ある公園の中の草村。そこは七星天道虫の大家族が住んでいる場所だ。人間の散布した殺虫剤によって前の住み処を失った彼女らがこの場所に住み始めたのは十代と少し前の時代だった。その頃は数虫余りの小さな家族だったが、同種の先住民族はおらず御飯となる油虫が沢山生息していたために数年で他の草村に引けを取らない家族となった。
天道虫は卵、子虫、そして蛹を経て大虫になっていく。葉の裏に産み付けられた卵は、それはもう宝石のように透き通った橙色に輝いている。活発に動き回る子虫は大虫の真似をして村での生活を学ぶ。大きく姿形を変化させる段階である蛹は大虫には及ばないながらも種族の証としての七星を持っている。大虫として立派に羽化した大虫は太陽のような緋色に黒点のような星を背負い一生を村のために過ごす。卵で一週間、卵から孵って子虫になって一週間、さらに一週間を蛹の形態で過ごし羽化して大虫になる。産卵直後から羽化するまでの約一ヶ月を大人が暖かく見守るのが日常だ。
しかしここの草村には普通ではない天道虫が居た。この地へ引っ越してから初めて産み付けられた卵の一つなのだが、一緒に産み付けられた卵が孵ってもずっと卵のままだった。卵の期間が一年、子虫の期間は二年、蛹の期間に至っては三年が過ぎようとしていた。
春のある早朝。昨日までは吽とも候とも云わなかった蛹が蠕いているのを観た大虫は、村中の大虫に知らせて蛹を取り囲んでいた。「それ」が卵、子虫の時にいた大虫たちは皆、天へと翔んでいった。今の大虫たちは「それ」が蛹の姿になってからの世代で、どれほど綺麗な緋色に立派な黒星を背負った大虫が羽化してくるのかに興味津々なのだ。村一同が見守る中、背中側から亀裂が入り中身が見えてきた。が、しかし周りの大人たちは目を疑った。
蒼。
何もかもを吸い込みそうな程の蒼色だった。
大虫たちが愕然としている中「それ」は蛹の艶のない膜を脱ぎ捨てゆっくりと翅を伸ばしていた。朝陽に煌めく蒼い前翅には、これまた他の大虫とは異なり黒色の星ではなく黄金色の星が瞬いている。
新しく大虫となった「それ」は周りを見渡して、意思疎通を図ろうとしていたが「それ」は羽化で体力を消耗していたのだろう。段々と動きが緩慢となりそのまま眠りに落ちてしまった。
大虫たちは本当に「それ」が自分たちと同じ種族なのかと頭を悩ませた。この場に移り住んでから、いやそれ以前から色の異なる大虫は存在の事例さえ無かったのだから。
一応、ここでは「それ」のことを「夜空」と呼称しよう。「夜空」の卵、子虫、蛹の期間は確かに長かったが色は普通だったので許容されていた。けれども周囲の大虫たちは「夜空」の大虫の容貌に頭を悩ませた。結果を述べると、種族の誇りとしての太陽の色から余りに逸脱していた月夜の色を持っていることで、排除の対象となった。唯々色が違うだけなのに、と思い「夜空」を擁護する大虫たちもいるにはいたがほんの一握りだった。
「夜空」は村の隅にあった今は何者も住んでいない蟻塚の奥の奥の奥の方に封印される運びになった。本来ならばその場所は女王が鎮座するための玉座の間だ。容易に外の者が入らないようにできる部屋。裏を返せば容易に内の者を出さないようにできる部屋。「夜空」は眠っている間に次に何時出られるとも知れぬ地下の牢獄へと数虫掛かりで運ばれて安置される。さらには小石で出入り口を塞ぐという念の入れようであった。
「夜空」は目を覚ました。はて、ここはどこだろうか? そう言いたそうに周囲を見回す。そこには大きめの台座とも言えそうな大きな椅子と「夜空」隣の小さな葉っぱの包みがあるだけで他に物はない。辺りは土色黄土色。どうも自分はここに置いてけぼりにされたのは間違いないと思い至るのは想像に難くない。暫くちっとも動かずに考え込んだ「夜空」。一先ず隣の包みを開けてみることにしたようだ。
包みの中には一般の大虫で数週間分の糧が入っていた。心の内で「夜空」を追放することに反対していた一虫が自らの行動が偽善と知りながら忍ばせた物だった。幸いと言って良いのか「夜空」燃費は格段に優れており、この食糧は「夜空」換算で概ね一年分ほどだ。
「夜空」が蟻塚に押し込められて一月が経った頃。一方の草村では二度目の受難。またも人間の仕業である。殺虫剤によって十数代前には大量の天道虫が天へと翔んでいったが、今度は草が枯れ始めたのだ。公園の草村に越してきてから一度たりとも人間たちは除草剤を撒いてこなかった。だが公園を本格的に覆い始めた勢力に役所へ苦情が来た。公共施設の管理不行き届きを指摘された役所は、慌てて一気に全ての雑草を駆逐する計画を目論んだようだった。
このままでは油虫がいなくなってしまい冬を迎える前に十分な栄養を蓄えられない。飢饉である。公園の草村にいては皆、天に翔び立つしかなくなってしまう。そう考えた大虫たちは直ぐさまこの場所を棄てて新天地に移り住む決心をした。皆が、生活が安定するまでの苦難に怯えながらも数日後には準備を終えて家族全員での引っ越しを決行した。家族全員とはいうものの勿論その中に「夜空」はいない。
耐えた。強い精神を持つ「夜空」には耐えられた。けれども限界だ。ずっと暗闇の洞窟の中ではどれだけの月日が経ったのかが分からない。救いのないこの場所では自分が生きている理由さえ見当が付かなくなってしまうのだろう。食糧は尽きていないが、もう食べ物すら口に含まずに自らの命が消えることを願い身じろぎもしなかった。火は今にも消えそうになった。
「夜空」は振動が聞こえてくるのに気付いた。すわ空耳か、とうとう自分の頭が狂ったか。戦々恐々としながらも同時に手舞足踊しそうになっていた。自分が天に翔び立つときが来たのかもしれないのだから。
実際には空耳でもないし、頭が狂った訳でもなかった。地上で人間の子どもが花柄のスコップを使って、「夜空」のいる蟻の巣を掘っていたのだ。出入り口を塞いでいた小石がぱらぱらと崩れていき玉座に光が差し込んできた。「夜空」は久方振りの外気を吸い、体を震わせながら崩れた小石をよじ登っていった。小石を登り切った「夜空」はふらふらとではあるが飛び立ち、子どもの手のひらに止まった。子どもは目を輝かせて興味深そうに手のひらの天道虫を観察していた。「夜空」は子どもに感謝を伝えるようによろよろと動き回り、最終的には薬指を傳って天の彼方へと消えていった。
それから「夜空」がどのように生きているのかは分からない。あのまま一虫でいるのかそれとも家族をつくったのか。しかし何となく誰かに、もちろんあの子どもにも幸運を授けながら大空を悠々と飛び回っている気がする。