グラスを割った。安物だけど、薄造りで口当たりがよくて、アイスティーを飲むときに愛用していた物。別のマグカップをシンクに置こうとして、底がぶつかって、その当たりどころが悪かった。
パリン、という音でもなく、ガシャン、でもなく。ただ、何かが、何かをそっと諦めるような、大きくも小さくもない音。硝子の破片が散らばったシンク。大きめの破片を指を切らないようにして拾い集める。一片一片が薄い氷のように冷たくて、レジ袋と新聞紙を引っ張り出してごみ箱に運びながら、胸の奥で小さな悲しみがじわりと広がっていく。
特別な物でも、大それた物でもない。が、その瞬間、自分のなかの僅かな僅かな、「ていねいな暮らし」のような幻想が、粉々になった気がしてならなかった。たとえチープなものであっても、家にあって手の届く限りにあるものでさえも、大切に扱えなかった。私は、私にとって大事なものをそれ相応に大事に扱えていただろうか。急がなくていいところまで、急いでいないだろうか。夜の静けさのせいか、思考はぐるぐると渦巻く。
かつて買ったばかりのテレビをケーブルに引っかけて、液晶画面に幾本か黒い線が浮かぶようになってしまったときよりも、取り返しのつかないものがばらばらに壊れてしまったような気がした。
翌日の仕事終わりに近くの雑貨屋に立ち寄った。同じようなグラスがあればと思った。しかし、売り場には似ている物はあれど微妙に違っているものばかりが並んでいる。取っ手が付いている物。硝子のぶ厚いもの。大きい物や軽すぎる物。しばらく物色したのち、結局、何も買わずに店を出た。これほどまでに自分がこだわり深い人間だったとは、正直なところ、思いもよらなかった。
いつものように家に帰って、いつものようにアイスティーを作る。手持ちの食器自体少ないため、手に取ったのは、もらい物の厚手のマグカップ。味は変わらないはずなのに、なにかが違っている。温度の伝わり方も、唇に触れる感触も。
あのグラスが特別だったのは、薄造りだったからでも、口当たりが良かったからでもない。毎日の小さな習慣の中で、いつの間にか自分の一部になっていたからだった。仕事終わりにアイスティーを入れる時はあのグラスに氷を入れ、何気ない日常の中で、手に馴染み、唇に馴染み、ゆっくりと私の生活に溶け込んでいたのだ。
数日後、実家の母親から「古い写真を処分したいから一度見に来て」と連絡があり、実家に帰ることになった。
実家に到着すると、居間のコタツの上には何冊ものアルバムと、艶を帯びた写真用紙が堆積している。
もちろんすべてに私が写っているわけではなく、両親や兄、親戚たちの写真もごちゃ混ぜになって、この量。面倒くさいな、と気後れしたものの、とりあえず母と一緒に写真を選り分けていった。
「ホコリっぽいねえ」
舞い上がる塵の中、窓から射し込む光が、部屋の空気を薄く煙らせている。
母はというと、断捨離よ、断捨離!と高らかに声を上げながら、押し入れの奥から引っ張り出した収納ケースの前に仁王立ちしている。大方、最近見たテレビ番組か何かに感化されたのだろう。母の勢いに押されるようにして、実家の大掃除を手伝った。
「でも、写真だけは懐かしくて、全っ然進まへんの。ほらこれ、小学校の運動会」
輪ゴムで束ねられた幅五センチほどの写真の束を受け取ると、ずしりとした重みが伝わってきた。長年密着していたせいで、光沢紙同士がひっついてしまっているものも少なくない。
それらを丁寧に剥がしながら、お互いの近況や、写真の人物との思い出など、とりとめのない話をぽつぽつと続けていたとき、写真を1枚1枚めくりながら、私は不意に手を止めた。
「あ、これ」
目に止まったのは、幼い私が庭で遊んでいる写真だった。頬に木漏れ日が当たっている。小さな体を包んでいるのは、見覚えのある、水色と白の細いストライプのワンピース。
「ああ、それ、懐かしい。その服、昔よう着てたやつ」
母が私の手元を覗き込みながら言った。
「あんたそれ、気に入ってたなあ。洗濯してもすぐに着たがって」
何の気なしに裏返すと、手書きの日付が目に入った。2008年8月14日。写真を見なければ、二度と思い出すことのなかった記憶だろう。手元に残る写真が、十数年も前の忘れていた時間を連れ戻したような気がした。
母から譲り受けた何十枚かの写真を封筒に入れてバッグにしまい、明日も仕事があるため夕方には実家を後にした。帰りの車を運転しながら、先日割ってしまったグラスに思いを巡らす。たぶん、あのグラスとまったく同じものはもう手に入らない。なんだかそれでもいいと思えた。完全に同じである必要なんて、最初からなかったのかもしれない。
大切なのは、それをどう使っていたか。どんなふうに生活に溶け込ませていたか。
きっとそれは、形ではなく、時間の中に宿るような物。
程なくして、私は新しく薄瑠璃色のグラスを買った。前使っていたものとは全然異なる、大きめのグラスだ。その重さを、少しずつ自分の暮らしに溶かし込んでいきたいと思った。
グラスに氷を入れ、アイスティーを注いだ。光が透けて、氷のかすかな音が鳴る。唇に当てると、厚いグラスの飲み口に、かつんと歯が当たった。新しい、アイスティーの味。まだ少し不慣れな、でも悪くない味だと思えた。