ミツコさんの日曜日は、孫娘のちえちゃんとのお散歩と決まっている。
目的地は毎週ばらばらだ。ちえちゃんのママ(ミツコさんは常々、彼女のことを息子の嫁というよりも孫の母親だと感じている)におつかいを頼まれることもあるし、おつかいなんか関係なくふらっと町内を回るだけのこともある。
ちえちゃんは、物心つく前から始まったこの毎週の慣習が存外気に入っていた。何せ、ミツコさんは初孫であるちえちゃんに何かと甘い。
それに何より、お仕事で忙しいママに代わっていつも遊び相手になってくれるミツコさんのことが、ちえちゃんは大好きだ。今よりもっと小さいときは、おままごともお姫さまごっこも付き合ってくれたし、もうお姉さんになった今でも(小学四年生は立派なお姉さんだ)一緒にお絵かきをしたりお菓子を作ったりしてくれる。
その日のミツコさんたちの目的は、商店街にある小さな古い喫茶店だった。小学校からの帰り道、ちえちゃんが「かき氷はじめました」の張り紙を見つけたから、というのがその理由だ。
「今年も、もうそんな季節になったのねえ」
間延びした声でミツコさんは言った。履き古したサンダルが、足元でぺたぺたとささやかな音を立てる。
「お散歩が厳しい時期になるわね」
「涼しいところに行けばいいんだよ」
「うふふ。ちえちゃんはアイスクリームが食べたいだけでしょ」
からかうように笑って、ミツコさんは優しくちえちゃんを見下ろした。息子によく似た癖っ毛が、ぬるい風に柔らかく揺れている。そうだ、麦わら帽を出してこなくっちゃ、と小さくつぶやいた。
商店街までは緩やかな上り坂だ。あまり体の強くないミツコさんの歩幅に合わせて、二人はゆっくりゆっくり歩いていく。どこか遠くで蝉の鳴き声がしていた。日の光はまっすぐで、じりじりと肌の上が焦げていくようだ。
商店街を半分くらいまで過ぎると、少し色の褪せた赤いビニール屋根が見えてきた。二人の行きつけの喫茶店だ。チョコレート色の扉が開け放たれて、ところどころ錆びた「OPEN」のプレートが下がっている。ショーケースの中の食品サンプルはすっかり埃まみれで、あんまりおいしそうには見えない。でも、ちえちゃんはこの中にあるメニューが全部美味しいことをちゃんと知っている。
「お、いらっしゃい。ちょっと久しぶりだね」
中に入ると、人好きのする笑みを浮かべてマスターが声をかけてきた。ひげ面で恰幅がいいので、二人はこっそり熊さん店長と呼んでいる。たまに大雑把が過ぎるけど、彼の作るナポリタンは最強だ。
「かき氷、いちごみるくで!」
「私はいつものでお願いね」
「はいはい。少々お待ちくださいよ」
お冷やのグラスを二つ置いて、マスターはのそのそと厨房へと戻っていく。その姿がやっぱり熊に似ていて、ミツコさんとちえちゃんは顔を見合わせてくすくす笑った。
この喫茶店には、例年かき氷はいちごみるくと宇治金時の二種類しか姿を現さない。マスターは「少数精鋭だ」と言い張るけれど、絶対に新しいメニューを作るのが面倒くさいだけだとちえちゃんは確信している。ちなみに、小豆のつぶつぶした感触が嫌いだから、ちえちゃんは未だにいちごみるくのかき氷しか食べたことがない。
注文の品は、ほどなくして運ばれてきた。ちえちゃんは山盛りになった氷を、しゃくしゃくとスプーンで崩しながら食べ始める。人工的ないちご味と鮮やかなピンク色。景気よくかけられた練乳がべったりと甘い。そっと添えられていた真っ赤なサクランボを脇によける。残すわけじゃなくて、最後に食べるためだ。冷たくしびれた口の中で、シロップ漬けのサクランボは優しい後味を残してくれる。
「おばあちゃんはいっつもそれだよね」
ふと思ってそう言うと、ミツコさんは一瞬きょとんとしてちえちゃんの顔をじっと見た。
「ああ、これ」
得心がいったように、細長い銀色のスプーンでグラスのふちを叩いてみせる。キン、と涼しい音がテーブルの上に転がった。
ミツコさんの前に置かれていたのは、クリームソーダのグラスだった。意外に分厚いガラスの向こう側、透き通った緑色がなみなみと満ちている。底から泡がいくつも浮いてきて、表面でぱちぱちと小さな音が弾けていた。真ん中には丸く掬って落とされたバニラアイスが、浮島のように半身を沈ませている。
「忘れられないのよ」
ミツコさんは、困ったような顔でそう言った。
「やっぱり、あんまりおばあちゃんっぽくないかしらね」
ゆっくりスプーンを回す。流れに乗れなかったストローが、バニラアイスに引っかかって窮屈そうにしている。底に沈められたサクランボが周りの氷と一緒になって、緩慢に渦を描いた。
「昔のこと?」
「そう。昔のこと」
穏やかに答えながら、ミツコさんはずっとずっと昔、そのクリームソーダを一緒に飲んだ人を思い出していた。
ガラスの分厚い眼鏡、苦い匂いの葉巻と、その灰を落とす節くれだった指先。そういえば私と一緒にいるときはあまり吸わなかったわね、とミツコさんは今更のように気がつく。
あるいは、香水をまとった首筋と瀟洒なイヤリングを思い出した。またあるいは背広の後姿を、訪問着の袖をつつましくおさえる仕草を、ごめんくださいと店内に呼びかけた声の残響と、自分が握っていた誰かの手の温度を。
「おばあちゃんが、ちえちゃんと同じくらいのときのことよ」
そう付け足すと、ちえちゃんは目を瞬かせて、スプーンをくわえたまま難しそうな顔をした。
「おばあちゃんの若い頃って想像つかない」
「まあ、失礼ね。おばあちゃんだって、女の子だったときもお姉さんだったときもあるのよ」
すました顔でソーダを啜る。口の中で弾けた泡は、溶けたバニラアイスの風味がした。
そのときクリームソーダを供してくれていたマスターは先代で、もうとっくに亡くなっている。見た目こそほとんど同じだが、使われている材料も少しずつ変わっているだろう。実際、当時はバニラアイスの上にさらに生クリームが乗っていた。
それでもミツコさんの心の中にそれは、特別な飲み物として刻み込まれている。おとなと一緒じゃないと飲めなかった、特別な一杯。
「でもきっと、今も昔もおばあちゃんはそのまんまだね」
ずっと何か考えていたようだったちえちゃんが、そう言った。いつのまにか山盛りの氷はすっかり無くなっている。
「あらやだ。昔からおばあちゃんだったわけじゃないってば」
「ううん、そうじゃなくて」
ちえちゃんは慌てて首を横に振る。「えっとね」とどうにも言葉がまとまらないらしいちえちゃんを、ミツコさんは小首を傾げて見つめた。
「女の子だったおばあちゃんも、お姉さんだったおばあちゃんも、今のおばあちゃんとおんなじだと思うの」
「おんなじ?」
「うん。だっておばあちゃん、わたしの一番のお友達だもん」
大真面目な顔をして、ちえちゃんは言った。
お友達。実の孫娘にそんなことを思われてたなんて。
ミツコさんがびっくりしたのは一瞬だった。そのあとすぐに、おかしさがこみあげてきたからだ。何十年も生きている。いつの間にか大人になっていたと思っていたけれど、案外大人のふりが板についてきただけだったのかもしれない。だって、孫娘に友達だと言われてこんなにも嬉しい。
「かけっこも鬼ごっこもできないわよ」
「そんなのもう男の子しかしないもの」
「あらあら。それは、小さなレディに失礼だったわね」
喫茶店の片隅で、穏やかに時間は流れている。
ちえちゃんはきっとこの先、どんどん大人になっていく。それでもずっとおんなじでいられたらどんなに素敵だろう、とミツコさんは目の前の小さな友人を見つめて思う。
ちえちゃんは、最後のお楽しみに取っておいたサクランボを頬張るところだった。「頭がきーんってする」とぼやきながら。
ミツコさんもグラスの底に沈んだサクランボを拾い上げて、一口かじった。果肉の崩れる感触。懐かしい甘酸っぱさが通り抜けて、夏の後味だけが優しく舌の上に残った。