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関西大学文化会文芸部文学パート
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関西大学文化会文芸部文学パート

糸

花の芽

 「また回線が込み合っているのか」 


 男は苛立ちを隠しきれぬまま、オフィスの窓から外を見る。 

 午前八時半。都心のビル群の合間を縫うようにして、無数の糸が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。柱から柱へ、ビルからビルへ、都市全体を覆い尽くしていた。 

 糸は朝の光を受けて七色に輝いている。近くで見れば絹のような質感だが、遠くから眺めると、糸は光の筋となって都市の空に美しい模様を描いていた。 

 ここの住人にとってはもはや日常の風景でしかないが、たまに見かける観光客はこの光景を「虹の空」と呼び、盛んにカメラを向けている。 

 途方もない数の糸のうちの一本だけが、男の手元にまでつながっていた。直径八センチほどの、特殊加工を施された白い紙コップ。底には小さな穴が開いており、そこから一本の細い糸が延びて、窓の外の糸の海へと消えていく。 

「おい」 

 男は隣席の部下に声をかけた。 

「うちの部署の専用線はどうなってる?」 

「……だめですね」 

 部下は困った様子で首を振る。 

「朝の通勤ラッシュで糸が絡まってるみたいです。第三回線も第四回線も全部アウトです」 

 窓の外では、オレンジ色のヘルメットをかぶった「糸職人」たちが高所作業車に揺られながら、特製の長い棒で絡まった糸を丁寧にほどいている。時折響くハサミの音が、古い糸との別れを告げていた。 

 これも日常茶飯事だ。毎朝七時から九時の間は、前日の風や雨の影響で絡まった糸の修復作業が行われる。都市のシステムを正常に保つため、二十四時間体制で作業は続けられていた。 

「緊急時用の直通線は?」 

「それも使用中です。第三工場で大きな事故があったらしくて、本社との連絡で塞がっています」部下は申し訳なさそうに付け加えた。 

 男は机の上の企画書を見つめる。三十分後に始まる重要な会議。昇進のかかったプレゼンテーション。それなのに相手先との連絡は途絶えたまま。男は静かに頭を抱え込んだ。 

「部長、コーヒーでもいかがですか?」  

 部署で一番の新人が気を利かせて声をかけてきた。糸の扱いにはまだ慣れていないが、熱心さは人一倍だ。 

「ありがとう。ただ、今は忙しいからコーヒーはもう少し後でいただくとするよ」 

「そういえば」部下がふと思い出したように言った。 

「新しいサービスが始まったって聞きましたよ」 

「何だって?」 

「光糸話です。従来の糸より十倍クリアに音が伝わるとか」 

「十倍?」 

 男は眉をひそめた。 

「本当ですよ。ほら、新しい物理特性が見つかったってメディアが騒いでたじゃないですか。ついに実用化されたんですよ。ただ、料金も十倍ですが」 

 部下は机の引き出しから、光糸話のパンフレットを取り出した。表紙には金色に光る糸の写真が載っている。「光糸テクノロジー - 未来のコミュニケーション」という文字が踊っていた。 

 男はしばし考え込む。 

 確かに魅力的だが、会社の通信費はすでに予算をこれでもかと圧迫している。月末の経理報告を見るたびに頭が痛くなった。糸の維持費、交換費、もつれ解除費、切断修理費...... 

「部長!」 

 新人の叫び声が響いた。 

「つながりました! 第二回線がつながりました!」 

 男は椅子からすぐさま立ち上がる。急いでコップを手に取って耳に当てる。 

「もしもし」 

 かすかに相手の声が聞こえた。 

「こちら大阪支社の……です……聞こえますか……」 

 だが、すぐに音質が悪くなった。 

「もしも……さん……」 

「え? 聞こえません」 

 窓の外に目をやると、強い風で糸が激しく揺れているのが見えた。 

 糸は天候に弱い。雨の日は水滴の重みで糸が垂れ下がり音質が悪化する。雪の日はさらに最悪で、糸に積もった雪の重みで糸が切れることもある。 

「もう一度お願いします!」 

 コップの底から、かすかに相手の声が響いてくる。深い井戸の底から聞こえてくるような遠く不鮮明な声だった。 

 男は必死に耳を澄ませた。部署全体が心配そうに見守っている。 

 だが、もう相手の声は聞こえなかった。糸が完全に切れてしまったのか、それとも、風の影響で音が伝わらなくなったのか。 

 男はコップを振ってみたが、何の反応もない。 

 結局、時計の針が昼を過ぎても、糸はつながらず、その日の午後の会議は延期となった。男はクライアントに平謝りし、来週の同じ時間に再設定することになった。 

 *

 

 午後六時、男は疲れ果てて家路についた。住宅街の上空にも、細かい糸が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。各家庭をつなぐ生命線だ。 

 幹線道路の上に張られた太い幹線糸から、細い支線糸が枝分かれし、最終的には各家庭の軒先まで届いている。まるで巨大な神経系統のように、都市全体に張り巡らされたネットワークだった。 

 さらに進むと、糸の密度はいっそう高くなった。一軒一軒に糸が届くため、空中は文字通り糸だらけになる。 

 夕日に照らされた無数の糸が住宅の屋根に複雑な影を落とし、微かな風が糸を揺らして葉擦れに似た音を奏でている。空気には糸の材料である絹の匂いが漂っていた。 

 網目状のおおきな影が住宅街全体を覆い、男は巨大な鳥かごの中にいるような錯覚を覚えた。 

  しばらく歩くと、角の向こうから小学生の声が聞こえてきた。 

「あー、また引っかかった」 

 見ると、ランドセルを背負った男の子が、低く垂れ下がった糸に帽子を引っ掛けて困っている。母親らしき女性が駆け寄って、糸を傷つけないよう慎重に帽子を外していた。 

「だから気をつけなさいって言ったでしょ」 

「ごめんなさい」 

 子供の頃、よく服に糸を引っ掛けて母親に叱られた記憶がふと蘇る。男は思わず顔を引きつった。あの頃は糸の数も今ほど多くなかったが、技術の進歩と共に糸の数は増え続けている。 

 男は空を見上げた。子供の頃に見た青い空は、今はもうどこにもない。 

 *

 少し先では、宅配業者の男性が荷物を運んでいた。 

 住宅街の糸は、幹線道路の太い糸とは違って、洗濯物を干すロープほどの細さしかない。それでも数が多いため、慣れない人はよく引っ掛かる。郵便配達員や宅配業者は、専用の「糸よけ帽」を被って作業するのが義務付けられているほどだ。 

 目の前の配達員も糸よけ帽を被り、慎重に歩いている。荷物が糸に引っかからないよう時々立ち止まって周囲を確認していた。 

「大変ですね」と男は声をかけた。 

「ええ、まあ」配達員は苦笑いした。 

「雨の日は特に大変です。糸が垂れ下がって、もう障害物だらけになりますから」 

  またしばらく歩くと、隣人が庭先で何かをしているのを男は見つけた。 

「こんばんは。何をされてるんですか?」 

「いやあ、うちの糸がまた絡まってしまって」 

 男は糸を見つめる。糸話線が、風で隣家の洗濯物干しと見事に絡み合っている。 

「これ、どう解けばいいんでしょうね」 

 男も首をかしげた。糸が通信中かもしれず、動かせば連絡が途絶える恐れがあった。かといって、洗濯物も取り込めない状態だ。 

「管理センターに連絡してみましょうか」 

「そうですね。でも、今の時間だと明日の対応になりそうで……」 

 しばしの沈黙の後、向かいの家の窓から声がした。 

「あら、また絡まったの? うちも先週同じことがあったのよ」 

 見ると、近所の奥さんが窓から顔を出していた。 

「息子が長い棒で、そーっと外してくれたの。でも途中で糸が『プチン』って」 

「あらま、それは大変」お隣さんは心配そうに言った。 

「結局、業者さんに修理してもらったけど、三日間糸話が使えなくて大変だったわ。息子の学校からの連絡も受けられないし、買い物の注文もできないし」 

 糸は単なる通信手段ではない。学校への連絡、病院の予約、買い物の注文、銀行の取引まで、あらゆることが糸に依存している。糸が切れるということは、社会から完全に切り離されることを意味していた。 

 男は再び空を見上げた。空中に張り巡らされた無数の糸が、住宅の屋根の上に複雑な影を落としている。夕日が糸を照らし、街全体が金色の網に包まれているように見えた。美しい光景だが、息が詰まる。 

 男は井戸端会議に別れを告げ、帰宅を急いだ。 

 

 

 玄関のドアを開けると、男の妻が待っていた。 

「お疲れ。今日遅かったやん」 

「ああ、糸の調子が悪くて……」 

 男はネクタイを緩め、ソファーに腰をおろす。 

「そういえば、お母さんから連絡あったで」 

「母さんから?」 

「隣の県まで糸が届くようになってんて。すごい時代になったなあ」 

 男の妻は嬉しそうに説明した。以前は県境を越える通話は困難だったが、技術の進歩により長距離通話が可能になった。勿論、距離が長くなるほど音質は悪化し、料金も高額になる。 

「何て言ってた?」 

「来月こっちに遊びにくんねんて。新しい糸話のおかげで連絡が取りやすくなったから、今度は安心して出かけられるみたいやわ」 

 男は窓の外を見た。リビングの窓からも、無数の糸が見えている。自宅の糸話線は、屋根の上を通って柱に接続され、そこから市内の交換局へと続いている。 

 世界中が糸でつながっている。便利になったものだなと呟き、スーツを脱ぐ。 

 ─こんなに糸が多いと、鳥たちはどこを飛んでいるのだろうか。 

 ふとそう思った。  

 *

 「プチン」と頭上で小さな音がした。 

 また、どこかで糸が切れたのだ。 

 男の妻が心配そうに振り返った。 

「また切れたん?」 

「みたいだね」 

 男は窓の外に広がる空を見ながら答えた。夜の帳が降り始め、糸の影はさらに複雑になっている。街灯の光が糸を照らし、まるで巨大な楽器の弦のように見えた。 

「でも、便利やな」 

 男の妻は言った。 

「お母さんとも話せるし、お買い物も糸話一本で済むし」 

「そうだね......」 

 しかし、男は曖昧に答えた。 

 その夜、男は寝室のベッドに横になりながら、窓の外の糸を眺めていた。月明かりに照らされた糸が、銀色に光っている。風が吹くと、無数の糸が夜の闇の中でささやかに歌いだす。 

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