1
暗闇の中で、僕だけが動いていた。狭いウォークインクローゼットには窓が無くて、電気を消してしまえば何も見えない。ハンガーがカチャカチャとなる音、床が僕の動きに合わせて軋む音、僕と彼女の荒い息遣い。それだけがあった。彼女は音を残してどこかへ行ってしまって、あらゆるものが遠くに存在していた。汗が耳の横を通って顎から落ちる。離れてしまったらもう煩わしさも感じなくて、ただ暗闇の一部に過ぎなくなる。壁についた手が疲れて痙攣し始めていた。僕はもっと前のめりになって、彼女の吐息を感じる位置に肘をつく。汗ばんだ掌が壁から離れる時の、ガムテープを剥がすような不快な音に舌打ちをした。彼女がクスクスと笑う声が聞こえる。僕は一人で何も悩まず、考えず、ただ体だけを動かしていた。
「みんなは自分の考えなんかを世の中に打ち出していくの。タン、タン、タンってね」
彼女は天井を指でさして、音に合わせて手を弾ませた。スプリングがききすぎているベッドは抵抗するように体を弾いた。脇のテーブルに置かれた林檎のレプリカが、カランと軽い音を立てて転がる。
「それで、共感したり反発したり。要は互いを少しずつ手放しながら生きているのよ。でも、私もあなたもそんなことしないわね。怖いから、どうでもいいから、なのかしら。きっとこれからもそれは変わらないと思う。でも、いつかきっと……」
彼女は手を下ろして目を閉じた。彼女は言いたいことを聞いてもらう以外に、少なくとも会話においては僕に何も求めなかった。その代り、とてもよく喋った。ある種の不安みたいなものが、彼女にもあるのだと思う。ただ、僕のそれとはちょっと違うだけだ。
タオルケットを頭までかぶって、彼女の腕に額を付ける。この瞬間だけ、この二時間足らずだけは、僕のことを理解しようとしてくれる人が世の中に一人いるのだと思えた。
今までの人生で、僕の頭の中に色んなものが出たり入ったりした。だけど、残っているのは小指の爪くらいしかない。本当にこれでいいのかな、これでよかったのかなって、最近になってやっと思い始めた。他人を盗み見ては首を傾げることが、僕には多い気がする。多分今のままでいいと思うんだけど、割り切ってしまうほどの勇気は僕には無かった。そういう考えが時間をかけて反芻されて、しばらくすると足が止まった。もうしばらくすると座り込んで、今では眼だけがギョロギョロと動いている。
僕は体を起こして彼女の顔を覗き込む。絹のような長い髪が冷たい空気を弾いて滑らかに光っている。熱を持って赤くなっている頬を撫でると、彼女は擽ったそうに笑って顔を背けてしまった。そんな様子を眺めて、僕はハッとした。嗅ぎ馴れてしまったゼラニウムの香りを、今の今まで意識さえしていなかった。嬉しいような、淋しいような不思議な感覚だった。その香りに顔を埋めると、彼女は恥ずかしそうに身をよじった。しばらくの間、僕は自由に動くことが出来た。
月も見えない空を見上げる。同じ大きさに切り揃えられたビル群の中で自分がどんどん小さくなっていくように感じた。夜の街は熱帯魚の鱗のようにぬらぬらとして、電球の一つ一つが別々の意思を持って蠢いて、波打っている。昼間の無自覚な光とは違う、ちゃんとした意思を持った光が僕の周りに溢れている。そんな明るさの中を、もう深夜だというのに沢山の人が行き交っていた。何故だかみんな幸せそうにしていて、暗に「お前だけ仲間外れだ」と言われているような気がしてどうしようもなく頭が重くなる。逃げるように暗い方に足を進めて、身を隠すようにして歩道橋の下に身を屈める。特にすることも無くて、何となく煙草を吸った。三本目に火を点けたところで、それにも飽きてしまって、今度はスマートフォンを開き、ついさっき届いた祖父の訃報を読み返す。
『今日の一時二十三分、おじいちゃんが亡くなりました。九十三歳の大往生でした。これからしばらくは忙しくなると思う。』
短い文だったけど、沈んだ気持ちが伝わってきた。父親の性格を考えると今頃は泣いているんだろうな、と思った。返す言葉を考えていたけど、何も思い浮かばなかった。母と姉は慰めとか悲しみの言葉を送っていた。父と兄は病院だろう。僕は深夜の街の、歩道橋の下だ。画面に煙を吹きかけて、電源を切った。
2
ホームの向かい側には沢山の人がいた。スーツ姿の社会人に交じって、私服の大学生がちらほらと見える。全員でふやけた列を作って、舌打ちして鞄をずらして、何もしていないのに忙しそうだ。何故か大学生は態度が大きくて、社会人は肩身が狭そうにスマートフォンに目を落としている。全体を見れば大体そんな感じだけど、その中にはもちろん静かな大学生だっているし迷惑な社会人だっている。それぞれがまったく同じ枠の中でちょっとずつ違うことを考えて、電車を待っている。通勤通学の時間帯は人間が大きな塊のように見える、なんて言う人がたまにいるけど、僕にはそうは思えなかった。
祖父の葬式は、思っていたよりずっと短い時間で、こじんまりと終わった。参列したのは僕とその他の四人と、叔母の家族四人、そして祖母のちょうど十人だけ。葬式には祖父の家が使われて、居間で祖父の亡骸を囲んだ。周りが目を潤ませたり、声をあげて泣いているのを見ながら、僕は祖父の額の冷たさについて考えていた。死んでしまったら何も考えられなくて、何も考えずに済むけど、楽そうだとは思わなかった。触れた瞬間に感じたあの冷たさは、好きになれなかった。だけど、たぶんあの棺桶に入っているのが祖父でも父でも他の誰でも同じように考えただろう。祖父が死んだことに関して、悲しみや辛さは全くなかった。周囲の泣き声に押されて僕も顔を背けたり鼻をすすったりしてみたけど、何だか覚めてしまって後半は淡々と見守るだけだった。霊柩車が到着した頃に事情を察した近所の人たちが、何とも言えない申し訳なそうな顔をして挨拶に来ていた。僕は家族よりも彼らの方に親近感が湧いて、少しだけ安心した。僕の葬式のことは考えたくもなかったけど、皆が建前だけの悲しさを見せてくれるなら死んでみるのも悪くはないなと思った。
「これ、おじいちゃんからお前に」
葬式が一段落した時に、父が小さなリュックサックと茶封筒を渡してきた。
「中身は何」
封筒越しに使わる感触で、現金ではないことを確認して言った。僕は死人からもらうお金くらい、気持ち悪い物はないと思っていた。
「俺は見てないけど、たぶん手紙」
父は僕を見なかった。
ちゃんとした遺書以外に祖父は何も残していなかったから、僕宛に何かを託していたことに少し驚いたけど、何かあるかもしれないという予感はあった。祖父はいつも僕を悲しい目をして見ていたし、何か声をかけたいと思っているのは伝わっていた。これはそういうことだと思う。多少の鬱陶しさは感じていたけど、僕はそれを背負うことに決めていた。
僕は何が入っているかもわからないリュックを背負って、大きな人の流れに逆らっていた。葬式からしばらく経って、この荷物を届けようと思い立った。手紙に同封されたメモには、女性の名前と住所だけが書かれていた。ポケットに入っているメモを開く。それは宝の地図と言うよりは、オバケの居場所みたいな存在するはずのない物のようだった。
向かいのホームに電車が到着して、さっきまでそこにいた沢山の人を乗せて行った。その直後、小さい子供とその母親らしい女性がホームに入ってきた。ついさっきまで走っていたようで、二人とも肩で息をしている。子供は少し怒った様子で女性を見上げていて、そんな子供の頭を女性は困ったように撫でている。しばらく何事か話した後に、自動販売機で飲み物を選びだした。二人が何を考えているか、遠目から見ていてもわかるような、そんな光景だった。
こちら側のホームに電車が到着して、僕はその空いている車両に乗り込む。向かい側のホームに背を向けるように座って、正面の窓ガラスに映る自分の姿を見ていた。電車はゆっくりと動きだして、あの光景から遠いところへ僕を連れていく。
3
母が僕の髪を掴んでいる。
「世の中の不幸を全て知っているような顔をして、そんなので良いと思っているの」
僕はそんな事少しも思っていなかった。これは僕の性格の問題だと思っていた。少なくとも他の誰のせいだとも思ったことは一度もなかった。
母がリビングのテーブルに肘をついて、頭を抱えている。
「私は頑張っているのに、あの子はそれを全然受け取ってくれない」
申し訳ないとは思っていた。たぶん状況がちょっと違っただけで、彼女はこんなことを考える必要はなかったはずだからだ。だけど、こんなに小さなことにしつこく拘っている僕ではなくて周りのみんなだった。
母が父に向って叫んでいる。
「普通に接しているのに、あの子は私の前で笑う事なんてほとんどないわ」
いろんな人が僕を不幸だと言うし、その理由もわからないではないけれど、僕の中では本当に些細なことだし言われなければ気にすることもない。住む場所もあって、気にかけてくれて、ちゃんと育ててくれるだけで僕は嬉しい。
自分の不出来を他人のせいにして、それで何か変わるわけではないのに「あなたのせいだ」と強く当たられるのは、正直に言うととても嫌いだった。
『終着、〇〇。終着、〇〇駅です』
ひどく間の抜けた車掌の声に起こされた。一度乗り換えを挟んだところで寝てしまったらしい。あと二回乗り換えをして、到着だ。同じ県内なのに、目的地が山奥のせいでとても遠い場所に感じた。昼食をとるために駅を出る。
駅の出口では、地元の人たちが談笑している。僕は出来るだけ体を小さくして、その横をすり抜けた。多少の興味を含んだ視線が向けられるが、僕はそれを無視した。
冬の寒さが走り去った小さな街は少し元気で、控えめに賑わっていた。不揃いな店が点々と建っていて、その向こう側は果てしない山の緑が広がっていた。少しだけ歩くのも悪くないかなと思って、東側にある山道に足を向けた。両脇に生えた木々が大きな掌のように道に覆いかぶさっていて、昼間にも関わらずその入り口だけは薄暗く浮き上がっていた。足を踏み入れると湿った空気が指先を包んだ。あの夜の街の乾ききったそれとは違って、この空気は少しだけ好きだった。自分が住んでいる場所から離れると気分が良くて、悪い寝覚めもどこかに吹き飛んでしまうようだった。
山に入るとすぐに滝の音が聞こえた。大きな力強い音ではなくて、廂から落ちる雨水の様な、どちらかと言えばうらぶれた感じがする音だった。砕ける水の音が澄んだ空気を伝わって、小さく山を揺らす。その振動に合わせて、青々とした緑の隙間から陽光がチラチラと角度を変えながら覗いている。とりあえず音のする方向に歩こうと思った。遠くから聞こえていたぼんやりとした滝の音が徐々に鮮明になっていく。少し歩くと川沿いの道に出た。透明な水が流れる小さな川だった。歩くにつれて対岸との距離が徐々に広がって、水は薄くなっていく。その水が落下する頃には、地面を失った瞬間に頼りなく解けるほどになっていた。小さな水の粒たちは下にある岩や木の葉や水に当たって高い音を鳴らしている。そんな様子を上からしばらく覗き込み、傍の岩に腰を下ろした。近くで聞いてみると中々に迫力のある音だった。
疲労感と安心感で、眠気が再び首を擡げてくる。軽くなった頭が、空気の流れを受けてゆっくりと下がっていく。霞んでいく視界には湿った土と丸い小さな石、そして自分の足。周囲の様子には不似合いな自分の靴に目が留まった。一体感のようなさっきまでの感情がどんどんと薄らいで、涼しいと思っていた空気は冷たく首にまとわりつき、滝の音は音楽ではなくなった。僕は小さくなって、組んだ腕に顔を埋める。自分の心臓が慰めるように背中を叩く。その早くなっていくリズムに抗うように、深く息を吸って、大きく吐き出す。
「大丈夫ですか」
長い間俯いていたように思う。顔を上げると、紺のジャージを着た太った男が僕の正面にいた。僕は反射的に立ち上がった。
「ごめんね、驚かせてしまったかな」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
僕はそれだけ言ってその場を離れようとした。だけど、その男は僕の顔を眺めて、続けて話しかけてきた。自分は人懐っこくて、世の中の全員が自分を受け入れてくれると思っているような、そんな顔をしながら。
「顔色が悪いけど本当に大丈夫かい」
「はい、少し眠かっただけなので」
「学生さんかな」
「まぁ、そんなものですね」
どうでもいい話なのに、男は嬉しそうに口を動かしている。知らない人と話すだけで、表面上だけでもこれだけ嬉しそうにできる男が、とても気持ち悪く見えた。
「僕はこの辺りで商店をしていてね、駅の近くなんだ。暖かくなると人が増えるから嬉しいよね。今は休憩中でウォーキングをしているんだ。運動はいいよ、君もやってみるといいよ。まぁこんな山だらけの所に来るくらいだから、君には必要はないかもしれないけど」
男は、自分の親指と人差し指が入れ替わっていることにすら気付けないのかも知れないと思った。勿論彼の手は正常な形をしていたけど、こういう場合に思い浮かぶのは決まって可笑しな例え話だった。
「君は旅行かな。こんな所に来るなんて物好きだね」
「はぁ、まぁそうかもしれないですね」
僕はポケットのメモに軽く触れた。
「そろそろ時間なので、行きますね。起こしてくださってありがとうございました」
「呼び止めてしまってごめんね。楽しかったよ」
名残惜しそうだったが、それだけ言うと男はさっさと行ってしまった。その後ろ姿を見送り、僕は元来た道を戻った。この場所も嫌いになっていく、泥に足を入れていくような感じだった。
「オバケを探しに行かないと」
呟きは滝の音に呑まれて消えた。どこかの誰かに伝えるように言葉を選んでも、結局は自分にしか聴こえないと言われているようだった。来る時は真上に居た太陽が降りてきて、川沿いの道と僕を皮肉っぽく照らしていた。
4
少しずつ右に曲がって、次には段々と左に曲がりながら、電車は山の中を突き進んでいく。小さなトンネルを抜ける度に、大きく落ちていく日を眺める。車内アナウンスが、それぞれの停車駅に何があるのかを丁寧に説明していた。目的地に近付くにつれて、車中の人は減っていった。みんな帰るべき場所に帰って、行くべき場所に行った。結局僕は一人で終着駅に降り立った。駅の周りにも建物は無く、畑しかない。薄明かりの中で目を凝らしても風に靡くものは何も無く、動くのは駅の電灯の微かな揺らぎだけだった。改札を出ると、道は一本しかなかった。僕はまっすぐ、遠くに見える明かりに向かって歩いた。
女の家は青い屋根に白い壁の、絵本に出て来るような可愛らしい平屋だった。僕の胸ほどの簡単な柵に囲まれている。庭の広さはテニスコート半分くらいのものだ。締め切った窓、薄いカーテンから透け出る光が家の全体と庭先を見せている。暮急いだ太陽の後を追って来た月は、薄暗さを助長するだけだったから、その家だけが浮き出ているような錯覚を抱いた。ひょっとすると、周囲の田んぼとか、背後に構える大きな山とは雰囲気も全く違って見えているせいかもしれないが、やはり別のレイヤーにあるような、そんな感じがした。
インターホンを鳴らすと、カーテンが開いて三十代くらいの女が顔を出した。いぶかしげな眼をしてこちらを見ている。僕が会釈をすると、彼女も小さく首を傾けた。彼女が窓を開けて庭に向かって飛ぶ。青いマキシワンピースの裾が翻る。白くて細い手足がバランスを取るように動いて、サンダルの上に綺麗に着地した。力強く通った鼻筋に小さな口、一つに束ねられた長い黒髪。堂々と、誰かもわからない僕に向かって、優雅に美しく歩いてくる。僕はその姿に見とれた。彼女みたいになりたいと思った。
「どちら様かしら」
彼女は僕の顔をジッと見つめて言った。警戒心を隠す様子もなく、柵を挟んでいても近くには来ない。
「夜分に突然すいません。祖父が死んでしまったので、遺品を渡しに来ました」
僕が祖父の名前を告げると、彼女はスッと背筋を伸ばした。僕を見ながら、ゆっくりと柵に手をかける。
「いつ、お亡くなりになられたのかしら」
「一カ月ほど前です。これあなたに、だと思います」
リュックを肩から前に回す。背負っていたものの重さ分、身体が軽くなった。だけど、僕は急に怖くなった。彼女は僕が誰だか気が付くだろうか。気が付いたとして、僕のことをどう思っているのだろうか。自分の腹から産み落としただけのそれと、一緒に過ごしたいと思ったり慈しんだり、そういった感情を抱くことが出来るのだろうか。僕が持ってきたものが彼女にとっては捨て去ってしまったもので、僕がこうして彼女の前に立っていることが誰の目から見ても滑稽なことなのではないかと、そんな風に考えてしまう。
僕はリュックを押し付けるように渡した。彼女は両手でそれを受取る。震えているのは僕の手だけか、それとも彼女の手も、だろうか。彼女はリュックの中味を覗き込んだ。彼女の瞳の色が目まぐるしく移り変わる。僕は彼女の表情を注意深く観察した。彼女が今、この瞬間に抱えている想いは何なのか、それだけが知りたかった。
彼女が、顔を上げる。泣き出しそうな顔をして、苦しそうに顔を歪ませて、それでいて笑っていた。
「よく来てくれたわね。ありがとう」
彼女の偽りのない表情に、僕は感じたこともないような恥ずかしさを覚えて目を逸らした。この家の前に立つまで、彼女がどう感じるかなんてことは少しも考えていなかったくせに、少しの希望をちらつかされただけで急に全てを投げ出してしまって、僕は一体何なのだろう。だけど、僕は素直に嬉しかった。彼女が嬉しいと思ってくれたことが、僕にとっても嬉しかったのだ。
「上がって。色々話しましょう」
僕は彼女の後に着いて、明るい家の中に入った。
僕は居間に通された。そこにはテーブルと座布団、そしてテレビだけがあった。腰を下ろしてぐるりと見回す。畳の緑に障子の白が良く映える、綺麗な部屋だった。僕の家には和室がなかったから、とても新鮮だった。彼女はテーブルの上に緑茶の入った湯呑を置くと、僕の向かいに座った。
「あなたにとっては初めまして、ね。もう二度と会うこともないと思っていたから、何を話したらいいかわからないわ」
脇に置いたリュックを、まるで子供をあやす様に優しく叩きながら、彼女は申し訳なそうな悲しい顔をした。
「僕も、あなたの存在を知ったのはほんの数年前のことですから、こんな日が来るなんて思ってもいませんでした」
事実を知らない頃の僕は自分が背負い込んでいる疎外感の様なものが何なのか、まるで見当もつかなかった。家族やその他の人々に対して、本能とか直感とか、そういう次元で関わるのを避けていた。そういった意味では母親を、少なくとも僕の中で悪役に仕立て上げたのは僕自身かもしれない。母が僕を攻撃し始めたのは、僕がそういった態度をとりだしてからだった。
彼女は僕の首や腕や顔を見た。
「私のせいで酷い扱いは受けてないかしら」
「大丈夫です。ちゃんと育ててもらっています」
嘘ではなかった。僕が力で負けることがなくなってから、母からの直接的な暴力は無くなっていた。
「そう。あの方とは、あなたが生まれる前に一度だけお会いしたわ。彼の子供なら、私の子供じゃなくても私が育てるべきだって言ってた。あなたを手放したくなかったけど、私はまだ子供だったし、ちゃんとした家庭であなたが育つのを私も望んでいたのよ」
姦通をした父を支えて、ボロボロになって、実にあの母親らしい発言だと思った。あの人の中心には常に、絶対的に父が存在していた。どんなに憎い女のものだったとしても、父の匂いがする子供を自分の手元に置いておきたいという、独占的で歪んだ愛に満ち満ちていた。
だけど、僕はそれが悪いことじゃないと思えた。今まではともかく、今の僕にとっては、どうしても肯定できないと言うほどのことではなかった。
僕たちは色んな話をした。時計の針はいつもよりも早く動いたし、僕が口を開く回数はいつもより多かった。これが一歩目だと思った。流されるようであり、その場所に固定されているようでもあった。
「あなたのお父さんと出会ったのは、私がまだ高校生の頃だった。彼はもう三十代だったかしら。行きつけの古本屋で出会ったの。聞いたことあるかしら」
彼女は嬉しそうに父の話を始めた。
「いえ、聞いたことはないです。誰も話しませんでしたし、僕もほとんど聞きませんでしたから」
彼女は少し笑って続ける。目尻に細かい皺ができる、特徴的な笑い方だった。
「私と彼のことを知った人は、みんな変だって言うと思うの。彼は老けてるから、見方によっては親子みたいだったし」
僕はその話を黙って聞いていた。リズムをとるような彼女の口調に僕は少しだけ安心していた。眼を閉じて、その声に耳を傾ける。
「それでも、私は彼のことを本当の意味で愛していたし、彼も同じ気持ちだったと信じてる。彼に関わることができて、あなたっていう大切な証をこの世に残せただけで、私は幸せなの」
僕は何も考えていなかった。人の温かさに触れている、自由な考えが受け入れられる時間が、僕の目の前にあった。行き着く場所に行き着いて、大きな広い平原に放されたような、浮き上がるような気分だった。
彼女の声、僕のゆっくりとした呼吸音、ほんのそれだけ。僕の近くには確かに彼女が存在している。聞こえている音もどんどん遠ざかっていって、僕は大きな欠伸を押し殺した。
眠気は嫌なものを運んでくる。辛いことは緩み切った頃にやってくる。そういうものだった。今まで一度だって僕の前に姿を現さなかった女に、僕は小さな予感さえも感じられずにいた。
「彼に似て、癖毛なのね。目元は私に似てる」
僕の前髪が摘ままれる。眼を開けると、彼女はすぐ横に膝を突いていて、僕の頭に手を伸ばしていた。
僕は気付いた。この女は僕の方を向いているが、何か違うものを見ていた。僕のことを見てはいなかった。母が僕を見る時の、あの眼だ。僕を見ることなく、夫をたぶらかした女を憎んでいる、あの眼にとてもよく似ていた。
僕はとんでもない思い違いをしていたのだ、と思い知った。
クルクルと回ってポツンと落ちる、そんな感情だった。背筋が凍る、手が震える、瞳が熱くなる。この感情は、二回目だった。
「彼、元気かしら。あの人は、私のことを覚えているのかしら」
ついさっきまでの毅然とした強くて美しい彼女は、そこにはいなかった。この女はもう駄目なのだ、と僕は思った。一度打ち捨てられて、諦めて、忘れようと必死になっていた、ただの一人の女だった。ほんの少しも、僕の産みの親ではなかった。この女は、僕が父の近くにいることで、自分が父の中で存在し続けることを期待しているのだ。僕を通して父を見るだけで、産み落とした僕自身を想ったことなんて、ただの一度だってなかったのだ。
「あなたが生れてくれて、私はとても嬉しかったの」
怒りとか、淋しさとか、そんな安っぽい感情はなかった。僕はずっとどこかで期待していたのだ。他人に関わっている時も、一人で街を歩いている時も、母に殴られている時だって、僕を一番に考えてくれている人間がいると思って耐えてきたのだ。そんな、支えとも言えるものが一瞬で消えた。消え去ってしまった。もう、僕には何もない。
僕は反射的に立ち上がった。女は不思議そうにこちらを見ている。僕の行動の意味なんて、この女には分かるはずもなかった。
「すいません。お邪魔しました。お会いできて、僕も嬉しかったです」
リュックサックを持って、僕は家を出た。女は僕を呼び止めた。
「今日は急いでいるのでもう帰ります。近いうちに、また来ます」
僕は、少しだけ笑顔を見せてあげた。それだけで思いの外、あっさりと何もかもが終わった。
玄関を出て少し歩く。僕の足はしっかりと地面を捉えて、短い土音を鳴らしている。案外普通に歩けるものだな、と思った。女は僕を見送るために玄関先まで出てきている。手を振っている女に一礼をした。顔を上げると、この場所の様子が、来た時よりも正しく鮮明に見えた。白い壁に血管のように走るヒビ、汚れてくすんだ青い瓦、隠れるように伸びた雑草たち。なんだ、こいつらはこの場所に上手く馴染んでいるじゃないか。
僕は駅へと歩いた。もう、一度も僕は振り返らなかった。
5
『今から二十年ほど前の夏だ。息子が若い女を連れて俺のところにやって来た。全ての事情を聴いて、俺は初めて息子を殴った。憎かったからじゃない。心配したからだ。俺はあいつの親として、何歳になってもあいつのことを心配している。親とはそういうものだ。来てもらった嫁にも、あちらの両親にも、あいつと一緒に頭を下げた。散々に罵られて、貶された。でも、俺はあいつの横で頭を下げ続けた。俺だけは、いつまでもあいつの味方でいてやらなくちゃいけない。俺は、親っていうものを、家族っていうものを、そういう風に考えている。
お前にとって、人を信じたり、人に関わったり、人を愛したりするには難しいだろう。お前を見ていればわかる。でも、お前の周りは、実は愛で溢れているんだ。お前を取り囲んでいるものは、本物だ。
それでも、お前には知る権利があると思う。悲しむ人は多いと思うが、お前は誰にも止められるべきじゃない。自分が思うように行ってみると良い。お前の生まれた証も、来た道も、俺が全部持っている。それをやるから、好きなようにしろ。
いつかお前に、家族ってもんが良いものだって思ってほしい。二つとも手に入ることを願っている。』
祖父からの手紙を読み返して、リュックサックと一緒にゴミ箱に捨てた。底の方でジッとこちらを見つめているそいつらを、僕は見返す。
祖父は僕じゃない。他の誰だって、僕ではない。僕が悪いんだ。ひねた考え方で、拗ねて、勝手に自分を冷ましきっている。いつも口ではそう言っていたけれど、心のどこかで誰かのせいにして、誰かに助けを求めて、甘ったれた考えを隠し続けた。もうすべてが遅かった。求め続けたものは、実は何処にもなかった。
僕を連れて行ってくれる電車の扉は、開いている。電車とホームの間、真っ黒い隙間を跨ぐ。自惚れとか捨てられない期待が、その奥に潜んでいる気がした。ポケットを探り、メモを指で摘む。もうここが終着点なのかもしれない。ここで終わりにするべきだ。車内の暖かい空気と、冷たい夜風。その二つが交じり合った匂いがしている。僕は、自分がどうするかをこの場所で決めなくてはいけなかった。