勝ち取った自由と与えられた自由、どちらも有しているが故に迷子になった。進むべき道は無数にある。男もきっとそうであった。
男は至って普通の家庭に生まれた。親の愛も人並みに浴びて、友人にも恋人にもそれなりには恵まれてきた。運動も勉強も決して苦手はなく、勉強の方はむしろ人並み以上に出来たくらいである。健康面からいってもさほどの大病なく、身体の発育も順調であった。
万人が羨むようなことはないけれども傍から見ればそれなりに幸せな人生である。今もなお世間が想像する充実した大学生活を男は送っているに相違ない。しかし、男には信念がなかった。己の中にふつふつと煮えたぎる確固たる信念がなかった。故に心の中はずっと空虚で、己の人生自体がどこか遠くに存在する幻のようであった。生命には色がついておらず、世界は全くモノクロであった。男は生きながらに、そう、死んでいたのだ。されども一応は生きている。心の臓は今日も元気だ。生活のためにやらねばならぬことはたくさんある。仏頂面の毎日は明日もまた続くのだ。男は決して愉快ではない浮遊感に包まれて毎日を生きている。
その日、男は一限の授業を受けるために大学へと向かっていた。
道行く人々の声も、車のエンジン音も、小鳥のさえずりまで全てが不愉快だった。そしてそれが、己の境涯へのもどかしさから来るものだと分かっているからなおのこと不愉快なのだ。歯がゆい思いに身悶え、それこそ砂を噛む思いで世界に相対し、男は毎日を過ごしていた。今日もまた退屈な大学の構内へ足を踏み入れ、特別感情のない講義を受けようと思ったその時である。目の前にいた。異彩だった。呼吸も忘れ、目がくぎ付けになった。一人の女がゆったりと、泰然自若に男の方へ向かって歩いてくる。光沢のある黒髪を靡かせながら、黒いワンピースを纏っていた。女の不思議で艶やかな黒い瞳に、負けぬ押されぬ深い黒色のワンピースだった。男はすれ違うその瞬間まで女を凝視し続けた。女の何にも興味を示さぬ、冷たくて鉄のような目つきを見ると思わず身がすくんだが、それでもじっと見つめていた。もうほとんど睨んでいるといってもよかった。
されど女は男を一瞥するも意には介さず、路傍の石でも目に入ったに過ぎぬような態度で男のもとから去っていった。男の心にふつふつと湧いて出るものがあった。空っぽな魂に火が着いた。
次の日から男は別人のように見違えた。伸ばしていた髪はバッサリと切られ、口元の髭は一向に剃られる気配がない。服は毎日同じものを身に着けるようになり、食事も貪るように早食いをするようになった。そうしてただひたすらに、何かを必死に探していた。無我夢中にもがいていた。
学校でもアルバイトでも普段の日常生活において、常時他人の顔をうかがっていた男はいつの間にやらいなくなった。男は常住坐臥、眼は赫赫と全てを睨み、迸る信念は身体中を覆っていた。目の前で火事が起きようが、雷が鳴ろうが、挙句の果てには眼前で人が殺されようが、男は眉ひとつ動かさぬようになっていた。信念はますます強まり、魂は蠕動を繰り返していた。男の友人たちは善良なる小市民であったはずの男が一夜にして異形の魔物となったことに驚いた。
されども男の不愉快は続いていた。禍々しい力ばかりが蓄えられ、一向に発散の気配がないのだ。男は身悶え、それをも己が力に変えようと苦心した。そうこうしている内にひと月が過ぎ、ふた月が経った。寒々とした冬の空気が肌を突き刺す季節となった。男はなおも大学に通っていた。無論あの女を見つけるためである。男は行住坐臥、全てに睨みを利かせていたが、大学ではとりわけその眼差しは鋭かった。降る雪がぴたりと止み、冴え冴えとした青空が頭上に広がるその日に、男は偶然にも視界の端に女を捉えた。雪の白が濁って見えてしまうような高雅な白のコートを着ていた。女も男を発見したようであった。男は再び女を凝視した。以前には感じえなかった女の凄みに圧倒された。張りつめた冬の空気も、思わず恐れおののくであろう凄味であった。男の身体はわなわなと震え、女は微かに微笑んだ。男はその場にへたり込んで、女は艶笑を残して去って行った。
男の信念 は通じなかった。あの日から始まった怒りも悲しみも恐怖も喜びも全てが全然届かなかった。男は確かに女に負けた。だがしかし、闘ったのである。それはそれとして争ったのである。女は確かに男を見据えていた。その事実だけが男を打った。男は魂に刻まれた女の姿を瞼の裏に浮かべた。命をかけて成すべきことの見当がついた。男はもう放浪者ではなくなった。己の進むべき確かな道を見つけたのだ。男は魂の求道者となった。信念は再び熱く灯った。
男は筆を取り絵を描き始めた。その理由に言葉は要らぬ。魂に焼き付いていたのはあの女の面影、ただそれだけであった。男は部屋にあるものをほとんど投げ捨て、とうとう大学にも行かなくなった。
必要最低限の外出を除いて、ほとんど家に閉じこもった。その数少ない外出の最中に男は度々女を見かけた。女の放つ異彩の魔力が幾重にも男の背中をぞくりと撫でた。鋭く、また煮えたぎるような目を持った男を余所に女はいつも涼し気に冷たく世界を見下ろしていた。それでも男を目にすると、女の顔には微笑が浮かんだ。これは全く自惚れではなかった。その姿を目にする度に男の心には再三火がくべられた。男はいつしか知人を切り捨て、友人をも失い、親とも連絡を絶ってひたすらに絵に没頭した。己の信念の全てである女の姿を眼前に写さんがためである。男の心には恋も友情も敵対心もなかった。突き刺すような衝動と煮えたぎる炎がただただあった。
ある日、残っていた男の数少ない友人の一人が男のアパートを訪れた際、その真暗な部屋の中で、描いては 破り、描いては捨てしている男の作品のひとつを偶然にも発見した。友人はその絵のあまりの凄みに圧倒され、その凄みを放ってはおけぬ、共有せねばと思い立つと、方々を周り、噂が噂を呼んだ結果、いつとはなしに男の絵は随分な評判になった。
男の家には評判を聞きつけた画商たちが出入りするようになり、友人は画商に絵を売りつける交渉人となったが、男はそんな事態を気にもとめず、ただ金が入るのはありがたい、これで絵に没頭が出来るとただ絵を描き続けるのみであった。友人の身なりと食事が随分と豪華になっても、男の生活は変わらなかった。絵の凄味だけが増していった。
男の名と凄まじい絵は世俗にさらに広まっていった。批評家たちは男の絵を禍々しい、魔力に満ちた、魂の乗った絵だと口々に評し、男の絵は奇々怪々の怪作と称せられた。男を祭り上げるような世間の声も大きく、メディアからの出演依頼も殺到したが、男はそのどれにも応じなかった。それでも世間の人気はうなぎ上りで、男も世間も勝手だった。
男が世の中とのつながりを断ち、一人部屋に閉じこもって半年以上が経った。男はついに自らが納得のいく最高の絵が出来たと、真っ暗闇の部屋の中で一人確かに欣喜雀躍した。髪も身体も着ている服までもボロボロだったが、己の魂に灯った信念の全てをその絵に注ぎ込めたという自負があった。男はもう一度女と対面する決心がついた。そうしてほんの少し冷静になった眼で改めて辺りを見廻すと、男は世間での己の人気に心づいた。一千万円を超えた値で取引がなされている己の絵がいくらでも見つかる。信念のみによって仕事をしてきた男であるから、よもやこんな事でのぼせ上がるような真似はしまいが、それでも更なる自信はついた。女に会いに行こうという決意はさらに固まり、出来上がった一枚のキャンバスを右脇に抱えて外へ出た。
男には別に行く当てはなかった。約束などなくとも女とは必ず相まみえると分かっていた。これまでもそうであった。男は女に何か宿命めいたものを感じていた。男は街を堂々と歩いた。汗のべたつく真夏日で、蝉の鳴き声が頭に響いた。行く先もわからぬままに気力だけは十分だった。やがて男の予期通りに女は神良川沿いの木立の道を歩いてきた。男はやや早足になった。完成された自らを女に早く見せつけねばと逸る思いを抑えていた。それに比べて、対峙した女は変わらなかった。変わらないままにゆっくりと男の方へ歩いてくる。途中、まだ鳴いている蝉が女の足元に転がっていたが、女は気にせず踏みつぶした。そして男の姿を認めると、女の顔には微笑が浮かんだ。それは男を見つける度に見せていたかつてのあの微笑ではなかった。あの時よりももっとずっと蠱惑的な微笑だった。
男は以前よりも凄味を増した女の存在に圧倒された。が、今度は倒れなかった。逃げもしなかった。闘う勇気は壊れなかった。今度ばかりは違うと思った。実際、今までは男に口を聞く様子もなかった女が、すれ違う直前にぴたりと止まった。男は己の信念を握りこんで女に相対した。女は初めて口を開いた。
「全然ダメね。魂が哭いたままよ」
男はぴしゃんと鞭を打たれたようだった。男はほんの少しだけ期待していたのだ。己の信念を徹頭徹尾注ぎ込んでこの絵を完成させたのだ。さればこそ今の自分が女と会えば、何か己の心に決着がつくはずだとほとんど決めてかかっていたのかもしれない。とにかく理解ができなかった。
「哭いているとはどういうことだ?」
「あなたにならきっと分かるわ。哭きやんだらまたおいで」
女は曇りのない清らかな眼でこう言った。それだけ言い残して去って行った。男には何が何だか分からなかった。ただもうがむしゃらに信念が灯った。煮えたぎる炎は爆発して、また盛んに燃え始めた。
男は家へ帰るとすぐに己の絵を捨てた。信念をなみなみと注いだあの絵をも捨てた。それから画商と交渉人も追い出した。ありったけの金を掴ませてやった。とにかく一人になりたかった。男は一昼夜考えた。考えても分からずじまいで、すぐまた一昼夜考えた。それを何回も繰り返した。男の考えていることは単純だった。全ては己の信念とその向かう先の女のことだけであった。信念の炎を絶えず燃やして考えていた。あまりにも考えすぎて、あの女は気力や生気に満ち満ちた若い男を喰らう異形の化け物なのではないかとさえ思うこともあった。けれどもそんな馬鹿な話があるもんか。事はそれほど単純ではないとすぐに思い直した。男はあの女がただの化け物であったならばそれはどんなに良かっただろうと考えた。結局男は考えに考え抜いた挙句に一つの強烈な確信を編み出した。それは女を越えなければならないのだという確信だった。今までの信念にはどこか女に対する負い目があった。闘う前からどこかしらで屈していたのだ。自覚はなかったが、女との闘いは始めから負け戦で、単なる後退戦に過ぎなかった。男は己の信念を思い直した。気が狂ってでも、女の首をとらねばならぬ。そういう心づもりで女に挑もうと男は一人決心した。思えば今までの信念は甘ったれた子犬の想念でしかなかったのだ。魂の中に女に認めてもらいたい、かまってもらいたいという生ぬるい感情が無かったとは言えぬ。これでは魂も哭くわけだ。さっさと捨ててしまわねば。男はようやく得心がいった。今度女に敗北したら、その時は、オレは女を殺さなければならない。そういう思いまでが頭の中にちらちらとよぎった。おそらく次が最後の戦になる。悲痛な決意をもってして、男は身体を清め、髭を剃り、腰ほどまであった髪の毛をバッサリと切った。ボロボロの服を着ることもやめた。肝心なのは信念だけだ。男は今までの自分を大いに恥じた。あんなものは気の緩みで、凄味を演出する虚構の鎧に過ぎなかった。自分に酔っていなければ到底できない芸当であった。真実の信念はあるべき場所にちゃんとある。男は野性を捨て去った。無駄な理性も一緒に捨てた。
男は女の面影をただ想って、軽い足取りで旅に出た。十分な金と装備の整った旅であった。何か奇怪な点があるとすれば、それは男が女の面影を連れていたという点である。男は女の面影と、相克しながら旅をしていた。一人の男が一人で何かと話していて、しかもそれを至極当然のことのように振るまっているのだ。傍目には全く気狂いであった。されども男はいたってまじめであった。あの女と対峙するには避けては通れぬ道である。直感による確信であった。
男は行く先々で本を読み、人の話を聞き、時には自らを盛大に語った。一人で本に没頭する物静かな朝があれば、酔いどれ連中と酒を酌み交わす騒がしい夜もあった。女とはいつも争っていた。そうしていつしか、男の猛烈に燃え上がるような眼差しには、明鏡止水の心境すら宿り始めた。
ここにきて信念の新たな境地が切り開かれた。男は行く先々で女たちからは随一の美男子と持て囃され、男たちからは不思議な賢人として頼りにされるようになった。男は積極的な人助けに勤しむようになった。だがこれらは何も男が突然、善なる心に目覚めただとか、今までの行いから良心の呵責に苛まれた結果という訳では決してなかった。男の目的は当初から何一つ変わっていない。ただ優しさをも信念に変えて、人々の信頼をも信念に変えて、女を超越した滾る信念を手にしようとしたのである。全ては女と闘うため。男は流浪の旅人となった。
数年が過ぎ、旅から街に戻ってきた男はそのまま深夜の大学へと向かった。女と初めて出会った場所で最後の運命があるのだと分かった。男は昔をなつかしむようにゆっくりと歩いた。アスファルトを鳴らす男の靴音だけが夜に響いた。女は確かにそこにいた。外灯に照らされて、気だるげにベンチに腰かけていた。女は男を一目見た。すると忽ちに眼は輝き、物憂げな表情には色がついた。そうして一言、「久しぶりね」女の上唇が少し吊り上がった。
「今日は決着をつけに来た。もうそろそろ終わりにせねば」
男の心には信念だけがあった。恐れも何も全くなかった。潔い至純の眼がじっと女を見据えていた。女はやおら立ち上がり、男にすうっと詰め寄った。互いが互いを見つめあった。時は止まって、再び動いた。
「もう 魂は哭いていないわ」言いながら、女はとびきりの笑顔を浮かべた。はち切れんばかりの笑みであった。そうして女はひどくあどけない表情のままに男をぎゅっと抱きしめた。男はその瞬間に己を悟った。自分では敵わないのだと観念した。女を殺す気もなくなった。外灯の明かりだけの闇夜の中で聞きたいことが一つだけあった。
「オレの信念はお前だった。そして、誰よりも強く持っていると自負していた。だが、ついぞお前には勝てなかった。お前の信念はいったい何だ?」
「私には信念なんてありません。ただ全部が欲しくてそう生きているだけよ。ここ最近はそうね、あなたが欲しかった。私、ずっと待ってたのよ。あなたの魂が燃え盛るのを。」
女は笑ってそう返した。あまりにも無邪気で残酷であった。やっぱり敵わないと男は思った。生き方がまるで違っていたのだ。男は天を見上げ、精一杯女に向けて晴れ晴れとした顔を見せた。女はほんの一瞬困惑したような表情を見せた。ようやく女の本質が少しは理解できた心地がした。男はポケットから取り出したナイフで己の首を掻っ切って自殺した。それを見た女は生まれて初めて涙を落とした。雨が降り始め、女は一人泣き濡れた。