いつのまにやらすっかり廃人になってしまったようだ。近頃、休日は部屋に篭って本を読んでばかりいる。たまに出かける時の行き先は博物館で、日陰に座って何をするでもなくただ一日中鯨の骨格標本を見上げて過ごしたりなんかしたりする。心は骨だとか剥製だとか、既に完結した存在に一層惹き付けられて、それ以外のものに興味が持てない。何処か遠く、誰一人私を知る人がいないような場所へ行ってしまいたいと思う。それは例えば、廃墟になった教会のような場所。いつの日か命が尽きる日はその朽ち果てた床で横になって眠ってしまいたい。
しかし、現実には私はなかなか一人にはなれない。こんな人間にも幼少期というものはあるわけで、その頃の純粋でいい子であった私を知っている旧い友人のうちの何人かは情というものか憐れみというものか未だ落ちぶれておかしくなったこんな私の面倒を見てくれている。ある日私はその友人の一人に誕生日プレゼントを買うために博物館ではなく梅田に出かけた。正直、あまり人に贈り物をすることはないのだが、流石に世話になっている友人の誕生日に何もしないというわけにはいかなかった。何か見繕う必要があった。そういうものを買うには、やはり大きな街に出たほうが早い。しかし、JRの大阪駅の改札をくぐる頃には既に帰りたくなっていた。人波に揉まれているうちに、海に落ちた雨の一粒のように周りと自分が溶けあって一緒になっていってしまうようで気持ちが悪かった。しかし、せっかく電車賃も払って来たわけだし、プレゼントを買いもせずに帰るというわけにもいかないのでそのまま我慢して歩き始めた。
特にこれと目星を付けていたものもないので店から店へと渡り歩いて贈り物にふさわしいものがないか探した。人混みを避けて裏通りみたいなところを歩いたり、アクセサリーショップを覗いてみたり、ケーキ屋の売っているクッキーの詰め合わせの試食をしてみたりしたが、どうにも決まらない。悩んでいるうちに昔のことを思い出す。かつて私はあの友人を神様のように思っていた時期があった。彼女といると空気まで色づくように思われたし、彼女の声がどんな音楽よりも綺麗に思えた。手をつないでいると私より少し暖かいその手がだんだん私の体温に近づくのが幸せだった。しかしどうしたことだろう、その幸福な感情はだんだん逃げていった。今では彼女といても空気は悲しい程に透明だし、声は声でしかない。最後に手をつないだのは随分前のことなので、彼女の手のひらが果たして私の手のひらより暖かいままなのかはわからない。もしかしたら今は私の手のひらよりも彼女の手のひらのほうが冷たいかもしれない。
心に雨雲が一つ浮かぶようだった。歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。もう歩きたくないと思った。しかし歩く。そして手近な店に入ると商品を物色するのだが、やはり決まらない。店員に助言を求めてみたが、あまり参考にならなかった。色んな店に入って、色んなものを手にとって、それを元の場所へ戻した。私は幾度もそれを繰り返した。昼前には来たのに、候補すらあがらないまま日が暮れ始めた。数年前の自分であったならここまで悩まずとも友人の喜びそうなものを選べていたのにと思うと益々焦ってしまってどのようなものがいいか考えられなくなり、余計に時間が過ぎるのだった。なんという呪われたことだろう。疲れ切った足は一歩進むごとに痛みを伴った。私は憂鬱になってしまって、一旦休憩するために本屋に向かった。
ここで向かった本屋というのが、ルクアの上階にあるものだが、フロアを一つ使い切っており、ぐるりと回れるように円く本棚が配置されていて、真ん中にちょっとしたカフェスペースがあってそこで本を読むことができる。私は珈琲を一杯買い、太宰治の人間失格を持ってきてそれを読んだ。イヤホンを耳に押し込んでお気に入りのポストロックを流せば、珈琲が冷める速度と同じぐらいの速さで焦りはゆっくりと収まっていった。落ち着くと自分が座っている席の丁度前に化粧品を売っている店があるのに気づいた。
本を棚に戻してそのコーナーに向かう。夏だからか期間限定品のコーナーに薄荷レモンの香りのものがあった。そのパッケージが爽やかな青にレモンを模した和風の幾何学模様で、なんだかそれがいかにも友人に似合いそうに思えた。
「いいですよ、これ、本物のレモンみたいな匂いで」店員が横で微笑む。
促されるままにテスターの香水を手首にかけてみると、爽やかな匂いが広がった。私は高村光太郎の智恵子抄に収録されているレモン哀歌のことを思い出した。──わたしの手からとった一つのレモンをあなたのきれいな歯ががりりと噛んだトパアズいろの香気が立つ──トパアズいろの香気とは変わった表現だが、レモンの香りはまさにそのような感じがした。
「いい香りですね」
それでふと思い出した。そういえばあの友人は香水がほしいけれど、自分に合う匂いがわからないとか言っていた気がする。これは丁度いいんじゃないだろうか。香水は好みがあるからあまりプレゼントに向かないとかいつか聞いた気もするが、今回贈る相手は自分に似合う匂いを知りたがっているわけだし、レモンの匂いが苦手な人というのもあまり聞かないし。
「これ、買います」
「プレゼント包装されますか」
「はい、お願いします」
やっとプレゼントが決まった事実に安堵の溜息がこぼれた。きっと、この香りはあの子に似合う。みずみずしいレモンの香りは、あの子の指の間から果汁が零れるように匂うだろう。しかし、そうしたら、その手の中の搾りかすは、その後何処に向かうだろうか……