・兄を偲う
両親を亡くしてからは、十歳年の離れた兄さんが私の親代わりになってくれた。幸いにも、私たちが今すぐに飢えないほどの猶予はあった。だが、今までと同じ生活を続けていくと、すぐに行き詰まるのは目に見えていた。兄さんは、私に苦労をかけまいと高校卒業後すぐに就職し、私が大学を卒業するまでのお金を工面してくれた。
ただ、私が良く思わなかったのは、兄さんが愛煙家だった点だ。私が重荷となり、彼の鮮やかな夢を潰し、華やかな未来を奪って、彼を束縛していたことは重々承知していた。だから、彼の唯一と言っていい楽しみである煙草を取り上げることはできなかった。
元々、体が強い方ではなかった彼だが、一年前に病の存在が発覚した。医者からは入院を勧められていたが、結局はお金が無かったということと病院内は全面禁煙だということから、自宅療養の形を選んだ。兄さんは病気を宣告されてからも煙草を手放さず、それどころか日がな一日煙を燻らせるようになり二十日余り。仕事を辞めて、毎夜毎夜家を出て行った。日中に行き先を訊ねても、兄さんはゆらゆらと答えを逸らかした。唯一分かったこととして、どうやら親友のところに入り浸っているらしい。私が家の中にいてゆっくり休んで欲しいと言っても、兄さんはその友人と会い続けた。
そうして、六月中旬の朝、雨が降りしきる窓の景色を背景にして、布団に包まり眼覚めない彼を発見した。
私が知っていた兄さんの余命より、あまりに早かった。医者の言うこととは、なんとあやふやなのだろう、と思った。兄さんともっと話をしたかった、とも。
息を吸うと、先端が赫くなり、ちりちりと煙草の長さは短くなる。息を吐くと、口から煙が揺らめき、空気に混じって消えてゆく。兄さんの命が煙に溶け込んでいるように見えてしかたなかった。兄さんが煙草を喫んでいると、それ自体が自傷行為のように見えて仕方なかった。兄さんの死に関係ないのに、兄さんが居なくなった今でも煙草の煙を睨んでしまう。
・金曜日
私は、大学を卒業するとすぐに就職できた。学生の時に二年間アルバイトとして雇ってもらっていた会社だ。正社員にならないかという誘いがあったのは、兄さんが死んで約半年、恋人の支えによって軽い精神失調が恢復した頃だった。自分の生活費は自分で稼ぎたかったが、就職活動に身が入らず、一社も正社員としての内定をもらえていなかったので、心底焦りだした矢先の話であった。藁にも縋る気持ちでその誘いを受けた。体調が悪くとも欠勤せずに働いたことが今の私に繋がっていると思うと、本当に良かったと思う。あの頃の私や支えてくれた恋人には感謝しかない。
入社して一月と少しが経った。いつものように出勤するため電車に乗ると、運良く座れたのに運悪く香水がひどく臭う女の近くだった。適量の香水は好ましく思うのだが、鼻が馬鹿になった女が身にまとう強烈な甘い刺激臭はいただけない。恋人から勧められて飲み始めたユーグレナドリンクの深い緑色を床にぶちまけそうになる。私は苦い唾液と罵声を噛み締め、会社の最寄り駅まで我慢することを決意する。違う車両に移るのは、負けたような気がして。あと何分で着くのだろうか、そう思い腕時計をちらりと見る。恋人とお揃いのそれは、私の一番の宝物で、ささくれ立った私の心を落ち着けてくれるが、まだあと二十分近くある。
「おはようございます」
そう言っていつものように出勤カードを差し込む。やっと着いた。頭が痛い。仕事が終わったら、数日後に迫った恋人の誕生日の贈り物を買う予定が、仕事を頑張ろうという気力を与えてくれた。
「おはよう。あら、今日は顔色が悪いわね。大丈夫なの?」
私を心配してくれているのは上司の咲己(さき)さん。彼女は私をこの会社に誘ってくれたその人だ。アルバイトのときから、仕事に手間取っていると手伝ってくれたり、プライベートでも悩み事の相談に乗ってくれたりする。
「ええ、少し友人と夜中まで話し込んでしまって寝不足気味で、ちょっと電車に酔ってしまったようです」
友人というのは、実際のところ恋人だ。咲己さんには恋人がいることを言っていない。仲のよい先輩であるには違いないのだが、咲己さんに限らず他人に恋人について話す機会はないだろう。
「そうなのね。体調が悪いとかじゃなくてよかったわ。でも、きちんと睡眠はとらないとだめよ。健康が第一なんだから。私の弟もここ一年体調が不安定でね、すっかり痩せちゃったのよね。何があったのか聞いても教えてくれないし、偶にしか会わなくなっちゃって。あなたも気を付けるのよ」
「分かりました。ありがとうございます」
私の仕事は、アルバイトとのときとは異なり完全な事務職だ。書類の整理はもちろんのこと、先輩たちの仕事の手伝いや、顧客から掛かってくる電話の取り次ぎなどを担当している。私はまだまだ新人なので、仕事はとろい。しかし、先輩たちとは大学生の時からの知り合いなので、分からないことは気軽に聞ける。私は元々人見知りなので、新しく入った職場できちんと仕事ができるかは分からなかった。そう考えると、知り合いが沢山いるこの職場で働けることはとても幸せだった。
贈り物を選び終えると夜になっていた。腕時計を見ると、二時間もお店にいて悩んでいたのだ。私は翠玉が配われた指輪を選んだ。恋人のことを考えていると、本当に時間が経つのが早い。
帰り道、私は買ったばかりの指輪に少し目を向けては、恋人の喜ぶ顔を思って嬉しくなる。さっきから、そんなことを繰り返していた。私たち恋人は仲が良い。でも、互いに指輪を贈り物に選んだことは一度もない。私は勇気を出して、これから指輪を渡すのだ。
家からの最寄り駅に着き、家までもうすぐだと思っていたのに、全面禁煙のはずの駅のホームでベンチに座って煙草を吹かしている男の後ろ姿を見つけて、自分の嬉しさに水を差されたような気分になってしまった。
改札への階段に行くには、彼の横を通らないといけない。どんな顔をしているかを見てやろうと思って、勇み足で歩く。だんだん近づくにつれて彼の風貌がよく見えてきた。センスは中々いいのに、なんだかくたびれた服を着て汚れた靴を履いているせいで台無しだ。髪の毛もぼさぼさだ。後ろ姿だけを見て、せいぜい下の上と言ったところだろう。
彼の横を通り過ぎた。いざ振り返って男の顔を見ると思うと緊張してくる。人の顔を盗み見ることがとても悪いことのような気がして。ええい、私は不届き者の顔を見るだけだと自分に言い聞かせ、そっとちょっと振り返る。
私は立ち止まっていた。彼から目が離せなくなる。もし肉付きがよかったならば美丈夫だということは見て取れる。しかし、顔貌で惹かれているわけではない。眼だ。彼の両の眼は、死ぬ間際の兄さんが時々見せた眼に似ているのだ。なにかを守りたくて、でも守れない。そんな悔しさを滲ませた眼だ。
はっとする。私は彼の眼を見ている、眼を見ているのだ。彼は唇の端を歪めた。私は、血の気が引いた顔で前を向いて、階段へと歩く。鞄の肩紐を握りしめ、階段を一段飛ばしで駆け上る。背後では、今ホームに停車している電車は回送電車のため乗車できない、という旨のアナウンスが繰り返されている。手に持っている紙袋がいやに軽いような気がした。無性に恋人に会いたくなり、自然と早足になった。
・恋人
空(そら)さんと初めて会ったのは高校の入学式が終わって数週間経ち、図書委員会の初めての会合があった日だ。隣のクラスだったけれど、彼女のことは知っていた。彼女はとても活発で明るく、また、とてつもなく可愛らしかったので、彼女の周りには人が絶えなかった。図書館の窓からテニスコートが見えるのだが、空さんのテニスをしている姿はとても煌めいていた。肩まで伸ばした髪の毛を軽快に揺らして跳ね回り、ボールを打つごとに水滴がほとばしる。翻って自分のことを考えてみると、私は唯々本の虫。彼女と私とは正反対だ。だから、私は彼女が委員会の中でも特に地味な図書委員会を選ぶとは思っていなかった。
「業云空(くにぐもそら)っていうの。よろしくね」
彼女は、隣に座っていた私にそう言って笑った。
「ええ、宜しくお願いします。私は紫乃草加(しのそうか)です」
「草加ちゃん、わたしたち同級生でしょ。そんな固いしゃべり方せずに、もっと気軽に話そうよ。わたし、草加ちゃんと仲良くなりたいな」
「ごめんなさい、この話し方は癖なんです。別に空さんと仲良くなりたくないわけではなくて」
「じゃあ、せめて苗字では呼ばずに、名前で呼んでよ」
「分かりました、空さん。私、空さんは図書委員とかではなくて、もっと活発な活動の委員会を選ぶと思ってました」
彼女を名前で呼ぶことですら烏滸がましく感じ少しの緊張が見えてしまっている。
「ずっとテニスをやってて、体を動かすのが好きで本とかあまり読んでなかったんだけど、最近本を読んでね。友達オススメの恋愛小説なんだけど、それが結構おもしろくって。だから、図書委員に行ったらもっとおもしろい本を知ってる人がいるかなって思ったんだ。草加ちゃんは、本が好きなの?」
「ええ、好きですよ。本。中学生の三年間、家ではずっと独りでしたから。暇を潰すために図書館によく。本が自分を満たしてくれているような気持ちがしたんです」
「一番好きな本とか、教えてくれる?」
「私は星新一の小説が、特に好きでした。現実ではあり得ない、でもどこか身近に感じる。奇妙な作品でしたが、何回も読みました。短編なので、読みやすいと思います」
「ありがとう。その人の本、読んでみるよ」
初対面はこんな感じだった。
空さんは、陰気な私とも偏見なく話してくれるようだったし、彼女と一緒にいる時間が増えると、必然的に彼女の友人たちと接することも増えた。皆、気のいい人たちで、一気に私の交友の輪は広がった。中学校のクラスメイトとは大違いだ。彼女ら彼らはずっと本を読んでいた私を見下していた。あからさまではなかったが、言葉の端々に、『あなたのような根暗と誰が友達になるの?』という感情が見え隠れしていた。まぁ、友人を作ろうとしなかった私にも非があることは理解していたので、両者ともに過度な干渉はしなかった。それで学校生活は事足りていた。
充実した高校生活を送っていた私だが、入学から数ヶ月、仄かな恋心が宿ってしまった。隣のクラス、空さんのクラスの担任の教師に、だ。彼は女ばかりのこの学校の中で、たった一人の男性だ。空さんは、私の繋がりを生徒たちだけでなく、教師たちにまで広げた。深い理由はなかったが、強いて言うならば彼の雰囲気が兄さんのものに似ていたからだろうか。しかし、彼と私の関係性は教師と生徒。これが大きな問題であることは、簡単に分かるはずだ。私は、この思いを心の内に押し込めようと決めた。
そうして悶々とした一年を過ごし、秘めた思いが冷めてきた頃。巡ってきた二回目の夏。朝、蝉の声が鬱陶しい。今日も晴天だ。これから昼にかけて茹だるような暑さになることを考え、何の役にも立たない入道雲を恨みながら登校する。学校に着き上履きを取り出そうとすると、指先に紙らしきものが触れた。見てみると薄桜の封筒が下駄箱に入っていた。こんな可愛らしい手紙をこんな場所で立って読むのは、なんだか違うような気がしたので、教室で封を開けることにした。
放課後に一番大きなあの木に来て欲しい、その一文と差出人の名前がぽつんとあった。差出人は空さんだ。この学校で一番大きな木は、校舎の裏にある八重桜。私たち生徒が三人両手を広げて囲んでも、まだ足りないぐらいの大きさの木で、この学校の校章にもなっている。
空さんとはこの一年で、親友と言っていいほど仲良くなった。友人以上の関係になれたなら、と考えたこともある。だからこそ、彼女が何を言いたいのか、なんとなく察した。
耳まで真っ赤になる。朝早いので、教室に私一人しかいなかったのは幸いだ。誰かがいたなら、何事かと揶揄されたことだろう。
授業が始まっても、私は彼女についてばかり考えてしまい、上の空だった。先生に指名されても気付かず、二度三度名前を呼ばれた。そんなことは滅多にないので、先生にも級友たちにも怪訝な顔をされた。
昼休みになる。高校生になってからは誰かと一緒にご飯を食べるようになったのだが、今日は気持ちを落ち着かせるために、久しぶりに独りで食べる。結局、気持ちは全然落ち着かない。
放課後になった。五、六限目もいつの間にか終わっていた。ひょっとすると、自分の考えていることは全くの見当違いなのかもしれないという不安が鎌首をもたげてくる。期待と不安がないまぜになって暴れる心を胸に納めて、そわそわしながら桜の木へ向かう。端から見たら、かなり挙動不審だったはずだ。
約束の木が見える。木の葉が青々と瑞々と茂っている。何もかもを包み込んでくれそうな雄大な枝を伸ばす桜に、私は少しだけ平常心を取り戻す。すでに、木の下に彼女がいた。少し歩みが早くなる。少し心拍数が高くなる。再び顔が赤くなる。彼女と向かい合う。いつも通りを装い彼女に話しかける。
「手紙読みました。どうしたのですか、空さん」
「あの……。実は、その……」
そう言って、言い淀む。いつもの空さんらしくない。でも、足をもじもじさせ、しどろもどろになっている空さんもとても可愛らしい。私の顔がさらに赤く熱くなっていくのが分かる。続きの言葉に期待が募りもどかしく思ったが、じっと彼女の言葉を待つ。十秒に満たない時間が永遠に感じられた。
「草加ちゃん、あのね、君のことが好きになっちゃったんだ。だから、付き合ってください!」
そう言って、空さんは頭を下げて、手を差し出した。
私たちを祝福するために、蝉が一層大きく声を張り上げたような気がした。
・手紙
私は家に着いた。指輪の入った紙袋を見る。さっきまで感じていた嫌な汗は引いていた。長く息を吐いた。
私は、恋人が指輪に気付かないように、紙袋から取り出してポケットに滑り込ませる。
私たちはアパートの二階に住んでいる。兄が死んでから、すぐここに移り住んだ。いつもなら窓から漏れているはずの部屋の電気が、見えない。彼女は、友人が本当に沢山いる。朝から友人と会うと言って出て行ったきり、連絡はなかった。少し心配になったが、恋人は誕生日が近いので、盛大に祝ってもらっているのだろうと思った。
私は、どうやって恋人のことを祝おうかを考える。あと三日だ。飾り付けた部屋の中で料理する私。味を確認して、よしっと呟き、お皿に盛り付ける。ちょうど恋人が帰ってきて、鍵を回して扉を開ける。私と恋人は顔を見合わせて、ふふっと笑い合う。夕食を食べ終え、二人でたわいもない談笑をする。そして最後には、「誕生日おめでとう、これからも宜しく」という言葉とともに、指輪を贈る。そんな光景を頭に浮かべながら、鍵を鞄から取り出す。
「ただいま」
やっぱり、恋人は外へ出ているようだ。居間のソファへ鞄と紙袋を放り出し、洗面所で手を洗う。手を拭くタオルが掛かっておらず、棚から引き出して手を拭いた。机の上に何かがあるのが見える。この家を最後に出たのは私だ。机の上にものを置いた覚えはない。
私は冷蔵庫に入った麦茶をコップに注ぎ、口をつける。机に近づいて、何が置いてあるのかを確認しようとした。それは、封筒だった。なるほど、恋人は一度家に帰っていたのだ。家を空けることは珍しくなかったが、恋人が書置きを残こしていくことなど一度もなかった。いつもなら、携帯で連絡してくる。
封筒の綴じ目は、固く糊付けされていた。机の上のペン立てから鋏を取り出して頭を切り、中の便箋を広げる。
最初の一行を読んで、唇につけようとしていたコップが手から滑り落ちる。床に到達した透き通った硝子は、見た目とは程遠い鈍い音と中身を四方に撒き散らした。足元から香ばしい臭いが漂ってくる。私はそんなことに構わず、両手で手紙を持って夢中になって続きを読む。
最後まで読み終えると、手に持っていた便箋さえもが床に落ちていく。自分の手を見た。次いで、手首の腕時計に目を移した。恋人から贈られたものが自分の肌に触れているだけで、得体の知れないものに取憑かれ穢れてしまうような気がして、すぐさま腕時計を床に投げつけた。さらには、恋人ともに過ごしたこの部屋までが歪んで見えた。私は、立っていられなくなってソファに深く座る。
いつの間にか眠っていた。カーテンを閉め切った部屋では、昇っているのが、太陽か月かすら分からなかった。私は色々乱れているだろう顔を洗うため、ゆらゆらと洗面所へ向かった。
鏡に映る私は、あの眼をしていた。掛けてあったタオルに顔を埋める。それは、私の顔に付いていた水滴を全て吸い尽くしてくれる。数分はそうしていただろうか。一息ついた私は、居間に戻って、散らかった部屋に眼をやる。
床には、大きな染みができていた。もちろん、あの手紙にもべったりと染みが。その周りを囲むように、大小の硝子片が電球の下で仄かに輝いていた。私はソファにある袋を広げ、粉々になってしまった欠片を丁寧に拾い上げて入れる。
私は鞄の中に入っていた手紙を取り出して、ぼろぼろになったものと茶色くなったもの、合計二通の恋人からの手紙を押し込んで、袋の口を固く結んだ。床に残った染みを拭おうとしたが、何度拭いても全く薄くならなかったので、諦めた。
ひとまずは片付け終えたが、これからもずっと、この家に住むことを考えると、胸の奥を引っ掻かれたような不快感が沸き上がってくる。私は重要なものだけを鞄に入れて、外に出た。
部屋に残った腕時計の針は、もう動いていない。壊れていた。
・薄桜の手紙
紫乃 草加さんへ
あなたと別れることを決めました。実はいま、わたしはある人とも関係を持っています。その人は高校での三年間、担任だった人です。わたしが高校生の時は、先生に告白することなんてできず、卒業してから、あなたとの楽しい日々で彼への恋心は徐々に薄まっていきました。だけど去年、偶然彼に出会ってしまい彼への思いが再び燃え上がってしまいました。あなたへの裏切りになってしまうのに、自分で自分を止めることができなくて、彼に告白してしまいました。あなたを隠して。あなたの愛情とわたしの欲望。その二つの美醜の差に耐えられなくて、あなたを一方的に切り捨てるわたしを許してください。あなたは何も悪くなく、わたしが全て悪いのです。ごめんなさい。本当にごめんなさい。
業云 空より
・翠玉の指輪
外は、太陽が意気揚々と南へ向かっていた。晴天だ。携帯を確認すると、今日は土曜日だった。私は意味もなく街を彷徨う。商店街を通り、踏切を渡り、神社の境内を横切り、団地の中を抜ける。突き当たった川に沿って歩き、初めて訪れる公園のベンチに座った。右足のストッキング、脛の辺りに伝線を見つけた。
後ろの揺らめきを聞きながら、ぼうっと二、三組家族連れを眺めていると、子どもたちが遊ぶ遊具の向こう側、公園の入り口から昨日見た男が入ってきた。彼は、あのときとは違った笑みを浮かべて、私の方を見た。真っ直ぐに私の方に来た。座っている私の眼の前まで来た。
「やあ、きのうぶりだね。隣に座ってもいいかい?」
そう言って、彼は私に話しかけてきた。私が知らん振りをしていると、私の鞄一つを挟んですぐそこに、彼はさっさとベンチに腰掛けた。彼は昨日と同じ服と鞄を身につけているが、微かにいい匂いがしていた。煙草のにおいは全くしなかった。私は昨日お風呂にも入らなかったことを思い出す。直ぐに彼の側から離れたくなった。でも、ここでベンチから立ち上がるのは、彼に負けたような気がして、動くことすらできなかった。何もすることはないので、再び、ぼうっと公園の様子を眺める。
子どもたちは、元気に走り回っている。親たちは、優しい目をして見守っている。微笑ましい光景なのに、私にはそれが人形劇場のように見えてしまった。親たちが、子どもたちを思うように操り、ほくそ笑んでいるように。
自分はこんなに捻くれていなかったはずだった。やはり、恋人からの手紙は、私に影響を与えていたのだろうか。それとも、とっくに捻くれてしまっていて、自身の変化に気付かなかっただけなのだろうか。その疑問を皮切りにして、今までの自分を順繰りに考えていた。
鞄一つ分離れた私と彼は、何も話さず、結構な時間ずっと一緒にベンチに座っていた。私は、自分のことを考えていく中で、昨日彼を盗み見た上にさっき彼を知らん振りしてしまったことが、とても子どもっぽく思えた。
「あの……、こんにちは」
私は、彼にぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で挨拶をする。彼が挨拶を返してくれるかは分からなかった。自分の膝に視線を落としたまま、彼の反応を待っていた。聞こえていないのか、彼に動きは無かった。私はふと眼をやった。二人の眼が合った。彼は微かに頬笑んでこういった。
「こんにちは、やっと話してくれたね。昨日は、早々と僕の前から居なくなっちゃったからね。本当は、あのとき喋りたかったんだよ。まあ、あの時間に、あの格好で、電車から降りるってことは、この地域周辺に住んでるのは分かったんだけど、こんなに早く会えるとは、思っていなかったよ。今日の君の顔と昨日の君の顔、雰囲気が全然違うよね。何があったの? 言いたくないなら、頭を横に振るだけでいいよ」
興奮していたような話し方で、忙しなく聞こえた。私は名前すらも知らない彼に一切合切を吐き出せば、気持ちも晴れるかも知れない。私は関係の無い彼に向かって話し始めた。
「恋人の誕生日プレゼントを買っているときには、いや一年前には、もう既に私は恋人にとっていらない人間になっていたんです。昨日、恋人の嬉しそうな顔を想像しながら家に帰ったのに、家には誰も居なかった。彼女は私のことを捨てて、新しい人の元へ走っていってしまった。しかも、私から彼女を奪い去ったのは、あの頃に私に恋を教えてくれた人。私だって想いを彼に伝えたかった。でも、彼女と付き合ってからは、彼女を一途に想っていた。それだけは確か。彼女がいるから変われた。私は一人じゃないって思ってた。それは、ただ念ってただけなのかも知れないけれど。それでも彼女がいたから、兄さんが居なくなっても、私には愛してくれている人が居る、だから大丈夫だって。なのに、なのに──」
少し時間が経って冷静になったと思っていたのに、愛した人が目の前から居なくなる理不尽の記憶が二匹、体の中で暴れ回った。途中からは、私が何を口走っているのかも分からないままに彼に捲し立てた。最後には、視界に光がちらつき意識が飛びそうになった。
彼は、ある種の錯乱に陥っていた私に、ひしと抱きつく。はじめ、何が起こったのか分からずに藻掻いたが、段々と落ち着いてくる。彼の暖かさの中でじっとしていると、兄さんとの思い出がふうと浮かんできた。
両親が死んで数週間が経ち、私は目紛るしく変化する環境に耐えられず精神を磨り減らしていった。ついには兄さんが夜に攫われてしまうのではないか、私を置いて煙のように消えてしまうのではないか。そんな考えが私を支配していき、時々夜に独りでいることが途轍もなく心細くなった。そんな夜は決まって寝付けず、私は深夜にベッドを抜け出して、兄さんのいる部屋に忍び込んだ。兄さんは明るい部屋の中で机に向かって一心不乱にノートにペンを走らせているが、私に気付くと顔を上げ、にこりと笑って、どうしたんだい、と声を掛けてくれる。私が孤独への恐怖を話すと、兄さんは一瞬遣る瀬ない顔を浮かべてから、ペンを筆箱に収め部屋の明かりを豆電球にする。そして、一緒にベッドで寝てくれるのだ。そうして、兄さんの温もりに体を包まれて、穏やかに夢の中に誘われる。そんな思い出だ。
ゆっくりと体を離した。私が彼の表情を伺うと、彼は悲しげに俯いていた。微かに見える顔には耐え忍ぶかのような陰りが掛かっていた。ごめん、小さな声で彼が呟く。さっきの調子とはまるで違い、しおらしくなっていた。急に抱きついたことに対して彼が謝っているのではない、と直感的に分かった。だったら、何についてだという話になるのだが、私には皆目見当が付かない。いや、本当は何となく分かっている。でも、確証はない。
彼は顔をぱっと上げて、ごめん、とさっきよりは少し大きな声を発した。それから、
「僕はね、君のことが好きなんだよ。実を言うと、君のことは前々から知っていたんだ。君は、僕のことなんて、知らないんだろうけど」
と続け、彼は私の方を向いた。一歩確証に近づいた。
「ええ、私はあなたのことを見たのは昨日が初めてですよ。だから、あなたのことを何も知らない。でも、あなたに抱きしめられたとき、懐かしいって思ったんです。あと……」
私は膝の上で手を握り締めた。その時、肘に硬いものが当たり、ポケットに何が入っていたのかを思い出す。それほど動揺しなかった。心中を吐露したから、彼の正体が私の思った通りならば、彼へと言葉を吐き出したからこそ、私は過去を整理できたのだ。
ポケットの中から箱を掬い出す。箱の蓋を丁寧に開けながら、中に入った指輪の中心に鎮座した宝石が放つ翠の光を直視した。喉の奥から漏れ出る震えを無視して、勢いよく立ち上がり振り向き、右手に精一杯の力を込めて箱ごと川に投げ入れた。鈍い音を立てて水に落ち、沈んでいく。あの箱は思っていたよりも重かった。
私は彼に向き直った。私の急な行動に、彼は眼を大きく開いて私の方を見ていた。そのまま、水面に残った波紋に眼を移し、そしてまた私を見た。
指輪の箱は私の迷いを全て引き受けてくれたようだ。私自身の体がとても軽く、本来の私が彼と向き合えるようになった気がした。私は自分の考えが正解であろうと、間違いであろうと構うものかと、これは自棄なんかではなく自信であった。私は微笑みを浮かべた。
「ねえ、あなたは煙草なんて吸わないのに、なんで昨日は吸っていたんですか」
この答えが分水嶺だ。でも私には確信がある。
彼も私の様子で察したらしい。私から眼を逸らして少し俯くと、人差し指で蟀谷を掻いて私の問いに答えた。
「あの煙草はね、片見だよ。もう、だいぶん吸ってしまったから、今持っているのが最後の一本さ」
そう言ってクラッチバッグに手を入れ、ボックスを取り出す。蓋を開けると煙草一本が残っていた。それを丁寧に三本の指で摘まんで、私に差し出した。
「これは君が持っておくといい」
ああ、私の心は決まった。
「あなたは私のことを好きだと云いました。私はあなたのことを何も知らない、名前さえ。けれども、それでも良かったら、私と一緒になりませんか」
私がそんなことを言うとは思ってもみなかったのだろう。彼は私の台詞を聞くと、すぐさま顔を上げて私と視線を合わせた。そして、小さく肯く。
「私の名前は紫乃草加です。宜しくお願いします」
「あぁ、んんっ、ああ、僕は相倉思久(あいくらしく)だ。宜しく」
ひっくり返った彼の声は、あまりに滑稽に聞こえた。彼と私は目を合わせたまま、ふふっと笑い合った。