今日も夢を見た。いつもと変わらないある女の子の夢だ。宇宙飛行士になってあの星々の瞬く空間へ行きたいと目を輝かせながら夜空を見上げる少女、生まれつき少しカールしている髪を馬鹿にされて頬を膨らませる少女、大事にしていた天体望遠鏡が壊れてしまって大粒の涙を流す少女。
どの場面においてもその少女と共に時間を過ごしており、心の底から愛おしいといった感情がわき上がってくることが分る。しかし、僕はその少女の事を知らない。年齢は十代といったところであり、度々制服を着用していることもあったので、埃を被った卒業アルバムなどの類いを押し入れから引っ張り出してはみたがそのような少女は存在しなかった。
遠い昔の記憶であり、忘れてしまったのか。そもそもそのような人物は存在しておらず、僕の生み出した空想であるのか。はたまた僕ではなく別の誰かの記憶であるのか。
そして今日も目を覚ます。
「今日は天気も快晴だ。締め切りまで余裕もあることだし、アイデアを練ることも兼ねて久々に外に出てみようか」
そう独り言ち、自宅を後にする。
気の向くままに歩を進める。僕達は多くのものを目にはするけれども、そのほとんどが重要ではないものとして気にも止めない。そのようなたわいもないものなどからも非凡な発想を生み出すような才が創造の遂行者たる僕のような物書きには必要になるのであろうなどと頭の中で持論を展開していると、周囲の生活音が消え、閑散とした一本道が眼前に姿を現す。
この道がどこに繋がっているのかなどは分らない。しかし、吸い込まれるようにただ足を前に進める。その道の両脇には花壇があり、クロユリが等間隔で植えられているために誰かが手入れをしていることが理解できる。このような郊外の一本道の先にいったいどのようなものがあるのか、好奇心の奴隷となって足を速めていくと白を基調とした建物が見えてくる。教会のようだ。
風が止む。葉擦れの音がなくなり、一帯は音が消えてしまったようだ。明らかにこの場所は異様な雰囲気であると感じるが、何かに突き動かされるように僕は扉のレバーハンドルへと手を掛け、少々の力を込めて押し込む。
すると木製の扉はぎいっと低いうなり声を上げながら内部へと僕を誘う。その内装は外からこの建物を見たときの印象と変わらず、一面が白で統一されている。しかし、礼拝堂にしては祈りを捧げる信者が座るための席もなく、ただ白い空間が広がっている。あるものといえば入り口の正面、突き当たりに設置されており、一冊の分厚い本が乗せられている祭壇、入って左手の壁面に飾られている絵画だけである。何が描かれているのであろうかと不思議に思い、壁面に近づいて絵をよく観察してみる。
そこには大きさの異なる玉虫色の球体がいくつも集まって構成されたものが描かれており、これは一体何を描いているのか、また何を表現しているかは分らない。しかし何かも分らないコレに酷く畏怖する。
掌がじっとりと汗ばんでいるのを感じる。ここは僕が知っているような、一般的な教会ではないのかもしれない。
底知れない恐怖から、もう帰ろうと扉の前まで戻り、レバーハンドルを握ったときだった。
「待ちたまえ、今来たばかりというのに、もう帰ってしまうのかい」
物が少ないその白い空間に少し掠れた低い声が響く。手を放し、瞬時に振り向くと先程まで何もいなかった祭壇の辺りに初老の男性が立っている。白髪であり、白い祭服にその身を包んでいる。その人物を見てどこか懐かしいようで薄気味悪いような自分でもなんと形容すればよいのか分らないが、酷く気持ち悪い感覚を覚える。やはり早く帰路についた方が良さそうだ。
「勝手に入ってしまって申し訳ありません。小説を書くためのネタ探しをしていたのですが、もうお暇しようとしていたところなのです」
と言って再びレバーハンドルに手を掛ける。
「だから、待ちたまえと言っているのだよ。波羽愛作君」
なぜこの人物は執拗に僕のことを呼び止めるのだろうか。と思って直ぐに思考が凍る。なぜこの男は僕の名前を知っている。名乗った覚えも無いし、名前を特定するようなものも身に付けてはいない。狼狽している僕の様子を見て男は続けて口を開く。
「君はなぜ私が名前を知っているのかと考えているね。もちろん知っているとも、私はこの世界におけるキーパーオブアーケインロア、隠された知識を保持する役割を担っているのだから」
この男は何を言っているのだろうか。その歳になって幼稚な幻想に囚われているだなんて気持ち悪い感覚を超えて哀れにさえ感じる。
「私は空想に耽ってこのようなことを述べているのではない。これは純然たる事実だ。そして君は思い出さねばならない、一人の少女のことを。そして知らなければならない隠された真実を」
聞けば聞くほどこの男が何を言っているのか分らなくなる。一人の少女のことを思い出さなければならないだとか、隠された真実などと言われても全くもって思い当たることなんてあるはずが……。いや、ある。
何度も夢で会ったあの少女。もしかしたら本当に僕は何か大切なことを忘れてしまっているのかもしれない。だが、必死に記憶を思い起こしてみても何一つとして思い出すことはできない。
「今回も会話だけでは覚醒を促すことは叶わないか。仕方あるまい、こちらへ来たまえ」
などと言いながら男は祭壇の傍に立ち、手招きをする。恐る恐る近づいて行くが、背丈が同じくらいの男の顔をより近くで見たことによって初めて見たときよりも強い不快感がある。どうにか堪えながら祭壇を挟んで向かい合う。
そして男は祭壇に乗せられていた一冊の分厚い本を僕に差し出して言う。
「さあ、この本に触れなさい。君は思い出さなければならない、久遠来夏のことを。そして知らなければならない、この世界の真実を」
その本に指先が触れた瞬間、視界が白に染まり、全てを知る事となった。
*
私、久遠来夏はいかなる手段を用いてでも、この身を犠牲にしたとしても彼が何不自由なく生きていてくれることを望みます。
彼が交通事故に遭ったのは十八歳の三月。卒業式の朝でした。飲酒運転をした大学生の車が信号を無視して通学途中の私達に突っ込んできたのです。回避することは不可能でした。でも、彼が私を突き飛ばし、私は九死に一生を得ました。
彼はそのまま跳ね飛ばされました。頭から血を流し、病院に運ばれていく姿を覚えています。もう助からないと思いました。
しかし、彼は一命を取り留めました。酷く損傷した硬膜もライオデュラの移植によってなんとかすることができたと医師が語っていましたが、何を言っているのか私には分りませんし、なによりも彼が助かったという奇跡に感謝しました。
彼はリハビリに必死に取り組み、元通りとは行かなくとも平穏な日常生活を送ることができるようになりました。もう一度手に入れた、こんな日常がいつまでも続いていくのだろうと私は信じて疑いませんでした。
けれど、彼が発病したのはそれから数年が経ってのことでした。初めは少し物忘れが酷くなったり、視力が低下したりする程度でしたが、次第に彼は私のことが分らなくなり、歩くこともできない状態になりました。クロイツフェルト・ヤコブ病と呼ばれる病気でした。
一、二年の闘病期間の果てに彼は息を引き取りました。運命を呪わずにはいられませんでした。どうして彼が死ななければならなかったのか、彼のいなくなった世界で生きていく意味なんてあるのか、そんな事ばかり考えていました。
彼の遺品の整理をしているときのことです。波羽家の蔵で一冊の本を見つけました。そこには時間と空間に干渉する力をもつ外なる神について、そしてその召喚方法についても記述されていました。
別にその内容を信じていたわけではありませんでしたが、私は藁にも縋る思いで実行に移すことにしたのです。神の顕現は成功しました。
神は彼が生きる世界を創造するその代償に私という存在の死を求めました。
*
この世界は久遠来夏の死によって改変された。僕の命を救うために。どうして、自身の命を犠牲にしてまで……。
彼女の願いによって造り替えられた世界、彼女の願いによって生きている僕の命、それほどまでに久遠来夏という女の子に想われていたことを素直に嬉しいと感じる。
しかし、こんな世界は認めない。
久遠来夏が生きていないなら、僕は彼女の想いを、願いを、祈りを拒絶する。
「全てを理解できたようだな。であるならば君が今からどう行動するべきなのかは分るね」
男が僕の目を真っ直ぐに見て、力強く、そして優しい口調で言う。
「あぁ、僕にはやらなければならないことがある」
指先が触れていた本を男から受け取るとその内容へと目を通す。そして見つける。神の召喚方法が記されているページを。
「やるのだな。では私も私の役割を果たすとしよう。見届け人としての役割をね。私は君の行動を、その勇気を誇りに思うよ」
男はにこりと微笑し僕の頭を撫でる。しかし、もう不思議と不快感は無い。
「では、はじめよう」
彼女の願いを僕は僕の独善によって踏みにじる。彼女は僕を許しはしないだろう、しかし、それでもいい。
そして、本を右腕に抱き締めながら呪文の詠唱を始める。
『無名の霧から生まれし混沌よ。イヤ、イヤ、ヨグ=ソトース。全にして一、一にして全なる者。戸口に潜みて果ての門へと吾を誘え』
眼前には形や大きさを絶えず変化させる玉虫色の球体の集合体。壁面に飾られていた絵画に描かれていたものが顕現する。
そしてその姿は直ぐに消え、巨大な門が出現する。
僕の左手にはいつの間にか銀の鍵が握られている。
「心配することはない。これが何度目の渡航であるのかはもう分らなくなってしまったが彼女が生きる世界線の創造を成功している。共に生きることは叶わなかったけれども、致し方あるまい。この世界線を生け贄にし、案内人としての役割を永遠にこなすことこそが私の願いの代償なのだから。さあ、行きなさい、波羽愛作君。また直ぐ会うことになるだろうが気にすることはない。何度でも導いてやるさ、もう一人の私をね」