現実と虚構の狭間にいる。境界線を跨いで、自分が今どちら側にいるのかわからない。自分とはあなたのことであって、彼女が彼であるのかもしれない。自分が彼女であって、あなたは彼であるのかもしれない。あるいは、ここには自分一人だけで、あなたすらどこにもいないのかもしれない。あらゆるものの輪郭がふやけている。大意的に語ろうとした言葉は中庸を逸れて、偏った部分を広く覆っていく。自分の言葉が目玉焼きの黄身を割るように、その枠組みから零れ出す。そういう時、決まってその様子を眺めている。手元にはそれを抑えるためのナイフもフォークもないからだ。
深夜に理由もなく家を出るのも、長い髪をバッサリ切ってしまうのも、あなたのために言葉を吐くのも、物質的に見てひとりの人間で間違いない。だけど、実際のところ、誰も自分の居場所を明確に表すことは出来ない。お気に入りの喫茶店にいながら、深くて暗い別の場所にいることが出来る。現実に存在しながらも、そことは明確に乖離した場所にも存在する。そこにいる一人ぼっちの僕や私は、外の人間から受けた影響の処理を一手に請け負って、重要な物事について真剣に頭を働かせ続けるのだ。
△【私】
私は黒いブーツに足を通す。今日はあなたに合わないから、いつもより厚い化粧をする。彼の好みに合わせてあげる。鏡で自分の姿を確認する。いつも通りの綺麗な私がそこにいた。きっと今の私を見ても、あなたは私を綺麗って言うと思う。
今度の彼はあなたとはちっとも似てない。あなたよりもずいぶん歳を取っている。服装の趣味だってよくない。別に誰だってよかったのだけれど、たまたま彼に出会った。だけど少なくとも、『何』と聞かれて『何だと思う』と返すような人じゃない。
彼とはいつも駅前で待ち合わせる。特に言葉を交わす必要もない。私の足音だけで、彼は十分に理解してくれる。私が娼婦のような格好でいることを喜んでくれる。私の背景なんて知りたくもないと思ってくれる。
あなたは彼に感謝しなくちゃいけない。彼がいなかったら、私はあなたなんか捨てちゃうのだから。
▲【僕】
少女が焚火の前に座っている。隣にはハンサムだけど、少しダサい父親。彼女は微妙な立ち位置を保ったまま、言葉数少なく自分の内面を語っていく。
『私が母親になって、娘が私みたいな子だったら嫌だな』
ピントが手前の少女から、じっとその横顔を見つめる父親に移る。炎の揺らめきが二人の輪郭を強くして、そして弱くする。燃やしているのは少女の夢や希望。人工の光ではなく、制御できない自然の光は得も言われぬ美しさを放っている。父親の眼の中で涙が赤く光っている。化粧っ気のない少女の白い肌の上で、影が動く。
父親は唐突に愛を語りだす。眼を閉じても、涙は零れ落ちない。
『お前みたいな娘を持って、俺は幸せなんだ』
父親がそう言う。思春期の少女が父親にハグをする。戸惑ったように身を固めて、不器用に愛を分かち合う。
スクリーンの中ではそうやって物語は終わっていく。素晴らしいお話だ。僕もあんな風に生きてみたくなる。
僕は淋しくなって、薄暗闇の中にある彼女の手に僕の手を重ねた。そうすれば彼女は、僕の人差し指をゆっくりと撫でてくれる。映画よりもリアルな体の触れ合い。
スタッフロールが流れても、手を放さない。どちらが決めたわけではないけれど、自然とそうなっていた。泥臭い戦争映画でも、眩いヒーロー映画でも、ラディカルな前衛映画でも、僕たちは決まってそうしていた。スタッフロールが終わりを告げる。夜明けのようなその瞬間に、僕と彼女は手を放す。そして何かに言い訳をするみたいに笑顔で映画についてお喋りを始める。
「いい映画だったね」
彼女は白い歯を見せた。多分それほど好きではなかったことが笑い方でわかる。彼女は僕と同じで、本当にいいものに出会った時は無表情でそれを受け入れる。
隣を歩く彼女の手に、僕の手が軽く触れる。そして、繋がれることなく離れていく。彼女の手はかすかに汗ばんでいた。もうずいぶん前のことだけど、ほとんど汗をかかない、と僕が言うと彼女は羨ましそうに肩に触れてきた。初めてのセックスはそんな風に始まったと思う。別に大切な思い出ってわけではないのだけれど、あの日のことは忘れられない。
僕と彼女は、閉ざされた空間以外で触れ合うことはない。そして、閉鎖と密度は比例している。暗ければ暗いほどに燃え上がる。周りが明るければ、燻りは気配だけを残していく。
あなたを愛してあげたいと思う。だけど、あなたはきっと、こんな僕を愛してくれないと思う。与えられないものを与えるには、僕の心は貧しすぎる。
△【私】
二人の体に温められた真っ白な絹の中、触れなれた温度の狭間で幸福を感じる。
不誠実な女と都合のいい男。都合のいい女と不誠実な男。203号室に入って体を重ねる。私は私のために、彼は彼のために、体とほんの少しの心を与え合う。観客は、ツウぶって鼻を鳴らして、ミスリードだ、と呟くだろう。こんなロマンチックなお話は、フィルムの中でしか受け入れられないことも知っている。それでも事実は私の秘密的な側面を以って外界からは完全に閉ざされている。この小さなラブホテルの一部屋が、私の背徳の全てだ。
一歩外に出れば、こんなことをおくびにも出さないで、私と彼は何の関係もない他人になることが出来る。そして、この場所とは関係のないところで、私とあなたはお似合いの二人でいられる。
現実であって、虚像でしかない。不安定な位置でフラフラと漂って、それでも安定してこの世界と関係している。私は運がいい。たぶん、とっても。
「何を考えているの」
寝返りを打って、彼が私に語り掛ける。彼の声は太くて低い。その声を聴くと眠たくなってしまう。私は彼の腕に頭を乗せた。男性的な汗の香りがする。彼のお腹を撫でながら、私はどんな風に答えるべきか迷った。
「最初は体を売る目的であなたに声を掛けたの」
彼は何も言わない。私は出来るだけふしだらな女であるべきだった。
「どう思う?」
私が訊ねると、彼は私を抱き寄せた。何も着けていない二つの体がぴったりとくっつく。そうやって改めてわかる。彼は私を愛していない。自分の欲求を満たせる相手を選んだだけだ。それでいい。私だって彼のことを愛していない。
「お金、払った方がいいかな」
「別に要らない。今のままでいい」
ホテルの代金だって彼が払っている。私ばかり彼に借りを作るのは気持ちが悪い。
彼は安心したように体を離した。私も安心して天井を見上げる。あなたは今頃何をしているんだろう。他の誰かを抱いて、他の誰かに抱かれている私を想っているのだろうか。
ベッドを抜け出して、あなたの声を聴きたい。私は私であって、あなたはあなたでしかないかもしれない。それでもあなたの理想を押し付けてほしい。ため息をついてしまうほどに傲慢で、弱くて、私を好きでいてほしい。私がそうであるように、きっとあなたは私だけじゃつまらないと思うのだろうけど、それでも私だけを見ていてほしい。
ひょっとするとあなたを変えてしまったのは私なのかもしれない。馬鹿げたイタチごっこを始めてしまったのは私かあなたか、そんなことに答えはもう存在しない。始まったものは終わらない。ぬかるみが私たちの足を取る。傘を差し続けなくてはいけない。この雨はきっと止まない。
▲【僕】
彼女は僕の目の前で手首を切って、遺書を書いた。地面に寝そべって、小さな銀のナイフで手首の血管を縦に割いた。たくさん血が出ていて、書いたそばから文字が血に沈んでいた。彼女はしっかりと考えて書くタイプだから、一行ごとに手が止まった。徐々に血は勢いをなくして、乾いていく。初めの方は読めないけれど、六行目からは赤の比重が減っていた。
『本当に悪いと思っています。私は思っているよりも弱い人間でした。きっと私と同じような境遇で、私よりも強い人間はいくらでもいると思います。だけど、どうしてもこうしないわけにはいきませんでした。あなたは悲しんでくれるでしょうか。私にはわからないけど、そうなってほしいと思っています。そういえば、今日は友達と映画を見に行きました。とても素敵な映画でした。あなたと一緒に観たかったけど、あなたはきっと』
そこまで書いてしまうと、彼女はため息をついてこちらを見上げた。遺書を書く人間の眼を初めて見た。もっと虚ろで何も映していないものかと思っていたけれど、彼女の眼は銀梨地の水溜りのようだった。いろいろなものが降り注いで、中にあるものはいつの間にか音もなく消えていく。
彼女は右手にペンを握ったまま、左手で頬をぬぐった。粘着質な血は涙で薄く広がる。チークのように彼女の顔を彩る。手元にカメラがあったなら、僕は迷わずシャッターを切っただろう。月明かりの中でこちらを覗き込む彼女を、この時間で切り取りたいと思った。外での彼女は本当の彼女ではないような気がする。そして女の子に限って言えば、泣いた顔が一番可愛らしい。
彼女が僕に手を差し出す。僕はその手首に包帯を巻く。どちらもそれが義務であるかのように、何度も行ってきた淡々と作業をこなしていく。昼間に見せた笑顔はもうどこにもない。語る言葉も不要だった。
僕はゴミ箱だ。色んな人が僕の中に不要な感情を捨てていく。僕は甘んじてそれを受け止める。彼女が誰に遺書を書いているかさえ知らない。僕には関係のないことだった。
彼女は遺書を床に置いたまま、立ち上がった。僕の膝の上に乗って、髪に唇を付けた。流れた涙が僕の髪を濡らしている。僕は煙草の火を消して、あなたのことを考える。
あなたは僕の前でほとんど涙を流さないけれど、僕のために悲しんで、僕のための涙を流して。僕があなたを想っているように、あなたも僕のことを想ってほしい。
だけど、この瞬間にそばにいるのがあなたじゃなくてよかったとも思っている。僕はあなたの前では強い人でなくてはならない。弱いあなたを支えてあげられるような人でなくてはならない。僕にとってのあなたが一番であるように、あなたにとっても僕が一番であってほしいから。
△▲【私と僕】
「今度、海に行こうよ」
彼はそう言った。彼女は頷いて、コーヒーカップについたグロスを不機嫌そうに眺めている。
彼は彼女との口付けを思い浮かべた。メンソールの辛さが舌に乗った、世界一の口付けだった。
彼女は彼の顔を盗み見た。肌寒くて光に溢れた、秋の海辺を想像しながら。