死、というものは生の後にくるものだが、果たして生は何をもってその終わりを迎えるのか。心臓が止まるときか、自発呼吸ができなくなるときか。あるいは、何か、その存在としてするべきことができなくなったときなのか。
私の祖父は、私が物心つくよりも前に寝たきりになっていた。呼吸器や点滴、その他諸々の機械の管が繋がれていて、自力で生きてはいけない状態になっていた。詩を暗唱しているのか、混乱しながら話しているだけなのか、区別のつきにくいことを時折もそもそ呟くばかりで、意思の疎通はまともにとれなかった。そのような状態に長く不可逆的にある存在を人として生きていると呼べるかというのは倫理の問題に関わってくるので、そう簡単に考えを述べるべきではないかもしれないが、幼い私の答えは否であった。触れれば微弱ながら脈を感じはしたので、なるほど生きてはいるらしいとは思っていたが、どうにも人と違う生き物に見えた。私のお爺さまはもうこの世にいらっしゃらないのだ、とそう思っていた。そんな不謹慎だと怒られるのが目に見えていることは到底口にできなかったが。それでも、彼の葬式の日、やはりずっと前から死んでいたのかもしれないと思うことがあった。
祖父の葬式が行われたのは、小学校三年の夏休みの終わりのことであった。田舎から帰る途中、彼が息を引き取ったという旨の電話がかかってきて引き返すことになったのを覚えている。当時まだ八歳であった私は、テレビの影響で、葬式というものは、てっきり、参加者は必ず泣いたり死を憎むようなことを言ったりして悲しまないといけないものだと思っていて、祖父が死んだ(と正式に認められた)時、はて自分はちゃんとできるかとそればかり考えて不安でいた。だが、戻ってみれば、祖母がちっとも泣きもせず、存外すっきりとした顔をしていたので、どうやら泣かなくてもいいのかもしれないと気づいた。
晩御飯の準備や訪問者の対応などで他の人が出払って、祖母一人が祖父の亡骸の傍にいた時、私は彼女に「泣かなくてもいいのですか」と聞いた。すると祖母は、自分から何か言った私を珍しがるような顔をして「ほとんど葬式も済んでいたようなものだから泣きません。皆騒ぎますけどねぇ、もうずっと死んでいたようなものじゃないですか」と答えた。私は葬式のマナーについて質問したつもりだったので、その返答は少々予想外だったが、祖父がもうずっと生きていないと考えていた人が自分の他にいたことに安堵し、指摘せずに黙って話を聞いていた。祖母は、延ばせる命を延ばさないことにしていいかわからなくて怖かった、というようなことを言った。けれども、呼吸器をつけたその時にはもう、もしかするとその前から、自分の中では夫の葬式が始まっていたのだ、ということだった。
詳しく聞こうとした時、襖ががらりと開いて叔母が入ってきたので私はあわてて言葉を吞み込んだ。叔母は親戚の中でも特に礼儀作法に五月蠅いのでなるべく目立つことは避けてそっと退出するのが吉と思ったからだ。私が手洗いにいくふりをしてその場を去ろうとした時、叔母は棺桶を覗き込みながら、こんなに細くやつれてしまって、と実に悲しそうに呟いた。私は吹き出しそうだった。遺体は軽く化粧をされて、病床にいた時より幾分か綺麗で、死んでいるのに変だけれど、健康的な見た目をしていた。道路を埋めつくす落ち葉に人から指摘されてやっと気づいたみたいで、滑稽だと思った。ずっと前からすぐそこにあるものに気づいていなかったのかと。それから私は人目を忍びながら屋根裏に行って、祖父のコレクションだという切手を眺めながら叔母の言葉を反復し、笑った。けれど、そうしているうちにふと、それなら自分は祖父の死がいつだと指摘できるか、という問いが頭に浮かんできて、途端に笑いは引っ込んだ。問いの答えはでないまま葬式は終わってしまった。
あれから十二年、私は二十歳になり、それなり大きな声で大人を自称できる歳にはなったが、未だ生の終わり、すなわち死の始まりについて答えを出しあぐねている。もしかするとこれらに明確な区切りはないのかもしれない。たとえば、そう、夏のように。毎年、九月になれば「夏が死んだ」などと言う人が現れるが、私にはこれが不思議で仕方ない。八月も半ばになればまだ緑色ではあるもののどんぐりが枝についているのを見ることができるし、秋のものみたいに扱われている蜻蛉はなんなら七月からだって見られる。彼らだって、まさか、九月になった途端に夏が死ぬとは思っていないだろう。もしかすると彼らはニーチェの真似事をしているのだろうか。私にはわからない。わからないが、しかし、夏の終わりに死を宣言された祖父は、その死は、まるで夏そのものだった。