今年初めての雪が降った東大阪。入り組んだ路地の一角、何も知らない人は辿り着けないであろう奥まった場所に店が構えられている。ドアに手をかけた彼女の小さな唇からは白い息が漏れ出ていた。
からんからん、店のドアが軋みを立てながら開く。
「いらっしゃい──」
店の主であるDはキズミを着け俯いたままでその音に反応した。制御の行き届いているピンセットの先が不意な動きをしないようになのだろう、細く最低限の声量である。その糸のような声は客に届いたのか、それすらも危うい。みどりの黒髪を腰でぱつりと整えた女性は初めて来店した風で、辺りに置かれている様々な種類の時計を物珍しそうに見回している。案の定Dの声が聞こえていなかった彼女は一通り目に入れたあと、店の片隅に電灯で照らされた机の上で作業する彼に気付く。文句など言わずに店主が顔を上げるのを待っていた。
「お待たせしました。ほんとうに」
切りのいいところで中断して客の方を見た頃には、彼女が入店してから小一時間が経っている。
「いいえ、時計の中身って初めて見してもらいましたが、楽しいものです」
「そう言ってもらえると。で、どんな要件で今日は?」
よく手入れされた清楚な顔立ちに美人を見なれていないDは驚いているはずだが、すぐ本題に入ろうとする。どうにもせっかちである。反して彼女は、客商売に思えない無愛想な対応に嫌な顔ひとつ見せない。
「えぇ、この時計見てもらえます?」
そう言って手提げから取り出したのは桐箱入りの懐中時計だ。Dは彼女が取り出した時計をしげしげと見つめた。
「触ってみても?」
「いくらでもいくらでも。そのために持ってきたので、どんなけいらってくれても構いません。動かず、あじきなく」
そう言って壁に掛かった振り子時計の尾っぽを首をふりふり追いかけた。
「それで用がですね、その時計の修理です。時計は祖父の品で替わりがきかないのです」
「中開けてみないことにはなにも言えないですけど……。預かって見てみましょう。あまり見ないギミックが組み込まれているようで。本当に私の手でよろしいので?」
「えぇ、ここいらで一番腕が良いと聞き及びましたので、よろしくお願いしますわ。あとこれが私の名前と住所に番号で。電話をくださる際、私の名前を出してもらえたなら」
彼女はにこっと笑った。Dは目の前で書かれた流麗な文字が載ったメモを手渡された。名前であるR、住所は西宮の苦楽園以下詳細に、その下に控えめに電話番号が書かれていた。関西の地名に疎いDには苦楽園という字面に興味を覚えたが、やはり関係ない事柄を話題に挙げようとはしなかった。
「それでは、この時計お預かりしますね。また目処が立ち次第お伝えします」
からんからん、扉をくぐる彼女を見送る。これでも人付き合いを好まないDの割に相手と目が交差した方だ。美人なRだったので少し気を持ったのかもしれない。
存在の余韻に浸っていなかったと言ったら嘘になるが、素が真面目なDはすぐに受け取った懐中時計に興味を移した。全体を眺めすかした彼はため息をつかんばかりに感動した。机上灯を受けて輝いている意匠が滲みだす高級感にさることながら、この機械を所有していた彼女の祖父の人格に感動した。
本当にいくつもの時計を扱ってきた彼は様々なものを見てきた。修理に持ち込まれたそれらは、どれもが一様に壊れている。しかし、内包している情報を一括りに扱うことはできない。今回修理に持ち込まれた品は、持ち主が送ってきたであろう心に余裕がある上品な生涯を見事に体現しているのだ。瑕が付いていても全てが値打ちを損ねない穏やかな瑕であると彼は見抜いた。
ここまで美しく年月を経た時計は滅多に見ないため少々時間を使い鑑賞していたが、修理の工程に掛かることにしたようだ。待ちきれないようで必要な道具を早速と準備してから、キズミを目に付け見事な細工が施されている裏蓋を慎重に外していく。これから見る時計の全ての機構を吸収しようと神経を尖らせていた。知らずしらずの内に汗が浮き出ていた。
机上の梅皿が段々と色づいていく。一つの花が完成するとまた新しい器を用意していった。内部を一通り検めおえる頃には、照り輝いた鈍色の満開だった。故障の原因も突きとめ、Dは一つ満足そうに肩を回した。しかし、原因が分ったからといってそう簡単に済む依頼ではなかった。
この時計は考えていたより途轍もない代物かもしれない、そう思わせる凄みがあった。何といっても歯車の配置が技師の美的センスを端的に表している。空間の使い方が見る者の舌を巻かせる。例えば、普通の腕を持つ技師ならばできてしまう微かな隙間にも油断がなく美しいのだ。
そして問題となっているのは虫のような形をした歯車で、一本の歯が折れてしまっていた。つまり今回の修理に必要なのはDが持っていない型の歯車の調達であった。この歯車を備品として持っている技師はいないだろう。この界隈では名の通っていたDですら、この歯車を目にしたのは十年以上前に携わった大きな仕事の一度のみであった。
この歯車が担うのは、かつての日本では一般的であった不定時法を機械式の懐中時計に組み込もうとした斬新な構造である。現在、広まっている西洋からもたらされた時間概念である定時法は、時間は常に一定に進む。対して、不定時法は自然に合わせた営みに合致したもので、日の出入りを基準にして時間の進みが変わるのだ。日本が長らく守ってきた概念を自動かつ小型の機械式時計で再現しようというのだからかなり実験的だった。精密な部品を製作しなければその他の機構と齟齬をきたすことは明白だ。Dは明日にでも行きつけの町工場に相談しに行くだろう。
りんりんりん、Rの屋敷に電話の呼び出し音が鳴り響く。使用人が受話器を取った。
「もし、Rさんのお家に間違いはありませんか? いらっしゃったらRさんに電話を取り次いでもらえると」
「ええ、少々お待ちくださいませ」
電話の膜ごしに床が鳴いた。いったん使用人が離れると数分何も聞こえない時間ができた。Rがかなり上流の生活水準であると窺えた。さっきの使用人が去るときよりも忙しない音が聞こえてくると一週間ぶりの声が彼を震わせた。
「D様、どうなりました? 直りそうで?」
「はい、大丈夫ですよ。ですが、特注の部品を製作しなければならなかったため、少し費用が嵩みそうです」
「全然お金は気にせんとうちに持ってきてくださいな。そん時に値段も教えてくださったらよろしいです。あっ、でも平日の午後の四時以降に来てくださると都合が良いです」
Dはすぐに返事をしなかった。沈黙が両者の耳に触る直前に了承の意を示した。
「ええ、ではこの前書かれた番地にお届けします。それでは」
「頼みます、ごきげんよう」
Dは受話器をゆっくりと電話機の上に置く。
……ごぅん、部屋の外からくぐもった十二回目の最後の鐘が鳴った。
Dが母親に連れられて行った博物館。そこで見たのは江戸時代盛んに作られた和時計の展覧会だった。中心、一番目立つところに安置されていたのは田中重久の万年自鳴鍾だった。目眩がするほど機能について羅列した説明板、和時計、洋時計、二十四節気、七曜、十干十二支、月齢、極めつけは京都中心の天球儀。他のものよりも明らかに文字が詰まった説明板から、展示されている万年自鳴鍾に目を移すと立派な脚のついた六面七宝の絵で彩られた台、その上には各側面が文字盤になっている六角柱、さらにその上に透明のドウムに守られた日本と月太陽が乗っている。その豪華絢爛さに当時小学生だったDの目は惹きつけられた。
彼はあるとき見た宇宙観に通ずる何かを感じ取っていたようで同一の反応を示していた。地球が平面であり海は果てで途切れる。円盤を支えるのは象や亀、宇宙を包み込むのは蛇だ。そんな世界を彷彿とさせた。まだまだ未熟だったDはその時計に宇宙を見たのだ。ほぅと息を吐く息子を見て母は少し嬉しそうな表情で話しかけた。
「今私たちが従っている時というのは人が作ったものなのよ。その人工物に人は支配されようとしている。正確さだけでは計れない時間もあるのに、そんな忘れ去られようとしている自然に寄り添った計れない時をなんとか表現しようとしたのがここにある時計たちなの」
Dは母親の話していることがよく分からなかったが、これらの時計が生まれてこのかた見てきた時計と異なっているのは分かった。ただ表現する言葉がなかっただけで、
「うん。きれい」
としか言えなかった。万年自鳴鐘の説明の最後に添えられていた『今は動かない』の文字を見てこの時計を次に動かすのは自分だとDは強く確信した。はじめて意識せずその身にまとわりついた時に触れた瞬間だったと言えるだろう。館内では再び時刻を告げる鐘が鳴ろうとしている。
Dの息は荒くなっている。最寄りの駅までが乗り換えにつぐ乗り換えだった上に、その駅からRの屋敷までもえらく遠かった。そのため、日頃運動しない彼にとっては仕事よりも重労働であった。そもそも苦楽園が徒歩を手段とするような場所ではないと知らなかったようである。のろのろと鞄を提げて三十分近く歩くDの視界に入る屋敷はどれもが豪邸といった様相をなしてきた。途切れたと思われた塀がまた別の塀に変わる景観は、あの美人な少女が深窓の令嬢であると裏付けている。
やっとの思いでRの住所までたどり着き、詰め所の警備に訪問を知らせた。すると、すぐに話は通り家の中へと招き入れられた。まず門を抜けると開放感のある庭園が広がっていた。Dは物珍しげに見回していた。
玄関までの間に訪れる者を楽しませる景色が多々広がっていた。その一例として挙げられるのが瓢箪形の池だ。錦鯉が数尾いて、落葉がたゆたう冬の水の中で悠然と泳いでいる。その一番狭まったところに橋が架かっている。橋の上から見た一周の景色が連続して計算されている。しかしながら、これらの景色を見る者は違和感を抱くだろう。
見事な庭園の意識の枠外に配置されている区画があった。陰に隠しているようなその一角には菊が植わっている鉢が集められている。その花弁は茶色く渇き、萎れている。秋の最中には大輪を開かせていただろうそれは、所在なさげに背を丸めていた。何となくRの祖父の趣味だったのではと思われた。このように、立派な設計であるのにどこかしら杜撰な手入れが見え隠れしている。
玄関先ではRがにこやかに、その裏で折れそうに佇んでいた。静寂が支配した。
実際にDとRが対面するのは約一月ぶりとなった。Rは制服姿だった。Dが考えていただろう年齢より年下であると発覚した瞬間だったが、開口を戸惑わせたのはあれだけの見事な長髪が打って変わっておかっぱよりも短くなっていたからだった。毛先は裁縫のはさみで切散らかしたように整っていなかった。まだ馴染んでいないのか、Rの顔にそれだけの短髪が似合っていなかった。
「ようこそいらっしゃいまし、Dさん。寒い中来て下すってありがとうございます。早速ですが、完成した時計を見せてくださいな」
驚きのまま一言も発せないでそのまま応接室へと通された。応接室のソファは普段堅い椅子に腰掛けているDにとって、逆に居心地の悪さを感じさせるものだった。彼は贅沢に金を使うなら道具を買いそろえる気質であった。今日この家に来訪した理由を思い出したDは、徐ろに鞄を机の天板の上で広げて依頼の品を取り出した。
「時を刻むようには成りました。故障の原因は珍しい歯車で、力が一点に集中し破損したからのようでした。今の技術で手を尽くし頑丈にはしておりますが、また同じ部分が壊れてしまう可能性は頭に入れておいてください」
「ありがとう、D様。壊れてしまっても直せると分かっているだけで心の持ちようが違いますわ。今回あなたを頼りにして良かったです。修理だけでなくこんなに綺麗に手入れをしてくだすったのですから」
そう言って彼女は懐中時計を手に取り、裏にはっきりと浮かび上がった彫金の溝を大事そうにさすった。Rの祖父に大切にされていた時計の輝きは未だ健在である。Dはどのような人物なのか気になり、彼女に尋ねた。
「ちなみにこの時計の持ち主であるお爺様はいらっしゃいますか? 是非お会いしたいです」
Rは眉をひそめて目線を落とし、そしてそれまで撫でていた時計を見た。
「えぇ、天命で……。祖父の書斎でよければご案内できましょう。いかがなさいますか?」
Dは肯いた。Rは軽く細く息を吐いた。
きぃ──、長く油を差していない重い金属音を響かせて書斎の扉は開いた。部屋の中には数点の蒐集物がちらほらと飾られている。最低限の掃除は行っているようで、部屋の空気は淀んでいなかったものの部屋の隅や愛蔵品などに塵がかかっていた。やはりRの祖父は洗練された感覚を持ち合わせていた。その品々の輝きは塵では抑えきれないほどであり、一目見たDも納得した表情を浮かべてほぅと息をついた。
「十把一絡げに処分されてしまい、ほとんどの品が……。もうこれしか、残っていません」
悔しげに掌に爪を食い込ませて、思わずというように小さく口からこぼれた。Dが瞬きをした直後にはRはまた仮面の笑顔を浮かべていた。Rの身のまわりには何かしらの確執が存在していると露わになった刹那である。それでもDは踏み込まなかった。
Dが新しい話題として探し出したのが本棚に収納されたとある情報誌だった。
「あっ、この雑誌から取材を受けたことがあるんですよ。なつかしいな、万年自鳴鐘という時計の研究で」
冊子を一部取り出して、ぱらぱらと頁をめくっていき『和時計の最高傑作にセまる』という見出しを開いた。そこには成人したばかりのDの写真が載せられていた。その次の頁には見覚えのある虫のような形をした歯車の絵とその解説がかかれている。
「ほら、この歯車が今回の懐中時計にも使われていたのです」
と言って、Rに指し示した。張りつめた糸を鈍いDに切られたRは今度こそ、にこっと笑った。
「もう少し詳しいお話を聞かせてくださいな」
「ええ喜んで」
主を失った書斎で二人の話に柔らかな花が咲いた。その後、DはRの言葉に甘えて客室を借り一夜を過ごした。これまた布団が柔らかすぎて、なかなか寝付けなかったようで夜更けまでもぞもぞと動いていた。
からんからん、店のドアが開いた。年が明けて初めての来訪者であった。その人物はスーツを着込んだ男性だった。新聞を読んでいたDは紙面から顔を上げ、
「いらっしゃい」
と言った。すると男性は懐から書状を取り出して、恭しくDに渡した。
「私が仕える旦那様からの書状でございます」
Dは書状を読んだ。どうもその旦那様とやらの娘が結婚をするらしいので、その新たな門出に相応しい置き時計を送りたいとの旨が記されていた。
「これは大変喜ばしい出来事ですね。ご息女の幸福を祈って、誠心誠意力の限りを尽くします。私の手で納得なさるので?」
「はい、旦那様はこの工房であれば間違いないと……」
「かしこまりました、二ヶ月ほどを目安に」
Dの了承を聞いて満足そうに頷いた客はその場で踵を起点にまわり、ドアを開けて帰っていった。
ばたん──、置き時計の依頼を受けた数日後に勢いよく店のドアが開いた。ドアから現れたのはRだった。真っ青な顔をして、物言いたげな目をしていた。あまりの音に頭からキズミがずれて机の上に落ちた。
幸いなことに時計の上には落ちなかったので支障はなかったが、Dは仕事の邪魔をされたわけであるので、少し眉間に皺を寄せて鋭い眼光を向けた。片目の焦点が合い、視界が明瞭になったところでRであったと判り顔を和らげた。彼女は彼女で自身がはしたない振る舞いをした自覚があり丁寧なお辞儀をして謝る。
「お仕事中に大きな音を立ててしまい失礼いたしました。ですが、家の者から気になる話を聞きまして、居ても立ってもいられずにお伺いをしてしまいました。その件についてD様に訊ねたいと考えた次第です」
息つく暇もないままにRは話し始めた。一息ついてしまうと倒れてしまいそうな程に青白い顔は印象的だった。彼女は間をおかず質問を投げかけた。
「先日ある男がD様に依頼をしたと思います。その際に祝福を承ったそうですが、心からのお言葉だったのでしょうか?」
関連性を疑うように首を傾げたDは、即座に問いに答えた。
「えぇ、もちろん心からの言葉です。結婚なんて縁起が良いではないですか。私が若人の未来に携われるなんて光栄なことですよ」
「今日参ったのは、それだけなのです、はい、それだけなのです。お手間を取らせてしまい申し訳ありません」
気丈な物言いに仮面のような笑みを貼り付けていそいそと店から出ていった。Rの震える声に心配になったDの呼び声にも返事をせずに。
*
かたっ、初老の男がティーカップをソウサーに置いた。そのまま向かいに姿勢良く座るRに話しかける。
「考えてくれたか。先方は待ってくれると言ったが、もうそろそろ決心してくれてもいいではないか?」
Rは机上の紅茶に映る顔を見つめて沈黙を守った。何も言わないと分かると向かいの男も優しく説得を続ける。
「おまえも我が家が財政的に厳しい局面に立ったと言わざるを得ない、と理解しているだろう。結納金としてこれまでの負債を肩代わりしてくれるという提案までもらっている。分かるだろう?」
今度は俯いたままであるが答えを返した。
「何度でも繰り返しますが、私の気持ちはそこにはございません。父様は私に人身御供に成れとおっしゃっているのに違いありませんでしょう」
幾度となく失敗してきた娘への説得にうんざりしているようで、これまでとは風向きが変わった。今日の今までは体裁を保っていた猫撫で声が一気に硬化していく。
「おまえを育ててきた親への恩返しと捉えられないのかね。一月ほど前にも顔合わせをした彼の何が気に入らないというのだ、おまえに一目惚れをした好青年だろう。見目も良い。これほどの良縁はその辺には落ちていない。なぜ駄目なのだ」
続けて個人の関係まで詰ってきた。
「最近入れ込んでいるDとかいう人間が気になっているのか? 文通までしてあんなしがない一職人と過ごすよりも、かの家に入る方が幸福だとなぜ分からない」
瞬間、Rは仕込んであったバネが弾けたように顔を跳ね上げた。力強い視線が男を貫いた。男は少したじろぎ、腰が軽く背もたれにくっついた。しかし、男は負けじとRの心情をかき乱す新たな情報を投下した。
「あのDとかいう者にお前の結婚を伝えたら、『喜ばしい出来事、Rの幸福を祈って』と言っていたそうだぞ。相手に気がないのだから、お前が描いているのは所詮夢物語であって現実にはならない。いい加減前を向けばいい」
そう告げて男はRの私室から姿を消した。男の作戦は成功しRは再び俯くことになった。それはあの日Dが見た菊のように俯いていた。
*
やっとDは気付いたようだ。ご息女イーコールRが頭になかった。椅子から飛び起き追いかけようとするも時はすでに遅く、迷路のような路地にRの姿は見えない。Dはゆっくりと作業場に戻った。組み立てていた置き時計に目を落として、数瞬経ってから再び動き出した。傍目から動揺は見て取れない。
二ヶ月が経ち、結婚式は恙なく終了した。Dの作った時計も他の贈り物の中に埋もれていた。DとRの関係は最後に対峙した日を境にして途絶え、二人の真意は言葉になることはなかった。志もあり、忍耐もあり、失敗もあった。しかし勇気がなかったために事は成就しなかった。
ただDの時計には一つの歯車が組み込まれていた。時が止まるのを願って。もしRが欠かさずぜんまいを巻き続けたとしたら、それは半世紀後に一度動くだろう。