ザァー、雨に音をつけるとこんな感じだろうか。眼前を走り抜ける車体を目で追いながらふと考えた。不名誉な古傷と絶賛水浸しの靴下に意識を注ぎたくはなかったのだ。地下鉄昇降口を登り切ってすぐの交差点には家路を急ぐ人々が溜まっていた。SNSの投稿に反応する、頻りに時計を気にする。待ち方は人それぞれだ。先頭車の濁ったブレーキ音が響く。歩行者信号が青に染まるとそれはスタートの合図。皆は一斉に歩き出した。スマホのロック画面を見て、独り嘆息をもらす。腕に食い込んだビニール袋を揺らし、僕は一直線に目的地へ足を運んだ。
駅から小走りすること十分。パン屋と百均の間を通り、顔馴染みの精肉店の角を曲がると総念寺という寺がある。ここらでは一番大きな寺院で、近年阿弥陀堂の修復がなされた。年中行事だけでなく座談会も催しており地域の憩いの場にもなりつつある。薬医門をくぐり参道に入ると、雨合羽姿のおばさん達と出合い頭にぶつかりそうになる。傘の柄と肩が触れ合う寸でのところで慌てて端に避けた。
「あ、幹人君久しぶり! 時間ぴったりね」
「お久しぶりです」
集団で一際背の低い人が快活な声をかけてくる。千代子さんだ。僕は挨拶を返し、ビニール袋から頼まれていた二節の蓮根と五〇〇ミリの料理酒を取り出す。
「忙しいのにごめんね、ホント助かるわ」
握手されそうな勢いだったが、生憎千代子さんの手は段ボールで塞がっている。皺の入った親指から爪汚れが顔を出していた。
「来たとこ悪いけど追加のお米と野菜カゴの運搬、着替え終わったら手伝って欲しいの」
僕は承諾する。一度その場を去った千代子さんだったが、慌てて引き返してきた。
「忘れていたわ。はい、コレ」
彼女は渡すや否やちょこちょこと砂利道を戻っていく。忙しない人だ、含み笑いがこぼれた。「子ども食堂そうねんじ」、お手製のチラシには見やすい書体でイベントの概要が書かれ、カラフルな装飾が施されている。マスコットのパンダは地域の子ども達の来店を心待ちにしていた。奥のトイレを更衣室にして調理実習と同様の格好に着替え、備え付けの来賓用スリッパに履き替える。渡り廊下を抜けると境内の楠が散らす檜皮色の落葉を風が運んでいた。調理場に向かう途中、スマホをいじる一人の女性とすれ違った。暗褐色のショートボブに不規則に揺れる携帯ストラップ。女子大生だろうか、知らない人だった。
子ども食堂は当日も忙しい。フードバンクや自宅から食材を持ち寄り、調理して子ども達に振舞う。一見簡単そうだが、子どもの誘導、徹底した衛生・食品管理、アレルギーチェック等があり、てんやわんやの大騒ぎ。やった者にしか分からない苦悩とも言えるが、現場では頭を抱えている暇もない。
今日も何とか午後六時までに配膳を終え、合掌を残すのみとなった。長机に並べられたのは一汁三菜、お寺ということもあって毎度精進料理のような品目になる。寺所有の会館に集まったのは総勢三十五名。天候の影響もあってか準備した目標の五十食には届かなかった。上座に構えた住職がそろりと腰を浮かせる。
「皆さん、手は綺麗にしましたか?」
雨脚と大差ないか細い呼びかけが空気を伝う。はーい、子ども達と後方に控えていた調理スタッフが手を挙げて快活に返事する。
「……人は助け合えるからこそ今の自分があるのです。日々の出会いと別れに感謝を」
有難いお言葉を頂き、全員で手を合わせた。
「幹人君も、食べていいのよ」
割烹着を身に纏った千代子さんに肩を叩かれる。残り物は廃棄せず、学生ボランティアが優先的に食べるのがここの御決まりだ。僕は礼を言い、空いた席に着き三角巾とマスクを外す。食で育む子ども達の生の営み、親御さん同士の雑談、賑やかな食卓が広がっていた。素人目には誰が普段孤食で過ごしているのか見当もつかない。
「うわばっちぃ」
始まって三十分が経った頃、低学年の男児が指さして声を上げた。注目が集まる。多数の目線の先にはひじきと大豆の煮物、そのふやけた豆を指で食べるおさげの子がいた。
「だってつかめないんだもん」
おさげの子はしょげた調子で俯く。六歳くらいでまだお箸に慣れてないのだろう。周囲の子どもと一部の親からは冷やかしとひそひそ声が聞こえてくる。僅かな教育格差から優越感を持つ貧困層は少なからずいるのだ。見兼ねたスタッフが動き出そうとしたその時だ。
右斜め前にいた人がパイプ椅子を引き、おさげの子の傍まで駆けていく。渡り廊下ですれ違った女性だ。片膝をついて涙ぐむその子の顔をまじまじと見つめる。彼女は小皿に手を伸ばし、豆をつまんで口に放る。飲み込んで「美味しいね」と慈愛に満ちた表情で呟いた。おさげの子も彼女に倣う。先程の苦い経験はなかったかのような笑みを浮かべる。その場の誰もが口を噤んでいた。
御開きして来客に別れを告げた後、持ち場の片付けに入る。これぞ助け合いの精神、ものの一時間で締め作業に漕ぎつけ、夜九時前には荷造りを終えた。千代子さんの総括と揃わない一本締めで解散。その場に溜まる人を他所に、独り支度を済ます。ひっそりと帰ろうとした僕だったが誰かに二の腕を掴まれる。短くても力強い指圧をアウター越しに感じとった。
「あの、少し喋りませんか」
さっきの女性だと分かると僕は頭を縦に振った。気晴らしのつもりだったか。自分でも思い切ったことをしたと後になって思う。
彼女に促されるまま僕らは近くの公園に赴いた。名前は峰ヶ池公園。日没までは児童の人気スポットだが、雨上がりの夜空には点在する電灯のみが虚しげに佇んでいる。付設された青いベンチやブランコはとても座れる状態になく、成り行きでお皿滑り台を選んだ。円形のカレー皿を十五度傾けたような滑り台。テッペンの縁は幾分ましで、彼女も薄手のハンカチで水気を拭うとあとは気にする素振りもなく座った。
ここに来るまでに分かったのは、名前は浅瀬香、大学四年生という履歴書よりも薄い端的な情報だけ。錆びついた手摺に腕を絡め、距離感が掴めないまま僕らは横に並ぶ。車のヘッドライトが掠める度、垂れ目の横顔が視界に映った。聞いたところ浅瀬さんはかつて子ども食堂にお世話になった言わばOG、今日は久しぶりに様子を見に来たそうだ。この公園も幼い頃よく来たらしい。声を掛けてきた理由は定かでないが、ただ喋り相手が欲しかっただけかもしれない。
「何で君はボランティアをやっているの?」
冷めた手摺が温もりを持った辺りでそう聞かれる。
「幼い頃から疑問だったの。私たちにご飯を作ってくれたボランティアの人達って奉仕の精神だけで本当にやっているのかって」
正直どうとでも言えた。だけど暇だとか社会貢献だとか思いつく全てに該当しない気がした。困ったという作り顔をしてやり過ごす。
酷く聞こえたらごめんね、申し訳なさそうに彼女は手を合わせた。空白の埋め合わせをするように僕は尋ねる。
「どうしてあの時、豆を素手で食べたんですか?」
浅瀬さんは視線を落とし、塗装がはげ落ちたお皿の見込み部分を懐かしげに撫でる。
「あれはね……」
夜を裂くように着信音が鳴った。浅瀬さんはスマホを取り、二言三言小声で話すと赤いボタンをタップした。一息ついた彼女は光沢のある長方形ストラップを見つめる。
「これはドミノ牌。家にあった一つに穴をあけてつけたの」
「なんて言うか……お洒落ですね」
少し照れながらも大事そうに握り、浅瀬さんはそれを天に翳す。サイコロのような牌からは仄かに灯油のにおいがした。
「人間ってドミノだよね」
満足げに呟く。そんな比喩聞いたことも無いし、意味も喉を通らなかった。
「今日は付き合ってくれてありがとう。もう遅いし帰ろっか」
彼女は夜風に髪をなびかせ、一つ背伸びをする。柑橘系の香水が鼻孔をくすぐった。浅瀬さんの真似をする形で手摺を補助に立ち上がる。視界に映る景色はせいぜい公園全体だったが、まるで渡り鳥になったような錯覚を覚えた。降りようとする手前、脇に置いた制定バッグが独りでに滑り落ちる。ジッパーが開いており、止まる頃には中身がぶちまけられ、教材が散乱した。
「これ、台本?」
先に降りた浅瀬さんが束ねられた紫紺の冊子を掴む。表紙には縦書きで『浜町の行商』と印字されている。砂を払い教科書をバッグに押し込む。
「はい、演劇部に所属していまして」
「凄い! 配役は決まっているの?」
彼女が矢継ぎ早に質問してきたので僕はざっくりと活動内容を教えた。ちなみに未だ役者経験が無いという現状も。
「じゃあ役を貰えたらここで一緒に練習しない? 私経験者なの」
益々関心を深めた彼女が突飛なことを口にする。僕は急な申し出に言葉が出ない。夜十時過ぎ、話が上手すぎる。第一彼女になんのメリットがあるのか。損得勘定抜きで考えても、公園で練習する人の神経ってどうなんだろう。寝静まった街中、ひっそりと息づく芸人の漫才練習を見る分には構わない。だが自分がそっちに周るのは別の話である。疑問九割、興味一割。今回はその一割に屈した。
「いいですよ」
葛藤はあったが、二つ返事で話は纏まった。商談が決まったかのように握手を交わす。お互いの掌からは手摺の錆の臭いがした。住宅街の明かりが知らぬ間に一層強くなっていた。
別れ際、「いける日を教えるから」と言われ浅瀬さんとLINEを交換する。「お酒を買ってあげるよ」という悪いお誘いの方は丁重に断った。僕は背伸びしてまで大人になりたくはない。
山田に灯のつく宵の家――。体育倉庫の隣、裏門から校舎に入ると真っ先にあるワンルーム、そんな一種の辺境地に演劇部の部室はある。ここで僕はあめんぼの唄をBGMにして床に広げた新聞紙をちぎっていた。同じ小道具係の一人、不思議君の片山がぼやく。
「新聞紙をちぎる十七歳ってどう?」
「終わってるな」
演劇部の小・大道具は基本自前か自作だ。一商業高校が劇団からのレンタルなんて到底無理な話なので、なければ一から作る。
「追形、こっちお願い!」
同期の手招きの先にあったのは案の定仕事だ。依頼の品は天秤棒、平成っ子の僕は当然現物を見たことはない。ご丁寧に準備された設計図を貰い、諦めと倦怠が混じった溜息を漏らす。ロイホで買い集めればいけるな、首筋を掻きつつ脳内で組み立てていると膝を指で叩かれた。振り返らずとも分かる、俊だ。
「幹人、来て」
二人で部室を後にし、校庭のまき土を踏む。ザッ、陸上部が淡々とインターバルをこなす。俊は脚本担当で舞台監督も兼ねた奴だ。この間は自慢の長髪を括っていたが、今はおかっぱ頭にカットし、前髪も切り揃えられている。少なくとも女子より女性らしい整った顔立ちの彼には前の方がよく似合っていた。屋外トイレまであと十メートルというとこで足を止める。
「全部読んだ?」
丸めた台本を誘導警備員のように扱う。
「一通りね」
『浜町の行商』、近世の江戸城下、浜町川の畔に生きる棒手振りを描いた作品だ。演劇部は各々独自の学校色を持つ。うちは主にシリアスな演目が多い。ユーモアも含んだ劇だが、没落した味噌屋の倅、貫太郎が歩く世界を中心に賭博の中毒性や遊郭への誘い、飢饉の辛苦等重い点も随所に見える。校外学習で観た狂言から着想を得た俊が昨年の秋に書き下ろしたこれで新体制後初の大会を狙う。
「幹人、まく兵衛やらない?」
唾を飲む。まく兵衛は夢見るお調子者の行商人で、主人公貫太郎の同業者であり親友。ずっと裏方を張っていただけあって又とないチャンスである。自然と握られた拳は汗で滲んでいた。やりたいという一声であっけなく決まる。役者不足という台所事情はあるが、どうして重役を自分がという考えが頭をよぎった。躊躇いがちに俊へ部員からの呼び出しが掛かる。頼んだという一言に添えて彼は告げた。
「幹人にぴったりだから、この役」
ミリも納得出来ない言葉と、ハードルを飛び越えて加速する走者に僕は置き去りにされていた。
部室の所定位置に帰る。片山がまだいた。今度は眠そうに段ボールを切り貼りしている。気を紛らわせるくらいのつもりで一連の話をすると彼は喜んでくれた。転がったスティックのりを手に取る。
「何で俺ら演劇部にいるのかな」
片山のバカ面から目を背け「さあな」と素っ気なく返事をする。心の中で呟いた。
(孤独な現実を生きたくないんだ)
その日の帰り、電車で浅瀬さんにメッセージを送った。すぐに返信がきて、寝るまでには次の日時がはっきりした。
あの日から六日後、僕たちは再会した。コンビニで彼女の分の印刷を済ませ、台本を片手に練習に入る。
「貫太郎、今来てんのは茄子だ、茄子。豆腐なんかやめて一緒にどうよ?」
「まっさん、また新しいのに手ぇ出したのかい? 駿河って言うなら分かるが、ここらの茄子はダメだ。水っぽくて傷みやすい。昔、ぬか漬けにしたらえらくまずかった」
「いんや、一富士二鷹三茄子ってこのご時世言うじゃねぇか、風を読まねえと」
まく兵衛の相手役をコロコロと演じ分ける。声の出し方やゆとりある振付、細部に至る様々な要素が彼女を経験者だと裏付けていた。後日浅瀬さんに配役の流れを話すと、口では上手く説明出来ないがまく兵衛は僕にぴったりだと言う。どうやら他人から見える僕は想像と大分違うらしい。
練習中、手を繋ぐカップルや会社帰りの奴らはYouTube広告をスキップするように僕らに一瞥をくれる。そんなことよりも二次関数のようにいかない自らの成長曲線が歯痒かった。部室で練習するには周りの視線が冷たく、かといって自室でやろうにも家には親の耳がある。その点峰ヶ池公園は好都合だった。浅瀬さんはことある度に演技を止め、腑に落ちるまで指導する。演技再開後、決まって浅瀬さんは優しげに呟くのだ。上手くなっているよ、と。根拠のない自信で僕は十分だった。ここで僕が香さんに欲している全てとも言えた。
僕が彼女を「香さん」と呼び名を変えた頃、当初感じた不信感は大分薄れていた。連絡は簡素になり、場所指定なしで公園に集合する。日差しが強かったので、似合わないと分かってはいたが麦藁帽を被って家を出た。髪と交錯するほつれた藁が痛い。祝日と重なったこともあり園内は小学生でごった返していた。涼しげな恰好をした香さんが言う。
「気分転換にどっか行こうか?」
「何なりと。お世話になっていますし」
言ったなと無邪気に笑う。子ども食堂の開店前に練習しておきたかったが、たまには良かろう。喜々としてドッジボールに興じる子ども達を後目に、その場を後にした。時間を持て余した僕らは自転車に跨る。
これは聞いてない。大型スーパーで買物を済ませる頃には麦藁帽は香さんの手に渡り、おまけに僕のカゴはレジ袋の山で積み上がっていた。イッホニイキハイホホハフ、何かを口にしたみたい。だがソーダ味のアイスを頬張る香さんの言葉は聞き取れない。溶けないように注意して自らの自転車を先行させる。ついてこいということだろうか。ペダルを踏むとよく進んだ。
「アナログゲーム展覧会」、高層ビルが乱立する大手商業施設の一角にそれはあった。定番からマニアックなものまで古今東西・世界各国のゲームが陳列されている。年始によく遊んだそれらはショーケースの中で厳重に管理されていた。レジ袋を服に擦らせ、連れ添うようにして練り歩く。チェスの歴史やオセロの発祥を流し読みしているとドミノのコーナーが視界に入った。なぜかドミノ牌にはほぼ全て香さんが所持するものと同じ模様が施されていた。カントリーロードを鼻歌にしながら彼女が尋ねる。
「知ってる? ドミノがタイルゲームって」
ドミノは数が彫られた牌を用いて行う遊戯が中心で、ドミノ倒しは亜流であることを腰の高さにある説明書きが補足する。足りない部分は香さんがガイドみたく教えてくれた。
「私、ゲームが好きでね。友達のものを羨ましがってよくお父さんにせがんだの、あれ買って、これ買ってって。それで渋々買ってくれたのが昔ながらのゲームだったの」
本当に頑固者でね、と振り返った。
「私がいた演劇部は割と緩くって、持参して友達とよく遊んだ。月一の部内対抗ボードゲーム大会、楽しかったなぁ」
懐かしむというより羨望に近い。彼女は開いた手でストラップと化した牌を眺める。出目が剥げ落ちた牌は独特のシミを残していた。
「大学生って大変みたいですね」
「玩具業界の会社に就職して、休日にのんびりとゲームで遊ぶ。それが私の目標。ホントは遊んで暮らしたいんだけど」
世間はそれじゃあ許してくれないね、と肩を竦める。身の上話を滅多にしない香さんがこの時はよく喋った。特に歴史的感染症が収束した後の就活は厳しいらしい。香さんはお手を要求するように掌を裏返す。どうやらこっちの番らしい。
「僕の夢は……」
無言という音が続く。自分の将来に思いを馳せるが、遠くなる程に薄くぼやける。結局未来なんてどうにかなるかと自己完結した。香さんに肩をポンと叩かれる。
「気楽に、慎重にいかないと簡単に崩れちゃうよ。ドミノ倒しみたいにさ」
高望みにはご用心。独り言ついでに彼女はレジ袋を横取りし、愉快な足取りで次のコーナーへと急いだ。
展覧会に行ったその日、子ども食堂はバタついた。スタッフの急な病欠により進行が遅れ、さらに余った杏仁豆腐の取り合いが喧嘩に発展した。お坊さんは争いを止めるのが苦手らしい。喧嘩はすぐに収まったが、ケガをした子がいたので後始末が大変だった。解散したのは予定より一時間オーバー。香さんと別れ、駆け足で帰路につく。
父は焼酎の熱燗を飲みながら野球のハイライトをリビングで観ていた。スパイス不使用の中辛カレー。テーブルの冷めた夕食を見て今日の当番が父なのを思い出した。
「つまみに何か作ろうか」
返答はない。ただいまと挨拶をしても頷くだけ。喋っても音量十五、コメンテーター以下の声量と抑揚しか出せない。おまけに話題を振っても話さえロクに続かない。
こういう人なのだ。中二の時に母と離婚した原因もおおよそ見当がつく。残業続きで夜遅い帰宅が常だから、家事の大体は自然と僕がこなすようになった。罪悪感からか叱る回数は昔に比べてかなり減った気がする。
「幹人、勉強はどうだ?」
酔うと口喧しくなるのが寡黙な父の酒癖だった。筋はあっても心配されたくはない。機嫌が悪くならない程度に適当に返す。父は応援するチームが勝ったのを知りご満悦だ。下手に絡まれないよう部屋に向かう。
「お前が社会に出るとき、今と比べて就職や転職は数段難しくなる。まだ子どもだから仕方ないが、将来のことも考えておきなさい」
赤ら顔でそう言われる。口角の中途半端な上がり具合が気持ち悪い。今日は先の話ばっかりで嫌気が差した。おやすみも言わず固く扉を閉め布団に身体を埋める。睡魔に襲われていたが、まだしばらく使い古したブランケットの馴染んだ温もりを感じていたかった。
換気をしていた室内では夏に別れを告げた冷気が漂う。
(そっとしていてくれ)
僕は顔を覗かせ、肌を震わせながらそっと窓を閉めた。
「頼む、お前だけが頼りなんだ。くみ子に内緒で一朱金一枚、貸してくれねぇか?」
「まっさん、一朱金なんて大金、とてもじゃないけど貸せない。賽とはサヨナラしようよ」
「負けたままで終われるか。今度こそ……」
香さんが演技を止め、休憩に入る。部活終わりの夜八時だった。練習を始めて三週間、確かな成長を感じてはいるが、終盤にいくにつれ役に馴染めなくなる。まく兵衛は商売の失敗を境に荒んでいく。賭博に溺れ遊郭に手を出し、終いに嫁のきみ子に愛想尽かされる。頭を悩ませている僕に香さんは言う。「上手くなっているよ」
「幹人君、危ないから鞄のジッパー閉めなよ」
演技でないところでダメ出しされる。僕が父親と二人暮らしだと知って以来、彼女は手の届く範囲で気にかけてくれているようだ。噛んだジッパーを最後まで閉め切り、魔法瓶に口をつける。紙コップ一杯に満たないぬるくなった麦茶を飲み干す。
「この指はどうしたの。道具係でやった?」
白いケロイド。香さんは右手の人差し指第二関節辺りの切傷を心配そうに見ている。
「これは中学二年の頃、誤って包丁でグサッとやっちゃったやつです……」
引っ越してすぐの頃、卵焼きさえ作れなかった僕は葱を切っている最中に指を巻き込んだ。血で溢れた傷口よりもこんなことも出来ない事実が痛かった。この傷はたとえ大袈裟であっても出来損ないの自分の象徴であり、今は痕跡だけを残している。思い返せばボランティアに興味を持ち始めたのはこの時期だ。触れられたくないものだから、話題を変えようと必死に頭を働かせる。
「そう言えば香さん携帯よく見ません?」
「そう?」
ここ最近、彼女はメールや電話を確認するのが頻繁になった。でも表情から察するに香さん本人には自覚がないようだ。
「前から気になっていたんですが、ストラップから灯油の香りしませんか?」
彼女の視線は宙を舞っていた。一匹の蛾が公園灯に寄ったり離れたりを繰り返す。
「えっとね、私のお父さんが自転車好きなの。ある日私が遊んでいた時にポリタンクに落としてさ。初めは凄く嫌だったけど途中から私だけの物って感じがして。それ以来つけるようになったのかな」
「いい話ですね、僕も欲しいなぁ」
下手な相槌を打つと考えておくね、と耳打ちされる。ニマニマした香さんはスマホに付いたそれを弄びながらゆっくりと口を開いた。
「ねえ知ってる? ドミノ牌は一つじゃ何の役にも立たないんだよ」
その日から三日後、子ども食堂そうねんじ休止のお知らせが届いた。
啄木鳥こつこつ枯れ欅――。俊から役を任されて一ヶ月が経つ。この間と違って僕はBGMを作り出す側に立っていた。パート毎の演出や振付が形を帯びてきた時期だ。追加の基礎練を終えていざ通しというところだった。肩を指で突かれる。
「幹人、来て」
部室を出て向かったのは校庭ではなく、多目的室A。元は音楽室だったが、改修工事の関係で今は空き教室に成り下がっている。形式だけの掃除しかされておらず、差し込む斜光は空中のチリを始終捉えていた。前方にスペースがあり、正面に学習机がワンセット置かれている。机の配列にもはや秩序はない。切り開かれたその空間は非行少年を叱るために先生が準備したような、取調室に近い異様さを呈していた。俊が椅子に座る。
「そこで演技して。相手役は俺、やるから。じゃあ二十七頁の下段、三行目から」
どうやらここで出来栄えを評価されるらしい。
埃っぽい舞台で審査が始まった。
「……うん、良くなってる」
第一声はそれだった。思わず安堵の息が漏れる。だけど、その一言に緊張が走った。
「お前、まく兵衛を見下しているだろ?」
肝が冷える思いだった。怒ったときのお前呼びと尖った口調は厳つい。堪らず訳を聞く。
「普段の態度が滲み出てる。終盤、まく兵衛の華が枯れてる、もっとふらつけ」
首筋に汗を流し、言葉の消化不良を起こす。それからパート毎に助言をくれたがまるで覚えていない。記憶していたのは俊が扉を開ける音と十日後にもやるという捨て台詞だった。
部室に戻ると今日も片山が変わらない場所に座っていた。カッターで型を取っている。面倒そうなので代わりに請け負う。気を紛らわせたかった。手持無沙汰になった片山はあんぐりと口を開け、眼鏡と窓が切り取る殺風景な夕空を眺めている。
「俺たち将来何になるんだろうなぁ」
初めて彼の言葉に共感した。
そこから一週間、香さんと会える日はめっきり減った。水曜日の午後に練習をしたが、スーツ姿のまま頻りにスマホの着信音を気にしていた。俊との一件もあってなりふり構っていられない。毎晩あのお皿滑り台に立つ。ここにいさえすれば課題を乗り越えられる気がした。不安に襲われる度、無性に香さんの声が聞きたくなった。
練習の途中、自動販売機へ行くついでに総念寺に寄ってみた。塀から覗くイチョウは実を落とし、掲示板に貼られたポスターは年配者向けの講演会に差し替えられていた。その場限りの関係、子ども食堂は所詮大人食堂。そこで食堂のシャッターが降りた現実を漸く実感した。
「幹人君、汗だくでどうしたの?」
ランニングウェアを着た千代子さんがいた。空色のミニタオルを受け取り、汗を拭う。空虚さをひた隠して必死に笑顔を作る。
「演劇の練習の後、通る機会があったもので」
「もしかして最近公園で練習してる?」
「はい、浅瀬さんと一緒に」
「香ちゃんと! 青春してるわねー」
肘を脇腹に当ててくる。呼び方からして彼女は香さんと親しい仲なのかもしれない。
「若い二人が食堂の手伝いに度々来てくれたのは凄く助かったわ。彼女も少しずつ元気になっていったし。でも心配だわ……」
顎に指をあて天を仰いだ。言われなくても近所迷惑にならないようにします、僕が早合点した瞬間だ。
「香ちゃんまだ就職出来ていないのかしら」
ノイズだけが脳を通り過ぎていった。
香さんに連絡を取ると次の日程が決まった。十二日午後五時、俊が指定した日の前日だった。本日も晴天なり。学校帰りの僕はブナの樹の傍で一足早く待つ。可笑しい所はないかと手櫛で前髪を梳く。彼女はカーキのチノパンの裾をはためかせ遅れてやってくる。二人の幕が上がった。
「くみ子今回だけ、今回だけ許してくれ」
「あんたは何回そう言うの! この愚図」
「くみ子っ……」
「じゃああんたは其の天秤棒で担げますか? 私とこの子の未来を。命を!」
くみ子がまく兵衛にこっぴどく言い、去ってゆく場面。鬼気迫る局面を公園の中心で演じ切る。
「タメが長すぎるとつっかえるからテンポよく。何回も言うけど訴えるべき相手は観客や審査員! 発声や身振りに余裕がなく下手にオーバーだと一気に冷めるから注意して!」
聞き逃すまいと耳を傾ける。手を叩き二人してその場にしゃがみ、水を煽る。気がつけば顔から汗が噴き出していた。身体が急速に冷えてくると、千代子さんの言葉が脳を駆けずり回る。数秒間、ある筈のないタイミングを模索していた。
「香さん、千代子さんから聞きました」
空気がひりつく。彼女の顔が真っ青に変わる。ペットボトルが地を転がり液は余すことなく流れ出た。口を開くまでにそう長くはかからなかった。
「ごめんなさい、貴方に嘘をつきました」
香さんは殊勝な謝罪の後、滔々と語り出す。羊雲が溶けた夕陽は陰りを見せて横へ下へと蠢いている。
「実年齢は二十四。大学を出てかれこれ二年が経つの。中々希望のとこに受からなくってさ……現在はアルバイト生活。貴方が演劇部ってことは千代子さんが気を利かせて教えてくれたの。いいなって思って、気づいた時には声をかけていた。現実逃避。一緒に演技している時だけ、あの頃に戻れた気がした。余裕と猶予があると誤解していたあの頃に……」
夢についてはホント、口元は小刻みに震えているが、感情の濁流は勢いを増すばかり。聞けば聞くほど幻滅に近い後悔が生まれた。
「実家は自営業の自転車屋さん。大手に押し負けて、貧乏だったわ。新規開拓も失敗続きで貧しいの連鎖。大学を出て残ったのは奨学金の返済義務と身体を壊した父。外見だけ取り繕って環境のせいにして……世の中を直視出来ず、何者にもなれなくてっ! 私はずっと社会に置いてけぼり……」
豆を素手で食べたのはかつての自分を救いたかったのかもしれない。慰めは現実を突きつけているのと一緒だ。涙は見せず、香さんはその場でじっと丸まっていた。
黙りこくる彼女を受け止めきれずやり場のない思いが喉に引っ掛かる。タンタタン……沈黙の帳を破ったのは子気味の良い着信音だった。彼女は恐る恐る液晶画面に耳を当てる。重苦しい相槌と小さな背中で慇懃な礼をする彼女。程なくして通話を終えた。
「もう一度展覧会に行かない?」
明らかな空元気、通話内容が何であったにせよ今にも崩れそうなその言葉に僕は従う以外術を知らなかった。
残照残す木陰の下、烏が雀を追いかけている。助ける気はなかった。色づき始めた遊歩道をしっとりと進む中、半歩先を行く香さんとは殆ど喋らなかった。この間は近く感じた距離がこんなにも遠い。悪戯に伸びていく時間が怨めしかった。
展覧会は期間限定だったらしく、近日別の催しに変わることを知る。入場が遅かったので早々に館内アナウンスが流れ始めた。一月ぶりに訪れたそこは模様替えをするように空間が老舗の本屋のような静謐さを帯びていた。ドミノのコーナーを二人して探すが一向に見当たらない。
「人気の無いものは淘汰されちゃったのかな」
見逃したのかもしれないと袖を引くが、身体がついてこない。彼女にその意思はなかった。苦し紛れを口にする。
「幹人君、ありがとう。今は大変だけど何とかなるよ、きっと」
ドミノを倒してしまったような痛ましい表情だった。嵐が去ったあとの静けさ、香さんは水を飲み過ぎたのかもと独りトイレに駆け込む。いやに足音と館内の別れのワルツが耳に残った。
閉館まで待っていたが彼女が戻ってくることはなかった。探しだそうとした時、スマホが震えた。慌ててLINEを開く。
「お互い頑張ろう」
無機質な七文字が覇気もなく躍っていた。
トボトボと家に帰ると鍵が開いていた。父は連絡もなしに帰宅しており、ワイシャツ姿のままグラスを洗っている。やけ酒でも煽ったか、ダイニングは酒気を帯びていた。顔色を伺ったような態度が妙に鼻につく。くだらない会話を曖昧に済ませ、席を立とうとした時分、腕組みをして流しの前にあるパイプ椅子に腰かける。父はぼそぼそと喋り始めた。
「部活か知らんが最近帰りが遅いじゃないか」
「大会が控えているんだ。第一うちは放任が教育の基本方針みたいなもんだろ」
癪に障ったらしく眉を釣り上げる。
「お前はもう二年生。部活からは少しずつ身を引きなさい。結局日本は学力社会だ。馬鹿なことはやめて将来を考えたらどうだ?」
大した大学出じゃないお前が言うな。バッグを引っ掴み、家を飛び出す。夕食当番なんてどうでもよかった。逃げるように下に停めていた自転車で駆け出す。進め、進め。ペダルを踏めば踏むほどに心だけが先走った。
峰ヶ池公園に着く頃には足がふらふらだった。曇天の闇夜、お皿滑り台の上で何かを払拭するように練習に没頭する。一人劇場だ。
「……貫太郎、きみ子。木偶の坊の俺は何を担げばいいんだっ⁉」
こんなんじゃ俊は納得しない。拍子に明日への恐怖から足を取られる。弾みで近くにあったバッグから中身が飛び散った。情けない有様の自分に酷く失望する。休憩しようと思い、テッペンを目指すが、中腹で盛大に滑り落ちる。限界だった。あの時二人並んでいた処から香さんの声が聞こえてくる。
「何で君はボランティアをやっているの?」
今なら答えられる。僕は快適な居場所が欲しかったのだ。過度な責任を負わなくていい周りに頼られる存在を強く欲した。
でも同時に大人にはなりたくなかった。選択や責任は怖いのだ。直径七メートルに満たない円の中、誰の目にも残らない舞台で僕らはもたれ合うようにして理想像を追い求めた。台詞や振付は二人だけのモールス信号。現実なんて関係ない、二人だけの今日と明日。
「上手くなっているよ」
声は何度も再生される。恋愛ではなく敬愛。彼女だけが唯一僕、まく兵衛を証明出来た。人は助け合えるからこそ今の自分がある。見栄でも素でもいいから傍にいてほしかった。彼女の不在を脳が理解するにつれ、形成された筈の僕の実像は脆く崩れる。幻想だと、未だ卑小な存在だと言わんばかりに。
身悶えし、息を荒げながら底を見ると、光る物を見つけた。這ってバッグを寄せてそれを握る。ドミノ牌だった。香さんがしたみたいに天に翳してみる。あれだけした灯油のにおいが僕色に染まっていた。牌をつまむ手の古傷が痛い。娯楽は娯楽にあらず。
妄想か錯視か。ただの劇中人物、社会に負けた一人の男が眼前に現れる。まく兵衛の心象が垣間見え、肉親のようにぐっと近く感じる。今なら俊に認めてもらえるだろうか。
「ねえ知ってる? ドミノ牌は一つじゃ何の役にも立たないんだよ」
涙なんて生温い。突如振り出した雨が凶弾となって自己を貫く。激しさを増すほどに声にならない叫びがこみ上げてくる。
人間社会なんてドミノ同然。逃げ場のない世の中が憎い。一過性の感情だとしても……今はただ苦しい。ここにドミノ牌は一つしかないのだ。
ドミノと自覚した僕には一人で起き上がることも喋ることも、ましてや脳裏に浮かんだ彼女の言葉に頷くことさえ困難だった。