もしも。
もしもだ。あの時、ああしていたらと思う。
二十一年前。東京の医科大学に入るための上京の前日の、静かに雪が降っていたあの日。あの時に織音に想いを伝えていれば──この惨劇も何か変わっていたのかもしれない
夜の静寂な山林の中、ポツンと建ったペンションの寝室は血肉で彩られ、酸鼻を極めていた。更にそれをなめとるように業火が覆いかぶさり、辺りは死体の焼ける異臭で満ちる。
人里離れたこの場所の異変に地元住民が気付き、消防がかけつけるまで果たしてどれくらいの時を要するのだろうか。もはや助けなど望むべくもないだろう。いや、助けなど端から期待していなかったからこそ、この立地のペンションを選んだのではないか。
血に濡れて床に伏す湧水信治は間近のウィンチェスター上下二連散弾銃に右手を伸ばすがあえなくその手を踏み砕かれた。歯を食いしばり呻き声を絞り出し、眼前の相手を見上げ、睨みつける。
眼前の男は喪服を思わせるような黒ずくめのコートを着込み、全身に包帯を覆っていながらも、生気と狂気で爛々と輝く双眸を覗かせていた。その包帯と衣服には所々に返り血と男自身の血が染みついている。さらに不気味なことにその包帯には耳なし芳一さながら細かい文字がびっしりと書かれてある。
その男に見下ろされ、己の血の海に浸っていてもなお、信治は己の表情に反抗の色を失っていなかった。
──俺は、負けちゃいない
想いは言葉にならず、ただ荒れた吐息と呻き声が漏れるだけである。だが、睨んでいるだけで自分の思いは包帯男に届いている気がした。
包帯男からは、信治の左手は袈裟懸けに切り裂かれた胴体の傷を抑えているように見える。だが、その実信治は上着の内ポケットから取り出したリボルバー拳銃を固く握りしめていた。官憲の許可を得て購入した散弾銃とは異なり、この日のために裏社会との人脈を頼りに手に入れたものだ。隠し持つ切り札は絶望的な状況を覆す心強い望みであった。
不屈の闘志のこもった信治の睨みを受けて包帯男は目を見張る。
愛憎、敬意、安堵。
包帯男は一挙に押し寄せてくる混然とした思いを抱いたのだろう。しばし逡巡した後、包帯男は信治に手を振りかざした。
同時に、信治は最後の力を左手に込め、狙うべき包帯男の頭部を見据える。
炎が盛る音もこみ上げる悪臭も、肌を焼く熱気すらも問題にしない。極度に張り詰めた一瞬の後、包帯男、あの時死んだはずの魔術師は信治に死の呪文を唱えた。
*
一年前 2044年 春
信治は上京して以来、故郷の長野県白妻村に帰ってきたことがなかった。それどころか肉親に顔を見せたこともない。伊代と結婚した時も、実家とは葉書だけのやりとりで済ませた。伊代の父からは小言を受けたが、育ちが良く自由気ままに生きてきた伊代は口には出さなかったものの、うるさい舅や姑にからまれる機会が無くなったことに安堵していたようだった。
これまでは仕事の都合を言い訳にしてきたが、今度ばかりは通用しない。父が死んだからだ。
父は医療法人「湧命会」の理事長にして湧水病院の院長、仰々しく言えばそうだが、元々湧水病院はどこにでもあるような精神病院だった。しかし、村の豊かな自然と山に囲まれた地域では珍しく交通の便が多いことから評判がよく、祖父の代で終末期医療分野に事業を拡大したことが功を奏して今では湧水病院は県内有数の規模を誇る総合病院だ。だが、場所と病院の事情から、白妻村の一部の住民からは姥捨て病院と揶揄されている。
あまりにもローカルなことであるため、都内では信治が湧水家の嫡子であることを知る同僚の医師はほとんどいない。むしろそれが信治にとって救いでもあった。
大病院の院長だけあって信治が把握しただけでも名の知れた政治家やその秘書から果ては製薬会社のMRまでが弔問に訪れていた。信治は群衆とも言える喪服の集団の中に紛れ込む。
老いた父の遺影を見ても父が死んだという実感は不思議とわかず、葬儀を取り仕切る親類を遠目にながめても何の感慨も抱かない。
体面を保つ。それだけのために出たくもない葬儀に参列し、眠気こらえて神妙な表情を維持するのは甚だ苦痛で苛立ちすらも覚えていた。
通夜がようやく終わり、いざ立ち去ろうかという時に喪主を務めていた兄の賢太郎に声をかけられた。二十年の歳月と容貌の変化に望みをかけ、なるべく目立たないようにふるまっていたがさすがに兄の目は誤魔化せなかったらしい。彼は信治にとって故郷に帰りたくない理由の一つでもあった。
「よお、信治。いくらなんでも他人行儀がすぎるじゃないのか?」
幼い頃から長男というだけで父からの贔屓を受けてきた兄を信治はなにかとやっかんできた。「長男だから」という一言で信治ができなかったことを父は賢太郎には許していたことも兄を厭う理由の一つだ。
だが、兄が経てきた年齢、学年を重ねてくうちに信治は兄が自分より優れていたことを知り、己を恥じることもあった。それでも、密かに思いを寄せていた幼馴染の野間織音に告白して彼女の恋人になったことだけは許せず、信治に故郷を出ようと決意させる程大きな爪痕を残した。
「いやあ、兄貴があまりにも変わっちゃったからさー、ホントに兄貴なのかって思ったんだよ。老けたなあ、お互いに」
「老けたって、お前のだらしない腹は老けたんじゃなくてただの不摂生だ。いくらあと二年で花の四十歳だからって医者が不養生しちゃダメだな。患者への示しがつかん」
男子高生さながらの軽快さ、中年男性さながらの内容の軽口を叩いたが、信治は賢太郎の体格を異様に思った。二十年もの月日の流れを考慮してもその変わりようは異常だ。
賢太郎の体はあまりにも痩せすぎているのだ。目は窪み、頬はこけている。手を見れば肌がたるんでおり、まるで老人のものだ。賢太郎と信治を並べても不摂生なのは明らかに賢太郎の方であった。
父が死んでから病院長は賢太郎になったと聞く。何代にもわたって湧水家が経営してきたのだ。たとえ父が急死したとしても代替わりの心得はあり、いざという時の備えもしてきたはずだ。それにしてもこのやつれようは余程の苦労を背負い込んでいると見えた。
賢太郎の大病院の院長という身分は都内の病院の一勤務医である信治から見れば遠い存在である。その重圧は想像したくもないがそれを被っているのが血を半分分けた兄弟である以上、賢太郎に同情せざるを得ない。
その後はなあなあで実家に一泊するよう引き止められ、母にも顔を合わせた。二十年ぶりに見た母は賢太郎と比べてもあまり変わっておらず、父の死を受けてもさほど動揺していない様に見える。母は財産狙いの後妻だと悪罵を吐かれてもいけしゃあしゃあと振る舞える強い女であり、信治が最も苦手とするタイプだった。
信治が大人しい伊代を伴侶にしたことも、母の性格が影響していると言えよう。
玄関で出迎えた母は二十年ぶりに対面する息子を前に、微笑みをつくって遠路の労をねぎらったが、信治はうすら寒いものを感じ取った。
父が強く長男の賢太郎を後継者に指名しなければ、母の思惑通り自分の子の信治が病院を継いでいただろう。母によって幼少の折から腹違いの兄との競争意識を持たされ続けたことも、信治の故郷離れに一因している。
自ら跡継ぎ争いから退いた信治に母が快く思うはずがない。これが信治の所感だった。
日本庭園の見える和室で賢太郎と酒を酌み交わしながら他愛ない世間話をしていた折である。
突然賢太郎は咳払いをすると、声色を固くして話し始めた。
「なあ、信治。急に聞いて悪いがこっちに帰ってくるつもりはあるか? 白妻村に。今の職場や、なにより家族。ほら……お前の子供の学校もあるだろうけど、今の湧水病院には湧水本家の人間が必要だ。子供も奥さんも嫌がるだろうから単身赴任の形にはなるな。だが東京の中で埋もれるより湧水病院の経営陣の一員として働いたほうがお前のためにもなるだろう。どうだ? 悪い話じゃないと思うが」
こう言われるということは兄に見つかった時点で予見していた。
だが、今働いている病院を気にいっている信治にとってその提案は煩わしい。身内のやっかみに絡まれながら経営陣として重責を果たせるとは自分には思えないというのが本音だ。なにより、兄に対する劣等感、母との軋轢はもう二度と味わいたくない。
「いやあ、俺が抜けたら今勤めている病院にも悪いし、遠慮しておくよ。今更湧水の人間が増えても他の先生方に悪いだけだろ?」
これ以上、話を振られないために、別の話題を探す。
「そういや、兄貴の嫁さんの顔を見てないけど、もう遅い時間だし寝ているのかい?」
「いや、俺は未だに独身さ。子持ちのお前には悪いが独身貴族も気楽なもんだぜ。言っておくがこれは負け惜しみじゃないぞ」
意外だった。昔から好青年だった兄は、とうの昔に結婚しているものと思い込んでいたから。
「じゃあ、織音ちゃんも今じゃ人妻かなあ。懐かしい。おばさんになった織音ちゃんを見てみたいねえ」
今でこそ良き思い出だが、兄が織音になびいたと知った時には夜も眠れず一人枕を濡らしたものだった。東京に出て取った取られたの恋愛をしたり、見たり聞いたりしていく内に男女の仲とはこんなものだと思うようになり、いつの間にか達観したつもりになっていた。
だが、賢太郎の言葉は予想さえしないものだった。
「死んだよ。織音は」
「え……死んだ?」
思いがけない言葉に二の句に困る。
「大学生活にも慣れてきてこれからって時だった。不整脈でね、呆気なかった」
そう言うとグラスのビールを仰いだ。一息ついて下を俯き塞ぎ込む兄はかつて青春時代の威風堂々とした印象をかき消すほど衰えたものだった。織音が死んだという事実より、輝かしい青春時代とはかけ離れた兄の情けない姿に開いた口がふさがらない。
ふと、脳裏にある考えが浮かぶ。だがそれを言葉にしていいか分からない。かつての思い人のことだからこそ、聞いておきたかった。それは信治が質すより、賢太郎が先に答えた。
「俺はまだ織音のことを想っている。もうこの世に居なくてもな」
賢太郎はそう言うと新しくグラスにビールを注ぎ、それを一気に飲み干した。
再びビールを注いだかと想うと天井を仰ぎノスタルジーに浸る赤い顔の兄。信治も正視に堪えず時間が経ち温くなったグラスのビールに視線を避ける。
「なあ、信治」
夢想にも飽きたのか語りかける。しかし、その表情は呆けており、指でテーブルをなぞっている。視線も信治と同じく自分のグラスを向いている。
「お前の息子を……養子にくれないか? 俺は、こんなに駄目な人間だ。今更別の女と結婚する気にもなれない。だが、跡継ぎは、病院の跡を継ぐ人間はどうしても必要だ」
皮肉な話だ。信治は困ったように口元を歪めながらも心の中では冷笑した。
母にあれだけ望まれていたのもかかわらず、信治は病院の跡を継ぐことができなかった。母の切望も母によって強いられた信治の犠牲も所詮は絶対的な権力を持っていた父の前で虚しいものだった。だが、信治がここで頷けば、息子の麟は家督を継ぐことができる。
もっと皮肉なことに、麟と信治は血が繋がっていない。
麟は伊代と顔も知らぬ不倫相手の子である。
*
気付けば、もう終電時刻も過ぎており、賢太郎の強い勧めで実家に一泊することになった。だが、どうも寝付けない。電気を消してからずっと布団の中で天井を見つめている。
頭の中で多くのことが駆け巡っているからだろうか。母のこと、兄のこと、麟のこと。母と兄のことはともかく、麟を兄の養子にすると言ったら伊代は何と返すだろうか。戸籍上だけでも賢太郎と麟を養親、養子の関係にして、以前と同じように麟は東京で暮らすということもできる。だが、伊代に実質的に親子でありながらも書類の上では他人という状態を受け入れることができるかどうかはわからない。
ここまで考えて、我が身のことを想うと自嘲の笑みが湧いてくる。信治の麟は戸籍上では父子でありながらも、遺伝子上では赤の他人だからだ。
信治が麟と血が繋がっていないと知ったのは半年前のことだ。きっかけは暇つぶしに閲覧したネットニュースだった。血の繋がっていない父子。浮気相手との修羅場。最終的には子供が実の親よりも育ての親を選ぶという、たとえ血が繋がっていなくても家族の絆は断ち切れないと結論付けるお涙頂戴の記事だった。だが、興味本位でそれを見た時、はたと信治の心に突き刺さるものがあった。
たまに酒を飲む仲の大学の同期と飲み会を開いた時だ。妻と子の写真を見せた時、「湧水の息子、この顔は将来イケメンになるぞー。お前に似つかわしくねえ。ひょっとして病院で取り違えられたんじゃないのかー」とからかわれたのだ。
あの時はお互いに深く酔っていたため深く追求しなかった言葉が頭の中で何度も繰り返される。
妻の伊代は夫の自分を献身的に支える良き妻であり、信治も彼女を信頼していた。不審なことがあるとすれば、麟が生まれて以来ベッドを共にすることを伊代から持ちかけられたことはなかったことだけだ。それは夜勤と当直が多めの職場に勤める信治にとってあまり気にすることではなかったが、今になってそれが不義を犯した証拠のように思えた。その日は当直がなかったが、目の離せない患者がいると言って病院に泊まった。その時の状態でいつも通りに伊代と麟に接する自信はなかった。
杞憂であることを願って伊代と麟には内緒で検査をしたが、結果は残酷なものだった。
信じていた伴侶に裏切られて、その事実が隠されていたことを知ったその晩、信治は酒におぼれた。
仕事しか能がない他の男とは違い、自分なりに家族サービスをしてきたはずだったのだ。麟にとっても良き父であるように振る舞ってきたのだ。二人は世間一般よりもいい暮らしをさせてやったのだ。
愚痴をこぼせる相手はいなかったが、次々にあふれる悶々たる想いに一人酒精を浴びせ封じ込めた。
その翌日の二日酔いはひどかったが、頭は不思議と冴えており、作り笑いを浮かべて診察に臨んだ。先日のショックに比べたら頭痛や吐き気など、どうということはない。
この日から、信治は仮面をかぶるように人と接するようになり、それを家庭でも実行した。そうしてこの半年間、信治は以前と変わりなく良き父を演じ続けたのだ。
布団の中で目を冴えたままであるのももったいないと思い窓から外の風景を伺う。
実家の周辺に夜を燦めかせる灯りは数少ない分、星が綺麗に見える。「風流だな」と口から勝手に言葉が出た。信治は自分が本当に風流を解する人物だと想っていないが、そう言ってみたくなったのだ。言葉に感化されるように自分も清らかになったような錯覚をする。こうして自然を前にすると田舎に生まれてよかったなと思う。
月と星とで彩られる夜空とは対照的に村を囲む山の木々は光の恩恵をその枝葉で拒んでいる。山はまるで巨大な闇の塊だ。
その時暗がりの中で光を照らした誰かが家の側を通りかかっているのが見えた。信治から見て辛うじて灯りが懐中電灯だと察せる程の距離があったが、その人物は湧水家の所有する山に登ろうとしているのははっきりと見て取れた。信治の視線に気付くことなく山の細道を歩いていく。
信治は妙に気になり、携帯電話を手にその跡をつけることにした。そうしたのは夜空にもたらされた純真さのせいかもしれない。
湧水家の所有する山は信治が幼い頃に兄の賢太郎と幼馴染の織音の三人で、夏休みには従兄も加えて探検と称して山に登ったものだ。遊ぶときは元気いっぱいに遊びまわった子供時代に比べてしばらく歩くと息が上がってくる。おまけに童心に帰って獣道を選んだため余計に方向感覚がつかめなくなってしまった。携帯電話の懐中電灯アプリのおかげで夜道も進んでいけるが、バッテリーもいつまで持つかわからない。
そろそろ帰ろうかという時に何かの気配がした。振り向くと少し離れたところに大きな何かの輪郭が見える。土蔵だ。
はて。あんな場所に土蔵が建っていただろうか? この山には何度も訪れたはずだがこのようなものがあったという記憶は全くない。少なくとも信治が村を出た二十年でできるものとは考えられなかった。そもそも用途がわからない。
しかも土蔵の格子戸からはかすかに灯が漏れている。山を訪れた人物はこの土蔵の中に入っているものと想われた。
訝しみながらも、土蔵の扉を開ける。中は不思議と埃っぽさはなく、思ったよりも荒れてはいない。板間には簡素なつくりの行燈が置かれてあり、内部を照らしていた。
「すみません、誰かいませんかー?」
恐る恐る声をかけるが、返事はない。
足元を照らしながら進むと、内部には古めかしい箪笥や化粧台、グロテスクな人魚とそれを追う漁師達の絵が描かれた屛風をはじめとした珍妙な芸術品があった。察するにここはただの物置であるらしい。だが、調度品の類はともかく芸術品を見ると頭の芯が揺さぶられるような心地がして気持ちが悪い。本能的に芸術品は見ないよう心掛けた。
奥を照らすと日本家屋特有の急な階段がある。上る途中で折れはしないかと心配しながら手をかけたその時である。
「ねえ、その光っている四角はなあに?」
甘い声と共に誰かが後ろから軽く信治の肩を叩いた。
「うわあ!」
年甲斐もなく、悲鳴を上げて尻餅をついてしまった。
声の主はそれが可笑しかったようでくすくすと笑う。
それは可憐な少女だった。背丈は一五〇センチもないだろう。端正で可愛らしい目鼻立ちに長く艶やかな黒髪。極めつけに彼女は桜模様をあしらった桃色の着物を着ていた。着物は平安時代の十二単ではなく。桃山時代以降の小袖である。
「ずっと待っていたよ。さあ、私と遊んで。今日はいっぱい遊ぼ」
無垢な微笑みを浮かべる少女を前に、信治は何も言い返せず口をぱくぱくさせる。さらに少女の一言が信治の思考を凍り付かせた。
「ね、お父さん」
信治が再び意識を取り戻したとき、少女は信治の上に騎乗位でまたがりその細い腰を上下させ、信治の男性自身を搾り上げていた。
「はぁ。はぁ……ふぅ、はぁ」
土蔵の中では二人の肢体が重なる音と、少女の微かな吐息だけが鳴る。
ぼんやりとした思考の中で、信治は自分が少女に犯されていることに気が付いた。背中には板の硬い感触はない。いつの間にか布団に横になっていたようだった。
少女の着物ははだけ、胸元の白い肌が露わになっている。それとは対照的に少女の頬は赤く染まっており、快楽を小さな体で受け止めながら目をつむってこらえている様はとてもいじらしかった。
信治は考える。とうとう自分も不義をはたらいてしまった。半年間、心の奥で伊代を軽蔑していたが、彼に、もうその資格はない。汚れている。俺は汚されている。
快楽の波にたゆたいながらも、信治の心は暗い海の底にあるかのようだった。
「どうしてっ、お父さん。どうしてっ、そんなに、悲し、そうなの?」
少女が上下に揺れながら尋ねる。
「俺には……好きな人が……」
果たして、好きな人というのは妻のことなのか? 思い起こせば信治が伊代を選んだのは打算的な理由によるものではなかったのか? そもそも信治は本当に伊代を、麟を愛していたのだろうか?
次第に信治の下半身に欲望が凝り固まる。信治も腰を動かし始め、少女の腰を掴んで欲望を叩き込む。
「ふっ、んんっ!」
突然襲い掛かってきた衝撃に少女の口から喘ぎ声が漏れる。
そのいたいけな様にたまらず、信治は少女を押し倒した。
「きゃっ!」
騎乗位から正常位への急な体位の逆転に少女は驚きの声を上げ、それが欲望に突き動かされた信治の腰の突きを一層早くした。
信治の体内で迸る快感は電気のように体中を駆け巡り、少女の体を貪ることだけを命令する。信治はガムシャラに少女のはだけた着物をまさぐり薄い乳房を掴んだ。
少女はますます頬を紅潮させ、自分の細くて小さな指を噛んで喘ぐのを必死にこらえている。
お互いの絶頂は間もなく訪れようとしていた。
だが、絶頂に近づくにつれ信治の胸中に残った理性が不安を掻き立てる。快感から解き放たれ、後に残るものがたまらなく恐ろしいのだ。
ふと、少女の両腕が信治の首回りを抱きしめているのに気が付いた。その瞳は涙で潤んでいる。
「悲しい、のは……イヤだよ。寂しいのは……もっとヤだよ……」
少女は追いすがるように信治に接吻をした。信治の舌に少女のそれが絡み合う。まるで離すまいと懸命に繋ぎ止めようとしているようだった。
脳髄ごと蕩けてしまいそうな感覚を覚える。
もう、どうなってもいい。
もはや信治の胸の内に、家で待つ妻も息子もなかった。
信治は思考を放棄して少女の壊れそうな体を堅く抱きしめ、少女も信治を離すまいと脚を彼の胴に絡める。
そして、その時は訪れた。
「ふぅ……ぁ、あうぅつ!」
少女のか弱い肢体に痙攣が走ったのとほぼ同じくして信治も少女の胎内に熱く濁った欲望を吐き出した。
達した信治は糸が切れたように少女の胸に顔をうずめ、むせび泣き始めた。
「お父さん、私がイヤになったの? 悲しいの?」
「違う……、俺は自分が自分でわからなくなったんだ。俺は……悪い奴で……」
少女には意味がよくわからなかったようでキョトンとした顔を浮かべ小首をかしげたが、幼子を慈しむように信治を抱きしめ、彼の頭を撫でた。
「お父さんは、お父さんだよ。悪いヤツじゃないよ」
理屈は自分でもわからなかったが、その言葉で信治は救われた気がした。それからひとしきり気が済むまで声を上げて泣いた。
落ち着いたところで、今まで思考の片隅に置いていた疑問が信治の頭をよぎる。
「なあ……君は一体誰なんだ」
そこから先の記憶はない。
*
静かに雪が降っていた。
さっきまで長い長い夢を見ていた気がするが、高校を卒業した自分は大学に進学するため明日、村を発つ。
そのため、眼前のこの人に大事なことを伝えなくてはならないのだ。
何を? 明日村を出ることか? そんなことは既に知っているだろう。
既に固めていた決意も思考もぐにゃぐにゃになって一言も発せないでいる内に、後ろから自分を呼ぶ声がした。
駆け寄ってくるのは体格のいい好青年。兄の賢太郎だ。
だったら、僕の大事な人は、この人はダレ?
小さい体。長くて艶やかな黒髪。だが、顔だけは靄がかかっていて見えない。
「君は……誰なんだ」
目が覚めた時、信治は実家の客室の布団の中だった。
土蔵の少女との交わりは夢のように思えたが、全身が汗でぐっしょりしていた。
パンツとズボンは……台無しにはなっていなかった。
母に父の納骨まで付き合う旨を伝えたが、賢太郎は緊急の用事があるとの書置きを残して既に家を出た後だった。
シャワーと朝食を済ませた後、信治はかつての自分の部屋から高校時代の卒業アルバムを取り出した。
信治の抱いていた予感はやはり当たっていた。彼がかつて思いを寄せていた人物。信治と賢太郎の幼馴染である野間織音は土蔵の少女と瓜二つだった。
酔いから醒めたように疑念が頭をもたげる。
あの少女は何者なのか? 何故彼を父親と慕ったのか? 何故性交に及んだのか?
昨夜の出来事を夢だと割り切ってしまえばそれまでだ。
だが、抱きしめられた時の少女の温もりはどうしても忘れることができない。もう一度彼女に会いたいと切に思った。
故に彼は再びあの土蔵を訪れなければならないと決意した。
*
魔術師の手記 2024年 8月 12日
学会での伝手を借りて見た中東の某国で勃発したハキーブ地区紛争の動画を見た時の感銘は私にとって生涯一のものだろう。
精霊が現れたのだ。世界規模で精霊の目撃情報は減少の一途にある。そんな状況の中で食屍鬼、グールが現れたのだ。しかも、それは人との混血児である。グールが近代兵器を相手取り、それを圧倒する様は神秘の世界に身を置く私にとって非常に誇らしい大変胸のすくニュースであった。
異形にして漆黒の鎧! ハイエナを思わせる禍々しくも威風を感じさせる仮面! 獰猛に輝く血の色の眼! 生命なきものを取り込み、それを用いて肉体を再構成するグールの力! 加えて霊能力者としての霊能力を持っていると思われる。最も有力な説が、超感覚的知覚(ESP)受動型「予知能力」だ。まだその詳細は分かっていないが、予知能力者ならば、あれだけの精度を見せたため、かの「ラプラスの悪魔」に喩えられたのも不思議ではないだろう。
また、その特製は化物、特に第三世代と似通っているが、化物が生命の殺戮を生存の条件とするのに対し、精霊は基本的に不死である。(注1)その点でも今回の事件は特筆に値する。
かの国の当局はその混血を「毒の砂嵐」「血の海」を意味する災害に由来して「Simoom《シムーン》」と名付けたが、そこからも上位の精霊が世界で有数の軍事力を持つ国家にとって驚異に値し得ると窺える。
しかし、今回の事件で彼(?)が味方する現地の解放戦線は世界中の魔術師。宗教勢力から好奇の目と敵愾心を集めてしまった。今後、紛争は基金のエージェントや宗教勢力の守り手達も交えたより激しいものになるだろう。まず当局の神秘部が動くことは間違いない。無力な私ができることと言えば彼の武運を祈るばかりだ。
ここまで今まででない程滑るようにペンが進んだが、私にとって重要なことは精霊がいかに人間を超越した存在であるかということではない。むしろ精霊と人間との交配が可能だったと証明されたことだ。魔術においてまだまだ浅学であると認めざるを得ないこの私も遂に人類の進化の可能性を垣間見たのである。
さて本題だが、私は一つの仮説を立てた。
人と精霊の交配によって、より強力な霊能力者が、延いてはより強力な魔術師が生まれる可能性があるのだ。(注2)
日記の体で書いている以上、詳しい部分は省かざるを得ない。だが、今の私はこの理論を実践したくてたまらない。
人を超越したものを造り、育て、教育し、私の後継者となる。想像しただけで胸の高鳴りが止まらない!
検証を重ねるのだ。はるか古代の先人達による壮大にして深遠なる仮説の上であぐらをかいてきた近代以前の魔術が滅んで久しい。多くの検証を積み重ね遂には時代の変革に至った科学と同じく、実験と検証こそが現代魔術の真髄であり、摂理の解明に不可欠なメソッドである。
書いていて自分でも恥ずかしくなってきたが、この不動の事実を最後に今日の記述を締めくくろう。今日はあまりにも興奮しすぎた。
注1:化物と精霊の相違点の詳細はファイル「Logosophic Science Introduction」 Chapter3 Apparitions as foreign matters にて解説
注2:この理論はノートS―4「精霊の宇宙生命的側面の考察」15pにて記述
(続)
次回 「蔵姫 弐 肉汚し編 後編」