明るい日差しが目を刺し、軽やかな風が前髪を飛ばす。暑くはなく、銀杏の臭みさえ心地良い。奥行きのある爽快感に視界がぐっと開けて、どこからともなく、秋が好きだという思いが高揚とともに湧き上がってきた。
嬉しくなった。と同時に、もどかしくもなった。
今なら答えられるのに。昨日に戻ってあの会話をやり直せたら、なんて、できもしないことを考えてしまう。
それは本当に何気ない日常会話の一幕だった。週に何度か話すくらいの友人たちと、移動教室の暇をつぶすために話しながら歩いていたときのこと。
「今年の夏長くね?」
「それなあ。もう九月も終わるのに、ずっとあっつい」
「夏嫌いだわあ。暑いだけだし。はやく秋になんないかな」
二人の会話を観客気分で聞きながら宙を眺めていると、こちらに声が飛んできた。
「みんなはどの季節が好き? 鈴木も教えてよ」
「えっ」
別に難しい質問じゃない。決めていた答えがなくても、四択の中からテキトウに選べばよかった。
でも、答えられなかった。
「いや、うーん……」
「……まあいいや、佐藤は? やっぱお前は夏か?」
覚えているのはここまで。一通り思い出して、顔を上げた。
もうすぐ十字路に差し掛かる。今歩いている右側の歩道に沿ってその十字路を超えると、右手にドラッグストアが現れる。目の前の車道を走る大型トラックがこっちへ曲がってくる。と同時に、ドラッグストアが見えた。十字路の横断歩道の信号の向こう側には人が溜まっている。あの辺から少しの間、酸素濃度が下がりそう。少し身構える。学校まではもうしばらくかかる。少し先の地面に目線を戻した。
そう、いつもあんな調子で、会話に乗り損ねている。どうしても、自分の意見だとか、思うことだとかを求められると何も言えなくなってしまう。何も話さない僕に気を使って質問を振ってくれる友達の厚意には感謝している。でも、そういう時に苦し紛れに発した言葉をそのまま受け取られてしまうのは嘘をつくのに似ている気がして後ろめたいから、なるべく嘘にならない言葉を心の中に探していると、結局何も言えなくなってしまう。厚意を無碍にしてしまうことが申し訳なくて、それでも何も言えない自分がもどかしい。
信号が青になった。少し多めに息を吸って、下を向く。
言葉にしたら間違うのに、言葉にしないと心までないのと同じになってしまう。心を言葉にできないのは自分だけなのか。こんなに苦心しているのに、その方法が存在しないとするならば僕はいったい何に苦しんでいるのか。なぜこんなことに苦しんでいるのか。好きな季節にだって言葉にできないものが詰まっていることを、こんなに言いたいのに誰にも伝えられない。伝えられないから、この苦しみは誰にもわからない。会話を経るたびに時間を食い荒らす害虫は膨れ上がってゆく。薄くなってゆく皮膚にいつ穴が開いてしぼんでしまうかしれない。
もし、言葉など考えなくても気持ちを伝えられたら……。
せめて、時間を気にせずに心ゆくまで言葉を探せる場所があったら。そんな場所があったとしても、心を言葉にすることはかなわないだろうが、やれるだけやれたら、満足して諦められるかもしれないのに。
胸が苦しくなって、顔を上げた。大きく息を吸った。落ちる銀杏の葉が目に入った。
いつの間にかあの信号から離れて、学校の近くまで来ている。
会話を恐れる高校生活というものは、まるで縦にした一枚のコピー用紙の上で落ちないようにバランスをとっているかのようで、長くないはずの残り二年も、ほとんど無限のように感じられた。背筋はずっと伸びたまま、校舎を徘徊する日々だった。
その校舎に辿り着いた。
土曜授業があることが改めていやになってきた。戦場に入るときのような心持で教室のドアをそっと開ける。
通路側最前列の席に座って、読み止しの本を机に広げた。電車で読んだページの読み直しも終わらないうちに、担任の田中先生がガラッと音を立てながら教室に入ってきた。
朝礼開始のベルが鳴り終わらないうちに先生は話し始めた。
「みなさん、おはようございます。今日は涼しいですね。今日は、休みは……」
出席をとる間、先生と一度だけ目が合った。先生の目には一瞬だけ、心配が映った気がした。
「さて、いよいよ二週間後には修学旅行です。なので今日のLHRでは、旅行の行動班と自由時間の行動ルートを決めてもらいます」
事務連絡はそれで終わったらしい。そのあとは丁寧語モードを切って親バカ話を始めたかと思えば、急にまじめな表情になって「いよいよ文理選択の時期だから、そろそろ真剣に考えるように」みたいなことを言い始めた。ここ最近の朝礼は似たり寄ったりでつまらない。聞き流しているうちにベルが鳴った。
次の授業は教材のいらないLHRだから、席を立たずにすぐ本を広げなおした。
主人公のある男がまったくへんてこな町に迷い込んで、しばらくそこを歩いた。男にはそこがどこだか見当もつかない。しかし、およそ現実の景色とは信じられないその場所に男は既視感を抱いていた。
十分間の休み時間が終わると、再び田中先生がガラッと入ってきた。そして例のごとく始業ベルの鳴り終わらないうちに
「じゃ、LHRを始めます 」と言い放った。
これからすることの概要は朝礼で聞いた通り、修学旅行の行動班と行動ルートを決めるらしい。方法はくじ引きだと気が楽なんだけどな、などと思っていると、耳を疑う一言が飛び込んできた。
「ただし、男子の班はもう決まっているので、この時間はルート決めに使って、それが終わったら各自自習を始めてください」
え? なんで? 決まっているって、どんな風に?
困惑すると同時に、いやな予感がした。感情が顔に出やすい田中先生の心配そうな目が脳裏に浮かんだ。まだ気持ちの整理がつかないまま、先生と目が合った。
「男子は今回参加者が少なかったので、ひと班しか組めなかった。佐藤と、高橋と、伊藤と、渡辺と、それから、鈴木ね。地図はこれから渡すから、行きたいところを決めて、計画的にルート組んでね」
教え諭すようにゆっくりしゃべる先生の顔の近くをコバエが飛んでいた。聞き終わった後、顔を全体へ戻した先生の言葉は頭に入らず、コバエはいつのまにか溶けて見えなくなっていた。
同じ班になった自分以外の四人は、クラスのにぎやかし役を担う、いわゆる陽キャグループだった。つまり、自分とはまったく無縁の存在。
旅行当日の気まずさへの憂鬱、そして申し訳なさとがないまぜになって、楽しめるはずだった修学旅行が途端に濃い土埃のようになって肺に重い異物感を宿した。
「ほい、地図。鈴木はどこ行きたい?」
ほとんど絶望のような顔をしている僕に軽いテンションで話しかけたのは、同じ班になった陽キャグループの一人、佐藤くんだった。
「佐藤くん。ありがとう」
どこに行きたいかという質問はどうやら、後で聞くから考えておいてという意図らしく、佐藤くんはすぐに他の三人の方に向き直ってわいわいと話し始めた。
仕方ない。ここは、みんなが楽しめそうな場所を探そう。そう思って地図に目を落としていても、書いてある文字が、絵の位置関係が、全然頭に入ってこない。
しばらくしてから佐藤くんがまた振り返った。
「どう? 行きたいとこある?」
答えられない。
本当は、なんとなく目星をつけている場所があった。でも、もしそこが、他の人にとってはあまり興味の湧かないところだったら……。そうなってもやはり行きたいと言えるほど、そこに行きたいわけでもない。それに、そこに行ったところで、本当に楽しめるかはわからない。そう考えると、自分のなんとなく感じているだけの行きたいという気持ちは、「行きたい」という言葉に釣り合わないもののような気がして、喉の根っこの方に詰まってしまった。
そんな様子を見て、佐藤くんは
「じゃあさ、こことかどうよ」
と地図を指さしながら言った。黙ってしまったことに対しては何も思っていないようだった。指の差す方を見ると、そこはお土産に人気なお菓子屋だった。
「じゃあ、ここも行かない?」
目を付けていたお寺がたまたま近くにあったので、笑顔をつくってゆっくり地図を指さした。「なんで?」と聞かれることを恐れながら。
彼は何も言わず、屈託のない笑みで頷いた。
*
修学旅行の当日、班のメンバーより少し早く集合場所に到着して、バスで小説の続きを読んでいた。現実と地続きのものとして描かれる幻想的な世界は、心のどこかでこの修学旅行と重なる。
窓の外に目を移すと、ちょうど班のみんなが歩いているのが見えた。
「遅刻だぞ。はやく席に着けー」
先生の声に急かされた佐藤くんたちがやって来る。
「お待たせ」
「待たせてごめーん!」
矢継ぎ早に謝って、四人は順にぼふっと座った。
バス移動は一時間ほどで、その後は飛行機に乗り換え、さらにバスに一時間揺られた。
計四時間ほどの長い移動時間のために用意していた本は開かずに済んだ。
今まで自分とは相いれないと思ってきた彼らとの会話は存外楽しく、何よりやりやすかった。というのも、彼らは話を割り振るのがうまかった。僕があまり率先して話題を振るタイプではないこと、一言を発するまでにしばらく時間がかかることを早々に見抜き、ここぞというタイミングで僕に発言する間を空けていた。ように、思えた。
彼らの会話にはどうやら、「おもしろいこと」が大事な価値観としてあるようだった。その会話では、言葉が本心であることにさして価値はなかった。出せたものがどれだけ笑えるものか、それだけ。深く考えなくてもみんなと同じことができる! もっとも、僕のはあんまりウケなかったけれど。
それでも、
「お前、意外とゲラだよな」
と、言われたくらいには笑えていた。僕は自分でも信じられないほど大きな笑い声をあげた。旅先だからだろうか。それもここでは、恥ずかしいことではなかった。
*
一日目の散策が無事に終わって、宿泊するホテルでの夕飯も済ませた後、それぞれの部屋に向かった。僕の部屋は佐藤くんと同じだった。就寝までの自由時間、佐藤くんは友達の部屋に行き、僕は一人になったので、ベッドの上で小説の続きを読むことにした。
主人公の男はいよいよ幻想世界を抜け出し、現実に帰ってきた。見慣れた町を歩く男にはもはや、どちらが現実なのかがわからなくなっていた。
本文を読み終わって解説に入った時、部屋の扉が開いた。
「ただいまー。わっ」
「えっなに」
「びっくりした。何してんのお前」
「本読んでる」
「えらっ」
「別にえらくないよ。趣味だし」
「だから語彙力あるんだな」
「あまり使わないけどね」
「まあお前、基本一人だもんな」
遠慮なく言い放つ彼に苦笑いしながらも、悪い気はしなかった。
普通なら悪口に聞こえる言葉でも、それを発する彼は単なる事実を指差しただけで、それを良くも悪くも思っていないように受け取れた。
それからしばらく話した。一対一になると、みんなでいたときよりも、会話における自分の責任が大きくなる。すると、まるで魔法が解けたみたいに言葉を考える時間がのしかかった。なんてことはない。今日の感想を、何がどう楽しかったかを、写真を撮ってくれたお寺の売店のおばさんの懐かしむような眼に思ったことを、なんでもいいから、言え。
……言えない。どれもすぐに言葉にならない。どれが一番早く言葉になるかもわからない。
なにも浮かばないまま前を向く。こちらを見る佐藤くんの目は真っすぐだった。
だから、もう一度下を向いた。次に顔を上げた時、彼はまだこちらを向いていた。
僕はゆっくりと口を開き、今日の楽しかったことを思いつくままに解きほぐした。彼はそれを、頷きながら楽しそうに聞いていた。
就寝時間はすぐに来た。巡回の先生が来る前に、二人は会話を切り上げた。
「んじゃ、おやすみ」
「おやすみ」
気のせいだろうか。瞼を下ろす間の一瞬、四階にあるはずのこの部屋の窓枠にふわっとした白猫が背を向けて座っているように見えたのは。
*
見慣れない門が視界を縁取る。煉瓦で組まれたそれの先には、主張のない鼠色の町の、中央通りと思しき一本道が見えない奥まで続いている。
ごくりと唾をのんで、門を抜ける。目的地はこの道の先にある。はっきりとは分からないけど、そこにどうしても行きたい。そう思って、歩き出した。
その道は商店街なのか住宅街なのか判然としなかった。ただ形もわからないほど一つの印象に溶け込んでいて、まるで空気まで同じ鼠色をしているかのようだった。
空は青くも赤くもなく、日は出ていないのに暗くもない。それもまた鼠色の空気に混ぜ込まれて何の印象も持たない。
「ひゃ!」
急に背中を叩かれて変な声が出た。
「お前、速い」
左を見ると、少し息の上がった佐藤くんが腰に両手を当てて前を見ている。つられて僕も前を見る。
いつの間にか目的地の近くまで来ていた。
門の外からはどこまでも続いていそうに見えたこの町にも、ちゃんと終わりがあった。
少し先に見える門は表のものよりずいぶん質素で、いかにも裏口という風をしている。僕らはこの門を目指して歩いていた。
互いに目くばせをして同時に一歩踏み出す。そのまま二歩目を出すことなく、目の前に現れたそれに目を奪われ、二人は静止した。
石造りのアーチ型をした小さな門の上には、一匹の猫がちょこんと座っている。
その黒猫は神秘的に青光りする体毛をなびかせ、見るものの目を刺すような鋭い黄色の眼光を備えていた。
まさに猫に睨まれたネズミのように、二人とも、黒猫と目を合わせたまま動けなくなっている。そしてそれはこの町を支配する鼠色のすべてが同じであるようだった。
この町のすべての注意を一身に受けながら黒猫は、そんなことを全く意に介さないかのように毛繕いを始めた。途端にその場に立ち込めた緊張がほどけ、自由を許された僕らはまだ動くことができずに、かの猫の観察を始めた。
猫という生き物は、見た目の情報量の大半を顔が持っている。
横たえた楕円形のふっくりした唇が覆う口は、上下のアンバランスさが全体としてだらしないようで本人はあくまで得意げな、きりっとした顔つきをしている。この、一種のふてぶてしさを感じさせる愛らしい口を眺めていると、その上から刺すような鋭い視線が降りかかってくる。怒られたのかと思って少し身を引くと、横に軽く倒れた耳に感情が表れている。猫の心は目にもあるが、なにより耳に表れる。その猫が何に注意しているか、または何にも注意していないかは、すべて耳から読み取ることができる。
どれくらいの時間が経ったのか。あたりが少し暗くなって来て、目の前の黒猫の黄色い目がおもむろに二人の後方の何かを捉えた。
恐る恐る振り向くと、さっきまで歩いていた街路にずらっと並ぶ無数の窓のすべてに、黄色い光が浮かんでいた。圧倒的な存在の差に僕らの体は固まった。
その時、これは夢かもしれないと思った。すると目の前の景色は揺らいで、黄色は灰に溶け込み、ついに何も見えなくなった。
そういえば。まどろみの中で、いつか見た猫の映像がぼんやりと再生された。
ベッドに横たわってぐっすり眠る一匹の白猫が、不意に、走るように足を動かし始める、三十秒くらいの映像。目をつむったまま空を駆けるその姿には、眠っているにしてはあまりに自由な、人間界の寝相という言葉には収まらない奔放さがある。
人間は夢を見ているとき、体が勝手に脱力して動くのを防ぐらしい。つまり、人間は夢を見ても問題がないように設計されている。それは果たして、自由に夢を見ていると言えるのか。人間の見る夢は、ただ記憶整理のために合理的な視点から設置された装置にすぎないのではないか。
それならば。本当の自由は、猫の夢にこそある。
と、言葉を考えてみたところで、やっぱり少し大げさに思えてきた。大げさに思えたところまで含めて、夢の続きであるように思えた。いや、本当にあの夢の続きだったか。もう分からない。この時間の言葉は夢への溶解度が高いのだ。
ゆっくり、目に入る天井に見慣れなさが追いついてくる。
そうだ。今日は修学旅行で、時間は……。
時計を探そうと上体を起こした。
なんかこっち向いてる。
「よう」
「んふっ……おはよう」
「人の顔見て笑うなよ。もしかして寝ぐせついてる?」
「いや、こっち向いてたから……」
「はあ?」
極まりが悪そうにスマホに手を伸ばす彼の方に上体を向ける。
「ねえ」
「ん?」
目線を画面に放り込んだままわざとぶっきらぼうに返事をする彼に、今日見た夢のことを話そうとした
「今日さ……」
「おう」
続く言葉がなかった。話したいことはもう見つかっている。夢の詳細は忘れかけているとはいえ、彼とあの猫を見たことは本当に体験したことかのように鮮明に覚えているのに、どうしても、あの黒猫を説明できる気がしなかった。
「どうした?」
「あ、いや、今日、集合時間早かったはずだけど、今何時かなって」
「え、まじ。何時だっけ」
「八時半に食堂」
「げ」
「もしかしてまずい?」
「いま、七時半」
「まだ時間あるじゃん。どうしたの?」
「俺、朝の支度に一時間はかかんのよ。なんでこんなに寝ちゃったかなあ」
そう言いながらベッドから飛び起き、バタバタしはじめた彼を見ながら、もう一度あの猫のことを考えてみた。
あれは黒猫だった。夢の中での出来事はほとんどすべて、少なくとも大きな矛盾がないくらいのまとまりとして、映像になって記憶されている。こんな風に、長い夢を覚えたまま起きることはたまにある。今でも、過去に見たいくつかの夢のことは話すことができるし、今回も感覚的にはそれらに似ている。ただ、今すぐ言葉にすることはできそうになかった。話せるようになるにはそれなりに時間がかかりそうな気がする。
それでもきっと、今部屋付きの浴室に駆け込んでいった彼は、僕が話せるようになるまで待ってくれるだろうし、どんなにゆっくり話したとしても聞いてくれる。そう思えるからこそ、この記憶を、あの街で僕らが見た猫の姿を大事にしようと思える。
窓の外の青白く光るビル街に目を移すと、急速に頭が冴えてきた。
そろそろ僕も用意をしなくては。薄いくせに重たい布団を引きはがして、何とか立ち上がった。
*
ずっと、これでいいのか、と心のどこかで思っていた。友達との会話内容に不満はなかった。それは常に「おもしろい」もので、自分もみんなもそう思えるものを追い求めてきた。その姿勢に文句はなかった。でも、確実にそこにあった違和感は、いつしか不満に似た形に変わりつつあって、それをどこかで恐れていた。
「おもしろい」ためには「わかりやすい」ことが必須だ。そして、「わかりやすい」ためには、嘘が必要になることがある。だいたい本心よりも嘘の方がおもしろい。この嘘というのも、あからさまな誇張のような嘘ならまだよかった。しかし、自分にしかわからない嘘は、着実に心を蝕んだ。
正直に言って、この修学旅行はあまり楽しめないだろうと思っていた。いつものメンバーに加えて、四月以来一度も話す機会がなかった鈴木が加わることになったからだ。彼のことはよく知らなかったけれど、あまり率先して話すタイプでないのは知っていた。そんな彼を、自分たちの「おもしろい」を重視する会話に付き合わせるのは申し訳なかった。「おもしろい」にとって「ゆっくり」は致命的だからだ。彼はきっと苦手であるに違いないと思った。
そして実際、苦手なようだった。彼は、時間をかけてわかりにくい冗談を言った。
でも……。
目の前の机に広げられた「修学旅行のしおり」の最後の見開きページの左上に太く書かれた「感想」の文字を見つめながら思った。
この修学旅行は、何より、彼との会話は、楽しかった。
言葉を考えるのに時間がかかり、考え出したはずの言葉もゆっくり口から出す彼には、自分たちのおもしろさとは違った魅力があった。それは、自分の違和感に答えを出すようなものだった。彼は、本心を言おうとしていた。
彼と二人で話しているとき、ゆっくり進む会話は新鮮で、心地よかった。
中でも、二日目の夜の就寝前の会話がなんとなく印象に残っていた。
「それ、どんな本? 小説?」
「小説。興味あるなら貸すよ」
「いや、読むのはいいや。あらすじ聞かせてよ」
「そうだなあ……」
それから彼は、数分の間一言も口にしなかった。それが俺を無視しているのではないことはもうわかるようになっていた。
「この話はね」
「おう」
「ある男が、歩き慣れた町で迷子になる物語」
「なんだそりゃ」
「そう、ふつうは慣れた町で迷子になることは考えにくい。でも、その場所が、いつもと全く違う風に見えたら、どうだろう」
「全く違うって、どんな風に?」
「ごくつまらない民家の塀が、七色の光と宝石に彩られた豪華絢爛な城壁に。コンクリートの道が、ショートケーキのクリームが塗られたスポンジに。ありきたりな西洋民家が、縁側つきの立派な和風建築に」
「それはまた、めちゃくちゃだな」
「そう、めちゃくちゃ。そんなめちゃくちゃな町を歩いた男は最終的に、現実のよく知る町に戻ることになる」
「それで終わり? ハッピーエンドじゃん」
「それが、そうじゃないんだ。男は現実世界に戻った後、今まで歩いていた世界と、今目の前に広がる世界のどちらが現実のものなのかがわからなくなってしまう」
「そんなにめちゃくちゃな世界と現実を混同することってあるか?」
「その男はそうなった」
「え? それで終わり? 理由は?」
「うん。これで終わり。理由は明かされてない」
「それ、面白い?」
「面白いよ。っていうのも、この物語には解釈があるんだ。例えば、この解説によると……」
ここまでの会話に、すでに十分はかかっていたと思う。それでも、長いとは思わなかった。小説の内容に興味が湧くからか、一言聞くたびに、次の一言が待ち遠しくなった。
鈴木は、一呼吸おいて続きを口にした。
「ここに描かれるのは、現実と地続きの空想世界だ。それは、一見現実から遠く離れた世界であるようで、実はそうじゃない。本当は、その世界も現実の一側面として描かれている。……らしい」
「……どういうこと?」
「うん。不思議だよね。本当にこんな風に、いきなり何もかもめちゃくちゃな世界にひっくり返るなんてことは、まずない。それに、それが現実世界の一面だなんて。まるで突拍子もないことのように聞こえる。でも、自分がそうだと信じて疑わない物事が、何かの拍子に全く違って見えることなら、ある」
鈴木は、咀嚼するように言い切ってから、続けた。
「この小説で描かれる空想世界は、そんな出来事の大げさな比喩だとも考えられる」
「そして、そんな男を変になったやつとしてしか見ない読者が、逆に滑稽な見世物にされるってこと?」
「そこまで意地悪くはないだろうけど、少なくとも、その価値観は絶対のものじゃないぞって警鐘する意図はあるだろうね」
「へえ、奥が深いんだな」
「あくまで、この解説の解釈に従うと、って話だけどね」
「なるほど」
その会話は、それで終わった。ひと通り話を聞いてしまったから、借りようとは思わなかった。何より、俺は本を読んでいるとすぐに眠くなってしまう。
あの小説の話をまるごと覚えているのは、その中身に興味があったからだ。解説の話はいまいちピンとこなかったけれど、急に変な世界に迷い込むことには心当たりがあった。
一日目の夜に見た夢が忘れられなかった。というより、忘れたくなかった。二日目のどこかで鈴木にその話をしようと思っていたのに、どうにも言葉にならなかったのが心残りだった。
机の横の山の一番上からスケッチブックを拾い上げ、白紙のページを開く。机に置いた鉛筆を人差し指と親指で挟む形で持ち上げたまま、正面の窓にかざした。
あの夢に出てきた黒猫がここに座っているとするなら……。
形をとるまでにしばらくかかった。それから手は止まらなかった。
*
あの修学旅行から一ヶ月が経った。佐藤くんとはあれ以来、機会があれば話すようになっていた。
安心して話せる場があるだけで、教室のドアの重さは違った。
気が楽になるだけで、普通の会話にも徐々に参加できるようになった。
そんな毎日。もはや二年を長いとは思わなくなっていた。
「今日の授業はこれで終わりです。お疲れさまでした」
田中先生の号令は相変わらずチャイムと被っている。
昼休み。いつもなら一人で過ごす時間。今日は、佐藤くんは……。
こっち向いてる。
手を振ると、こっち来い、というジェスチャーが返ってきた。
ちょうどいい。彼には話したいことがあったから。
机を立って窓側後方の彼の席へ向かう。彼の前の空いた席に腰を下ろすと同時に、口を開いた。
「あのさ」
「ちょっと」
同時だった。
「ふっ」
「っはは」
笑いながら僕らは、互いに開いた手のひらを向け合っていた。
「じゃ、お先に」
そう言った佐藤くんは机の中に手を伸ばし、オレンジと黒の大きなノートのようなものを取り出した。表紙を覗き込みながらそこに書かれた文字を読む。
「Sketch Book?」
「なんでネイティブ風なんだよ」
「んふっ」
「これ、見てほしくて」
開かれたページに描かれていたのは、まさにあの、夢で見た黒猫だった。すごく写実的、というわけではないけれど、雰囲気がそのままだったので一目でわかった。
「うまい」
「ありがと」
「というか、今話そうと思ってたんだけど」
「おう」
「この猫ってさ……」
途切れた。でも、言おうと決めていた。
「もしかして、修学旅行の……?」
「えっ」
佐藤くんは目を丸くしている。
「あっいや、違ったらごめん」
「いや、そうだけど……。もしかして一日目の夢……」
「そう!」
佐藤くんは吹きだした。
「そんなことってあるかよ」
「事実は小説より奇なりってやつだね」
笑い合いながら、心の隅が踊っていた。
僕らはそこに猫を見た。
世界がゆっくり進んで見えた。