俺の部屋に金魚がいた。馬鹿にでかい。立った俺とそう変わらない位置に顔があるんだから八十センチはあるんじゃなかろうか。我が物顔でゆらりゆらりと泳ぐそいつに俺は声をかける。
「何してるんですか、ここは俺の部屋ですよ」
金魚は返事をしない。その口は何のためについているんだと罵ってやりたくなったがぐっとこらえる。対話の姿勢を見せることも大事だと思う。窓の外では自己主張の激しい蝉が鳴いていた。
しかしこいつは俺の方を見ようともしない。魚はどこを見ているかわからない。ただ悠然と狭い室内を泳ぐばかりである。
こんなやつに時間を取られても仕方がない。私はくたびれた紺色のジーンズとTシャツを着て鏡の前に立つ。歯を磨いて顔を洗って、濡れたまんまの自分の顔をじっと見た。どこ向いてんだかわかりゃしない、死んだ魚の目があった。
玄関に置いてある黒い帽子を被ってサンダルに足を通す。後ろを振り返ると金魚はまだ俺の部屋を泳いでいた。
「帰ってくるまでに出てってくださいね」
金魚にそう言い残して俺は家を出た。
空はわざとらしいくらいの水色で、スカイブルーは嘘をついてはいない。大学途中のコンビニで買ったコーヒーを飲む。七月の陽ざしは俺の頭をじりじりと焼いた。この帽子にきっと意味はない。汗をかいたアイスコーヒーが喉を通って腹を冷たくするものの、頭は少しも冷えやしない。そこまで求めるのは酷であってもそうであってほしいと期待したかった。
スクリーンにはスライドが映し出されている。食物連鎖について話していた。草を食べ、肉を食べる。自然の掟だという。人はそれから逸脱しているのだとも。眠気を誘う教授の頭は毛並みのいい猫だった。
「お前は殺して食うのか?」
隣から声がした。隣のそいつは顔からまっすぐ光が延びてスライドまで続いている。シカクい頭をしていた。
「殺すのは俺じゃない」
「そんな! 無責任だ!」
隣のそれは声を荒げた。何が無責任なものか。こういうときだけ責任を持ち出してくるくせに。
「うるせぇな。その辺の獣殺して食えってか」
シカクい頭がガタガタ震えて目を閉じてしまった。顔を手で覆って、どうやら泣いているらしい。途端に静かになる。
パッと教室が明るくなった。教授も、学生も、みんなこちらを見ている。こちらを見ている猫だった。丸く目を見開いている。
「君、出ていきなさい」
──理不尽だ。
そう呟いて俺は教室を後にした。
気分が乗らなくなって、アパートまで帰ろうとしていた。変わらず空はわざとらしい。いつも立ち寄るスーパーを見て、冷蔵庫に中身がないことを思い出した。自動ドアを通ろうとして、アパートの隣の部屋の人にぶつかりかけた。
「ああ、すいません」
「いえ、こちらこそ。……お昼ですか?」
俺はレジ袋を指さした。うっすら卵が透けていた。
「ええ、そうです。あなたも?」
「まぁそんな感じです」
ところで、とひと呼吸おく。
「その辺の獣殺して食います?」
怪訝そうな顔をした。仕方がない。
「与えられたものを食べます」
それでは、と外へ出たそいつの頭は鶏になっていた。俺は諦めてクーラーの効いたスーパーの中へ入っていった。
ここを曲がればあと少しというところに、金魚鉢が立っていた。薄い水色のカッターシャツにベージュのチノパン。身体の線はやけに細い。それが道の真ん中に立っていた。
「あなた、金魚を飼ったことはありますか」
「ありません」
金魚鉢から空が透けて見えた。中身は空っぽだった。
「どうして?」
「どうしても何も、金魚に興味がないからです」
「それは酷い。金魚だって生きているのに」
「生きてるんですか?」
空っぽの頭を指さし言った。とても何かが生きているようには見えなかった。
「生きています。ただ──」
「ただ?」
「家出をされてしまいました。見つけたら帰るように言っておいてくれませんか」
はぁ、と曖昧な返事が口から出た。金魚鉢は両手で私の手を掴んだ。
「ありがとうございます。では」
去っていくそいつは日の光を反射して眩しかった。額の汗をぬぐう。何かに祈るわけではないが、ああいうのが楽なんだろう。角を曲がる私の帽子は熱かった。
家に帰るとまだ金魚がいた。無機質な目はどこを見ているか分からない。これで生きているとは思えないが、死んだ魚の目より幾分マシなのだろう。パクパクと何か言いたげに口を動かしているが何も聞こえなかった。当たり前だ。金魚は喋らない。俺は冷蔵庫に買ってきたものを詰め込む。その間ずっと金魚がつっついてきた。
窓を大きく開けた。風は吹いてこない。どうせここは水槽の中なのだから。俺は窓に手をかけたまま金魚に言う。
「お帰りなさい」
金魚は俺の部屋を泳いでいた時と変わらないように、我が物顔でゆるりと外へ出ていった。窓を閉めてクーラーのスイッチを入れる。テーブルの上にはスーパーでさっき買ってきた弁当があった。
「いただきます」
両手を合わせてからそれを食べ始める。窓の外では風鈴の音が鳴っていた。