。二人は親密そうに、それでいて愛しそうにお互いを見ていた。浩介が少女の頬に触れる。少女は少し恥ずかしそうに俯いた。
気づいたら涙が頬をつたっていた。このままでは死んでしまう、なぜか直感的にそう思って会社帰りのグレーのパンプスで、来た道を走って戻った。
*
耳が冷たい。どうやら仰向けで寝ていたせいで耳へ涙が流れ落ちたらしい。あれは夢だったんだ。でも、どこからが夢でどこからが現実だったんだろう。それでも、徹が二度と夢に現れないことだけは、はっきりと分かった。