十数輪の赤い華が、岸から風に乗ってふわりと舞い上がった。華は川を越え、山を越え、海を越えた。時間が経つにつれて、華の数は段々と減っていって、遂には最後の一輪になった。いつどこから飛び上がったか誰にも知られないその華は、たくさんの人の頭上を通り過ぎた。世の中の誰しもが、自分は幸運になるべきだと思っていた。華はゆっくりと下降を始める。茎から離れた花弁は、養分を求めていた。華は運命づけられた場所に向かって行った。向かい風の中でも関係なく、自分の行くべき場所が華には分かっていた。赤い花弁は窓をすり抜け、車椅子の上で静かに眠る少年の口に入り、体内に落ちた。
リビングのドアを開けると、青は窓際のソファでうたた寝をしていた。私は青の足元に屈み込んで、彼の小さい吐息に耳を澄ませた。間接照明の赤い光の中にも関わらず、青は白く輝いているようで、睫毛まではっきりと彼の顔を見ることができた。唇は薄く、耳は小さく何もかもが作り物のように白い。分けられた前髪は不規則なようで、完璧な角度で彼の額にかかっていた。湧水が山肌を伝って、崖から落ちてほどけていくような、そんな自然な白い選だった。瞼は閉じられて、口は軽く開いている。つまりは、眠っている青は寝息さえ聞こえなければ、まるで死んでしまったように美しかった。
私は彼の腹の中に根を張っている彼岸花を思った。彼岸花が枯れてしまうと彼は死んでしまいます。定期的に血を飲んで枯らさないようにしてください。髪と目は副作用のようなものだと思われます。治療薬はありますがその場合、以前の怪我がどうなるのかは前例が少ないため不明です。医者は淡々とした様子で説明をしてくれた。不老不死でもない、だけど怪我や病気は治す。昼も外を歩ける、だけど血は飲まなくてはいけない。眼は赤く髪は白くなる、だけどその人間が大きく変わるわけではない。そんな不完全なものなのに、腹に彼岸を抱えた人間を、誰もがヴァンパイアと呼んだ。
私が膝に触れると、青はゆっくりと目を開けた。眠りからの目覚めというよりは、どこかへ行って帰ってきた、というような覚醒だった。赤い瞳が、私を見つめる。
「ごめん、寝ちゃってたみたいだ」
青は鼻の頭を掻いた。とても子供っぽい仕草だが、表情はどこか疲れてくたびれたようだった。私は冷蔵庫からパックに入った血液を取り出して、グラスに注いだ。生臭い匂いを発している。グラスを青に渡すと、それを一気に飲み干して唇を舐めた。
「ヴァンパイアみたい」
「みたい、じゃなくて実際そうなんだよ」
青は小さく笑って、それよりも大きく欠伸をした。
「眠たいのなら、ベッドに行って寝なくちゃダメよ」
私は彼の手を取った。青は頷いて、私の手からスルリと抜けて、寝室へ向って行った。
「ちゃんと布団を被って、暖かくして寝なくちゃ」
「わかってるよ」
青は少し怒ったようにこちらを振り返った。私はどうすることもできなかった。ただぼんやりと、少し赤みが差した青を見返していた。
「ありがとう」
暫くの沈黙が終わって、青はそう呟いて寝室へ消えた。私はその後ろ姿を見送って、青が座っていた場所に腰を下ろした。ソファは冷たく柔らかく沈んだ。
暫く座っていると、ソファはだんだんと温かくなって、少し眠たくなった。立ち上がって、寝室のドアの前に立つ。中からは何の音も聞こえない。静かにドアを開けると、青は布団をしっかりと被っていた。私は、青の白い髪をなでながら、彼がまだ歩けなかった頃のことを思い出していた。彼がヴァンパイアになって、足が治ったのは一年ほど前のことだった。青は不思議そうに部屋の中を歩いた。どんな感覚なのか私にはわからなかったが、青はとても嬉しそうだったのを覚えている。
「まだ寝ないの?」
青は目を開けて、私に声をかけてきた。
「少し出かけるから、先に寝てて」
「タブレットを取ってくれない?」
私はテーブルに置いてあるタブレットを手に取った。開いてあるページには、ヴァンパイアの治療薬についての記事が載っていた。履歴を除くと、『ヴァンパイア治療薬 足』『ヴァンパイア治療薬 歩行能力』『ヴァンパイア治療薬』という文字が並んでいた。私は画面の電源を落として、それを青に渡した。
「あまり夜更かしはしちゃだめよ」
青は画面を付け直して、それを眺めた。
「青」
「紘だって今から出かけるなら夜更かしはやめてね」
青は画面を見ながらそう言った。以前に比べて、青は私のことをあまり見なくなった。
「ねぇ」
呼びかけると、青は寝返りを打ってこちらに背を向けてしまった。諦めて寝室から出ようとすると、背後で軽い衣擦れの音が聞こえた。私は振り返らずに寝室を出た。私は、彼岸花が憎くてたまらない。
青がヴァンパイアになった日は、何の前触れもなく訪れた。青にとってはショックよりも、歩けるようになったことの喜びが大きいようだった。不老不死にならない、血は少量飲むだけでいい、治療薬が開発された、等のヴァンパイアについての研究が進んだせいかもしれないが、青はほとんど不安を感じていないようだった。私はそんな青にどんな言葉をかけてあげただろうか。「よかったね」とか、そんな言葉を嘘でもかけてあげたのだろうか。たった一年前のことなのに、もう随分と昔のことのようだ。思えば、私と青の間におかしな風が吹き始めたのはあの頃からだったような気がする。あの時に青の望むように接していればよかったのに、とずっと考えている。
「何も不治の病ってわけじゃないんだ。薬が欲しいって言えば国がほとんど出してくれるんだし、そんなに悩むくらいなら治しちまえばいいだろ」
ケイはなんでもなさそうに言った。いかにも仕事帰り、といった風にだらしなくスーツを着崩している。彼は必ず一杯目はマンハッタンを頼んだ。どこの店に行っても、大体の場所で何を注文するか決めきっていた。高校の食堂では唐揚げ定食、パスタはミートソース、そしてバーではマンハッタン。色とりどりのカクテルなんかには目もくれない、ちょっと横道になんてことは考えもしない人間だった。
「青は人間に戻りたい、なんて言ったことは一度もないのよ。強要は出来ない」
私がそう言うと、ケイはどこかに泳がせていた視線を一瞬だけ私のほうに向けた。
「強要、ね」
ケイは意味ありげにそれだけ言うと、視線を窓の外に向けた。二十一時の駅前はほとんど人通りが無く、興味を引きそうなものは何一つなかった。ケイはこちらにしっかりと向き直った。
「本当に真剣に恋人のことを考えてやってるのか」
「なに? どういうこと?」
私はケイが言った言葉の意味が分からなくて、聞き返した。
「どうしてお前から薬の話をしてやらないんだ。治すか治さないか、彼に決めさせないのはフェアじゃない」
「私が青をヴァンパイアのまま放っておいている、って言いたいの。青はちゃんと薬のことだって知ってるのよ」
「俺がしてるのはそういう話じゃない。どうしてその話をお前からしてやらないのか、って話をしてるんだ」
「どうしたの。どうしてそんなに……」
ケイは珍しく怒っているように見えた。実際には怒ってはいないのかもしれないが、少なくとも私にはそう感じられた。私は彼がどうしてそんなに気持ちを高ぶらせているのかわからなかった。
「いいか、ヴァンパイアってのは迫害される生き物になりつつあるんだ。もしかするともうなってるかもしれない」
「そんなの知ってる。病気も怪我も治るなんておかしい、人間じゃない、人の血を吸う悪魔。何も知らない人達が陰で言ってる」
「実際にそう思ってる人間がいる。今は少数派で、表面上はヴァンパイアだって普通に生きれてる。だけど、もしも何処かのヴァンパイアが人を殺したらどうなる。人間が殺した数のほうが圧倒的に多いのに、ヴァンパイアは血を吸うために人を殺す、そういう認識に切り替わる。そう思わない人間だって、そう言わざるを得なくなる。社会なんてそんなもんなんだ」
ケイはまた、窓の外に視線を投げた。何も見ていないはずなのに、私よりも沢山のことをどこかに仕舞い込んでいるような目だった。
「もしかするとそうはならないのかもしれない。今みたいに良い意味で混乱した状態がずっと続くかもしれない。誰も文句を言わない馬鹿みたいに素敵な世の中になるのかもしれない。でも、青君が生きづらい世の中になる可能性だって同じくらい大きいんだ。ヴァンパイアじゃなくなれば、また歩けなくなるのかもしれないけど、ひょっとすれば歩けるまま人間に戻れるかもしれないんだ。どうして背中を押してあげない。今の状態だって、全部お前に責任があるんだぞ」
私はケイを見ることができなかった。手元のグラス、飾られた絵画、木目の床。色々なものが目に飛び込んできたのに、ケイの眼だけはどうしても見ることができなかった。ケイは息を吐いた。視界の端からマンハッタンのグラスが消え、暫くすると同じ位置に戻ってきた。
「俺達がまたこうして会うようになったのは、青君がヴァンパイアになってからだ。俺としては嬉しいことだけど、正直に言って君が何を考えているのかわからない。もっと細かく言えば、理解はできるがそれは正しいことではないと俺は思う」
「私は青の意見を尊重してあげたいの。でも、彼はどうしていいのかわからないでいる。何が良くて、悪いのか迷ってるの」
「青君にはお前しかいないんだ。お前が思っていることを言う義務があるんじゃないのか」
ケイのグラスが空になった。暫く宙に浮いたグラスが音も立てずにコースターの上に戻った。
「私の思ったとおりに青を動かせって言うの? そんなの辛すぎるわ」
ケイは小さく咳払いをした。
「青君にとっては、君と出会ってからはずっと辛いだろうさ」
私はケイを見た。彼は私をわかりやすく挑発していた。私が青のことを考えていない、と言っている。ケイは何もわかっていなかった。行き詰まっている私の気持ちを汲んでくれると思っていたのに、青にすらこんな話をしたことがなかったのに、ただの一言も慰めの言葉をくれなかった。頬が熱くなるのがわかる。
「どうしてそんなこと言うの? 私にはもうどうしようもないのに」
悔しくて涙が出そうだった。ただ近くにいてくれるだけでいいのに、そんな簡単なことすらもできないほどケイは馬鹿ではないはずなのに。
ケイは私の手を握った。セックスの時以外で、彼が私に触れるのは初めてだった。その手からなんだか嫌なものが流れ込んでくるような感覚がする。私は彼の手を払った。ケイのことが嫌いなわけではなかったが、私にはそうする他ない。私は青のことが好きだし、青も私のことが好きなはずだ。順番を入れ替えることも、何もかもをなかったことにすることもできない。ケイは振りほどかれた手と、私を見比べた。
私は席を立った。ケイが何か呟いたが、聞き取れなかった。振り返ると、ケイはまっすぐこちらを見ていた。
「なに?」
「青君のために華を飲むことなんて考え付きもしないだろ、って言ったんだ」
ケイは数枚の札を置いて、さっさと店を出て行ってしまった。私は長い間その場所に立っていた。思い出すのは青の白い髪、赤い瞳、そして細い足。
ケイはタクシーを止めて、店のすぐ外で私を待っている。どれだけ頼りない人間だとしても、今の私には彼が必要だった。
目が覚めると、窓から夕焼け空が見えた。ケイはもう起きているようで、リビングからテレビの音が聞こえる。何度も見た景色だ。そして、決まって同じことを考えた。青のことを考えながら、私のことを考えて、そして少しだけケイのことを考えた。いつも同じように考えて、同じような場所に行き着いていた。
「おい、起きろ」
ケイがリビングから顔を出して言った。私が無視をすると、ケイは扉をコンコン、とノックをした。私は仕方なく、椅子に掛けられたワンピースを着て、リビングに向かった。
「どうしてもっと早く起こしてくれなかったの。もう日が暮れかかってるじゃない」
私はソファに腰を下ろした。
「俺もさっき起きたんだ。それより、ニュース見てみろよ」
テレビに目を向けると、キャスターが何やら真剣に話していた。特別深刻そうでも、ご機嫌そうでもなかった。ケイが私の前に水の入ったグラスを置いて、少し離れた所に座った。
『これは新たな発見です。この事実によって、今後の医療技術の進歩が遅れるのかが大きな争点になりそうですね』
私はケイを見た。ケイは黙ったまま画面を見続けている。キャスターから、カジュアルスーツを身に纏った男に画面が切り替わる。
『ヴァンパイア治療薬によって、元の姿に戻った方々の健康状態がどのように変化するのか、というのは、ヴァンパイアがもたらした医療技術が一時的なものか永続的なものであるのかという議論において非常に重要です。そして今回の例のように、ヴァンパイアになったことによって病気が治った人間が、治療薬を使うことによって病気を再発してしまったということはつまり、ヴァンパイアは一時的に病気を抑えていただけなのだという結論に至らざるを得ないのです。怪我は元の状態に戻り、修繕された細胞もゆっくりと本来の姿に戻っていくでしょう。私は……』
私はそれ以上何も聞こえなかった。ケイはこちらを見ている。
「帰るのか」
また歩けなくなるんだな、どうする、とケイは言っていた。私はその問いかけには答えずに、コートとバッグを持って家を飛び出した。街の陽は沈み、仄かな明るさだけが残っていた。家に帰りたい、青の傍にいたい。足を速めた。暗くなった街は明るさを取り戻すように、次々と電燈を灯していった。
「おかえり、遅かったね。心配した」
青は心底安心したように、私を出迎えた。どこかに行くはずなんかないのに、袖を掴んで離さない。昨日までの青が嘘のように引っ込んで、出会った頃に戻ったような感覚だった。
「今日は『日々の泡』を読んだよ。前に紘が前に貸してくれた本。とっても面白かった」
青は目の前にその本を持って来て、前半のページにある挿絵を私に見せた。蛇口を通っているウナギを捕まえている、一番初めの挿絵だった。
「睡蓮のつぼみ」
私が呟くと、青は一瞬不思議そうにこちらを見て、何か言いたげに口を開いたが、すぐに閉じた。そして、決まりが悪そうに苦笑いをして、本に視線を落とした。
「青、ニュース見たの?」
私の問いかけを無視して、青はその挿絵を眺め続けた。とても痛々しい微笑だった。
「ニュースでは、病気が再発するって言っていたけど、全ての病気がそうじゃないかもしれないのよ。治療薬を飲んでみて、足が治る可能性だってゼロじゃないかもしれない」
「いいよ、なんとなくそんな気はしてたんだ。ヴァンパイアじゃなくなったって、歩けない人間に逆戻りするだけだって」
青は私の顔を見てニッコリと笑った。
「散歩したいんだ。連れて行ってくれる?」
青はまっすぐ歩いていた。私もその後ろをまっすぐ歩く。青の車椅子を押していた頃は、よく彼の綺麗なつむじを見下ろしていたが、今は彼の後頭部しか見えない。
私は青に何かしらの神秘的なものを感じているのかもしれない、と思った。血を飲む獣、赤い目、白い髪。そういう一見目立ってしまうような何かではなく、青という存在自体に幻想を抱いていた。ヴァンパイアになった男ではなく、彼は車椅子に乗って私の帰りを待ってくれる私の青に戻っていた。月光が吸い込まれるように青に向かって伸びている。青の後姿を見て、彼が自分の恋人である事実が長い遠回りをして私の胸を打っていた。
私達の横を色々な人が通り過ぎて行った。サラリーマン、学生、カップル。青をジロジロ見て、コソコソと話して、笑ったり憐れんだり。始めて見た、本当にいるんだ、綺麗。みんな立ち止まることなく私たちの後方に流れていく。
「あの頃と大して変わらないんだ。車椅子に乗ってる人間が珍しい、ヴァンパイアが珍しい、何も変わらない。段差が一人で越えれるだけ、こっちの方がましな気がするし」
青は振り返らずに話した。周りの視線も気にせずにまっすぐ前を向いている。嘘を言っているとは思わなかった。紛れもない真実を話していることが、私は嬉しかった。彼の中で、彼岸花が美しく咲いている。
不意に私の携帯電話が鳴った。相手はケイだった。
「先に帰るね」
青は昔のような笑顔で振り返って、それだけ言うと歩調を少し早めて行ってしまった。私は青が角を曲がるのを見送って、電話を繋いだ。
「もしもし。何か用?」
私は青の後を追った。
『今日、ネックレス忘れていったろ。取りに来ないか?』
私は溜め息をついた。この男はいつの話をしているんだろうと思った。
「捨てておいて。もう合わないから」
私が角を曲がると、青の姿が遠くに見えた。ケイは何かを推し量るように黙っている。
「聞こえた? 捨ててね」
青の髪が、夜風に靡いていた。
『青君と話したのか。俺を使うだけ使った、結局は自分の意見しか眼中になかったんだろ』
「そんなことないわ。感謝してる」
青の後姿は、星が無い夜空にもよく映えていた。
『大多数と違う行いが、常に正しいとは限らないんだ。それを忘れちゃいけない。俺はずっとお前の為の話をしているんだ』
徐々に青との距離が縮まっている。
『ニュースを見た時、どうしてお前は笑ってたんだ』
私は立ち止った。
『青君が歩けるようになった時、どうしてお前は俺のところに来て泣いたんだ』
『青君はどうして歩けなくなったんだ』
『同じことを繰り返さないって言えるのか』
『僕が足を折ったら、君は俺のことを愛してくれるのか』
右頬が吊り上がってく。馬鹿な男、と私は思った。
「貴方はひょっとして、自分が何もかもをちゃんと考えていると思ってないかしら。そうだとしたら大きな間違いよ。私のことも、青のことも、自分のことだって、あなたは何一つ真剣に考えていないわ」
私は電話を切った。
好きでいてくれるのなら、君を縄で繋がなくてはいけない。足を折って、嘘の言葉は聞かないで、愛の言葉は固く胸にしまいこんでしまわなくてはいけない。油断せず、恐れて、君とは違う何かに囚われているふりをしなくてはいけない。そんな風に大事に、枯らさないように育ててあげなければいけない。僕にとっても、君にとっても、愛とはそういうものだろう?