なんとなくスマートフォンからフランク・シナトラを流していたら、十一曲目でFly me to the moonが流れてきた。朝の五時のことである。軽快なメロディーに耳を傾けていると、今日は外出でもしようかという気分になってきた。増えすぎて部屋を侵食してきている本たちを古書店に売りに行き、そのあとカフェにでも行こうか。一部はカバーが破れたりシミがあったりしたから、新しいものに買い替えてもいいだろうと前から思っていたのだ。まだこの部屋に住んで三年なのに、こんなにも本が増えてしまったのは全くの予想外だった。
とにかく僕はいつもすべてを持て余していて、仕方なくすべてを埋め合わせるために時間さえあれば女の子と寝るか本を読むかしていた。僕は四国の山奥の出身だったから、京都の大学に進学すると同時に小さなアパートで独り暮らしを始めた。だから逢瀬のためにいちいちラブホテルに赴くだとか、女の子の家に行かせてくれなんて格好の悪い駆け引きをしなくてすんでいたのだ。僕の故郷は、いつも静かで村の人も優しくて、当然のように山では年に何回も死体が見つかっていた。故郷の山は一見して死を誘うような陰気なところではなく、どちらかと言えば草木の茂りや湿度のある匂いが、社会の歯車として擦り切れた人々を癒すようなところで、わりにすばらしい場所だと誰もが言うだろうと思っていた。しかし暖かく穏やかな島はどうやら人を死へと誘うらしく、パトカーのサイレンが山に向かって鳴り響く度に、「早くここから出なければならない」という決心を何度もした。
アパートは市内の端の方で、大きな神社から伸びる坂を上り切ったところにあった。アパートの裏には低い山があり、部屋の窓を開けると昼夜問わずいろんな虫が入ってくるので一年じゅう閉めたままにしていた。そのかわりキッチンの換気扇はつけっぱなしにしていたから、大雨が降っているかのようなモーターの音が四六時中部屋に響いていた。だから僕の部屋に泊まった女の子は皆朝起きると、もしかして雨降ってるんじゃないのと言いながらカーテンを開け、降っていないことを確認すると二度寝をしていた。
「気持ちよさそうに寝ているところ悪いんだけど、これから出かけようと思ってるから支度してくれないかな。その間に朝食を用意しておくから」
歯磨きをしながら三年の付き合いになるAに呼びかけた。彼女とはサークルで知り合ったが、僕の方は二週間で辞めてしまったからこういう関係になっても面倒は無かった。特別可愛らしいということも無かったが、彼女の遠慮のない物言いが気に入っていた。
「あのね笹岡君、あなたは今私にさっさと出て行けと言ったのを朝食を作るという行為で相殺し、あわよくば自分の方が朝食を作らされてかわいそうな人間にしようとしたでしょう。女の子ってそういう事すぐに気が付くからあんまやらない方がいいと思うよ」
彼女は不服そうに言いながら僕を睨みつけ、下着を付けながらまた何かぶつぶつ言っていた。彼女が良くつけている田舎のイオンで買ったみたいな悪趣味な下着はあまり好きじゃなかった。せっかくの若い体がそれだけで中年女みたいに見えたからだ。若い女性は皆スタイリッシュな下着をつけた方が良いといつも思っていた。
僕はトースターにパンを二枚入れ、お湯を沸かしてインスタントのコーヒーを入れた。
彼女は朝食を食べている間にも僕に不満を言い続けていた。
「だいたいね、笹岡君はロシア文学の読みすぎなのよ。あんな陰気臭くて重くてメンヘラの何がいいのかさっぱりわからない。あんなものばかり読んでるから短小で包茎で早漏なのよ」
彼女は食パンを詰め込みながら早口でまくし立て、また何か文句を言っていた。
「僕は銭湯によく行くから男性器は君よりはるかにいろんな人のを見たことがあるけれど、僕のは比較的平均な方だと思うよ。それにロシア文学を読んだだけで形状が変化したりしない。だけど君を不快にさせたのなら謝る」
コーヒーを啜りながら悪かったと言うと、彼女はちらっと僕の方を見てから席を立ち、鞄に荷物を詰めた。
彼女がアパートを出た後、僕はもう読まなくなった本を二十冊ほど選んで紙袋に詰め、シャツとスラックスに着替えた。髪をワックスで整えようかと悩んだが、手が汚れるのが煩わしいのでやめておいた。代わりに香水をつけた。
近畿地方は梅雨入りしたにもかかわらず、今日は久しぶりの快晴で、じりじりと照り付ける日光が痛いほどだった。紙袋を握る手のひらは汗ばみ、さっきつけた香水が急速に揮発して気分が悪くなってきた。アパートの前の坂を下り神社を抜け、大通りに沿ってしばらく歩いた。
バスを使えば十五分くらいで着くのだけど、せっかくの晴れだったから三十分ほどかけて街まで歩いた。百貨店前の交差点を通ると、西側に「花ちゃんの心臓移植のために募金を」という旗を設置している人が、東側に「コロナワクチンでDNAが書き換えられる、コロナは嘘」という旗を設置している人がいた。それ以外に人はほとんどいなかった。東側の人にビラを渡されかけたが、無視して速足で前を通り過ぎた。
大通りから少し離れたところにある商店街はゴミ取集のための業者しかおらず、がらんとしていてほの暗かった。日中はかなり人が多く、飲食店やアパレルショップが立ち並んでいたが、そのほとんどは昼頃に開店するためまだ誰もいない。
商店街から伸びる路地を進んだ先にその古書店はあった。昔ながらの雑多なところというよりは、最近になって趣味のいいオーナーが作ったようなモダンで整然としたところで、背の高い中年の男性が店番をしていた。栗色の本棚がいくつも並べられ、端の方には画集と映画のパンフレットが何冊か置いてあった。BGMとしてFMラジオが流れている。どうやらジャズの番組らしい。パソコンに向かって作業をしている店員は僕が入店してもいらっしゃいませとも言わなかったし、僕に気づいた素振りすら無かった。
「すみません、買い取りをお願いしたいのですが」
声を掛けると店員はこちらを見て小さな声ではい、と言った。
「紙袋はどうされますか、こちらで処分もできますが」
「あ、お願いします」
「計算したらお呼びしますので、店内をご覧になってお待ちください」
言われたとおりに店の中を眺めながら待つことにした。画集をパラパラとめくり、それに飽きたらG・グリーンの情事の終わりを立ち読みした。なぜかそわそわしてしまって、目が文字の上を滑ってしまい、なかなか内容が頭に入ってこなかった。二十冊の本にいくらの値がつくか気になって落ち着かないのだろうか。本の背表紙に挟まれた二五〇という紙を見て、まあせいぜい一冊二十円になればいい方だともともと思っていたから、買値がどうなるかで落ち着かないなんてことは無いはずだった。
汗ばんだ手で本が皺になりそうだと思い、元の場所に戻した。程なくして店員に呼ばれた。
「お客様、一部の本にシミがあるのですが」
「ああ、すみません。汚してしまったみたいで」
「当店では汚れのある書籍に関しては汚してしまった理由を教えていただくことになっております。」
「汚した理由ですか」
「はい、汚した理由をお聞きしてから買い取りをする決まりなんです。どうして汚したのか、何の汚れなのか」
はあ、と言い、レジカウンターに積まれた本を一冊手に取った。高校生の頃に買った短編集だ。わりと気に入っていたので何回か繰り返し読んだ気がする。中を見ると茶色いシミがあった。
「飲み物のシミですか、コーヒーとか」
店員が顔を近づけて言った。そうだ、そういえばコーヒーをこぼしたのだった。
「コーヒーを飲みながら本を読んでいたんです。突然インターホンが鳴って、慌ててしまって汚したのだと思います」
店員はフン、と鼻を鳴らしそうですかと言った。あまりいい気分ではなかったが、特に抗議はしなかった。
「お客様、これは深刻な問題です。もしかしてお気づきになられてないのですか」
「僕、何かしましたか。そんなにいけないシミだったでしょうか」
「ああ、まだお分かりでないのですね。あなたはもう『ハマって』いるのですよ。本に対して読むことが目的ではなくなっているのです。快楽が目的になっているんです」
「快楽」
僕は急に饒舌になった男の顔を見ながら、同じように繰り返した。
「本を汚す人というのはある種狂っているんです。完成された物語に外部から手を加えて完全体として二度と機能しなくさせるんですから。本人でも知らないうちにどんどん侵されていくんです。最初は自分で自分をコントロールしていると皆思ってるんですが、なぜだかそのうち知らない間に『あれ』があなたを乗っ取って、どんどん本を汚していくんです。真面目な人とか、近親者を亡くした人とかによくあります。心当たりは?」
「ありませんが」
「そうですか、でもあなたは取り返しがまだつきますから。いいところがあるんです。ご紹介しますね」
「あの、今言ってた『あれ』に侵食されるとどうなるんです」
声が少し震えている気がする。
「私が見てきた中で一番ひどかったのは、本と一緒に泥水に浸からないと勃起できないという人がいました。いやあ、あの人は治療に五年くらいかかりましたからねえ」
「それはひどい」
急に具体的に泥にまみれた男が勃起している映像が頭に浮かんでしまい、胸やけがしてきた。男の話を聞いていると僕もいつか泥水に浸かりながらマスターベーションするのではないかという心持になった。まさかそんなことは無いと思いたいが、男はどうやら本当のことを喋っているらしく、もはや『あれ』に侵された自分よりも初めて会ったこの男の方が信用できるのではないかと思えてきた。
「いいところを紹介してくれるんですよね?」
「はい、もちろんです。専用のクリニックで知識ある医師と看護師が対応してくれます。こちらをどうぞ」
クリニックの名前と住所が書かれたシンプルな名刺のようなものを手渡された。「完全予約制、秘密厳守」と書かれている。
「早めの方がよろしいですよ」
僕の顔を覗き込みながら男はそう言った。ラジオはフランク・シナトラの特集をしていた。