前回から1年10か月ぶりの「千里山文学」、今号は第五十三号である。と、これは千里山文学の編集後記ではお馴染みの書き出しなのだが、こうやって解説しなければ気付く人は皆無だろう。文学パートとは縁もゆかりもない、たまたまこの本を手に取っていただいた読者は当然だし、部員にすら知る者はいるまい。この編集後記を書くために、初めて部室に保管されている千里山文学のバックナンバーを総ざらいした僕が言うのだから間違いない。とはいえ、これは文芸同人誌が生まれながらにして背負っている十字架みたいなものだから、嘆いてみせたところで如何ともしがたい。この第五十三号も、押し寄せる時の波のなか、かろうじてどこかの書棚に引っ掛かれば幸運な方で、第二十三号以前のバックナンバーのように部室の本棚からも忽然と姿を消す可能性も十分考えられるのである。
そんなわけだから、第五十三号とはいえ「千里山文学」が何たるかというところから説明しなければならない。しかし、これがもて悩みぐさなのだ。僕の認識においてもせいぜいが「数年に1度発行される、その間に部誌に掲載された作品の中から優れた(と思われる)ものをいくつか選出し収録した製本冊子」くらいの曖昧なもので、加えてバックナンバーを調べてみると、毎年発行していた時期があったり、書き下ろしを募った号があったりするものだから明確な定義が存在しない。1948年に創立した文学パートの前身から2021年現在まで続く伝統であると誇らしげに語るのは容易いが、実のところ踏襲されてきたのは表題だけなのである。作者も、作品の選定基準も、編集方針も、デザインも、本の大きさも、他は何もかも異なっている。
だが、これは無理からぬことでもある。「留年してからが文芸部員だ」と言われることもある文芸部だが、それでも新陳代謝は活発で、数年でまるきり細胞が入れ替わる。特に活動の中心となる幹部はたいてい1年で次代に引き継がれるから、ノウハウを蓄積して完璧に踏襲させるだけの時間がない。結局はその時々の部員の力量に委ねざるを得ないのである。
しかし、考えてみると伝統とは本来目的ではなく、すべからく結果であるべきはずなのだ。曲解したダーウィンの進化論を振りかざすように伝統の偉力を誇示する言説には疑問が湧き上がる。伝統とは、自己目的化した途端に自らの首を締める蛇のようなものだということを忘れてはならないと思う。
最後に謝辞を。今回は、装画を石川新に、挿絵を浅井康佑に描いていただいた。 ずいぶん無理をさせてしまったが、素晴らしいものをありがとう。それから部誌に作品を寄稿してくれた作者、ゲラチェック・合評会に参加してくれた部員、その他僕を支えてくれたすべての方たちへ。本当にありがとうございました。皆さまの働きに支えられて、この『千里山文学第五十三号』は発行されます。そして、いまこの編集後記をお読みいただいている読者にも特大の感謝を。受け取り手の存在があって、初めて作品は成立するという考えはいまも変わっていません。この本が、少しでも明日の皆さまの糧になることを願っております。
それではまた、いつかどこかで。
2021年12月21日
山本哲朗