ある人里離れた森の奥に、小さな家がありました。その家にはある一人の少女が住んでいました。少女は輝く金の巻き毛に宝石のように澄んだ赤い瞳を持ち、いつも赤い服を着ていました。
父も、母も、友達も、少女の周りには誰もいません。それでも少女は毎日のように、畑を耕し、野菜を育て、時折現れる魔物を狩って、たくましく暮らしていました。
いつものように狩を終えた少女は、家の横に見慣れないものが落ちているのを見つけました。茶色い、泥まみれの大きな塊です。小さく動いているようなので、生き物なのでしょうか。家の周りには魔物避けの結界が張ってあります。お母さんから教わったそれが、これまで魔物を検知しなかったことはありません。ならばこれは魔物ではないのでしょう。
魔物でないなら殺すつもりはないですが、何しろ汚いし、得体の知れないものです。手を汚すのは嫌なので、少女はその華奢な足でそれを踏んでみました。これなら壊すことはないでしょう。
「うっ」
かたまりから、変な音が出ました。けれど一瞬だったので、もう一度足に力を込めてみました。
「ゔっ」
さっきよりも濁った音がしました。足に、じわりと濡れた感触が伝わってきます。もう一度。
「……っ」
何も音はしません。足も汚れただけで面白くないので、少女はその生き物を置いて帰ることにしました。辺りには狩の獲物の匂いが充満していたため何も感じませんでしたが、考えてみたらくさそうな生き物でした。帰って水を浴びないといけません。獲物も早く処理しないと。家に入る頃には少女の頭からは、大きな落し物のことは綺麗に消え去っていました。
少女は歌を口ずさみながら、鍋をかき混ぜていました。詞の意味はよくわかりません。お母さんから教わったものです。
今はひとりきりの小さな家ですが、昔はお父さんも、お母さんもいました。お父さんと出会うまで、お母さんも今の少女と同じように暮らしていたと聞いています。お母さんのお母さんも、そのお母さんも。お母さんはお父さんといるときは幸せそうでした。お父さんの後を追うくらい、お母さんはお父さんが好きだったのです。
でもやっぱり、誰かと暮らすのは大変そう。肉を切りわけながら、少女は考えます。今日は魔物が多く、いいお肉がたくさん手に入ったのです。誰かと一緒に暮らすなら、お肉をひとりじめできなくなってしまうのでしょう。野菜は嫌いだから、野菜ばかり食べてくれるならいいのですが。嫌いだけど、今日もちゃんとスープにしました。食べたくないなあ。
少女がお肉に舌鼓を打っていると、扉の方で物音がしました。そっと扉を開ければ、足元から濁った音が。下を見れば、さっきの生き物らしきものが落ちていました。扉を開けたときにぶつけたらしく、地面に横たわったまま、器用に手で頭を押さえています。
ここでようやく、少女はこの生き物が人間であることに気が付きました。親以外、人と関わったことはありません。扱い方も知りません。とりあえずここにずっといられても邪魔なので、それを家の中に入れることにしました。害をなすようなら明日のご飯にすればいいのですが、違うならなんだっていいのです。少女は狩が得意なので、何かあればすぐ対処することもできます。
壊さないようにおそるおそる引きずって、ようやくベッドに寝かせることに成功しました。血の匂いがぷんぷんします。汚いままなので、後で洗わないと。そう思いましたが、家の床にはべっとりと赤黒い汚れが残っています。もちろん優先順位は決まっています。
少女は、家の掃除を始めました。
鳥の鳴き声で目が覚めました。この家の周りにはほとんど動物がいないので、滅多にないことです。扉を開けると、外はどんより曇り空。夜は見ていませんでしたが、地面には茶色い染みがぐるりと、家の横から扉まで続いていました。でもきっと、雨が流してくれるでしょう。
こんな日はすることもありません。昨日拾った人間でも洗おう、そう思うと少し楽しくなってきました。
けれど、お父さんの部屋に入った瞬間、少女は嫌な気持ちになりました。部屋には血と泥の匂いが充満しているし、人間を寝かせたベッドも汚くなっていたからです。シーツが茶色く染まって、泥まみれで、しかも刻まれた野菜が飛び散っているのです。そこで少女は、寝かせた人間に作りかけのスープを飲ませたことを思い出しました。寝かせたときに口が開いていたので、食べたくなかったしちょうどいいと思ってのことです。鍋を口に押し当てて流し込みましたが、すぐに溢れたので嫌になり、残りは枕元に置いて部屋を出ました。その鍋は空になっているので、ぜんぶ人間のせいでしょう。やはり腹が立ちます。
とりあえず汚いままは嫌なので、まず人間から拭き掃除をすることにしました。
汚れた服は全てを破り捨てました。元々ぼろぼろの服は、少女の力で引っ張るだけで面白いくらいに剥がれるのです。そのまま濡らした布で汚れを拭き取りました。シーツも新しいものに替えて、父の部屋はすっかり綺麗になりました。汚れたものは全て部屋の隅に固めておいたので、あとで捨てるか洗うかしないといけません。それでも少女は達成感を覚えました。
満足げに部屋を見回したところで、ベッドの上の人間がゆっくり目を開けました。
「きみだったのか……」
目が合って、声までかけられて、少女は面食らいます。彼女は外の人間とは話すどころか、見たことすらないのですから。戸惑っていると、さらに人間は話しました。
「助けてくれてありがとう。スープ、美味しかったよ」
助ける? 助けた? これまであまり触れてこなかった言葉ですが、意味はわかります。でも、そんな覚えは少女にはありません。拾ったものを綺麗にしただけです。首を傾げていると、今度は人間が逆に戸惑ったようでした。
「え、違うの? この家には、君の他には誰かいる?」
少女は首を振りました。長い間、少女はこの家に一人きりです。
「君一人だけなのか。なら、僕をここに寝かせてくれたのも?」
頷きます。ついでに鍋と自分を交互に指差しました。
「やっぱり君なのか。ありがとう。おかげで怪我もすっかり──うわ!」
少女がしたことは、人間にとって「助ける」ということだったようです。でも、今度はどうしたのでしょう。
「ちょっと、君、服は!?」
服? 服ならちゃんと着ています。スカートをちょんとつまんでみました。
「君じゃなくて! 僕の! 綺麗にしてくれたのは嬉しいんだけど、裸はさすがに……」
ああ、なるほど。部屋の隅を指差しました。泥まみれの、服だったもののかたまりです。人間は頭を抱えました。裸が嫌なら仕方ないので一旦部屋を出て、お母さんの服を持ってきてあげました。人間はさらに頭を抱えました。
「僕が言うのもなんだけど君、全裸の男を見てなんとも思わないの? 脱がせてくれたのはいいんだけど、そのままでいいの?」
なんと。人間は男だったそうです。父と同じではないですか。でも父よりはずっと年若く見えます。青年とでもいえばいいのでしょうか。
母の服が着られないようなので、青年の体をつつみこめそうな布を探し、シーツを持ってきてあげました。助けてあげたというのにどこまでもずうずうしい男です。わがままな青年はシーツを巻くことで満足したようですが、ふわふわであたたかいそのシーツは少女のお気に入りです。こんなもの渡さず、さっきまで着ていた服で十分だったなと少女は思いました。それに、男なら服なんていらないでしょう。記憶の中の父は、ずっと服なんて着ていませんでした。外の天気も関係なく、結界の中は常にあたたかいのですから。本当に、わがままな人間です。
「さて、落ち着いたところで。本当にありがとう。こうして命も助かって、怪我も少なくいられるのは君のおかげだ。君は助けたなんて思ってないのかもしれない。でも助けられたのは事実だ。君は僕の、命の恩人なんだ」
そう言って青年は少女の手を握り、苦しそうに笑いました。血の匂いがします。無駄に動くから傷が開いたのでしょう。とりあえず少女は青年の、命の恩人というものになったそうです。そのあとに女神だの天使だの続けているのが聞こえましたが、少女は外の人間の宗教には関心がありません。それどころか青年は自分の生い立ちのようなものを語り始めました。青年に興味もないのだから、そんなのどうだっていいのです。ただ、強く握られた手が暑苦しいから早く離してくれないかなあと考えていました。それよりも何よりも、少女はお腹が空いていたのです。
色々あって、森の奥の小さな家の住人が二人に増えました。青年が少女の家で暮らし始めたのです。青年は目覚めたあと、五体満足ではあってもしばらくはベッドから動けず、元のように動けるようになるまで結構な時間がかかりました。けれどその間も、布から自分の服を作り、少女の狩った素材で様々なものを作り上げ、器用な一面を覗かせます。その中には少女の知らないものも多く、それを見るのが日々の楽しみの一つになっていきました。
そして、これまでずっと全てを自分でこなしていた少女ですが、畑の世話と水仕事は青年の仕事になりました。少女は水を使う術は苦手です。これまで水やりも洗濯も、その細腕で頑張ってきていました。青年は恩返しだと言って、あれこれ少女の仕事を奪おうとしてきたので苦手なものを押し付けたのです。青年は野菜が好きで、少女は肉が、それも魔物の肉が好きです。利害も一致していると思うのですが、青年は自分が魔物狩もするべきだと最後まで主張し、渋っていました。
でも、魔物を狩るのは、少女のお母さんの、お母さんの、さらにお母さんからずっと続けている、大切な使命なのです。他の人に見られてもいけないのです。説明もめんどくさいのですが、少女の態度を見て青年も諦め──てはいないのでしょう。今もたまに代わろうとしてきますが、無事に少女は自分の役目を果たしています。今日もお肉が美味しいです。
さらに時が経ち、色々あって、森の奥の小さな家は、十数年ぶりに三人暮らしになりました。少女と青年の間に子が生まれたのです。少女にそっくりな女の子です。少女は少女でない年になり、青年はそれよりも大人びて、それでもずっと同じ生活を続いていました。
娘が大きくなり、そろそろ娘に狩を教える頃合いだと考えました。かつて少女が母から受け継いだのも、今の娘の年頃だったのです。それ以来青年が来る前も、来た後も、少女のお腹に子がいるときも、魔物は絶えず現れ、その都度少女が狩をしていました。子の父である青年は幾度となく止めましたが、少女は決して役目を代わることはしませんでした。
娘は母と違いよく喋る子で、しかしその日は珍しいことに大人しく、朝から黙って母について回っていました。結界に魔物の気配を感じとり、獲物を狩ります。結界より内側に娘を残し、分かりやすいよう、いつもよりゆっくりと。何やら奇声を発していますが、所詮は魔物です。気にすることもありません。
魔物が動かなくなったところで、スカートをくいくいと引く手がありました。狩をしているのは結界の外です。ほぼ息絶えているといえど、危ないから中に戻りなさい。そう伝えようとしたときでした。
「ま、もの……?」
魔物の呻きに重なって聞こえたそれは、今、ここで、聞こえてはいけない声でした。
娘への心配もあったのでしょう。青年は勇気を出して一歩、踏み出してしまったのです。出るなとずっと言われていた、結界の外に。
ああ、見られてしまうのです。鋭くとがった、この手も、足も。それ以外は青年と、人間と同じなのです。ただ、異形である。それだけで彼女も、彼女の先祖も、ずっと人目を避けて生きてきました。迫害にさえあったこともあるそうです。もういないお母さんから、幾度となく辛い話を聞きました。だから、森の中で一人生きていくのも寂しくはありませんでした。痛い目に遭うこと、悲しい思いをすること、信じる人に裏切られること。それらとひとりでいることの辛さは、比べるべくもありません。
お母さんから教えられた通り、結界は全てを隠してくれました。悪意あるものを全て跳ね返し、感知し、暮らしを守ってきました。異形の手足を、一時的にですが人間と同じように変化させる術だって受け継いできました。でも、もうだめなのです。
夫婦であった二人は黙って向き合います。今も背中に残る深い傷跡が、他でもない妻によるものだと。気付いてしまったのでしょう。その時でした。
「この、化け物が……!」
絞り出すような掠れた声が、その沈黙を破りました。先ほどの魔物にまだ、喋る力が残っていたことに驚きます。でも、邪魔です。今は二人で対話すべき時なのですから。魔物を足で軽く転がすと、そのままぴくりともしなくなりました。
再び静寂が訪れます。この辺りは動物もそう寄ってきません。動物は自分より強いものを避けるのよと、お母さんが言っていました。いつまでも口を開かない父母を見て、娘が父の方に手をのばし──そのまま指は宙を掻きました。幼いといえど、生き物としては強者です。それでも心は柔く、恐れられることを本能的に恐れているのです。
頬を一筋の涙が伝いました。そのまま手を振り上げます。
「待って、待ってくれ!」
青年の手は娘の手を強く握りました。あの時もそうでした。父は、お父さんは、苦しそうな顔で少女の手を掴みました。どうせ親も子も、まともには生きられないのです。ならば一緒にと。知らず知らずのうちに同族を見殺しにし、あまつさえ糧としてきたことも、妻が、娘が、彼にとっての化け物であることも、全てが耐えがたい事実だったのです。
裏切られるのではありません。こっちが初めから騙していただけなのですから。けれど許せるわけでもなく、相手もそれは同じでしょう。
やはり、人間とともに生きられはしないのです。
「君の気が済むなら、それでいいよ。でも、もう少し一緒にいたかったな」
そう言って青年は、いつかと同じように苦しそうに微笑みました。