僕が大阪に引っ越し、一人暮らしを始めてから二週間ほどが経った頃。秋学期から始まった対面授業は僕の予想に反して中々にいい感じで、友達も何人かできた。田舎にいた頃はあんなに憂鬱だった新天地での生活は、まさに住めば都といった感じで、僕はもう「なんなら一生一人暮らしでもいいな」とか考えていた。
そんな僕の新しい日常は、たった一匹の小さな虫によって地獄と化した。黒光りしながら素早く動く、無限の繁殖力を持つあの害虫が現れたのだ。
奴は部屋の右側の壁の、天井に近いところに張り付いていた。まるで「私ずっとここにいましたけど?」とでも主張するかのように、僕が息を止めて見つめる間、じっとそこを動かなかった。
僕は急いで母に連絡した。
『Gが出た』
とにかく、誰かに助けて欲しかった。田舎で見たことのあるソレよりも遥かに巨大なソイツに、ちょうちょ以外の虫は触れない僕が一体どうやって立ち向かえばいいというのか。とにかく、何でもいいから助言が欲しかった。
『スプレーはあるの?』
母からの返信が来たことに安堵し、家の中を見回して絶望した。
無理だ。スプレーがない以上、奴に勝てるビジョンが思い浮かばない。中学生の時に勢いに任せて『ハリーポッターとアズカバンの囚人(新書)』で奴を叩き殺したはいいものの、死骸にさわれなくて妹に片付けてもらったことがあったが、今思うと、何故そんなことができたのか信じられない。よく殺害まで持って行けたなと思う。
段々と、スマホを握る手が冷たくなってきた。思い通りに文字を打てなくて、視界が明滅する。どうやら、あまりのショックに体がおかしくなっているようだった
だんだんと、視界が黒く染まって行く。目を開けているのに、何も見えない。
僕はそれを最後に意識を失った。
「……え?」
意識を取り戻して、目を開けると、何故か体が横になっていた。先程の場所に奴の姿は見当たらない。僕は幻覚でも見ていたのだろうか?
慌てて手に持っていた携帯を覗き込むと、母親とのやりとりがしっかりと記録されていた。
つまり僕は、Gを見たショックで気絶したらしかった。
一体僕は、どのくらいの時間倒れていたのだろうか。確か、僕が倒れる前にテレビで上沼恵美子が喋っているのを見た気がする。しかし、今はもう喋っていない。
「うーん、結構倒れてたっぽいな」
奴が僕の目に入る場所からいなくなったことは喜ばしいことだが、見えないところに奴がいる恐怖を感じるので、一概にいいとは言えない。奴は押し入れにいるのかもしれないし、テレビの後ろにいるのかもしれないし、はたまた僕の布団の中か、それとも今も僕の後ろに……あわわわわ。
「こ、こんな所にもういられるか!」
僕は財布と携帯だけを手に家を出た。時刻は夜の十一時。ドラッグストアは確実に閉まっているだろう。イオンがやっているかどうか……。やってなかったらどうしようか。あの家にはもう戻りたくない。ホテルにでも泊まろうか。
起きた時からずっと、背中をすごい量の脂汗が伝っていて気持ちわるかった。精神的にもかなりすり減っていて、アパートの出口ですれ違った女の人に助けを求めるか本気で悩んだ。それは余りにも情けなさすぎるのでやめたけど。
イオンがやっていたのは果たして僕にとって幸運だったのか、それとも不運だったのか。暮らしコーナーで殺虫スプレーを手に取ったその瞬間、僕はホテルという逃げ道を失ったのだ。
僕はまず震える手でスプレー三本をカゴに入れた。左手に持つ用と、右手に持つ用と、予備だ。それに、数は力だと僕の心の織田信長が主張していた。一本のスプレーでは倒せなくとも、三本のスプレーが合わされば……これは違う人か。
次に奴を誘き寄せて殺す毒餌と、奴を近づけさせない臭い玉を買った。効果が重複しているとか、そんなことはどうでもよかった。ただ僕が奴のいない日常を送れるなら何でもいい。僕の心の小早川秀秋も僕の生き方を肯定してくれていた。
そのままレジに向かおうと思ったが、カゴを見て、この買い物のラインナップでは周囲にゴキブリが出たことを喧伝しているようなものだなと思ったので、ついでに蝿を殺すやつと米当番を買った。ゴキブリが出るほど部屋が汚いと思われるのはたとえもう二度と会うかわからないスーパーの店員といえど嫌だったので、カモフラージュのつもりだった。
「一万円でーす」
商品を詰めながら僕は思った。
「ゴキブリが家に出た人じゃん、こいつ」
きっと店員さんもレジを打っている時に同じこと考えていたに違いない。
僕はフラフラと家に帰る。
いつも通っている道なのに、今だけは魔王城にでも続いているかのように思えた。私、今夜は帰りたくない。なんて頭の中でちょっとエッチな少女漫画のヒロインごっこをしても、いつもと違って全く気が晴れることもない。むしろ、妻に浮気がバレて即時帰宅を求められた夫の気持ちが、今なら十パーセントくらいはわかる気がした。
まあ、結局帰ってくるんですけれども。
電気をつけては怯え、毒餌を置くために押し入れや引き出しを開ける度に怯え、視界の端を横切る黒い幻覚に発狂した。どうやら、気絶したことがよっぽどトラウマになっているらしい。
もし、寝ている間に奴が口から侵入して、僕の内臓を食い荒らしたら? 卵を生みつけたら? 僕の胃の中で何百匹もの奴の子供が成長し、一斉に食い破ろうと試みたら? そんな想像が頭から離れなくて、全く眠れない。
仕方がないので、ネットで『ゴキブリ 気絶 男性』と検索したりして時間を潰した。僕は仲間が欲しかった。「気絶するほど虫が嫌い」という人は結構見かける。なら、本当に気絶した人が僕以外にいてもおかしくない。
しかし、残念ながらかの高名なグーグル先生ですらゴキブリを見ただけで気絶した男はご存知ないらしかった。結局僕は、散歩途中に蛇を見て立ちくらみした五十代女性に
「まあ僕は気絶して倒れたけどね」
と謎のマウントを取って自分の心を慰めた。まあ、逆に考えれば珍しい経験をしたことあるってことだからね。うん。
これ以上調べていても自分が情けなくなるだけだと思うので、ソシャゲの周回をすることにした。
それにしても、あまりにも出てこない。もう三時を過ぎているし、ひょっとしたらいなくなって──!?!!!??!?!?
「おおおおおおおおおおおおお!?」
今、なんか右足の上を通った!
奇声を上げながら飛び上がった僕は、殺虫剤をそこら中に撒き散らしながら激しくタップダンスを踊った。が、いない! 消えた!
急いであたりを見回すと……いた。引き出しのノブに張り付いている。
近くで奴を見たことで、俺は何故か、恐れよりも激しい怒りを覚えた。
なんで、何で僕がこんなにも苦しまなければいけないのか。あんなちっぽけな存在に、何故この僕が、人間様が、ここまで振り回されなければいけないのか。
「しねえええええ!」
気がつくと、僕はスプレーを片手に奴に襲いかかっていた。
「しね! しね! しね! しねええええ!」
これが人の力だ! 文明の叡智だ! 僕は叫びながらスプレーを噴射し続けた(夜中の三時)。
奴は数秒苦しげに悶えた後、仰向けに転がった。しかし僕はネットサーフィンしている途中に『奴は死んだふりをする』という知識を身につけていたので、数秒おきに殺虫剤を噴霧し続けた。
何度も。何度も。何度も。何度も。
霧が液体となり、奴の死骸の周りが小さな水溜りと化したころ、僕はようやく正気を取り戻した。
「片付けないと……」
僕は箒とちりとりで死骸をおっかなびっくりゴミ袋に入れ、すぐさま外に捨てに行った。たとえ死骸でも、奴を家の中に置いておくのは嫌だった。
奴が残した爪痕は大きい。僕は結局、その後も凍らせるスプレー、出なくするスプレー、嫌がるスプレーなどを買い、総額で二万円にも上る出費を強いられたし、一人でいると未だに黒い影が視界の端を横切ることがある。
でも、悪いことばかりではない。就活の時、「大学生活で成長したことはありますか?」と聞かれたら、「ゴキブリを倒せるようになりました」と胸を張って答えてやろうと思う。あんな気持ちの悪い生き物を倒せる人間が、この世に何人もいるとは思えない。僕はきっと、社会に出たら引っ張りだこだろう。