夫が死んだ。死因は事故死。彼が乗った自動車が道を外れ、自宅から少し離れた交差点に突っ込むといった事故だった。自動車は一瞬にして炎上。その事故は彼だけでなく一人の若い男性と未来ある小さな子供とその母親の命を奪い去った。夫がいなくなってからの家にはもう以前のような活気はどこにも見当たらない。家の中はゴミが至る所に散らかり、窓硝子は無作為に割れている。少し固まった赤黒い液体のようなものも飛び散っている。
掃除しないとなあ。ああ、そういえば、
「そろそろ買い物に行かなくちゃ」
重い腰を上げ、外へと向かう。久しぶりの外は雲行きが怪しく、お日様の顔を拝むことは叶わなかった。しばらく歩いていくと例の事故現場が見えてきた。自動車が衝突したであろう付近の歩道の植え込みは荒れ果てていた。どれほどのスピードが出ていたのだろうか。奇怪にへこんだガードレールに花束が手向けられているのが目に入った。あまり花には詳しくないけれど、恐らく、ユリと菊、あれはカスミソウだろう。そして私の後ろには一人の若い女性が静かに目を閉じ、手を合わせていた。ぼーっと眺めているとその女性の綺麗な肌に一筋の涙が流れてゆくのが見えた。事故に巻き込まれた被害者の大切な人なんだろう、きっと。しばらく彼女を眺めていると、ポツポツと雨が降り出してきた。しまった、傘を持ってくるのを忘れてしまった。雨は留まるところを知らず、勢いを増し一瞬にして私を水浸し女に変貌させてしまった。どこか、どこかに雨宿りできる場所はないかな。もうずぶ濡れだけれども。辺りを見回すが雨宿りできそうなところは見当たらない。
「仕方がない。今日はもう帰ろう」
元来た道を戻ろうとするが、その若い女性が未だにその場で立ち尽くしているのが気になった。
「あの、大丈夫ですか。ひどい雨です。このままだと風邪をひいてしまいますよ。」
「……」
「あ、あのー。」
「……」
その若い女性は私のことがみえていないかのように、ただただ事故現場を見つめていた。やがてゆっくりと口を動かし、
「大丈夫。この子の未来は私が守る。容赦のない嘘や悪意がいずれこの子に襲いかかるかもしれない。それでも私は必ずこの子を守り抜く。だから安心して、私たちを見守っていて。」
と、カスミソウと思われる花をそっと置いてその場を去っていった。
「ごめんね」と、無意識につぶやき、私は元来た道を戻っていった。
私は驚いた。非常に驚いた。なぜならば私達の家が全く別の建物に変わり果てていたからだ。
「どうなっているの……」
そこには薄暗いオレンジ色の光を放ち、喫茶店・コーヒーとだけ書いてある立て看板がぶら下がった、よく言えば趣深い、悪く言えば古めかしい、焦げ茶色を基調にした喫茶店があった。
「家を間違えたかしら」
いいや、さすがに私も馬鹿じゃない。私達の家は確かにここだ。
不気味だ。非常に不気味。が、しかし不気味ではあるが不思議と恐怖の感情は湧いてはこなかった。気持ち悪い感覚だ。
「ええ、どうしよう。私、疲れちゃってるのかな。色々あったし」
今の気持ちを素直に言葉にした。すると突然、
「どうなさいました」
と。後ろから声がした。
「……!」
振り返るとそこには、一人の若い男性が立っていた。綺麗な黒髪の中にわずかに白髪が見え隠れしている。背が高く中性的な顔で燃えるような瞳を持っていた。なぜだろう、こんなに強い雨なのに、傘もさしていないのに全然濡れていない。
「ひどい雨ですね。どうです、うちの店で雨宿りしていきませんか」
喫茶店の店主さんだろうか。
私は断ろうとした。あまりにも怪しすぎる。けれど、口から出た言葉は意志とは真反対のものだった。
「……すみません。お邪魔させていただきます」
なぜだろう、体も自由に動かせない、気がする。
店内は暖かな色調で装飾されており、木製のテーブルや椅子が静かに佇んでいる。音楽などは流れておらず、しきりに降り続ける雨音がその役割を担っているようだった。壁には絵画が数枚飾られており、カウンターに目を向けると古びたエスプレッソマシーンがあった。店内には合計三人の人間がいた。店内の隅の丸いテーブルには小さな男の子とその母親と思われる二人組が仲睦まじく話しながら座っていた。
カウンターの一番端にはカジュアルな服装の若い男性が静かに真っ白なコーヒーカップを口に運んでいた。
私は案内されるがままにカウンターの真ん中に腰を下ろした。
「まあ、じきに止むでしょう。少し寒いでしょう、何か温かい飲み物を入れますね。コーヒーか紅茶、どちらの方が好まれますか?」
なぜだろうか、絶対変なのに、逃げ出そうという気が起きない。未だに体も言うこと聞いてくれない。
「コーヒーは飲めないから、紅茶をお願いします」
「レモンを入れても?」
「お願いします」
その店主さんは静かに棚からティーポットとカップを取り出し、レモンを器用にスライスしていく。無駄のない動きをぼーっと眺めていると
「お待たせいたしました。レモンティーです」
差し出されたレモンティー僅かな湯気と芳香を放ち、浮き輪のようにレモンがプカプカと浮いている。しばらく香りを楽しんでからカップを口元に運ぶ。
「あつっ」
雨に打たれて冷えた体が内から温まっていくのを感じる。ふと店主さんの顔が目に入る。何かを見ていると思ったら、どうやら私の指を見ているようだった。
「素敵な指輪ですね。使われている石は、ルビーか。石言葉は情熱、愛の炎。旦那さんは素敵な方でしたか?」
でしたか? 事故のこと知っているのかな。
「ええ、素敵な夫でした。少しシャイで口数が少ない人でしたけど、最後までちゃんと私のことを愛し、大切にしてくれました。」
「そうですか。ではその体中の傷はどうしたんですか」
「これは……。あれ、何だろう、これ」
何かが頭の奥から込み上げてくる。
「思い出してみてください。あなたの旦那さんはあなたを大切にしていましたか?」
「大切に……」
「あなたの旦那さんは本当に素敵な方でしたか?話してみてください。」
最初の頃は幸せだった。私と夫との出会いは二年前の夏の頃。職場に向かう電車に乗っていた時に痴漢被害にあった私を助けてくれたのが夫だった。運命の人だと思った。それから程なくして私たちは交際を経て、彼からの赤い薔薇を受け取り、結婚した。赤い薔薇の花言葉は、あなたを愛しています。結婚と同時に私は退職し専業主婦として夫を支えることにした。これから温かい家庭を二人で築いていくんだ。・・・そう思っていたのに。
突然だった。夫が変わってしまったのは。連日酔って帰ってきては、私に難癖をつけて暴力を振るうようになった。 私の髪を掴み、何度も何度も何度も壁や、窓硝子に私の頭を叩きつけた。そうだよね。
お仕事、大変だもんね。辛いよね。大丈夫、いずれまた元に戻ってくれるはず。だけど、夫の暴力は収まるどころか激しさを増していった。そして、私は馬乗りで首を絞められ、何度も何度も殴られ、彼の拳が赤く染まるまで殴られ、そこからは、あれ、ああ、そっか、
「私、死んじゃったんだ」
「……思い出しましたか。あなたは愛する夫とやらに殺されたようですね。けれどあなたの魂はこの世に留まり、さまよい続けている。そして私はあなたを、あなたの魂を迎えに来たんです」
「そう、なんですね。でも、いい。仕方のないことだから。私は彼のなんの役にも立てなかった」
「……あなたの旦那さんはあなたに対し許されざる蛮行を働いた。あなたの彼は 今しかるべき場所で罰を受けています。あなたは強い人ですね。人は苦しいことや辛いことが立て続けに襲い掛かってくると自分を守るために、自分が完全に壊れてしまう前に感情を失くし、何事にも無関心になる。けれどあなたは旦那さんを今もなお誠実に愛し続けた。本当に美しく、強い人だと思います。でもね、「私は殺されても仕方がない、」なんて思っては駄目ですよ。あなたは十分役に立っていたはずです。朝早くに起きて、ご飯を作って、洗濯して、部屋も風呂もトイレも、人が面倒がることをあなたは一手に引き受けていた。そしてあなたは彼を愛し続けた。十分なはずです。あなたのおかげで彼は普通の生活を送ることが出来ていたんです。役に立ててないのは彼の方です」
長らく聞いていない私を肯定する言葉たち。私を否定しない言葉が体の奥に入り込んでくる。なんだか、頭がふわふわするような気がする。気付けば私は横向けに倒れこんでいた。
「……あれ」
店主さんは、そろそろ時間か、とつぶやいた。
「あなたは旦那さんを愛していた。でも、同時に憎いとも思っていた」
「……憎い?」
「愛し続けたいと思っていた。そして逃げ出したいとも思っていた。言葉にはできないけれどその気持ちは確かにあなたの心の中に存在していた。そしてあなたは彼を殺した」
「……私が?」
ああ、そうだ。私が殺された日、喉が渇いたと言う夫に睡眠薬入りのお水を渡したんだった。分からないけれど憎んでいたのかもしれない。でも、憎んでいたから殺そうとしたわけじゃない。このままじゃ私は彼の暴力に耐えられず死んでしまうかもしれない。そうなれば私は彼を愛し続けることが出来なくなってしまう。彼を忘れてしまう。なら彼を殺して私が死ぬまで想い続けよう。睡眠薬で眠った後にあまり彼の体に傷が残らないようにやろうと思っていたけど、先に私が殺されてしまった。水がぬるいって怒ってたなあ。
「そして彼はその後、居眠り運転で……」
気付けば、店内にいた親子と若い男性は席を立ち、倒れている私を見下ろしていた。その覗き込む顔は人間のものとは思えないものだった。目は大きく見開き、真っ黒に染まり、赤黒い液体が流れていた。口元にはあるべきはずの口はなく、大きな丸い闇のようなものがあった。聞こえないのに叫び声が聞こえてくる気がした。
「私はこれから彼らを生まれ変わらせます。あの母親は生まれ変わってもあの子の母親でありたいと、あの子は生まれ変わってもあの母親の子でありたいと望み、あの若い男性は何でもいいから最愛の女性のそばにいて彼女を守りたいと望みました。さあ、行っておいで」
すると、彼らは青白く輝く球体のようなものに変わり、開いた扉の向こう側へ消えて行った。
「彼らはあなたを恨んではいませんでしたよ。あなたを憐れんでいた。辛かったねと。幸せになってほしいと。しかし、あなたは人を殺してしまった。しかるべき場所で罰を受けなくてはならない。しかし、彼らはあなたを許してほしいと言っていました。私は彼らの気持ちに応えたい。どうしますか、あの扉を開き生まれ変わるか、この花を取り、あなたの旦那さんの元にいくか。あなたが選んでください」
私の顔の元に黒い薔薇が置かれた。
私はどこに行ってもあなたから逃れられない。
でも、私はどこに行ってもあなたを愛している。
私は静かに黒い薔薇を手に取った。
花言葉は確か、永遠の愛。そして、あなたはわたしのもの。