風に吹かれて木々が揺れる。落ち葉を踏みしめる。水が流れてゆく。それ以外、何の音もしない。頭の中にあるもやもやとは裏腹に心臓は心地よいリズムを刻んでいる。遮るものは何もなく、するべきことは目の前にある。だから僕は、山に登るのが好きだった。
足は一定のペースを守り続ける。それでも思考はぐるぐる回る。とりとめもなく思いついたままにぐるぐると。そうしてたまに、目についたものをぼんやりと眺める。その中に季節を感じる。
この山に来るのは何度目だろうか。そんなに多くはないけれど、それなりに来ているとは思う。だから、変わったことがあれば気が付く。
透き通るような空気の中に、甘いにおいを感じた。ケーキ屋の前で嗅ぐような、バターと小麦と砂糖のにおい。おかしいなぁ。この近くに洋菓子屋なんてあっただろうか。前来た時には感じなかった。最近オープンしたんだろうか。でも、こんな山の中に? その間も足は止まらない。木漏れ日を淡々と突き進む。次第ににおいが濃くなってきた。
甘いにおいを嗅ぎながら山道を進んでいくと、向こうの山に渡れる橋が見えた。鉄橋に蔦や木が絡みついている妙に古臭い橋。以前一度だけ、興味本位でその橋を渡ってみたことがあるけれど、明らかに脇道──というより別の山に通じる道──だったので最後まで行かずに引き返したことがある。一応道こそあったものの、かろうじて人が一人通れる程度で安全とは言い難かった。
ひょっとして、僕の知らない間にそこが整備されたんだろうか。それで新しいお店でも建てたのかもしれない。山の中腹だということを考えれば休憩所としてはちょうどいいし、使われていない場所の有効活用としてもあり得ない話じゃない。そう結論付けて、僕は二度目の好奇心に誘われるまま鉄橋を渡った。鉄橋はカンカンカンと小気味良い音を立てて僕を歓迎してくれた。
渡り終えると、甘いにおいは濃くなった。なんだかおなかが空いてきたような気がする。それに、少しわくわくしている。においにつられたんだろうか。このにおいはやっぱり洋菓子だろうな。マドレーヌがあるといいな。ケーキみたいに派手でなくていいんだ。でも、この頃の流行りはパンケーキだからなぁ。新しく立てたお店なら、流行りのお店かもなぁ。人一人分、枯葉に埋もれた道を進んでいく。以前よりもっと深くへ。
しばらく進んでいくと脇道があった。木が切り倒されただけの簡素な道。不思議とそれが輝いて見えた。これは道だと自分の中の何かが告げた。このまま進んでいくよりは、こっちに賭けた方がよっぽど面白そうだ。そう思い、僕はそちらへと歩を進める。躊躇いは全くなかった。
ふと足元を見ると、落ち葉は黄色に変わっていた。いちょうの葉っぱ。道理で輝いて見えたわけだ、と一人納得して笑った。もうすっかり冬かと思っていたけれど、まだこんなところに秋は残っていたんだ。少し楽しくなりながら、においに誘われ歩いていく。すると、レンガ造りの小さな家が現れた。
窓ガラスと扉からわずかに見えるショーケース。小さな箱がいくつも並べられている。ここが洋菓子屋に違いない。ギシリギシリと鳴る玄関ポーチを上がり僕は扉を開けた。店内はあの甘いにおいに包まれていた。バターと小麦粉、それから砂糖。甘くて楽しいにおいだ。辺りを見回す。バスケットにはマドレーヌやクッキーなんかが盛られている。ショーケースの中はチョコレートだった。
折角だから何か食べたいな。そう思って値札を探すが見当たらない。どころか、店員さんさえいないことに気が付いた。キツネにつままれたような気分だった。
カウンターの奥でチンと音がした。どうやら何かが焼けたみたいだ。奥にいる誰かに向けて僕はすみませ~ん、と声をかけた。ガシャンと金属の音がして、エプロン姿のお姉さんが現れた。すらりとした立ち姿。まくり上げられた袖からは白い腕。その先にクッキーの乗った皿があった。
「あぁ、いらっしゃい。待っていたよ。ここまで遠かったろう?」
気さくな言葉とは裏腹に、彼女の表情はぴくりともしない。笑い方を忘れたようにも見えた。
「あっちにテーブルがあるから、これを持って待ってなさい。つまみ食いはしちゃいけないよ」
お姉さんは窓際を指さした後、皿をこちらに押し付けてきた。されるがままに受け取る。踵を返してカウンターの奥に引っ込んでしまった。彼女の言葉に少し引っかかりを覚えたが立ち尽くしていてもしょうがない。僕はクッキーを窓際のテーブルまで運んで席に着いた。もう冬にもなろうかというのに差し込んでくる光が暖かい。冷えた手先がじんわりと熱を取り戻していく。
ぼんやりと窓の外を眺めていると、お姉さんがティーセットと共にやってきた。
「ちゃんと待っていられるなんてお利口さんね」
そう言いながら僕の向かいに腰掛けた。カップに紅茶を注いで僕に差し出す。目が合った。僕はそれを両手で包むようにして受け取った。
「つまみ食いはしちゃだめって言いませんでしたか?」
「言った。そして君はそれを律儀に守った。だからお利口さん」
普通ならここで微笑みのひとつもありそうなものなのに、相変わらず彼女の顔は変わらなかった。ひょっとしたら表情筋が死んでいるのかもしれない。そんな失礼なことはともかくとして、僕はさっきの引っかかりを尋ねることにした。
「どうしてつまみ食いなんですか?」
「何が?」
表情は変わらない。そこからは何の表情も読み取れない。ポーカーフェイス。そんな単語が頭にちらついた。
「言いましたよね。盗み食いじゃなくてつまみ食いって」
「言ったね」
「それじゃあまるで、このクッキーが僕のものみたいですよ」
ついでにこの紅茶も。目のやり場がなくて視線を下げる。紅茶の中の自分と目が合った。今、なんだか情けない顔をしている。叱られた後の犬みたいな。
「いや、それは君のものだよ」
予想外の返答に思わず顔を上げた。お姉さんは僕の方をじっと見ていた。
「このクッキーもその紅茶も、君に振る舞うものだから」
「え、でも、僕あんまりお金持ってませんから」
子供のお小遣いなんてたかが知れてる。まして周りと比べてもあんまり多い方ではない。好奇心につられて入ってみたはいいものの、値段の分からないものを食べられるような余裕はない。
というか、普段はこんなお店を見かけたって入ってみようとは思わない。甘いにおいに惑わされたような気がする。お姉さんはそんな様子を気にも留めずに口を開いた。
「あ~、お金、かぁ。少しは貰うつもりではあったけど、まぁいいや。君の払える範囲内だよ」
言葉だけなら脳天気そうに聞こえるが、そこにある感情は薄い。僕はいよいよ騙されてるんじゃないかと思い始めた。
「まぁそう固まってないでさ、一枚食べて見なよ。一枚だけなら試食のサービス」
食べないと何も進まなさそうだな、と思った。紅茶をテーブルに置いてクッキーに手を伸ばす。おそるおそる、口の中に入れる。
瞬間、わくわくするような気持ちが突然湧いてきた。ザクザクとクッキーが細かく踊るほどに、甘い味が広がって、だんだんわくわくも大きくなっていく。
「おいしい!」
僕は柄にもなく、少し高めのトーンで感想を声に出していた。
「これ、すごくおいしいです。それになんだか気分が良くなる。何なんですかこれ」
僕にしては珍しく考えるより先に言葉が口を出る。脳を経由していない分、言葉は単純で実直だった。
「気に入ってもらえたようで何より」
わずかにお姉さんが嬉しそうに見えた。
「次は紅茶を飲みなさい。口直し」
言われるがまま紅茶に口をつける。さっきまでの甘みがスッとのどの奥へ流れていって穏やかな気分になった。
と、同時にさっきまでの自分を思い出して顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。
「落ち着いた?」
目も合わせられずに頷く。どう考えてもさっきの自分は正気じゃなかった。
「さて、何から話そうかな。まずはこのクッキーと紅茶の話からしようか。君、このクッキー食べたら、こう、好奇心が湧いたような気にならなかった?」
首を縦に振る。わくわくは確かに好奇心と言えば好奇心かもしれない。
「それはね、私の感情なの」
ありえない言葉に目を見開く。もちろんうつむいたままでお姉さんには見えていない。
「心を込めるってよく言うでしょう? 私はそれが人よりはっきりできるの。クッキーにも紅茶にも私の感情が入ってる。それを口の中に入れれば、私の感情は君に伝わる」
彼女の言葉は僕の理解の範疇を超えていた。でも、不思議とすんなり受け入れられた。その効果を身をもって知ったからかもしれないし、もしかしたらさっき飲んだ紅茶のおかげかもしれない。
「で、ここからが本題なんだけど。君、感情を持て余してるよね?」
何のことだか分からなかった。お姉さんほどではないにせよ、感情の起伏は薄いつもりだった。
「あぁ、その様子だと自分の気持ちに気付いてないのかな。あるいは目を逸らしているのかも。まぁ、それはともかくとして」
お姉さんは立ち上がって僕の前でしゃがみ込む。うつむいている僕の視界に入ってきた。
「君、好きなお菓子ある?」
「……マドレーヌ」
「じゃあマドレーヌを作ろう。こっちに来て」
僕の手を引いてカウンターの奥まで導く。有無を言わせない力強さがあった。
奥には調理場がある。僕の手を離すと、お姉さんは調理器具を取り出し材料を取り出し、台の上に並べた。
「それではこれからマドレーヌを作ります。と言っても、私は指示するだけなんだけどね」
「え? お姉さんが作ってくれるんじゃないんですか?」
「ううん、私は作らないよ。だって扱うのは君の感情だから」
エプロンから木で出来た杖を取り出した。
「魔法使いみたい」
「今頃気付いたの?」
そう言いながら僕の額を杖で突く。お姉さんは目を閉じて深く呼吸をしていたから、僕は何も言えなかった。
見つけた、と小さくつぶやくと、そのまま何かを引っ張るように杖を引いた。すると夜空みたいにきらきら光る塊が杖に付いてきた。頭のもやが無くなって軽くなった気がする。
「これが君の持て余している感情。これをマドレーヌに混ぜ込みます。」
「そう言われても、普通のお菓子すら作ったことがないんですけど……」
「大丈夫。基本は混ぜて焼くだけだから」
指示するだけ、という言葉通りお姉さんは指示しか飛ばさなかった。卵と砂糖を混ぜて粉を振るってまた混ぜて、バターを溶かしてまた混ぜた。その工程の合間合間に小さくした僕の感情とやらが一緒に混ざっていった。夜空みたいな深い紺色をしたそれは混ざると生地の色が変わるんじゃないかと思ったけれど、意外と見た目に変化はなく、混ぜ終わる頃には僕の感情はすっかり見えなくなっていた。
「お疲れ様。後は冷蔵庫で寝かせて焼くだけだから、お茶の続きでもしましょうか」
さっさとお店の方へ戻っていくお姉さんの後ろ姿は疲れているように見えた。
窓際のテーブルで紅茶を飲んで一息ついた。流石にクッキーは怖くて手が付けられなかった。平常心でいると頭が冴えてくるのか、聞きそびれたことを聞いてみようと思った。
「ここに並んでる商品は、みんなお姉さんの感情入りなんですか?」
「そうね。嬉しいとか悲しいとか、それぞれ色んな感情が入っている」
「買う人いるんですか? それも、こんな山奥なのに」
「あら、今回はたまたま山奥だっただけで、望む人のところに出てこれるのよ?」
「だったらもっと近くでよかったのに」
「そういうわけにもいかないの。色々条件があるから」
「条件?」
「そう。例えばにおいに気付くこととか。おかしいと思わなかった? いくらなんでも、においが届くには遠すぎるでしょう」
言われてハッとなった。においがする方を辿ったなら、もっと近くにあってもよかったのに。歩いてきた道は遠かった。
「お姉さん、本当に魔法使いなんですね」
「まだ信じてなかったの?」
呆れたように言うお姉さんの表情は、それでもあまり変化がなかった。ただ、表に出ないだけで感情はあるんだなと妙な納得をした。
そろそろだわ、と立ち上がるお姉さんに付いていく。今度は手を引かれずに、自分の意志で。
生地が焼きあがるまでを僕はオーブンの前でじっと見ていた。じわじわ膨らんでいくマドレーヌは何故だかとても面白いもののように見えた。お姉さんも僕の後ろで焼けるのを待っていた。
チンと音がした。魔法を味わう前に聞いた、生地の焼ける音。後ろを振り返るとお姉さんはミトンを僕に渡してきた。あくまで指示を出すだけらしい。オーブンを開く。熱の塊が頬を通り過ぎる。ミトンでオーブンから出し、崩れないように慎重に型から外していく。文句なしにマドレーヌになっていた。
「一つ味見をしてみるといい。熱いから気を付けて」
小さなものを一つ、指先でつまんで口に入れる。さっくりとした食感。舌に触れるとじんわり伝わってくる甘み。その熱と甘さの中に訴えかけてくる感情があった。あぁ、そうか。だから僕はもやもやしていたんだ。おかえり、僕の感情。ごめんね、今度は目を逸らしたりしないから。きちんと伝えるから。
「これを渡す相手は分かったかな?」
お姉さんが残りのマドレーヌを袋に入れて立っていた。僕はこくりと頷いて、その袋を受け取る。
「それじゃあ精々頑張りなさい」
気が付くと僕は脇道の手前に立っていた。通ったはずの道はもう無い。それでも、手にはきちんとマドレーヌがあった。僕は来た道を戻って家に帰った。
それから数日経った昼。僕は行くあてもなく町をぶらぶらと散歩していた。やるべきことはもうやったから、悩まなくてよかった。悩まなくていいから、まだ山には登らない。ただの散歩。あわよくばたどり着きたい。カバンの中にはちゃんとある。後は条件次第かな。思考はぐるぐる回る。傍から見てれば分からないけど、これで僕の頭は結構忙しいんだ。
すると、また、あの甘いにおいがした。バターと小麦と砂糖のにおい。もしかして、なんて思って僕はそのにおいを辿っていく。大通りから少しそれる。ビルとビルの間。だんだん住宅地になっていく。
角を曲がると一軒の洋菓子屋があった。ここだろうか。違っててもまぁいいや。オープンの札の下がった扉を開ける。カウンターにはあの無表情のお姉さんがいた。いらっしゃいませ、と抑揚のない声で挨拶をされた。
「この間はありがとうございました」
深く頭を下げてから、お姉さんの顔をじっと見る。
「その様子だと、仲直りは上手くいったみたいだね」
「ええ、おかげさまで」
「そう。それはよかった」
彼女はこともなげにそう言う。関心が他所にあるように見えるけどそんなことはない。
「それで、今日はお姉さんにお礼の品を持ってきました」
「あら、お礼なんてよかったのに。お金ならきちんと材料費分、君の財布から抜いておいたでしょう。足りないと思うなら商品を買っていってよ。君の好きなのもあるから」
お姉さんの指さす先にはマドレーヌの盛られたバスケットがあった。今度はちゃんと値札が付いている。
「後でいただきます。それよりお姉さんに渡したかったのはこれ」
僕はカバンから袋を取り出した。中身は不格好なマドレーヌ。僕の作ったものだ。お姉さんに差し出す。
「お姉さんに気持ちを伝えるならこれだと思ったから」
ありがとう。そう言いながらお姉さんはマドレーヌを袋から取り出して一口。
「おいしい」
お姉さんが微かに笑ったような気がした。