夜行バスは浜松を過ぎて、長い下り坂を降りていた。等間隔に並んだ電灯の明かりや、テールランプの赤い光がカーテンの隙間から僅かに漏れている。モーターが低くうなる音も微かで、意外にも車中を心地よく感じていた。そのおかげか、長い時間座ったままでいるが疲れは感じていなかった。足元から立ち上る眠気に任せて眼を閉じる。
東京から神戸まで、バスでおよそ十時間。そろそろ半分といったところだろうか。東京に行ってから、初めての帰郷だった。特に用事もないし、親しい友人もいない。まだしばらく帰るつもりもなかったけれど、私がバス代の四千円を払ったのは、一人の女の子のためだった。
その女の子は小学校から高校までの同級生で、卒業後も変わらない関係で居続けた唯一の人だった。だけど、それほど親しいわけではない。一緒に食事に行ったり、遊んだりしたことは数えるほどしかない。買い物をして、小洒落たものを食べて、たまに映画を観て、彼女を家まで送る。それが何年かに一回あるだけ。連絡も思い出したかのようにどちらかが初めて、何となく終わる。今思えば不思議な関係だった。お互いの交友関係を介さず、互いにだけ見せる自分というものを用意していた。私は彼女との関係をひた隠し、彼女も恐らく私と同じようにしていたと思う。無二の関係、秘密の友人。プラトニックで大人な仲だと思っていた。男友達には感じない緊張はあったけれど、異性に対しての振り切った見方もしていないつもりだった。
バスの音も、乗客の動く音も、もう何も聞こえなかった。私は眠ってしまったのかもしれない。大きな獣の口内にいるような、生暖かい暗闇に身を置いている。私はずっと考えるべきだったことを考えることにした。つまりは、彼女のことを考えることにした。最後に会ったのは半年ほど前であったけれど、自分が様々なことを思い出さないままでいたことに気が付いた。忙しさにかまけていたのかもしれないし、彼女にとっての私が些末な人間であるという憶測がそうさせたのかもしれない。
話しかけると目をギュッと細めて笑うことや、少し手を斜めに振って歩くことなんかが、ここ数日のふとした瞬間に頭をよぎった。そうやって私の中で少しずつ生き返っていく彼女に、強く惹かれていた。ひょっとすると、ずっと彼女に恋をしていたのかもしれないとすら思ったが、きっとそうではないのだと思う。長く続く繋がりの中で、一つの要因が感情を大きく揺さぶることは誰にでもあると思う。それでも今までの何もかもを否定する気にはならなかった。私は彼女に出会ってすらいなかった。それが正しいのだと思う。
彼女はとても体が小さくて、可愛らしい。初めの印象はそんなものだった。小さくて、可愛らしい女の子だった。
彼女が大きな屋敷の窓から私を見下ろしていたのは、春先の暖かい日のことだった。
*
私が生まれ育った街は、神戸の東の端にあった。北には山があり、東西に線路が走っている。昔から梅が有名な街で、冬の終わりには山沿いに可愛らしいピンクのラインができた。そういった景色を守るためか、線路の北側には店を出してはいけないという決まりがあり、店と言えるものは小さな花屋とビストロくらいのものだった。
私はこの街が好きだ。生まれてから二十年以上を過ごしてきたが、不満を持ったことはほとんどなかった。街の人々は私と同じようにこの街を愛していたし、皆一様に優しい。そんな中でひとつだけ、私を不安にさせる点がこの街にはあった。
この街は、いわゆる高級住宅地だった。ほとんどの人は二階建ての広い戸建てや、周囲を高い塀で囲まれた大きなマンションに住んでいた。そんな立派な家に住んで、大型犬を買ったり、外車を持ったり、海外から取り寄せた家具を使ったり。様々なオプションを付けて自分の家を完成させていた。山の上の方が人気らしく、登るにつれて敷地が広くなり、オプションも増えた。
私は山の登り口辺りに住んでいた。六階建てのマンションで、私は五階に住んでいた。とても綺麗とは言えないマンションだった。白いコンクリートの壁はくすんでいて、所々に小さなひびが入っている。私は自室の窓から他所の家をよく眺めた。どの家も立派だった。私はそんな家々と、ベランダにいる蜘蛛を見比べて(隣に山があるせいでよく虫が出た)、少しの違和感を覚えることがよくあった。しかし、それはまだごく小さな予感なものでしかなかった。
今思えばそういった感覚はずっとあったと思う。友達の両親の仕事を聞いた時や、持っているゲーム機の話をする時なんかは話し辛かった。誰かを家に招こうとしたこともないし、誰かの家に行くと落ち着かない気持ちになった。そういう細かい物事が何を指し示しているのか、幼くて無知な私には分からなかった。
そんな環境で育った私がはっきりとした劣等感を持ったのが、あの春先の暖かい日だった。
私は山の上に向かって自転車を漕いでいた。坂はとても急で、自転車を降りた方が早いとも思ったが、何となく降りないままでいた。お気に入りのジャージを汗で湿らせて、ひたすらに上に向かって進んだ。ちょうど梅から桜へ変わっていく時期で、道の両脇の木々は青々とした葉を振っていた。
私は坂の上に小さく見える、天使の銅像に向かっていた。その銅像は、物心ついた時から街を見下ろしていた。私の家からはかなり距離があったが、遠目に見ても天使だと分かるくらいには大きいようだった。しかし、青銅色が景観に馴染むようで、決して目立ちはしていなかった。色んな人にその銅像について話したが、誰もその存在を認知していなかったのが良い証拠だと思う。日中は静かに佇んで、夜には電灯の暖かい光の中でまどろんでいるようだった。私はその銅像がどんな顔をしているか、周りに何があるのかを想像して遊んでいた。山を登るのは面倒なので実際に確認はしなかったが、想像の中では大抵大きな公園や噴水の傍らで微笑んでいることが多かった。
私は長い距離を登っていた。到着まであと少しというところで、その銅像が大きなお屋敷の門の傍に立っていることが分かった。私は銅像に近付きながら、その屋敷を覗き見た。『華麗なるギャッツビー』に出てきそうだ、と後々思ったのを覚えている。レンガが私の腰辺りまで積まれ、その上に黒い鉄製の柵が頭の上まで伸びていた。染みひとつない真っ白な壁の三階建てのお屋敷だった。テニスコートを三つ並べた位の大きな芝生の庭に、門までまっすぐ歩道が引かれていた。車でも入れそうだ、とぼんやりと考える中でも、例の違和感は私の中に燻っていた。
天使の銅像は門の両脇に立っていた。一体は私の家からでは見えなかったようだ。銅像は以外にも悲しげな顔をしていたが、磨き上げられた青銅色は思った通りだった。
私は銅像と同じ景色を見たくて、振り返った。門の前には遮る木々や建物は無くて、街を一望することができた。私が通う小学校なんかが、かなり小さく見えた。だけど、遠くに見える港は、私の家から見るよりもずいぶん広いように感じた。
街全体を一目に見る経験は、後にも先にもこの一度きりだった。思えばこの時の私は、街に溶け込めていない自分の家を視界から外していたように思う。その行為は意識的ではあったが、明確な理由はない。次に振り返るまで、それはまだ違和感であって、劣等感ではなかった。
銅像と一緒に街を見下ろしていると、背後から鳥の鳴くような微かな音がした。屋敷の方を振り返ると、三階の右端の窓が開いていて、小さくて可愛らしい女の子が顔を出していた。彼女は真っ白な部屋着を着ていて、それが太陽の光を浴びてキラキラと光っていた。私は彼女を見上げ、彼女は私を見下ろした。一目見た瞬間に、彼女が同級生の女の子であることが分かった。話したことはないが、顔には見覚えがあった。彼女から目を離せなくて、しばらく沈黙が続いた。
彼女は私と同じようにこちらを見つめた後、軽く会釈をして部屋の中に戻っていった。遠くてはっきりとは分からなかったが、微笑んでいるように感じた。私は急に恥ずかしくなって、急いで自転車にまたがった。坂を下り始めると、周りの景色は私の後ろに向かって飛んで行った。スピードが上がり、ハンドルを強く握った。ついさっきまでは気にならなかったが、汗で張り付いたジャージを煩わしく感じていた。
自分が周囲に比べて恵まれていないという事実が、急に陰りを帯びて私のすぐ隣に這い寄ってきた。私は彼女のように大きな屋敷に住んでいない。彼女のように真っ白な服を着ていない。私は周囲の人間との間に、大きな隔たりがあると感じてしまった。そしてそれ以上に、彼女達は私のことなんか気にも留めていないはずなのに、それを信じることができない自分に焦りを感じていた。
下り坂が終わりに差し掛かっても、私は自転車のハンドルを強く握りしめたままだった。
*
久しぶり。元気にしていますか。無事に大学も卒業出来て良かったですね。単位を落とした、と二人で笑っていたのがずいぶん昔に感じます。
あなたが東京に行ってしまって、少し寂しいです。私は神戸に残るので、帰省した時にでも会えたらいいなと思っています。何でも話せる友達は、正直に言うとあなたくらいですから、ちゃんと連絡をくださいね。
そういえば、先日病院に行くと、お医者さんに耳の病気だと言われました。聞こえ辛いな、とは思っていたのですが、まさか病気だとは思わなくて驚きました。日常生活に支障はありません。だけど病名で調べると、かなりひどくなることもあるみたいで、少し怖いです。こんな時にあなたが近くにいればすぐにでも会いに行くのに、と嫌味を言ってみたくなりました。
そんな状況だけど、私は元気にやっています。病気も何とか治せそうな気がしています。根拠はありませんが。
あなたもお体に気を付けて。元気な姿で会えるのを楽しみにしています。
*
彼女から手紙が届いたのは、四日前のことだった。手紙以外にも連絡方法はあるのに、と驚いたけれど、中身を読んで納得した。彼女のそういった女性らしい面も好きだった。
あの春先の暖かい日から、私は彼女に対してどこか後ろめたさを感じ続けていた。彼女は完璧であり、どうしてもその障壁が取り壊せないでいた。ただただ私は臆病で、どうしようもなく膨らんだ自意識を抱え込んでいた。
手紙を読んで、私は彼女のことを心から愛することができるようになっていた。彼女を自転車の後ろに乗せ、どこまでも続く坂道を勢いよく下っていくことができる。私はハンドルに手を添えて、彼女は私の背中に体を寄せる。彼女の笑い声が風の音の奥で聞こえ、私の声は彼女の耳に届かない。私は彼女に背を向けたままで、あの春先の暖かい日を終えることができる。
私はシートに深く体を預けた。もう京都は過ぎた。
私が彼女に出会うまで、あと少しだ。