長い夏休みが終わった。
高校とは違い、二か月近くある休みを持て余しながら終えてみると、大して何もできなかったように思える。そんな現実もこの鬱蒼とした気分の原因かもしれない。
休み明け初日の気だるげな雰囲気と対称的に、草木は青々と活力に満ち、太陽は元気に大地を暖めている。僕は大学に向かって歩きながら、カーディガンを脱いだ。歩いていると半袖シャツ一枚でも丁度良く、時折腕を撫でる風が心地良い。九月上旬は季節を間違えたかと思うほど蒸し暑い日が続いたが、つい一週間程前から落ち着いてきた。やっと九月が秋だと思い出したようだ。
人の流れに逆らわず大学の構内を歩いていく。初日でも学生は多い。途中の建物に徐々に人が入っていくのを見ながら、奥の学舎に進んでいく。みんな意外と真面目に抗議を受けるんだな、などと失礼なことを考えながら、学舎のエレベーターに乗り六階を押す。共に乗っていた学生が三階と五階で全員降りたとき、嫌な予感がした。エレベーターを降りると人の気配がない。あぁなるほど、と思ったが、一応教室のドアを開ける。貸し切りとでもいうような教室を見て「やっぱりか」と自分に言い訳するかのように呟いた。
スマートフォンで休講情報を確認してため息をつく。エレベーターを使う気になれず、階段でゆっくりと降りた。三階を過ぎたとき、チャイムが鳴り、階段を駆け上がる学生一人とすれ違う。相手は自分のことなど気にも留めていない、ということが分かっていても、取り繕うように自然に歩こうとする自分が何だか情けなく思った。
三限目まで暇になったため部室に向かう。僕は文芸部に入っていた。小説なんてほとんど書いたことないが、高校で友人に誘われて入っていたため、何となく入った部活だ。こういうとき寛げる場所があると言うのが一番のメリットと言っても過言ではない。
朝一番の部室棟は静かだ、というのは当たり前だろう。わざわざ朝から来るのは体育会系くらいだ。暇そうに座る管理人の部屋に入ろうとして、ふと気づき、そのまま部室へ向かった。鍵棚の文芸部の場所には鍵が無かった、と言うことは部室に誰かがいる。その事で、休講に気付かなかったことが報われる気がした。
部室を開けると先輩が「おつかれー」と、ゆるい声で迎えてくれた。
「お疲れ様です。朝からどうしたんですか? 休講だったとか」
先輩の向かいに座りながら聞くと、にやりと笑いながら答えた。
「いいや、私は真面目な三回生だよ? ほとんど無い講義をわざわざ朝一番に入れているわけないじゃないか」
「じゃあどうしてここに?」
「真面目な一回生が休講と知らずに来て、とぼとぼ部室に来るのを待ち構えるためさ」
僕はにやにやの止まらない先輩の顔を見て「へー」とだけ返す。
「冷たいじゃないか。もっと喜んで欲しいところなんだけどなぁ」
「そう言われて喜べる人なんています?」
「うーん。確かにその指摘は一理ある。けれど、部室に誰かいるとわかったら嬉しくならなかったかい?」
部室の鍵が無かったことで高揚した気分を思い出しながら、それでも素直には言えず「まぁそうですね」と控えめに答える。
「そうだろう。私もそういう経験があったのだ。遥か昔、一回生の頃だね」
「その先輩も待ち構えていたんですか?」
「んー、それは違うんじゃないかな。いつも部室にいたし。当時五回生の大先輩」
「あぁそんな人がいたらしいですね。去年卒業したとか」
「そうそう。あの人は部室に居すぎて座敷わらしじゃないかと疑われていたからね。八回生までいると言われてて、勝手に一緒に卒業できるかなって思っていたら急に単位とって卒業しちゃった人」
一度も会ったことはないが、何かの際に撮られた写真を見たことがある。精悍な顔立ちだったが、痩せていて不健康そうにも見えた。先輩は遠い目をしたあと「ということで!」と突然声をあげた。
「どうしたんですか、急に」
「先輩に手紙を書きます」
「いや、急にどうしたんですか」
「私はその時に先輩がいて嬉しかったんだよ。でも伝えられなかった。その時は先輩が『マインスイーパーで百秒を切ったときの感想』を話し始めたから」
「状況についていけないんですが」
「後日になって『あの時嬉しかったです』とか言いにくいじゃない。むしろ今なら伝えれるかと思って」
「全体的にわからないんですが、とりあえず今言う方がおかしくないですか?」
先輩はゆっくりと首を振った。
「実は前期もたまに朝から居たんだけど、結果誰も来なかったんだ。今日も大して期待していなかったんだけど、君は来た。君がここに私がいて嬉しかったように、私も君が来て嬉しかったんだ。だから、今伝えるのが今できるベスト。その気持ちと共に送りつけようと思う」
「今さらって思いません? 遅すぎないですか?」
「今より早い時間はもう来ないよ」
僕は確かにな、と妙に納得してしまい「それは、そうですね」と返す。
「遅すぎるなんてことは全くもってないのさ。君も一緒に思い切って伝えようよ。伝えたくて伝えられなかったことくらいあるでしょ?」
「そりゃありますけど」
ほうほう、と頷いて「片思いの子でもいたのかな?」とニンマリしながら聞いてくる。
「そういうのじゃありません」
先輩は「なんだ、つまらない」と憮然とした表情をする。
「つまらなくて結構です」
「片思いの相手じゃなかったら誰に伝えたいのさ。親とか?」
気恥ずかしくて少し悩んだが、さらにぐいぐいと深堀しようとする先輩に負け、高校の頃の話を始めた。
元バレーボール部だった僕が、春の大会で膝を傷めてしまったのが始まりだ。強豪ではなかったがそれでも一部リーグに昇格する目前まで来ていた。だから、せめて応援やサポートだけでもと思ったが、結局続かなかった。二年の終わりに受験勉強を理由にして退部。
三年生になったとき、友人から名義だけでも入ってくれと頼まれて文芸部に入った。何やら五人いないと部費が無くなり、それが三年続くと廃部になるらしい。全員部活に入ることを推奨している学校で、それでも帰宅部を貫く奴は名義だけと言われても頷かない猛者ばかりだ。友人としては幸いとばかりに誘ったのだろう。
入部した挨拶くらいは、と思いながら友人に連れられて図書室の隣にある部室に行くと、二年生の男女二人と一年生の女子一人がいた。普通の教室の半分程度の広さで、真ん中に大きな机、右側には黒板、左側には背丈程の本棚があるだけのシンプルな部屋だ。部員の数を考えたらかなり広いと言える。
すでに友人から話が通っていたのか、入った瞬間から明るく歓迎してくれた。今まで歓迎したりされたりなんてあまり経験がなく、最初は戸惑っていたように思う。最初の十分程度は自己紹介やら好きな本のことなど話したが、しばらくすると親しい友人と話しているかのようになり、それ以降は全然関係のない雑談を二時間ぐらいして解散となった。あっと言う間の二時間にだった。
正直、文芸部は真面目で少し暗いような印象を持っていたのだが、そんなイメージが吹き飛ばされた。その時、バレーボール部を辞めてから胸に溜まっていた陰鬱な空気が少し吐き出された気がする。そして何より、歓迎されて、ここに居て良いんだ、というような安心感のある嬉しさがあった。
「ということで、高校の頃の文芸部員には感謝しているというか、嬉しかったというのを伝えたかったんですけど、タイミングがなくて言えなかったんです。もう言うつもりもないんですけどね」
実は夏休みに恩師に会うためと口実をつけ高校を訪ねたのだが、ちょうど実力テスト前で部活禁止の時で誰もいなかった。やっぱりタイミングがあわないなと意気消沈し、今ではもういいかなと考えている。
「おーけー、おーけーだよ。そういうの良いよ。なんか文芸感があるよ。私のエピソードにもちょっといい感じの設定付けたい!」
「それは捏造でしょ。勝手に盛り上がらないでください」
「いいじゃん、いいじゃん。書こうよ、書いちゃいなよ。一緒にいい感じのポエミーなレターをさぁ!」
「ちょっとバカにしてます?」
先輩はにんまりと笑いながらも「半分冗談、半分本気」と少し真剣な声で言った。
「やっぱりバカにしてるじゃないですか」
「半分は本気なんだって。絶対伝えた方かいいよ。相手も嬉しいって、たぶん」
「そこは自信持って言ってください」
「じゃあ、私だったら嬉しい。嬉しかったよ、楽しかったよって言って貰いたい。だから、私は言う! 手紙書くよっ」
ストレートな言葉に戸惑いながらも答える。
「それでも、僕には手紙はハードルが高いですね」
うーん、と先輩は首を傾げながら考えて答えた。
「じゃあ小説は?」
僕は「小説?」とオウム返しで聞き返す。
「そうだよ。文芸部なんだから小説に書いたらいいじゃない。あっ、これ名案じゃない?」
「適当に言ってる雰囲気があるんですけど」
「本気だって。小説だったら渡しやすいでしょ?」
「さらに恥ずかしくないですか?」
「なんで? 小説なんだから。これはフィクションですって書いて、とぼけてたらいいんだよ」
「また適当なこと言って」
「いいと思うんだけどなぁ。伝えなかったら伝わらないんだよ。もし恥ずかしくても後悔はしないよ。伝えるは一時の恥、伝えないは一生の後悔、だよ」
僕はその何とも言えない言葉に対して、またも納得してしまった。伝えたくて伝えられなかったことを今も気にしているのは事実だ。
受験勉強を理由に辞めたこともあり、実際真剣に勉強に打ち込んでいたため、そこまで部室に足を運ぶこともなかった。けど、本当は毎日でも行きたかったし、ただ部室で話をするだけで楽しかった。あの頃の自分の『居場所』は文芸部であり、そこにいる部員だった。その気持ちはやっぱり伝えたい。
僕は一つため息をついた。
「書きます。小説」
「おおっ、ほんとに?」
「先輩が言ったんでしょ。書きますよ。次の部誌に載せて持っていきます」
「いやぁ、そう言ってくれると思ってたよ。私、信じてた」
「ほんと適当ですよね」
「失礼な。私はいつも真剣だよ」
僕は先輩とくだらない話を続けながら、どんな小説にしようかと考え始めた。