甘い匂いがする。バターと砂糖が温まった匂いだ。ベルトコンベアの向こうからふっくらと焼きあがったプチフィナンシェが詰まった金型が流れてくる。金塊が名前の由来とかいう焼菓子なだけあって金色に見えなくもない色で更に星型をしているから、子どもの頃に工場見学にでも来ていたら「お星さまの工場だ」と夢中になって眺めていたかもしれない。ただ、それはあくまでもしもの話で、今ここにいる自分に当てはまるものじゃないけれど。ノルマに追われながら、睫毛に汗が乗るほどまでになってもぬぐう暇さえなく身体を動かし、毎週四日から五日、一日八時間半、見る星は、辛い。ひっきりなしに流れてくる黒に近い色の熱く重い金型にある、掌よりも小さい金の塊。なんのことはない、ありふれた焼菓子だ。しかも金型から外すのは人がする作業だけど、尖った部分があるせいで型崩れしたり千切れたりして不良品が大量に出てしまう。流石に廃棄はされず不選別品として売られるらしいけれど、そんなことはどうでもいい。ただただ面倒くさいと思う。
新卒で就職した会社が倒産してしまって、職なしになるよりはまだ、と仕方なしにパートとして雇ってもらっているという惨めさがあるから、余計に嫌なところばかり目立つのかもしれない。母さんには、会社が潰れたのは辛いことだけれど、いい機会だと思って自分のできることや、これまでやってきたこと、これからやりたいことについて考え直してみたら、なんて言われている。優しくて温かな言葉のはずなのに、有難さより鬱陶しさを感じてしまうのは、たぶん、向かい合って話をしているはずの相手に肩の向こうの景色を見られているような気がするからだ。本当の僕は語れるような得意なこともないし、かといって気持ちを武器にできるほどの熱もないし、計画性もないし、大学卒業の時だって苦労していたのにスキルも身につかないまま年だけとって、腐敗した死体みたいになっているのに、その姿を全然見てもらえていない気がする。中学生の時、友達に歳が十も離れたお兄さんがいて、その人が引きこもりだったことを最近思い出す。いつものっそりとしか動かないから口にこそしなかったものの心の中では蝸牛と呼んで馬鹿にしていた。それなのに向こうは僕を気に入って度々オンラインゲームの対戦に誘ってきたりするから、見下されているのに気づかないものかと不思議だったけれど、こういう理由で僕が救いだったのかもしれない。今なら仲良くできる気がする。
流れてきた金型を革製の手袋で掴む。茶色く分厚いそれが本当の皮膚になってしまったように熱を感じて手を放しそうになる。実際には今の熱がそのまま来たわけではなくて朝から冷めるだけの時間がないまま何度も繰り返し握っているうちに蓄積されてきた熱だろう。革手袋だけじゃなく下にはキルトのミトンと汗取りの為の綿の薄い手袋もつけて触覚も曖昧になっている。熱を感じるはずはない。それでも、熱いものは熱い。とはいえ冷ます暇もなく、金型を金属の箱の角にぶつけ、中にフィナンシェを落として隣の検品係に箱を渡す。受け取ったのを確認したらまた次の金型からフィナンシェを外す。交代まではずっとこの作業を繰り返さなくてはならない。
体力と共に自信が擦り減っていく。社会的な自信のことじゃない。そんなものは昔からない。なくなったのは狂わない自信だ。頭の片隅で一昨日見た傷害事件のニュースがずっとリピートされている。ある男が自分はろくな仕事につけず伴侶となる人もいないのに世の中の人は幸せそうなのが許せなくて、電車の乗客を襲ったとか。実際の細やかな心情なんてものはわからないけれど、幸せそうな人が許せないという発言は明日の夜にでもそっくりなぞってしまいそうだ。昨日のSNSには、どういう思考からなのか、犯人への抗議という名目でカップルや親子が幸せそうな写真を大量にあげていた。それを見た時、彼らの想像力の無さになのか、あるいは憎悪を抱いた自分になのか、背筋が冷える感じがした。だから今日はまだ一度もスマートフォンを触っていない。もうずっと犯罪者予備軍でいる気がする。突然、この熱々の金型を箱ではなく隣の検品係の頭にぶつけても、それがニュースになっても、周りの人はそんなに驚かないんじゃないか。特に最近知り合った人には、あの人はいつか何かしそうだと思っていましたと言われてしまう、そういう嫌な確信がある。
今、流星群のようにひっきりなしに流れてくる星を見て僕が思うことは昔に戻りたい、ただそれだけだ。無駄な願望だとはわかっている。二〇二一年現在、世界にタイムマシンはない。恐らくは僕が生きている間に実現することはないし、できたところで一般人が使えるようになるとは到底思えない。それでも昔に戻りたいと思う。特に、高校生だった時が恋しい。回想するだけでは到底足りない。
高校には、星野という同級生がいて、ほぼ幽霊部員しかいない天文学部の実質的なたった一人の仲間だった。部活仲間と言っても二人とも部室の理科準備室のことは遊び場か仮眠室にしていただけだけれど。悪友ってやつだったと思う。テスト期間には授業が早く終わるからとカラオケに行くし、昼休みの外出は禁止なのにコソコソとコンビニにアイスクリームを買いに行くし、当時の僕達は本当に馬鹿な生き方をしていた。先生には怒られてばかりだったし、他の生徒にも小馬鹿にされていた。それでも楽しくて仕方がなかった。一人じゃなかっただろう、頭がいい奴らのことなんてほっておこう、あいつらにこういう馬鹿なことの良さがわかるもんか、とかそういう台詞さえ強がりとも負け惜しみとも思わず自然に口にできていた。いつの間にか薄れてしまったあの感覚を思い出したいのだ。
特に三年の五月はよかった。いつも通りの放課後、星野が、金環日食が日本で見れるという話は知っているでしょう、と話しかけてきた。勿論それは知っていたし、観察する為の眼鏡まで買っていたけれど、星野はこう言ってきたのだ。朝早い時間だし、学校に泊まって前日の夜は屋上で星を見ようよ、と。当然、不真面目な僕達だ、別にそこまで熱を持っていた訳じゃない。高校三年の思い出になるような遊びがしたかっただけだった。散らかった理科準備室で僕と星野はしばらく話をした。スポンジの破れたパイプ椅子に座って、くすんだ色味の望遠鏡や剝製の間に隠れるように背中を丸めて話し合った。話し合って、天体望遠鏡と太陽投影板を利用した投影をしたいから学校に泊まりたい、というそれっぽい理由を作った。それから制服のシャツのボタンを一番上までとめて、クラスメイト達からネクタイも借りて、顧問の先生に相談しに行った。真面目とは到底言えない生徒だったから、まさかちゃんとした部活動をする気とは、先生も思わなかったのだろう。
「きちんとしたように聞こえる理由だけど」先生は苦笑していた。「遊びたいだけだろ」
「いけませんか」星野は率直だった。馬鹿と言ってしまったほうがいいまで率直だった。
「高校生なんですよ」僕もそうだった。
先生は呆れたように頭を掻いて、それでも「怒られない程度に活動もしろよ」と許可してくれた。嬉しかった。祭りのような気分だった。すぐに他の先生から静かにしなさいと言われて渋々黙ったけれど。
それから当日までずっとソワソワして胃が空っぽのような感じがした。一週間ぐらいの間、毎日夕飯にご飯を三杯も食べたから、体重が増えてしまったのを覚えている。
日食前日、教科書と簡単な着替えと夕食のカップラーメンを持って学校に行った。日曜日だったから授業がなくて、暗くなってから校門を通ったから変な気分だった。他の部活動で来ている子達が片付けをしたり帰路についたりしている中を流れに逆らうように校舎に入るのが、とても悪いことをするみたいで体温と心拍数が上がっていくのを感じていた。僕が着いた時には理科準備室には先生だけがいて、星野は少し遅れて来た。手に花火のセットを持っていた。
それから、先生がノートと望遠鏡を、星野が花火とアルコールランプ、僕がビーカーと水の入ったバケツを、それぞれ持って屋上にあがった。天体観測もしたけれど、本当に報告のための十数分間だけで、すぐに花火大会が始まった。星野と一緒になって先生にねずみ花火をけしかけ軽く額を小突かれたり、線香花火を同時に何本まで持てるか競ったりした。お腹が空いたら、アルコールランプとビーカーで沸かした湯でカップラーメンをすすった。食べ盛りには一杯では足りなくて、二杯と半分食べた。シーフードのと、カレーと、普通のやつ。普通のやつを星野と半分ずつ食べた。その後は、睡眠をとるには理科準備室は物がごちゃごちゃ散乱して危ないからと、ノートと望遠鏡だけ戻して会議室を借りた。今にも説教をされそうな部屋なのに、怒られるどころか先生が三人分のタオルケットを敷くから、可笑しくて笑ってしまった。あまり使わないからだろうか、会議室は窓を開けても少しだけ空気が埃っぽかった。高そうな見た目の長机を囲んで三人は話した。
「一応は見ようとしているのに言うことじゃないとは思うけどさ、なんでニュースになるぐらいたくさんの人が日食に興味を持って、わざわざ朝の忙しい時間に観察しようとしているんだろうね」
僕はそういうことを言った。
「そりゃあ、お前、希少価値だろ、希少価値」アルコールランプで沸かした湯でインスタントコーヒーを飲み、熱さに舌を火傷させながら星野は答えた。「人間、珍しければ花だって死体だって好んで見るじゃん。だから、世界には沢山の植物園があってその土地で自生しない花を集めるし、変わった死体はとびきり古ければ博物館、新しければネットで死因の考察とかされる。そういうものじゃないの」
僕は小さく吹き出すように笑った。
「確かにそうかもしれないけれど、死体を好んで見るなんて」
そういう例えはあまり出すんじゃないぞ、と星野はやんわりと注意される。先生は変に真面目な人だった。
「先生はどう思う」
何の気なしに僕は質問した。
「安心したいからじゃないかな、たぶん」
先生はそう答えた。理由も話してくれたはずだけれど、そんなわけないじゃんと馬鹿にした記憶だけ残っていて、どういう理由でそう言っていたかは忘れてしまった。
それからはアルコールランプを消して、寝ぼけた頭で会話した。そうして気がつけば眠りについていて、朝が来ていた。
目覚まし時計を止めて、慌てて望遠鏡を担いで屋上に上がって、大きく鮮明な太陽像を観察した。想像していたほどの存在感はなくて、太陽投影板まで使ってもこんなものか、と思ったりした。今、工場で見ているフィナンシェのほうがよほど見応えがあるというほどだった。それでも、丸くて、輪っかみたいな光を見ていると、悪くないと思えた。
「いいね。思ってたよりは、地味だけど」
「うん。いいね」
金環日食の間、だいたい六分ぐらいだったけれど、たったそれだけ会話したきり後はずっと黙っていた。普段の僕達はずっと騒がしかったし、静かにする時は何か悪巧みをしている時ぐらいだった。だから、何もせずただ肩を並べ太陽投影板を見ているなんて全然らしくはなかったのだけど、不思議と心地がよかった。温かい五月の風が時間ごと僕らをゆったりと包み込むように流れていた。
十七時半を告げる鐘が鳴って、暫くすると金型は流れて来なくなった。問題がないことを確認してベルトコンベアの電源を落とし、清掃作業に入る。今の僕には、誇れるものがない。仕事を無くしてパートだし、才能があるわけでもないし、学もないし、好きと言ってくれる人もいない。それでも何とか今のところ人に怪我をさせたりせずに済んでいるのは、あの頃の記憶があるからだろう。フィナンシェが流れていたコンベアを拭きながら、星野は今どうしているだろう、そればかり今日も考えていた。
休みの日には就労センターに行く。まだ大学生だったうちに就職活動で着ていたスーツを出してきたはいいものの、箪笥の奥にしまい込んでいた就職活動用鞄にはカビが生えてしまっていた。まだ企業との面接じゃないからいいか、と、普段使っているキャンバス地のリュックサックを背負ったけれど、おかしな格好じゃないか不安になる。革製のハンドバッグなんて就職活動中の学生とお堅い仕事の人ぐらいしか使っていないし、それほど気にすることはないのかもしれない。けれど、気になる。僕ぐらいの年でスーツにリュックサックの人は、たぶん、もう仕事に慣れた普通の社会人だ。きっと転職活動なんかしていないんだろうな、なんならそろそろ昇進している人もいるのかも、なんて余計なことばかり考えてしまう。
いつ頃に建てられたのか、就労センターはかなり現代的な内装で、開放的だった。所々にふわふわとした人工芝生が使われていて、何も知らない人が来たらサンドイッチなんかを売るカフェか子どもの遊び場に思いそうだ。重苦しい雰囲気よりはずっといいのかもしれないけれど、僕にはどうにも落ち着かない空間だ。
「予約していた谷田です」
革靴の中で爪先を丸めながら受付に話しかけると相手は「はい、谷田さんね、はい、六番にどうぞ」言いながら慣れた様子で予約を確認し、掌で方向を示した。あちらに行けということだろう。洒落た空間をふらふら通り抜けて、名札を下げた相談員の前に座った。三十六、七ぐらいと見た。座っていても、細身でいて薄く筋肉もついた今どきらしい体格というのが何となく感じられた。背格好は中身とは直接に関係ないとはいうけれど、成功している人は見た目も綺麗なことが多い気がする。綺麗だから成功しているのか成功しているから綺麗なのかは知らないけれど。
「谷田さん」
「そうです」
「谷田」
どうして二回も名前を確認されたのかと顔を見れば、「覚えていないかな、中学生の頃の友達の兄なんか」と相手は笑った。ああ、あの引きこもりだ。蝸牛だ。そりゃあ、十ぐらいの年の差に見える。十歳差なんだから。
「ここで働いていたんだ。知らなかった」
かつての蝸牛は溶けるようなシルエットをした品のいい艶のあるシャツを着ていて、それが似合って都会的だった。こちらはというとお金が無いから若干袖丈が足りない薄いリクルートスーツで、髪も美容院にもいかず伸びっぱなしの野犬みたいで、工場の人達にも若いのに勿体ないと言われてしまうような姿だったから、耳が熱くなる。
どういう事情を想像したのか、蝸牛──本当は山田颯介と言うらしい──相手は焦らないで地道に頑張ろう、と小声で呟いて労わってきた。そうして、ほとんど白紙のままのエントリーシートを見ながら、「まずは趣味・特技の欄から、何か書けそうなことを考えましょうか。ここは簡単なはずですよ」と、わざとらしく敬語を使い、身振り手振りまで使って大げさに微笑みかけた。その時、山田さんが薬指に指輪をしていることに気がついた。知らないうちに蝸牛はもうとっくに人に戻っていたんだ。人として普通に、僕よりずっと人らしく、幸せになっていたんだ。そう思ったらどうしてか急に喉が渇いた。荒れた唇を嚙んで唾を飲む。酸っぱい味がした。
「読書ぐらいしか、思いつきません」
「いいじゃん。なんで書いてないのさ」
「特段好きなわけではなくて」
掠れた声で返事する。渇いた喉が熱くて痛かった。水が欲しかった。
「別に話せるならそういうのでもいいけど、普段していることをうまく書いたほうがいいもんだよ、こういうのは」と山田さんは笑った。その笑顔で惨めさに限界が来た。
気がつけば僕は立ち上がっていた。喉元に食らいつくように身を乗り出し、首をぐいと伸ばし、何もしてないです、何もできていない、話せることなんて何も、と答えていた。ほとんど吠えるような声だった。もしかしたら山田さんは僕が何て言ったか聞き取れなかったかもしれない。辺りは静かになった。山田さんが目を丸くしてのけぞっているのを見て、何でそんな反応するんだよ、と思っていた。どう考えても自分のせいなのに、他人事のようにそんなことを思っていた。
「なんか、ごめん」
数秒間の沈黙の後、山田さんは上半身を捻らせたまま小さな声でそう言った。何も言えなかった。謝るべきなのは僕のほうなのに。ただきちんと座り直すので精一杯だった。
犯罪者予備軍だ、やっぱり。いや、もしかしたら自覚がないだけで既に何かしているかも。最近の僕はあまりにも余裕がなさすぎる。せっかく気を遣って提案してくれたのに、もう少しまともな答え方ができなかったものか。それが無理にしても、せめて悲しそうな態度をとるぐらいできないものかと自分で自分に嫌気がさした。同じ言葉でも背を丸めて涙声で言えたなら同情の余地もあるだろうに。おい、中学生の頃の僕、まさか大人になってから人にこんな姿を見せるようになるとは思わなかっただろう。僕も思っていなかったよ。
「それじゃあ、とりあえず趣味は読書でいこうか」
山田さんはゆっくりと体勢を整えながらそう言った。マスクの下で鼻筋にほんの少し皺を寄せたように見えたけれど、仕事だからと我慢しているのか、慣れているのか、あるいは僕が憐れだからか、優しく穏やかな声のままだった。
「後は前の会社でやってきたことと今のパートのことからなにかアピールできそうなことを考えよう。ともかく、白紙のままは」
「ごめんなさい」
どうしようもないからね、と言われるのがわかってその前に返事をした。その時、身を乗り出して山田さんの胸倉を掴み、ガムテープを口に貼り付けた、そういう錯覚というか、もしもの世界みたいなものに一瞬だけ飲まれていた。誰かが施設に入ってきたのか自動ドアが開く音がして、それで我に返って、意外ときちんとした姿勢で両足揃え背を伸ばして座っている自分に安心した。それでもまだ半透明の自分が取り乱して暴れているようで居心地が悪くなって、次はもっと準備をしてきます、と言って手早く荷物をまとめてセンターを後にした。山田さんが呼びかける声がした気がしたけれど、戻りたくなかった。
通り雨があったらしい。空は朝と変わらず青いけれど、地面が濡れている。水たまりに写る自分の顔を踏んだ。腹が立ったから。被害者みたいな顔をしていたから。声がでなくて、でも黙って通りすぎることもできなくて、手が出た。この場合は足か。どうでもいいね。蹴ったら水が飛び散って音を立てたけれど、抗議の印と言うにはあまりに間抜けな響きだった。飛沫の中で鈍く光る革靴は水揚げされて弱りながら跳ねる魚にそっくりだ。そういえば革靴だけは買い替えた。昨日の帰りに買った。まだクレジットの引き落としも済んでいない、新品だ。思い出すとほぼ同時に靴下が冷たくなっているのに気づく。こういう時に後悔しないだけの感性が欲しかった。
そのまま帰る気にもなれなくて、駅の前の船着き場で濡れた柵の雨粒を掌で雑に払ってもたれかかった。濡れた靴が重たかった。遠くの方から雷鳴が聞こえる。濡れた靴の先で小石を蹴って、ポケットに入っていたいつ買ったかもわからない賞味期限切れのガムを噛む。流石に一日一回ぐらいは見ないといけないな、と、起動したスマートフォンにはお祈りメールが三件来ていた。溜息をついて下ろした腕からスマートフォンが滑り落ちてアスファルトの上に落ちた。画面に一筋、流星のようなひび割れが入ったけれど、別にどうでもいいかと思っている自分がいた。
十九時半頃に家に帰った。玄関に着いた時に、母さんが玄関のドアを網戸に変えているのを見かけて、声をかけた。
「母さん、ただいま」
自分でも笑ってしまいそうなほど大きく明瞭で、歓声のような挨拶だった。母さんは錆びついて動きの悪い網戸を押す手を止め、顔をあげ、眉を顰めて聞いた。
「妙に元気ね。新しい仕事でも見つかったの」
「全然。それどころか履歴書を書き直ししなくちゃいけない」
母さんは笑った。
「それはまあ、ご愁傷様、うん、親としてはきちんとした仕事に戻ってほしいとは思うけれど、時間はあるよ。今度の休みは久しぶりに望遠鏡担いで山にでも登ったらどう」
僕は黙って首を振った。母さんはそう、と言って、夕飯はいいトマトがあるからパスタ作ろう、野菜切ってね、と網戸を開いて僕を押し込むように家の中に入れた。艶艶とした赤いトマトと萎びたシメジとエリンギ、中身の詰まっていない大根、脂の多いベーコンで作ったパスタは、半分しか食べられなかった。ゴミ箱にパスタを入れる僕に、無理だけはしないでねと母さんは言ってくれた。小さな子どもが酷い風邪をひいている時のような顔をしていたので、嬉しいような、寂しいような心地で、大丈夫だよと返事をした。
夕食後、カビの生えた就活鞄のことを思い出して他になにか駄目になってないだろうかと箪笥の奥を漁ってみた。そしたら天文学部だった時の日記が出てきた。金環日食の時の記録を読むと寂しさが増してほとんど溜息みたいな薄っぺらな笑い声が出た。更に奥を見れば修正痕の目立つ天体図も出てきた。書いては消してを繰り返していて、汚い。これは捨てないといけないな、そう思ったのに、捨てられないどころか写真を撮ってスマートフォンの壁紙にしてしまった。もう僕は二十六だし、とっくに成人しているから、大人になったつもりだった。けど、全然そんなことはなかった。外に出る時間が減って昔より白くなった肌に青い静脈が目立つようになってしまって、それが何だか青臭さの象徴みたいで恥ずかしい。
寝る前に、ベランダに出て空を見上げてみた。僕の住んでいるアパートはそれなりに大きいし、近くに街灯も沢山あるから星はそれほど多くは見えない。それでも月だけは流石に見える。その夜も銀色の丸が空にぽっかりと浮かんでいた。よく晴れていたので、クレーターもはっきりとして、彫刻作品のように見えた。これは見事な月だ、と溜息をつく。明日は、きっと快晴だろう、と少しだけいい気分になった。それきり満足して、ベッドぐらいしかない自分の小さな部屋に戻って、そのまま目を閉じたのだけれど、明日が晴れだろうが雨だろうが、やるのは同じ仕事だし、天体観測の予定だってないのにと思えば、馬鹿らしく、一人タオルケットの中で笑った。素晴らしい日々は、わかっていたつもりだけど、もう過去になってしまっていたことをまだわかっていないみたいだ。
目が覚めたらこの十年夢でした、なんて当然、そうはなっているはずもなくて僕は今日もパンデミックの影響で会社が潰れた可哀想な二十六歳だ。不幸中の幸いで雇ってもらった工場で星が流れてくるベルトコンベアの横に立つ。たぶん、自分が思うほど僕は可哀想じゃないし、嘆くほど酷いというわけではない。今の僕は幸せとも不幸とも言い切れないところにいる。貧乏だけれど食べていけるだけの給料ぐらいは出るし、時勢が時勢だから会話することは少ないけれど工場の人たちも優しくしてくれる。それなのに幸せそうな人のことを妬ましく思う気持ちが日増しに増えていく。周りや時間に置いていかれるような心地がして恐い。天体ぐらいどっしりと構えていたいけれど、やっぱり僕は人間。転職活動をしたり、他人の指輪を見て自分の人生と比べたり、友人が昔の友人になってしまうことを怖がったり、将来のことを嘆いたりする、人間。そんなにうまくは生きられない。
五月の焼菓子工場は人肌に触れているような空気で、少し暑く、眩暈がする。この眩暈は仲のいい人と肌が触れるほど近い距離で個人的な会話をぽつぽつしている時の感覚によく似ていた。それなのに実際のところは感染対策と忙しさの為に業務事項しか話さないから昼でも夜みたいに静かだ。そういうところばかり星の工場っぽかったりする。機械の稼働音ばかりが、ごうんごうんと静かに重たく響き渡っている。そっと顔をあげれば、長いレールの上を沢山の星が流れ、ラッピングされていくところが見えた。随分と俗っぽい天の川だな、と思った。この工場じゃ小麦粉と砂糖とバターと卵がフィナンシェ型に入れられるかクッキー生地になってくりぬかれ、星になって出ていくが、本当の星なんてもっと地味なものだぞ、笑ってしまうぐらいだからな、そんな地味で素朴な癖に届かないぐらい高いところにいやがる、なんて、言ってやる相手もいないから、黙って大人しく流れてきた金型を革手袋で掴み、箱に叩き付け、銀色の箱の中に掌ほどのサイズの星をバラバラと降らせる。やっぱり欠けるのが出るらしく、金型を三回叩けば一個は検品係に不良品のトレーに放り込まれる。そんなものだ。そんなものなのだ。
十二時を告げる鐘が鳴って、交代がやってきた。問題がないことを報告して昼休憩に入る。革手袋を外すと工場内の気温は高いはずなのに寒く感じた。やはり熱がこもっていたらしい。ミトンを外すといよいよ汗で濡れた手が冷たく、凍えてしまう。
じっと手を見ていると検品係から、どうしたの、と声をかけられた。
「寒く思って」
素直に答えたら、何を言っているのかという顔をされてしまった。ここで働いている以上当たり前のことなのにと思われたのかもしれない。
ロッカーに水筒と弁当と暇つぶしのスマートフォン──といっても弁当については実際のところ金が無いし自炊する余裕もなくてスティック状の総合栄養食なのだけれど──をとりに行ってから、休憩室へ入る。僕が席についた時には殆どの社員が既に昼食を取り始めていた。
「なんか最近瘦せたよね」
不意に仕事仲間にそう言われた。そちらを見ることもなく返事する。
「夏バテで」
「まだ五月でしょう。ダイエットしているのかもしれないけどね、細けりゃモテるってもんじゃないし、うちは肉体労働なんだから倒れてしまうよ。食べなさい」
そう言って形の崩れたフィナンシェが入った袋を差し出してきた。作業員は不良品をある程度の量までは無料でもらうことができるから、それを持ってきてくれたのだろう。ただなんとなくもらっていなかっただけで、別に体型を気にしているわけじゃないんだけど。とはいえ、否定するのも面倒くさいし、食べないと倒れてしまうかもしれないというのはその通りなので、大人しく、どうも、と返事をして欠けた星を齧る。バターの味がする。
「日食とか月食とかの蝕を意味する英語はエクリプスと言って、ギリシア語の姿を消すとか力を失うとかいう言葉が語源なんだよね。見える光が遮られるから」
急に、あの時の先生の言葉を思い出した。
「でも、それってたかだか人間の観測できる時間のことじゃないか。だから、先生は、人が日食とかを見たがるのは、誰かと疎遠になってもまた仲良くできるかもしれない、良くない日々が続いてもいつかは回復するものだって、信じていたいからだと思うよ」
そんなわけないだろう、楽天家が過ぎるよ、と思う。あの日みたいに笑い飛ばしてしまいたくなる。それなのに、どうしてか、心のどこかで僕は先生の言葉を認めてもいいかもしれないとほんの少しだけ思っている。
卒業式の日、星野とは普通に別れた。別れてから、正確には、電車に乗ってから、そういえば連絡先を知らないなって気づいた。そんなことあり得るかって思ったけど、ずっと一緒だったから、連絡先を知らなくてもなんとかなってしまっていた。まだスマートフォンは浸透しきっていなかったけれど、メールアドレスは、それが駄目でも電話番号ぐらいは聞いておけるはずだった。それなのに聞くことすら忘れていた。ずっと二人でいたから、僕も星野も他の生徒とはあまり仲が良くなくて、知っている連絡先に全部聞いてみたけど、皆に知らないって言われてしまった。それでまるで存在しなかったみたいに、夢みたいに、星野とは会えなくなってしまった。
あいつからの連絡が来るなら犯罪者予備軍から脱せられる気がするのに、スマートフォンだってきっと大事にできるのに、なんてそんなことを考える今日は快晴。工場の休憩室には眩い光が窓から差し込んでいる。