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関西大学文化会文芸部文学パート
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関西大学文化会文芸部文学パート

鍵

淀川智哉

【決心の一日目】

 今、私は闇の中にいる気がします。でも、何か迷いがあるわけではなく、闇から抜け出す道標を探しているわけでもないのです。どうにも心に掬えない、得体の知れない複雑に絡んだ思いのひと欠片だけでも触れたい。その思いだけがしっかりと胸に感じられて、机に向かい、ペンを握ったのです。

 誰に対して書くのでもない手紙を書き始めたのです。

 何者かが光を隠す長い暗黒の時間は、私にとっては辛い時間です。私が闇の中を彷徨っているから、そう思えてならないのかもしれません。

 小さな窓から、薄く黄色がかった朝日が私の方に差し込むようになりつつあります。もうすぐ消灯が解除され、意味もなく続く取り調べが始まります。私にとっては安息できる時など無いのです。


【偽りの二日目】

 緊張しているせいか、あまり寝ていないのに眠くありません。取調官の冷たい眼差しを身体が覚えているようです。全ては私の供述次第であるのに、いつ出られるのか、全く見当がつきません。たとえ、私が事実を言ったとしても、それは事実にはなりません。単なる虚構に過ぎなくなるのです。この誰にも理解されない事実は、私に取り憑いて離れようとしません。私を苦しめています。せめてここに事実を吐き出して、私の複雑な心情の一端にでも触れたいと強く願うのです。

 しかし、ふと思い立って書き始めたばかりであるし、読み手のいない手紙を書くことは今いる闇の中を彷徨うことと同じで辛いことです。ですので、早々に書くのをやめてしまうかもしれません。


*


 昨日ならそろそろペンを置く頃ですが、今はまだ日が沈んだままです。小さな窓は私に何の光も与えてくれていません。朝日が一筋となって私の足元を照らしてくれる、その時だけ、私は目を細めながら束の間温かい気持ちになれるのです。

 それを思い出すと、少し待ち遠しくなります。足元はまだ暗いままです。つま先が指し示す先には、何度も書いては捨てた手紙の切りくずが散らばっています。本当は、昨日書き上げた手紙さえも破り捨てたい。そんな思いが胸の奥底から浮かび上がっては、静かに消えていきます。


【迷いと三日目】

 私は気づいたのです。私は事実から逃げているのです。

 たとえ言ったとしても、事実は誰にも理解されない。すぐに書くのをやめてしまうかもしれない。そうやって、事実から逃げる口実を作っていたようです。事実を吐き出したいと言っているのに嘘をつき続けています。

 鼓動に逆らうように強張る体から放たれる熱は、いつ冷めてしまうか分かりません。煙が見え始めたロウソクが、一瞬にして何事もなかったかのように冷たくなってしまうかもしれません。そんな情景が脳裏に浮かんでは消えていきます。

 もし、これからも自分に嘘をつき続けていくのだとしたら、私は使い物にならないロウソクのようになってしまうかもしれません。闇の中で彷徨うことはまだしも、得体の知れない思いの一端にさえ触れられなくなってしまうのです。せっかく生まれかけた火が自分の身体の一部を照らすかもしれないのに、私が煙に向かって息を吹きかけるせいで、ロウソクは冷たくなってしまうのです。

 今まで私が手紙の中で告白してきたこととふと脳裏に浮かんだことが重なりました。

 逃げている場合ではありません。私が醜い私となったきっかけについて嘘偽りなく、ここに吐き出さなければなりません。

 今日、私は取り調べを受けながら、明日からの手紙の続きについて思いを巡らせていました。

 そして、覚悟を決めたのです。嘘偽りなく事実のみを書くこと。途中で決して投げ出さないこと。この手紙が完成したら、私は事実を覆い隠し、虚構を取調室の中でまくし立てること。そして、取調官を納得させ、面倒に思っているに違いない仕事を早く終わらせてあげること。最後に、私は極刑を受け入れること。

 そうすることに決めたのです。

【追憶の日と四日目】

 あれから一日が経ちました。私の決意は揺るぎません。


*


 全ての始まりは、奇妙な「鍵」との出会いでした。誰が忘れていったのか分からないのですが、それは私の行きつけだったカフェのテーブルにありました。それは異様に重く、多少錆びていました。しかし、おそらく多くの人の手に握られてきた分、手に自然とおさまる感覚を覚えました。 それに加えて、家族と再会する喜び、それに加えて 朝早く仕事に行く姿といった情景が頭に浮かんできたのです。

 前の客の忘れ物だろうと思った私は、こちらにやってくる店員に手渡そうと思い「鍵」を手に持ちました。しかし、店員は私の親切心とは裏腹に、異様な物を見るような目つきで私と「鍵」をジロジロと見ながら

「大丈夫ですか? 店長を呼んできます」と言いました。

 店員が何を言いたかったのかよく分かりません。実は今も答えを探しています。

 それから少しして、奥の厨房から店長らしき人が出てきました。彼の目線は私が手に持つ「鍵」に向けられていました。そして、店員と同じく異物を見るかのような目つきをして、突然私にこう言ったのです。

「その鍵を渡すか、店から出ていきなさい」

 今もその目つきは忘れられません。私は入口に並ぶ大勢の人の列を見て、こんな馬鹿げたことがあるのかと思いました。

 私は夢を見ているようでした。不満が一瞬にして心を満たし、恐らく突発的に発狂してしまっていました。

 そして気がつくと、自分でもどこへ向かうつもりなのか分からずに、全速力で走っていました。その時の感情をどうにかして言葉に表したいと思うのですが、心にすっと溶け込む表現が見つからないのです。

 この時の私は本当にどうかしていました。もう少し冷静になるべきでした。

 でも、それ以上に店員と店長の言動が理解しがたいのです。行きつけだったカフェで、二人とはたまに話す間柄だったのに、私は何の前触れもきっかけもなく、突然崖から突き放されたのです。その異様な言動を目の前にして、私はもしかしたら、彼らがどのような心情を抱いているのか推し測ろうとして、発狂するに至ったのかもしれません。同類になろうとしたのかもしれません。

 話が逸れましたが、結局私が言いたいことは、そのような奇妙なきっかけを経て「鍵」と巡りあったということなのです。この奇妙な出会いは、私の未来を変えていきました。


【錯乱と五日目】

 家に着いたのは日が沈む頃でした。私はどこか遠いところまで走り、普段通らない小道や脇道を通っていました。その先にあったのは小さな浜辺でした。私はそこで随分と長く時間を潰していたようです。

 日が傾いてはいたものの、水面は茜色にはまだほど遠く、潮の匂いが茜色の光を遠ざけているようでした。私は流れ着いた小さな木の欠片に座って地平線を眺めました。

 いつも電車に揺られながら見る景色は、同じような外観の家ばかり。同じ道を歩き、同じような仕事をこなす日々ばかりです。

 そんなことを思い出すと、無性に我が家が恋しくなりました。家に帰ると、笑顔を見せながら走ってくる息子と妻がいます。マイペースで、偵察しに来るような目つきでゆっくりと部屋から顔を出す猫もいます。我が家は会社と違って孤独に飢えません。私が心の底からくつろげる場所なのです。

 生温い潮風を感じながら、私は追憶を延々と繰り返していました。潮風が茜色の光に耐え切れなくなったのか、水面が茜色に輝き始めました。そして、急に冷たい風が頬に当たり、ようやく私は現実に戻ったような感覚を感じました。今思うと、この時もまだ現実に戻っていませんでした。

 そして、今まで自分は何をしていたんだというような気持ちに襲われ、そそくさと浜辺を後にし、帰り道を探しました。

 カフェでの奇妙な出来事など、何もなかったかのように、帰りは着実にゆったりとした足取りで我が家を探しました。

 私はこう思うのです。この時の私は仕事に追われ過ぎていました。だから、私は状況を理解しようと努めずに、訳が分からぬままにカフェを後にしてしまったのです。あの時、私にもう少し余裕があれば、こんな奇妙な出来事は起こらなかったはずです。

 きっと、そうだったはずです。でも、不思議な出来事が起きたことで、後に「鍵」の秘密を知ることが出来たとも言えるのです。

 見慣れた駅に着いてからは、何もかもが日常に戻ったようでした。体が覚えている通りに足を進めていくと、我が家の屋根が見えてきました。

 いつものように妻と息子、猫が出迎えてくれる光景を想像しました。普段はゆったりとした足取りで玄関に向かいますが、その時は上手く表しきれない、はやる気持ちがありました。気持ちを抑えようとするけれど、私はほとんど走っていたのだと思います。

 しかし、すぐに異変に気付きました。家の中の電気が灯っていなかったのです。

 不思議に思いながら、私は玄関の鍵をはやる気持ちを感じつつ開けました。すると今度は、頭上からふいに何かが降ってきました。小さいけれど、じんわりと痛みを感じるものでした。音のした方に手を伸ばして拾い上げると、それは私がいつも使っている我が家の鍵のようでした。働いている会社のマークが印刷されたストラップがぶら下がっていたので、そう思ったのです。

 対して、私が今玄関を開けた「鍵」も同じようにストラップがついています。予備の鍵は妻が持っているはずなので不思議に思いました。でも、それには新築の家の鍵には馴染まない錆びがありました。

 その「鍵」の錆びに私ははっとしました。カフェにあった「鍵」で玄関が開いたことに気づいたのです。でも、それにはストラップなど何も付いていなかったはずでした。そう思って二つの鍵を見つめると、錆びた方の「鍵」のストラップが少しずつ薄くなって、透明になって消えていきました。

 ほんの数秒のことでした。そして、手には鍵と手が自然とおさまる感覚だけが残ったのです。

 今思うと、あの日は不思議なことばかりが立て続けに起こっていました。ただ、それ以上に妻たちがどこにいるのかが気になって、「鍵」の奇妙さにまだよく気づけていなかったのだろうと思います。スマホのライトをつけながら、私は家の中に入りました。ライトがあっても電気のスイッチの場所が見えないほど家の中は暗く、また玄関と廊下の区別がつかないほど、暗闇に包まれていました。外の方が明るいと思えるほどでした。

 リビングらしき場所に入ると、机の上には白く浮かび上がるものがありました。置き手紙でした。瞬時に妻からのものだと悟りました。私はスマホのライトを当てながら、目を細めて、無我夢中になって手紙を読み進めました。

 私は、ただただ絶望したのです。


【後悔と六日目】

 途中で決して投げ出さないこと。そう誓ったことをつい先ほどのことのように覚えています。

 だから私は言いにくいことも吐き出さなければなりません。覚悟はもうしているので、恐れるものは何もありません。それに、この手紙は誰かに対して書くわけでもありませんから。唯一の目的は、私の複雑な心情の一端に触れることなのです。


*


 妻からの置き手紙は、あの日の私にとって特に受け入れがたいものでした。私の妻は家を出ていったのです。家族を連れて。

 向かった先は書かれていませんでした。でも読み終えた時、一人の男の顔が頭に浮かび上がりました。

 それは、私の同僚でした。


*


「今日もおかずを貰ったのか」

「そうなの。道成さんは料理上手でしょ」

「別に咲が忙しいわけではないだろ」

「そうだけど、おかずを一品作る時間が浮く分、子どもの世話とか、あなたの仕事の話を聞ける時間が増えるでしょ。そうやって道成さんが配慮してくれているのよ」

「あいつは企画に参加できなかったことで俺を恨んでいるよ」

「ちょっと、どこ行くの」

「今日は疲れたから、もう寝るよ」

 いつかの記憶が不意に頭に浮かんだのは、置き手紙にこう書かれていたからでした。

「話をする時間があったのに、あなたはその時間をただただ持て余していた」

 私は月明かりがほのかに差し込む薄暗い書斎で、スマホを見てばかりいたのです。それは妻への嫉妬からでも、同僚である道成への嫉妬からくる行動でもありませんでした。どうにも確かな将来を描けない、自分の情けなさを暗闇に覆い隠してもらいたかったのかもしれません。

 私は家族の顔を見て、仕事から開放された束の間の平和なひと時を享受したかっただけだったのです。仕事の話など妻に聞いてもらわずとも、私が上手くいっていないことに妻は十分分かっていたはずでした。

 妻にはただ私を陰で応援して欲しかったのです。リビングでは仕事の話ではない、たわいもない話をしたかったのです。

 実は私と道成は昔から仲が良く、大学で妻と出会ってから、恋愛のアドバイスをよくしてくれたものでした。道成と私は違う大学に通っていたものの、妻と三人でよく遊びに行きました。ある時は遊園地へ。またある時はカラオケ、食事、買い物へ。三人は友情で結ばれ、私と妻は愛情でも結ばれていました。そのことを道成は受け入れていたし、私たちの将来を応援してくれていました。それは、彼と私が同じ道を志し、同じ一流企業に入ってからも続きました。

 しかし、ある時運命の分かれ道が目の前に現れたのです。私の会社の編集部にこんな話が突如舞い降りてきました。

「皆、役員がこんなことを言っていたんだ。今度、社内公募で原作なしの映像作品を作る試みをするらしい。こんなチャンスは聞いたことがない。皆にはどんどん応募して、挑戦して欲しい」

 部長は私と道成の顔をしきりに見ながら、編集部の全員に向かってそう言いました。

「俺たちの話が上に伝わったっていうことかな」

 道成が目を輝かせながら、私を上目遣いで見たことをはっきりと覚えています。

 その後、部長が私と道成のもとにやって来て、募集の規定や私たちの情熱が上に伝わったのかもしれないという話をしました。

 しかし、今となってはもう、部長の話はほとんど忘れてしまっています。私には、同じ部署内で一人のみが企画に参加可能であるという規定だけが頭から離れませんでした。その無責任な規定が私と私の周りの世界を一変させてしまうきっかけになるのです。

 私との競争に敗れた道成は、以前と比べて元気をなくしたようでした。

 二人で正々堂々とシナリオを書いて、部長が選考したので、道成は結果を真摯に受け入れた様子でした。ですので、普段と同じように私に接してくれました。それに加えて、私に対し、こんなことも言ってくれたのです。

「応援する。大物になれよ」

 心の奥底から浮かび上がった言葉ではないことは分かっていました。でも、そんな言葉をかけてくれる友には、もうこの先巡り合えないかもしれないと思い、私は道成の分まで頑張り、企画で存在感を出して、絶対に自分の才能を認めてもらおうと心に決めました。

 エンタメ業界に就職し、そこで才能が認められれば、脚本家として活躍できるかもしれない。そう、大学の進路相談で言われた言葉をその当時以来の臨場感と共に、その時ふと思い出したのです。

 彼にも 私にとっても、最後のチャンスではないはずでした。それは彼も分かっていたはずなのに、時々会社帰りに見かける彼の背中はどんどんと小さくなっていくようでした。でも、彼は私の忙しさやプレッシャーをいつも気にかけてくれました。

 その弱さを見せない姿勢に、私は何というか、言いにくいのですが、自分の情けなさを確認してしまう機会になってしまったのだと思います。道成と会うことで、嫌な気持ちになってしまっていたのです。

 しばらくしてから、道成は妻におかずを届けるようになりました。それで、私はますます自分の不甲斐なさを感じるようになったのです。その惨めな姿をごまかすために、私は一生懸命になって、現実を誤解しようとしたのかもしれません。

 明確な将来が描けない原因を道成にすり替えて、自分の保身に走っていたのかもしれません。それに、妻におかずを持ってくる道成に対して、嫉妬ではない、やりきれない気持ちばかりが積もっていったのだと思います。そして、妻とは心の距離が段々と離れていってしまったのだろうと思います。


【取調官の手記と七日目】

 「鍵」を見つけたあの日は、実は仕事を無断で休んでいました。今日、取り調べを受ける中で急に思い出しました。

 私は企画の中でやりたかった脚本制作に携われず、誰かが作った絵コンテに誤りがないかどうかを確認するという単純な仕事を割り振られていました。

 企画の始め、極度の緊張のせいでチームの仲間と上手くコミュニケーションが取れず、自分の立ち位置を見失っていました。

 途中で脚本制作に携わりたいと声高に言って自分のやる気と信念を役員に見せようと思い、何度も行動しようとしました。でも、一旦火が点いたロウソクを消してしまうと、周りが私のことを冷ややかに見るような気ばかりしました。結局度胸が持てず、誰にも気持ちを伝えられずに、あの日会社を休むに至ったのです。

 家族には会社を休むことを知られたくなかったので、私は行きつけのカフェに行ったのだろうと思います。そして家に帰ると、世界が一変していたのです。

 ところで、「鍵」の秘密を覚えているでしょうか。私はあの日、家族を取り戻せる、またとない運を引き寄せたと確信しました。実際は誤信でしかなかったのですが。

 カフェで手にした「鍵」で玄関の扉が開いたことに気づいてから、どんな鍵穴でも開けられることに気づいたのです。「鍵」の先端が少しずつ変形して開錠するのです。夢を見ているようでした。

 私はあの日、妻からの置き手紙を読み終えた後、家の中のあらゆる鍵穴に「鍵」をさしました。やはり不思議なことに、全てが開錠するのです。


*


 そして、私は事件を犯してしまうのです。

 私は、道成に重傷を負わせました。道成のアパートに向かいました。私は高鳴る鼓動をこの時ばかりは無視し続けました。正直なところ、あの時のことはよく覚えていません。断片的な記憶しか残っていないのです。私は扉を開ける時、鼓動が喉にまで伝わってくるほどの感覚を覚えました。でも開いたと分かった瞬間、無我夢中になって家族の元に走っていったのではないかと思います。家族を見つけた後、すぐに私は妻の手を強く引っ張りました。でも、妻は私の手を振りほどこうとして

「早く追い出して!」と道成に叫ぶばかりでした。

 眼球が飛び出るかと思うくらい、私は道成のことを睨みました。手には「鍵」が力強く握られていました。視線を道成の手元に移すと、彼の手に握られていたのは「ハンマー」でした。彼が威嚇のつもりでそれを握っていたのだとしても、その時の私には、殺意を持っているとしか感じられなかったのです。

 泣く妻と子供をよそに、私は道成のもとに体当たりして、ハンマーを取り上げました。そして考える間もなく、ハンマーを振り上げたのです。

 それからの時の流れは異様なものでした。夢から醒める時のような、一瞬の静寂が辺りを埋め尽くしました。そして次の瞬間、妻の叫び声が部屋中に響き渡りました。

 私は、極刑を受け入れる覚悟です。

 彼のアパートはオートロックで、当時は二重に鍵が掛けられていました。その事実に取調べ官は頭を悩ませ、心にすっと溶け込むような虚構を求め続けています。

 取り調べはどれくらい続いているのでしょう。正直なところ分かりません。私が防犯カメラの映像を差し替えたり、道成に平静を装って部屋に入ったりしたなど、虚構をまくし立てて極刑を受け入れる覚悟なのですが、取調官は今日も意味のない質問ばかりを繰り返しています。だから、早く終わらせたいのです。

 今挙げたような嘘をまくし立てたら、きっと私の取り調べはすぐに終わるはずです。

 そもそも、私が「鍵」を使って道成のアパートの扉を開けた映像は、防犯カメラに残っていないのでしょうか。「鍵」もどこかへ消えてしまったので、残っていないのかもしれません。あるいは取調官は「鍵」や防犯カメラのデータを既に押収しているのかもしれません。科学では説明がつかない「鍵」に対して、混乱ばかりしているのでしょうか。

 私の愛する家族は今どうしているのでしょうか。病院のベッドに横たわる道成に寄り添って、暗い過去を歪めながら必死に安心を得ようとしているのでしょうか。

 私の手紙はやはり誰にも読まれないのかもしれません。

 私は──。



 彼は、心に深い傷を負ったままである。私の責務は、彼に事実を受け入れてもらうことなのに、彼はずっと自分が犯人だと思っている。記憶の断片は合っているのだが、事が起きた流れ、そして事を起こした人物のほとんどが間違っている。

 彼の心のケアをしている間、私は部下に彼が密かにしたためている手紙をコピーすることを頼んだ。手紙を読んで私は確信した。彼は間違いなく極度の錯乱状態に陥っている。それを必死に、自分でも分からぬままに記憶を書き換えているのだが、ここ最近は思い詰めたような表情が消えてなくならない。やはり心身共に限界が近づいているのだろうか。

 事実に気づかせてあげなければ、彼はこの病棟で二年目を迎えることになってしまう。それは彼にとっても、彼の家族にとっても報われないことだ。

 彼の手紙にはよく、「闇の中を彷徨っている」という言葉や「ロウソク」という言葉に加えて、「水」や「鍵」という情景や言葉がしきりに語られる。脳裏に浮かんでくる記憶の断片をペンに託すことで、過去を懸命に組み立てようとしているのかもしれない。過去を思い出そうとする中で、何故か心から離れない、これらの言葉の存在が彼を悩ませ、手紙にあのような形で出現させたのだろうか。

 私は今日、彼にこんな質問をした。

「事件が起きた時、あなたはなぜ会社に行かなかったのでしょうか? 」

 彼は唸るような咳ばらいをしばらくの間続けた。そしていつものように、だんまりを決め込んだ。いつも私はその姿を見て、似たような質問を繰り返し述べ、彼に何か話してもらうよう試みるのだが、彼は余計にふさぎ込んでしまう。

 対話を通して記憶を整理するのが一番有効だと私は思っている。他の医者は患者に絵を描かせることが良いとも言うが、私は私のやり方を信じている。彼の病室に絵を描けるように紙を以前から置いてはいるものの、使う気がないようで、最近は一人手紙を書くのに使っている。それもあって、私は私のやり方で彼との対話を試みている。

 そして今日、私の思いが少し通じたのだと感じている。

「あなたは毎朝、誇りを持って会社に向かうのに、なぜ事件の日は会社に行かなかったのでしょうか? 」

 一日の面談の時間はそれほど長くは取れないので、今日も収穫はなしだろうという考えになりつつあった、その時だった。彼は私の質問に反応した。

「誇りなんて持っていなかった」

 反射的に彼の顔を覗き込むと、彼も私に視線を合わせた。私の驚く顔を見て、彼の顔は一瞬強張った様子から、ほんの少しだけ遠ざかったように見えた。

 私ははやる気持ちを抑えながら

「あなたは自分の夢に近づきつつあったじゃないですか」と言った。

 しかし、彼の顔は急に風船がしぼんでいくような表情になってしまった。気力がなくなっていくようだった。私はそれを見て、昔から犯人に対して、相当気を使っていたのだろうと思えてならなかった。

 彼の妻が退院した後、私はこれまで何度も話を聞いてきた。彼女は犯人に対し、昔から嫉妬心が人一倍強かったと語っている。


*


 彼は私に一言を発して以降、再びだんまりを決め込んでしまった。


【懺悔と告白の八日目】

 事実は吐き出しました。しかし、私の心には一向に光が差し込みません。複雑な心情の一端に触れられるかもしれないと、淡い気持ちを抱いていました。その思いで数日間睡眠を忘れるほど身を削って書いてきました。

 でも、今心にあるのはただの暗闇です。私は煙が立ち上りつつあったロウソクにずっと息を吹いていたのでしょうか。

 今日は中々言葉が出てきません。もう十回近くも書き直しています。足元に散らかった紙くずが視界に映ります。

 突然ですが、今宵で手紙を書き終えようと思います。私が目的を果たすことは出来ずじまいになりそうです。これも運命だと受け入れるしかないのかもしれません。「鍵」を手にしてから、私の未来は大きく変わってしまいました。私は次の取り調べで虚構をまくし立て、遂に自分の醜い人生にピリオドをつけようと思います。


*


 追記。これだけは吐き出しておきたいと思います。道成にはとても申し訳ない気持ちでいっぱいです。それに何よりも、私の愛する家族を傷つけてしまって、言葉に表しきれない後悔を感じています。私は極刑を受け入れます。だからどうか、それぞれの、あるいは共に人生を歩んでください。私に言えることはこれしかありません 。


*


 本当に急遽決まったことだった。今日の取り調べで彼と彼の妻を面会させた。

 今日の朝、彼の部屋から部下が強張った表情で帰ってきた。彼の部屋には、足元を覆い隠すまでの紙くずが散らばっていたのだと言う。私もすぐに見に行った。すると、彼が手紙を書き出した日と比べ物にならないほど多くの紙くずが床に散乱していた。汗を拭いながら不快そうに眠る彼の姿は、正直に言って見るに堪えなかった。

 私は鍵のかけられている机の引き出しから彼がしたためた手紙を読んだ。手紙には、今日罪を自白するという趣旨のことが書かれていた。

 錯乱状態にある患者と家族を会わせることは、彼の病状の経過を観察する限り、まだ早いと感じていた。それもあって、三か月間ためらってきた。薬も中々効果を発揮していない。ここまで彼の病気がひどくなってしまったら、医学ではあまり真剣に議論されない「愛」というもので傷を癒やすことにかけてみるのも必要ではないかと感じつつあった。

 今日の彼との面談の時間を少し後ろ倒しにして、私は彼の妻に連絡をした。

「今日、来られますか」

 彼の妻は少し遅れて、一言「はい」とだけつぶやいた。電話越しでも葛藤がひしひしと伝わってきた。

 面会の時間はすぐにやってきた。彼と彼の妻に対して、何を言うのが正解かを考えていたら、すぐに時間が過ぎてしまった。結局、二人の気持ちに任せた方が良いのではないかという結論に達した。二人でしか乗り越えられないこともきっとある。私はそう思いながら、不安そうな表情を浮かべた彼の妻を彼のいる部屋に連れて行った。

 彼はいきなり現れた妻を見るなり目を伏せた。泳ぐ目からは、遠目からでも高鳴る鼓動を感じているのが分かった。妻は緊張で震える足を動かしながら、彼の対面に置かれた椅子ではなく、彼の横にしゃがみ込んだ。

 今日起きたことは、私の医者人生の中で忘れられない出来事の一つになったと感じている。彼が錯乱状態であることは変わりなかったのだが、妻はただただそんな彼を受け入れていた。


*


 毒を盛られて我が家が火事となり、彼らが生死の境を彷徨ったのは、まだ三か月前である。妻たちを救った夫に対して、妻はずっと歯を食いしばりながら笑みを浮かべて話しかけていた。その顔には遠目でも分かる細いしわがいくつも刻まれていた。

 彼は手紙で書かれていたことを実行しなかった。妻の言葉が真実であるとほんの少しでも分かったのではないだろうか。

 彼が妻の言葉を全て理解できなかったわけではないと思う。自分が錯乱状態にあることを一瞬でも感じたのではないだろうか。彼の言葉を借りるならば、彼は闇の中で彼自身の身体を照らすロウソクの火を得た。

 しかし、ロウソクなどの表現を使うことは彼や彼の妻にとっては申し訳ない気がする。だから彼の言葉を借りるのは、一旦は今日が最初で最後だ。彼が本来の自分を思い出すことが出来るまで待つことにしよう。きっと、その時が来るのは遠い先ではないはず。

 彼なら乗り越えられる。きっと。


【九十日目の面会】

 私はずっと待ち望んでいた。夫が精神を病んでしまってから三か月間、私は心に穴が開いてしまったような日々を過ごしていた。その暗い気持ちを隠すために、子どもや猫に笑顔で接してきた。でも、涙を流すことは毎回我慢できなかった。

 私が日記を取り始めて、今日でちょうど九十日。百日が近づきつつあった。夫にはいつ会えるのか。私は白紙がなくなりつつあるノートを眺めていた。同じ病院には何十回と足を運んでいるのに。

 そんな時に、電話がかかってきた。

「旦那さんに会いませんか。今日、来られますか」

 私は夫に会うことを待ち望んでいたはずなのに、急にその時逃げたくなった。

 正直に言って、怖かった。記憶障害を負った夫に対して、どんな言葉をかけてあげたら良いのか。九十日間ずっと考えてきたのに、全ての言葉が間違いのように感じた。夫が自分を犯人と思っているなんて、信じたくなかった。

 でも、私は返事をした。「はい」と。電話を切ってから、今の私に出来ることは何だろうかと考えた。ソファでただ座りながら考えた後、夫の全てを受け入れようと思った。

 今日の私の行動が正解だったのかを決めるのはまだやめておこうと思う。それは夫がこの先、長い時間をかけて決めてくれることだと思うから。


*


 私は夫に会うなり、彼の横にしゃがみ込んだ。

「あなたは何も悪くないわ。全てを守ってくれたの」

 そう言うと、夫は首を横に振った。私はそれからずっと、あの日の「事実」を恐れずに彼に語りかけた。足のしびれなんて気にする余裕なんてなかった。

「あなたは犯人じゃないのよ。あなたは道成の放火から私たちを救ってくれたの」

「あの日、おかずに毒が入っていて、私はけいれんを起こしていたの」

「ロウソクに火をつけたまま立ち去って、時間差で家を燃やされたの。犯人を分からなくさせるつもりだったのよ。私がけいれんで動けなかった弱みに付け込んで」

「あなたは会社から帰ってきて、道成にハンマーで殴られたのよ。そのせいで、今あなたは記憶障害になっているの」

「道成が知らない間に作った合鍵を取り上げて、ここから出て行けって言った時は、本当にかっこよかった」

 一つ一つ、言葉を絞り出しながら夫に喋りかけた。でも彼は、私の言うことを信じようとはしなかった。ただ一言

「俺が悪かった」とだけ彼は何度もつぶやいた。

 私は彼の全てを受け入れようと思っていたけれど、彼の間違った記憶に対しては受け入れようとは決して思わなかった。

「先生にね、あなたが密かに書いている手紙について聞いたわ」

 すると、夫は焦ったような表情になって

「あれは咲に書いたやつじゃないんだ」と言った。

「でも、読み手のない手紙を書くのは辛いことなんでしょう」

「俺が悪かった」

 夫は私の話を聞いていないようだった。

「私は軽症よ。あなたの方が……。何であんなに鍵のことを手紙に書いたの」

 鍵という言葉を聞くと、彼は私に何かを必死に伝えようという表情に変わった。

「いや……」

「あんな鍵は始めから無いのよ。多分あなたは道成が知らない間に合鍵を作って家に侵入してきたことと間違えているわ」

「あいつはどうしているんだ」

「刑務所よ。あなたがいるのは病院よ」

「俺が……」

 私はその言葉を聞き終えるのを待たずして気づくと夫を抱きしめていた。その抱擁はどんな時よりも冷たくて、私と夫が大学で出会った時よりも距離があった。でも、これだけは言える。私は夫を抱きしめている間、九十日の中で一番幸せを感じていた。

 どのくらいの間抱きしめていたのか分からない。でも、夫は嫌がらずに私が抱きしめる手をそのままにしていた。夫からは抱きしめてこなかったけれど、彼が心の中では泣きながら手を私の方に運んでくれたのが分かった気がした。それを彼は必死に表に出すのを隠そうとしていた。

「あなた。カフェに行ったり、浜辺に行ったりしていたのは事件の翌日なのよ。あなたは私たちに救急車を呼んでくれた後、発狂して闇夜に消えていったの」

 抱きしめながら話すと、私の声が彼の身体に溶け込んでいくように思えた。

「カフェの店長と店員さんはあなたを病院に連れていこうとしたのよ。でも、あなたは発狂して店を出ていった。そして、走りに走って浜辺についたのね。それから、あなたは家がなくなった跡地で幻覚を見ていたのよ」

 夫は私の話をじっと静かに聞いているようだった。反応はせず、私の気持ちを広い彼の心にただ溶かしていくよう努めているようだった。

「あなたは脚本家になれるのよ。会社での企画が成功して、会社に復帰したらデビューさせようって決まったの」

「あなたは犯人に嫉妬していたんじゃないのよ。犯人があなたに嫉妬していたの」

 私は九十日間秘めてきた思いを隠しきれなかった。溢れかえっていた。

 同じ空間に誰もいないと勘違いするほど、私は夫との世界に入り込んでいた。

 あの時間は忘れない。もうこの日記を記すのが百日になろうとも恐れは感じない気がする。今日の思いを胸に、夫を信じながらノートを書き続けていこうと思う。今日の日記は大分多くなった。でも当然のことなのかもしれない。

 今、私は幸せ 。


*


 私は何かを勘違いしているのかもしれません。今、こうして新たに書いている手紙は書き終えたら捨てようと思います。私は気持ちを整理させようと思って書いているだけなのです。今まで月明かりの下で書 いてきた手紙は当分見返すことはないと思います。

 鍵をかけて誰にも見せないようにしてきましたが、誰かがやはり「鍵」を押収して私の手紙を密かに読んでいるようです。取り調べが終わると元通りになっているので、誰かが読んでいたなんて思ってもみませんでした。

 ひとまず鍵をかけて、その鍵を取り調べに向かう途中、どこかにこっそりと落とそうと思います。私が見返したいと思っても、見られないようにしておきます。

 おそらく、手紙を見返したいと思う時が来たら、「鍵」が再び私の前に姿を現すと思います。今度は、「鍵」が良い方向に未来を変えてくれることを願います。



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