一
「青」「空」「白」「雲」「緑」「風」。夏に似合う漢字はいくつもあるけれど、個人的には「汗」という一字がぴったりだと思っている。青空と入道雲の凄烈なコントラストも、鼻をくすぐる豊かな緑の香りも、頬を撫でる風の清涼感も、背中を垂れる不快な汗とは読んで字の如く隣り合わせだ。そう、いま体育館の外で降り続いている雨だって、暑さに耐えかねた日本列島が流している汗に違いない。無論、人の背中の上で体を伸ばしている俺自身も額に汗を浮かべている。
七月の第一金曜日、三限目の体育のことである。何が汗だ。気持ち悪いって? そんなことは分かっている。しかし電子レンジの中のような暑さにサウナの中のような湿度。そりゃ誰だっておかしくなるさ。空調はちゃんと作動しているんだろうな、まったく。
だから、俺の背の下でアルマジロのように背筋を曲げていた枚田がおかしなことを言い出したのも、あるいは当然の成り行きだったのかもしれない。
曰く、
「最近、春が来たような気がするんだ」
一、二、三、とスリーカウントで降ろされる。
「春だと? どうやらお前の頭の地軸はどうかしちまったようだな」
この灼熱のなか何を言い出すかと思えば。
「はあ、何言ってるんだ。おかしいのはお前の頭の方だ。まあいい。茶化すならこの話はナシだ」
「まあ早まるなよ」
すると枚田は「ヨシ来た」と言わんばかりに下品に小鼻を膨らませ、口を開きかけた。
「よ──」
だが、折り合い悪くそこでホイッスルが鳴った。音の発生源を見ると、筋骨逞しい体育教師が集合を掛けている。ストレッチの時間は終わりということらしい。出る鼻もないうちに挫かれた枚田は、見るからに不服そうに唇を歪めたが、そこは大人しく小走りで四列縦隊に戻った。
「今日はバスケットボールだが、まずはランニングだ。しっかり走れよ」
とありがたいお言葉をいただき、隊形は二列へ変形。体育館をぐるぐる回り始める。何だか普段より息の上がり方が早い気がする。気の所為にしてもよかったが、考えてみると原因はすぐに分かった。ちょうど俺の前をひた走る体育委員の某氏がペース引き上げているのである。今日は男と同じように女子も体育館を走っていると言えば、これ以上の説明はいらないだろう。
十周ばかり走り終えると、三々五々に散らばり、シュート練習が始まった。
一投目──ハズレ。二投目──ハズレ。三投目──ハズレ。
何糞と意地になった四投目、ボールが手を離れんとするその瞬間、背中でゴホンと咳払いが聞こえた。振り返ると枚田が口許に拳を当てている。放ったボールは勢いよくゴールリングに当たり、あらぬ方向に飛んでいった。
「さっきの話の続きだが」
枚田が悪びれもせずに言う。何が「茶化すならナシだ」だ。どうしても話したいんだろう。が、嫌味は口には出さない。それが友としての優しさというものだ……と言うと、俺の株は急上昇するんだろうが、違う。しょうもない言い訳を並べ立てるこいつの顔を見たくないだけだ。面倒くさいし。それに、実のところ枚田とは「友達」と言えるほど仲が深いわけでもない。
週に何度かある体育。基本隊形は、「二列横隊×二クラス=四列横隊」である。準備体操及びストレッチの際、一列目と二列目、三列目と四列目、すなわちクラスごとに前後でペアを作っていくのだが、クラスの男の数が奇数だとのっぽが一人余る。こんな時、本来なら申し訳なさそうに科を作りながら隣のペアにすり寄って恥辱を味わうか、教師に情けを掛けられて屈辱を味わうかの二つに一つなのだが(大抵は前者である)、幸か不幸か──いまとなっては不幸だったと思っているが──後ろの四組でも同じことが起きていた。するとどうなるか。二人ともが、その無駄にでかい図体のせいで割りを食っていることなんて忘れて、あっぷあっぷ踵を持ち上げ始める。そして、
「何? お前余ったの? 仕方ないな、俺が組んでやるよ。感謝しな」
といった風情で手を差し出し合うのである。見るに堪えない光景だが、事実、こんな具合に俺と枚田の仲は深まっていき、おっと失礼、決して深まることなく二年目に突入している。
枚田に前を譲ると、奴は慣れた調子でドリブルを始め、華麗にレイアップを決めた。ところで、長身はバスケが上手いと思われるかもしれないが、これは全くの偏見である。スポーツの要は機動力だ。ロールスロイスのボディがあってもエンジンがペダルじゃあ却って三輪車よりノロマだろう。同じことだ。シュート力は関係ないだろうって? いやいやあるのさ。関係ないなら俺の存在に説明がつかないじゃないか。
枚田が列の最後尾、すなわち俺の背後に付いて訊いてくる。
「四組の次の授業を知っているか」
「何でそんなことを俺が知らなきゃならんのだ」
「そう言うと思ったよ。別に引っ張ることでもないからさっさと明かすと、俺らの次の授業は物理だ。最近は〈気体の持つエネルギー〉についてやっている。といっても文系のお前には分からないだろうけどな」
枚田は鼻を鳴らした。失敬な奴である。物理なら俺も去年しっかり履修した。もっともお尻に「基礎」がくっついていたけれども。……いや、待て。物理、物理か。何かが引っかかる。しかし思い出せない。気の所為か。いや、そんなはずはない。さっきのランニング然り「気の所為か」は大抵の場合、決して気の所為などではないのである。自分の直観を疑うなかれ。しかし、はて……。
あともう少しというところで擦過音に思考が掻き乱される。バスケ部に所属するクラスメイトの撃ったシュートが見事な放物線を描き、ゴールネットを揺らしたのだった。枚田がボールを弾ませて前進するように急かしてくる。それから巨大な手のひらで球を鷲掴みにし、人差し指の上で回転させようとしたが、無様にも落下した。失態を誤魔化すように人中をこする。
「まあ、何が言いたいかというとだな。物理の授業で隣に座る女子が、毎回教科書を忘れてくるんだ」
「へえ、とんだおっちょこちょいもいたもんだな」
枚田は出来の悪い生徒を持つ塾講師のように肩を竦めた。
「いいか、その子仮にEとしようか──Eが忘れるたびに、俺は『悪いけど見せてくれない?』と頼まれるんだぜ」
「そりゃ、はた迷惑な奴だな」
枚田が仮名を使ったのは同じ体育館内にいる女子に配慮したからだろう。しかし何故「E」なのか。まさか「良い女」というダブルミーニングが込められているわけでもないだろうが、それが事実だとすればいよいよだ。勘弁してほしい。ランニング後、体育館中央に引かれたグリーンネットの西側で女子はバドミントンをしている。カクテルパーティ効果とはいうが、ボールの弾む音で満たされた体育館だ。本名を出したところで当人の耳に入る心配があるとは思えない。
「だがEは教科書を忘れるようなタイプじゃないんだ。一度だけならさもありなん。しかし、ずっとというのは明らかに不自然だ。そこで俺は仮説を立ててみた。そう、きっと彼女は俺に好意を寄せていて、俺の気を引くためにわざと忘れてくるのだと」
もう、何というか、かける言葉も見つからなかった。というか情けなさ過ぎて泣きたい気分だった。俺はこんな奴の背中で一年以上も馬跳びをしていたのかとね。
もはや怒りさえ湧いてきたが、ここで枚田を罵っても却って惨めになるだけだし、何より死体に鞭を打つのは趣味じゃない。仕方なしに慰めの言葉を絞り出そうとすると、枚田がそれを手で制した。
「そんな顔をしないでくれ。言いたいことは分かるよ。俺だって常識的に考えたさ。だが……」
自分の表情筋が抗い難く哀れみの方向に変化していくのを感じる。枚田は最初こそ威勢を放っていたが、そのうち語尾がしぼんできた。
「……いや、いいだろう。そこまでいうならお前には分かるんだろうな? Eが教科書を忘れてくる理由」
勘違いして欲しくないのだが、この安い挑発に乗ったのは、この勘違いのっぽにほだされたわけではなく、名も知らぬ少女Eの名誉を守るためである。こんな奴に勝手に気を持たされたんじゃ、いくら何でもあんまりだろう。
まったく大雨は降るし、荷物は重いし、シュートは入らないし、とんだ一日である。せめて朝から雷が轟いていれば多少はマシだったろうに。だが、本事件(これを事件と言っていいなら)の顛末は俺も無関係でいられないものだった。だからあんまり不平不満ばかり言うわけにもいくまい。俺には責任がないと言うのは簡単だが、それはちょっと強情というものだろう。
二
長針が半分と少しだけ回って、三限が終わった。休み時間、俺は更衣室で制服のボタンを留めていた。例の問題は解決の兆しを見せるどころか、詳細すら未だに掴めていない。教師の眼光がフルーレの如く尖鋭な輝きを放ち続けていたのだから仕方あるまい。
ベルトを締めて更衣が完了した俺は、体操服を詰めた袋をグルグル振り回す。運悪く後片付けを手伝わされた枚田はまだ体操服を脱いでいる。手持ち無沙汰に、まずは前提を明らかにすることにした。
「ずっと忘れてくると言ったが、それは席替えしてお前の隣になってからということか?」
白いインナーに首を通しながら枚田が答える。
「ああ、いや教室の話じゃない。物理は金曜の四限だけ物理実験室で授業をやるんだ。席順は出席番号順で固定されていて、俺と彼女はそのコマだけ隣同士になるんだよ。席替えはしない」
「どうして金曜の四限だけ?」
「四月の頃は〈物体の運動〉とかやってたからな。一週間の最後に学んだことを実験室で実証してたんだ。その習慣が続いているだけだよ。気分転換にもなるしな」
「とすると、彼女は四月から教科書を一度も持ってきていないってことか?」
そりゃあそもそも購入してないだけだぞ──と俺が言うより、枚田が「いや」と口にする方が早かった。
「持ってこなくなったのは、割と最近だ。……そうだな、一ヶ月くらい前かな」
一ヶ月! 想像よりずっと最近の話である。こんなの推理するまでもない。答えは明白だ。
「一ヶ月前に教科書を失くしたんだ。金がないのか、本屋に行くのが億劫なのかは知らないが、Eはまだ教科書を買い直していないんだよ」
枚田は余裕綽々という風にかぶりを振った。
「それはない。Eがまだ教科書を持っていることは既に確認している。持っているのに持って来ないんだよ」
「確認したって……直接訊いたのか?」
それならいっそ持ってこない理由を訊いてしまえばいいのに。まさか「あなたが好きだからです」とは答えないだろうが(こう答えるほど積極的であればわざわざ教科書を忘れて気を引こうなんて、馬鹿みたいに回りくどいことはしないだろう)、その反応で本当に枚田に好意があるのかくらいは分かるだろう。まあ絶対ないだろうがな!
枚田は眉間に皺を寄せて唇を尖らせた。
「訊くと思うか? 教室で机の中から出しているところを目撃したんだ」
まるで犯罪の瞬間を捉えでもしたかのような口ぶりだ。
「すると他のコマということだな」
「その通り。四組は物理の授業が週に四コマある。月曜日の三眼、火曜日の一限、水曜日の五限、そして金曜日の四限だ。金曜以外のコマでは、Eの机上にはしっかり教科書が用意されている」
俺が相槌を打ち、枚田が胸を張った。
「つまりだ。Eは俺と隣になる曜日だけを狙って教科書を持ってこないことになる。なぜか?」
枚田が顎をしゃくってくる。こいつにイニシアチブを握らせるわけにはいかない。少し考えてこう言った。
「お前のことを舐め切ってるからだろうな。要は授業に困らなければいいわけだろう。横にちょうど良い鴨がいるから、わざわざ自分の荷物を増やす必要はないと考えてるんだ」
枚田は静かに息を吐いた。その動作の模倣を以て返答とする。
枚田の論理は明らかに飛躍している。事実なのは、「少女Eが金曜四限の物理に(おそらくは意図的に)教科書を持ってこない」ということだけだ。そこに枚田が一枚噛んでいるという確証もない。不確定な事実に勝手にストーリーをつけてはならない。だが、枚田の飛躍が絶対にありえないと反論するには手札が不足している。限りなくゼロに近いだろうが、それも可能性の一つではあるのだ。
壁時計を見ると四限の開始時刻が迫っていた。更衣室には、既に俺と枚田以外誰もいない。早く出ろと言うと、枚田は口を八の字にひん曲げて体操服入れを肩に掛けた。
三階に向けて東棟の階段を並んで上る。
「ところで」
気になっていたことを一つ訊いてみることにした。
「あくまで仮にだが──、仮にEがお前に好意を抱いているとしよう。Eが教科書を持ってこなくなったのは一ヶ月と言ったな」
「ああ」
「だとすれば、Eがお前のことを好きになったのも約一ヶ月前になる」
枚田が顔を顰めた。
「一ヶ月前、お前は何か彼女に好かれるようなことをしたのか?」
先程までの漲るような自信過剰ぶりから一転、枚田は急に狼狽し始めた。
「え、あぁ、いや、そうだな……」
そうやってしばらくモゴモゴしていたが、二階の踊り場に至ると、ようやくひとさし指を伸ばし、俺に向けた。
「お前、恋の始まりがドラマチックなイベントばかりだと思ってんのか? 恋愛小説じゃあるまいし、現実なんて大抵平凡なもんさ。進級から二ヶ月後に始まる恋物語があって何が悪い。それに彼女がアクションを起こしたのが偶々ひと月前だったというだけかもしれないだろ」
概ね正論ではあるのだが、枚田に早口で言われると腹に落ちない。
三階に着く。南北に長いこのフロアには二年生の教室しかない。三組教室はフロアの中程にある。前方のドアから教室に身を乗り入れると、教卓の前で国語教師が自前のチョークの準備をしていた。ドア間際の自席めがけて体操服を放り、一応忠告してやる。
「急いだ方がいいぞ。物理実験室まで行くんだろ」
「こりゃやばい」
枚田は隣の四組に飛び込んで行き、十秒と経たないうちに物理の教材を一式抱えて出てきた。B5版の本を指差して尋ねる。
「くだんの教科書はその青いやつか?」
「いや、違う。こっちだ」
枚田が抱えた教材の中から抜き出して掲げたのはB4版だった。銀河の写真上に『改訂版 フォトサイエンス 物理図録』の文字。確かに授業に必要な参考書には相違ないが──。
「教科書じゃないだろ。それ」
そう言うと、枚田は不敵に笑った。
「そうだな。これは教科書ではない」
あえて見せつけるように溜息をつく。
「もういいよ。それより走らないと遅刻するぞ」
とっとと行けと手の甲を向けると、枚田は素早く身を翻した。物理実験室は西棟にあるが、渡り廊下を使えばそれほど時間はかからない。リズミカルな足音がボリュームを絞るように小さくなっていく。祈る。枚田の背中が角に消える。同時にチャイムが鳴った。遅刻確定。森林浴でやるように深呼吸。いまにもせせらぎが聞こえてきそうな爽やかな快感を覚えた。アーメン。自業自得だ。まあ教会にも森林浴にも行ったことなんてないのだが。
教室を振り返ると、現国教師と座席に着いたクラスメイトの好奇の視線が突き刺さった。自業自得という四文字がリフレインする。
「ああ……ええっと……はははは」
乾いた笑い声が教室に響く。とても自分の声とは思えなかった。
三
四限の現国は気付いたときには終わっていた。もちろん集中するあまり体感時間が加速したわけではない。寝ていただけだ。図ったように授業が終わる直前に目覚めたものだから、教師の俺を見る目といったらカインを見るアベルのようであった。いや、アベルを見るカインは、きっと俺を見る清水の表情にそっくりだったに違いない、と言うべきか。へへへと頭を掻くと、にこりと微笑み返された。無言の圧力に背筋が冷たくなる。
キーンコーンカーンコーン。
起立、礼。
唱和。ありがとうございましたー。着席。
しばらく放心した後、教科書、ノート、便覧、キーワード帳をまとめて机の中に突っ込む。清水には悪いが、白状すると進級以来これらは一度も家に持ち帰ったことがない。
既に自前の弁当や食堂から買ってきたものを食べ始めているクラスメイトを尻目に教室を出て、階段を降りる。さて、俺も食事にするとしよう。
*
我らが風花高校の食堂は西棟の隣、プールの真向かいに建っている。全体的に薄汚れた、何だか情けない建物だ。しかし、庇が西棟の出入りから続いているので、台風でも来なければ濡れることはない。
ほとんどいつも飽和している食堂の座席だが、雨天時はさらに人が増える。普段、青空弁当をしている連中が流れてくるのだ。だが、それは俺には関係ない。いつも席を取っておいてくれる連れがいるのだ。食堂内をざっと見渡す。一周。二周。三周。見つからない。珍しいことにどうやらまだ来ていないらしい。だが幸いなことに五分ほどで空席を確保できた。
さらに五分経過。待ち人来ず。庇があるとはいえ、雨の降りしきる外に出ようとする者は誰もいないので、長蛇の列は食堂内をうねりにうねり、混沌としている。普段は立場が逆なので、待つことに関しては何も思わない。だが、流石にこの列を見ていると、ぽつんと座っているのではなく一刻も早く列に並んだ方がいいのではないかと思えてくる。とはいえ、せっかく確保した席を放棄するわけにもいかない。何かを身代わりにしようにも、生憎、財布以外のものは持ってきていない。携帯電話さえリュックの中に置いてきた。まさか財布を放り出していくわけにもいかないだろう。別にカードの類いは入っていないし、財布自体も高価な代物ではないが、財布を人の目に晒すというのは気が咎める。やれやれどうしたものかと心中で右往左往していると、
「ごめんごめん」
という声が降ってきた。顔を上げると数馬が申し訳なさそうに立っている。頬は汗ばみ、息も切らしているようだった。
「授業が押しちゃってさ」
「……」
数馬が小首を傾げる。
「あれ、怒ってる?」
「……ああ。いや全然そんなことはないよ。ちょっと飯買ってくる」
両腕を支えにヨイショと立ち上がり行列の末端に加わる。ウロボロスにもリヴァイアサンにも見えた列だったが、順番は思いの外早く回ってきた。トレーに月見蕎麦と水入りのコップを載せて席に戻る。数馬は律儀にも弁当を開かずに待っていた。SNSをチェックしているのか、スマホに目を落としている。
「先に食べていてもよかったのに」
「まあ、冷めるものじゃないから。てか元々冷めてるし」
スマホをポケットに入れながら数馬が答える。何度も繰り返してきた会話だ。口が裂けても本人には言わないが、数馬のこういうところを俺は結構気に入っている。
いただきます、と同時に手を合わせた。慎重に麺をたぐる。黄身を割る。またたぐる。同時に脳の襞に引っかかった針が取れるような、絡まった紐がするする解けていくような錯覚に包まれる。軸は完成した。問題は補強材と順番か。
「さっき授業が押したって言ってたけど、先生は厳しいのか」
数馬は枚田と同じ四組だ。だから金曜の四限(すなわちついさっきの授業)は枚田と同じように物理を受けている。
去年、俺たちの学年に物理基礎を教えていた教師は、今年から隣の市の高校へ異動してしまった。いま二年生に物理を教えているのは、今年から赴任してきた岩谷とかいう中年で、俺はよく知らない。教師の人柄は必要な補強材の一つだった。
返答がない。顔を上げると数馬が怪訝そうに咀嚼を続けていた。ごくんと喉を鳴らすと、呆れ顔で嘆息する。ちょっとムカつくな、その顔。
「妙に儀式めいた調子で食べてるなぁと思ったら、そんなこと考えてたのか。何でまた?」
なぜ? と訊かれると弱い。俺の目的は「少女Eが教科書を忘れてくるのは枚田が好きだからではない」ことを証明することで、秘密裏に彼女の名誉を回復することなのだ。枚田の妄想を吹聴することになると困るので、誰かに話すわけにはいかない。
俺は、できるだけ単なる世間話に聞こえるように声のトーンを調整した。
「そんな噂を聞いたんだ。時間にうるさいとか何とか。実際のところは?」
数馬はマカロニを掴もうとした箸をいったん止めた。
「そうだな、確かに時間には厳しいかもしれない。今日授業が延びたのも遅刻してきた人がいたからだったしね」
枚田のことだ。
「怒られた?」
「怒鳴られたりはしてないけど、ちょっとお小言を。説教のために削られた十分が昼休みに食い込んだ」
「岩谷は時間に厳しい」どうやらこれは真であるようだ。だが、気に入らない。
「岩谷は時間にうるさいくせに、自分の授業は延長するのか」
言動に一貫性がない。俺の最も嫌いな──というか万人に嫌われるタイプだ。四組はそれで納得しているのか。誰も文句を言わなかったのだろうか。
「まあ、これで『お前たちのためを思って言ってるんだぞ』とか『俺の休み時間も削られてるんだぞ』とか言ったら流石に皆キレたと思うけど、説教の内容は結構的を射ていたし、チャイムが鳴ったとき、かなりキリが悪かったんだよ」
数馬はひょいとマカロニを口に放り込んだ。
「それに……」
急に歯切れが悪くなる。言葉を引き出す必要があった。
「言いにくいことなら無理に言う必要はないが」
嫌ならやらなくていい。これは魔法の言葉である。こう言われるとムキになってやってしまうものなのだ。案の定、数馬も続きを話し始める。
「これは理由としてはイマイチかもしれないけど、教えるの上手いんだよ、岩谷先生。すごく分かりやすい」
なるほど、それなら仕方ない。実力以上に人間の言葉に説得力を持たせることのできるものなんて存在しないのだから。
「他はどうだ?」
「他って?」
「毎回課題をたくさん出すとか、それをやってこないと大変なことになるとか、……忘れ物に厳しいとか」
数馬はしばらく首をひねって考えを巡らせたが、結局、
「特には……」
と言っただけだった。時間にだけやたら厳しい中年物理教師か。これは俺の勝手な想像だが、若い頃に何かやからしたのかもしれない。たとえば入試に遅刻するとか。いかにもありそうじゃないか。
四
「先週はこっぴどく岩谷に怒られたそうだな」
七月の第二金曜日の三限、快晴。俺と枚田はプールサイドに腰掛けており、楽しそうにはしゃぐクラスメイトたちに目を向けていた。いまは自由時間である。高校生にもなって、と思われるかもしれないが、実際高校生になっても「自由時間」という響きは嬉しく聞こえるものらしい。まあ俺は御免だが。
「なんだ、話が早いな。本当に参ったよ」
そう言う枚田の顔面は蒼白で覇気が感じられない。枚田は、バスケは上手いが泳ぎに関してはテンで駄目なのである。今日の一〇〇メートル測定はさぞ堪えたことだろう。俺もスタミナがあるわけではないが、枚田のタイムを下回ることはない。どうやら運動神経と体力は比例するわけではないらしい。
「時間に厳しいようだな、岩谷は」
「ああ」
「遅刻したのはお前が初めてだったのか?」
「いいや、二人目だよ。進級したばかりの頃に一人目が出た」
枚田は面白くないという風にぴちゃぴちゃと水面を蹴り上げた。
「なるほど。そのとき四組は悟ったわけだ。この授業は遅刻できないぞ、と」
「そうかもな」
「先週、Eは『図録』を持ってきただろう」
枚田ははっとして俺の顔を見た。
「まず今年の四月、五月を考えてみる。四組の金曜二限が何かは知らないが、三組だったら日本史だ。俺らは日本史の授業が終わると更衣室で体操服に着替える」
言うまでもないが、この更衣室は体育館一階の方である。
「体育が終わったら、同じように更衣室で制服に着替えて教室に戻る。そしたら今度は現国だ。体育の後だから毎回眠くてたまらない。……まあ、三組の話はどうでもいいんだ。
四組の場合は? 四組も体育の後、三組と同じように教室に戻るだろう。教室に体操服を置き、物理の教科書なんかを回収して物理実験室に向かう。教室と実験室は同じ三階にあるから、渡り廊下を使えば二分とかからない。
ところが、一ヶ月前、事情が変わった。水泳の授業が始まったんだ。更衣室が教室からだいぶ遠のいてしまったな。授業後、わざわざ教室まで戻るのはちょっと手間だ。特に水泳の後は着替えなんかに時間が掛かるしな。のんびりしていたら授業に遅れるかもしれない。遅刻したら説教だ。それは困る。だったら更衣室に物理の用意を持っていって、授業後、そのまま実験室に向かえばいい。時間短縮だ」
と、まあ格好つけて喋ったが、四組の生徒の多くがプールバッグ片手に物理の教材を抱えているところを見れば、こんなのは誰にでも分かる。逆に、この一ヶ月間まったく気づかなかった己の観察眼の鈍さを恥じるべきだろう。
「それで?」枚田は両足をプールから引き上げると、足裏を合わせてストレッチするような体勢になった。
「それがEとどう関係ある?」
「食堂って、だいたい毎日混むんだよな。すぐに席が埋まるから座るのも一苦労、並ぶのはもっと大変だ。
プールから上がる。更衣室から出る。目の前は食堂だ。三限が終わったばかりだから、まだ誰もいない。『ああ、いまはこんなに空いてるのに』と思うだろう。それから『そうだ! いまのうちに席を確保してしまえばいいじゃないか!』と考えてもおかしくはない。席取りには何か身代わりが必要だ。手元には、物理の用意が一式とプールバッグ。まあ、あとは携帯や財布なんかも持ってるかもしれないが。
プールバッグの中身はもちろん水着だ。女子がこんなものを置き去りにするわけにはいかない。教室に放置しておくのとは訳が違うだろう。物理の教科書、ノート、筆記具、こいつらは授業で絶対に使うから駄目だ。じゃあ、と消去法で選ばれたのが『改訂 フォトサイエンス 物理図録』だったわけだな。図録なら授業で毎回使うわけじゃないし、むしろ使わない日のほうが多い。学校指定の参考書なら履修者みんなが持っているから、勝手に持っていくような人もそうそういない」
それこそ自分のものを失くしたり、そもそも買っていなかったりしなければ。
枚田は黙って股関節をほぐしている。
聞いたところ、岩谷は忘れ物に目鯨を立てることはないらしい。「図録は毎回使うわけではない」というのはただ俺が「物理基礎」を受けていた頃はそうだったというだけだが、枚田が反駁してこないところを見ると間違いではなかったようだ。
先週は微妙な天気だった。朝から「確実に水泳は不可能だ」と判断できるくらい雨が降っていれば、体操服に加えて水着も持ってくる必要はなかったのだ。そのせいで荷物が増え、通学時の電車では大変な思いをした。おかげで今日は楽だったが。
「そうだな。ひと言で理由をいうなら『席取りのために使っていたから』となるのかな」
そこまで言うと、枚田は、
「なんだー、そういうことだったのかー」
と胸の前で拍手した。最近じゃスマートスピーカーだってもう少しマシなイントネーションをしている。手が打ち付けられるたびに飛沫が出るので俺は顔を背けた。身体の水分はもうほとんど乾いてしまった。刺すような日差しが背中を照りつけている。
「でもそれなら何か別のものを持ってくるんじゃないか? 少なくとも二度目からは。そうすれば図録が犠牲になることもないだろう。たとえば別の教科書とかさ」
「……本人に訊くのがいいが、おそらく罪悪感の問題だろう。一時間以上も前から席を確保しておくなんて、言っちゃ悪いが褒められたことじゃない。始めから持っていたものを使うならともかく、そのために新しく道具を用意するのは流石に良心の呵責に耐えかねる……、そういうことじゃないか」
枚田が「良心の呵責ねぇ」と繰り返す。タイム測定から大分経ち、動悸は治まったはずなのに胸に痛みが走る。
「……もうそういうのはよせ、枚田。こんなこと、同じクラスのお前が分からなかったはずはないんだ。『図録』を『教科書』だなんて下らないミスリードまでしやがって。お前、俺に言いたいことがあるだろう」
枚田は再び両足を水の中に戻した。
「Eは」まったく何でこんな回りくどいことを。直接言うのでは駄目だったのか。「数馬のことだな」
枚田は澄まし顔で「そうだ」と言った。……改めてこんなことを言いたくはないが、数馬恵莉とは恋人なのである。どちらからともなく毎週金曜日は一緒に昼食を摂るようになった。
「一ヶ月くらい前から、急に忘れたと言うようになったんだ。お前の言う通り図録なんて毎回つかうものじゃないから『見せてほしい』と頼まれたのは二回くらいだったが、どうやら毎週持って来ていないようだった。数馬が参考書を忘れたことなんて四月から一度もなかったから、これは不思議に思うのが当然だろう。始めはてっきり紛失したものだと思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。
そんなときだった。数馬とお前が二人で飯を食ってるところを見たのは。普段食堂には行かないからただの偶然だったが、全然知らなかったから心底驚いたよ。……きっとお前にも数馬にもそんなつもりはなかったんだろうが、隠されていたみたいで段々腹が立ってきてなぁ。『奇遇だな』と嫌味でも言ってやるつもりでそれから何日か食堂に通って観察したんだ。するとどうだ。決まって遅れてやって来るのはお前の方だった。それも悠揚迫らぬ調子で」
いま観察と言わなかったか。頭髪の毛穴まで逆立ったぞ。
「とても彼女に席取りをさせておいて、見せられる泰然さだとは思えない。さらに自覚もないときている」
耳が痛い。ああ。胸にも痛みが。
「だいたい数馬も数馬だ。文句の一つでも言ってやればいいのに、唯々諾々と従っている。まあ、その優しさはあいつの長所でもあるが」
まるで俺が暴君であるかのような言い草だ。これは俺の名誉のために言うのだが、「席取り頼む」と俺の口から言ったことはただの一度もない。何となくそういう習慣がついてしまったのだ。ただ、これが言い訳にもならないことは俺が一番分かっていた。
「……良くはないよな」
枚田が視線をこちらに鋭く切る。
「良くない?」
「ああ、いや悪かったと思ってるよ。本当に」
「まあ、俺には関係ないことだから流してもよかったんだが、ひとこと言ってやりたいこともあったし、せっかくだからこうして策を弄してみたわけだ」
いや、何もせず水に流すつもりなんて毛頭なかったに違いない。こいつの目的は始めから俺に一泡吹かせることだったのだ。つまり、いま俺が詰め寄っているこの状況こそが枚田の想定した最後のビジョンだったのだろう。俺が枚田の横に腰を下ろしたとき、こいつは心躍っていたのだ。そう思うと──悪いとは思っているのだが──釈然としない。うまく乗せられたみたいで気に食わない。
「満足したか?」
もしかすると、言い憚れるようなこの行為は枚田の趣味なのかもしれない。常々おかしな奴だとは思っていたが、本当に性根まで悪かったとは。
「いいや、俺なんかに暗に指摘されてさぞ悔しがると思ったんだが、期待外れだったな。せめて唇くらい噛んでくれないと」
枚田はケラケラと笑う。ずっと向こうの救急車のサイレンでも聞いている気分だった。真横で発せられているはずの声がひどく遠い。
これからどうするべきか。まずは数馬には釈明しなければならない。水泳は夏休みを挟んで九月頃まで続く。今後も同じことをやらせるわけにはいかない。だが、数馬に関してはそれで解決するだろう。
問題は──、問題は馬脚を現した枚田とこの先もペアを組み続けなければならないことだ。少なくともあと半年。正直こんな奴とは付き合っていけないと思い始めていた。だが妙案は浮かばない。
考えは定まらず、いつしか俺はホイッスルの音を待っていた。
五
「──まあ、そういうことがあったんだ」
と茂が締めくくるのとほとんど同時に私たちは駅に到着した。風花高校から最寄りの駅まで、少し歩かなければならない。歩くには長く、別に自転車を用意するにはもったいない。そんな距離だ。じっくり話し込むにはちょっと時間が足りない。だから茂が事実からどれほど枝葉を省き、あるいは省かなかったのかは分からない。枚田からも事の顛末を聞いて二人の話を擦り合わせてもいいけれど、おそらく大した違いはないだろう。枚田には及第点を与えてもよさそうだ。
エスカレーターを上がってコンビニの前を通り過ぎる。周囲には私たちと同様に家路につく風花高校の生徒が多く、毎日のことではあるけれど、地域の人は迷惑に思っているかもしれない。
「迷惑をかけた」「悪かった」と茂は話のなかで何度か繰り返した。私はその度に健気に「そんなことないよ」「もういいよ」と返していたのだけど、いま考えると、私もどこかで迷惑に感じていたのだろう。
茂には視野が狭いところがある。いつも人なんてどうでもいいという風に歩いているし、そのことの自覚も足りない。精神年齢が幼いというわけではないのだけど、大人と言うには少々社交性がなさすぎる。
けれど、私がこういったことを茂に注意することはなかった。いちいち口に出すのも躊躇われたし、それでも私たちは順調にやれていると思ったからだ。だから枚田から「一矢報いてみないか」と話を持ちかけられたときは、気乗りがしなかったのだけど、仔細を聞くうちに徐々に興が乗ってきた。結局「私は何もしないけど」と断りを入れてゴーサインを出した。
枚田とは去年も同じクラスだった。だから、大した話ではないけれど、それでも会話はする。枚田は話せる人だ。おそらく茂は私と枚田に繋がりがあることも知らない。興味がないのだろう。
何かしら改善が見られればいいかな、と思っていたのだが、茂の表情を見るに予想以上の効果を発揮したらしい。
「枚田とこの先も週二か週三のペースで顔を合わせなければいけないと思うとうんざりだ。お先真っ暗だよ」
ああ、そっちか。改札を抜けてホームに降りる。電光掲示板を見ると、次に来るのは準急のようだった。
「枚田は茂のこと気に入ってると思うよ」
「あいつが? まさか。ただの変人だよ。からかってるだけだ」
でもこれは残念ながら事実なのだ。以前、枚田は「あそこまで同じ目線で話ができる奴は珍しい」と言っていた。枚田も頑固なところがあるから直接的な表現は使わなかったが、おそらく友達になりたかったのだろう。いや、既に親友と思っていたとしても不思議ではない。
私と茂のことは何も隠していたわけではないけど、わざわざ自分から言ったりはしないし、私たちが一緒にいるところを目撃するか、第三者から聞かないと知ることはできない。もし枚田が一方的に友達認定していたとしたら、話さなかった茂を裏切り者だと思ってもおかしくないかもしれない。……おかしくないのか? いや、おかしいな。やはり枚田は茂の言う通り変人だ。アブナイ奴だ。
でも、面白かったから今回は不問に付すこととしよう。本人に黙って連絡先を渡すのは問題だから……、そうだな、今度三人で何処かに出かけようか。枚田は喜び、茂は嫌がるだろう。嫌がる茂を見るのも一興だ。
電車が速度を落としつつホームに滑り込んでくる。準急に乗るのは私だけだ。茂は各駅停車に乗る。
「じゃあ、また」
茂は力なく手を振った。もう一度言う。
「本当に悪かった」
私も繰り返す。
「もういいよ」
「────」
電車の扉が閉まる。最後に茂が何か言った気がしたが、それは聞き取ることができなかった。