僕は父のことをおっちゃんと呼んでいた。今もその癖は抜けない。反抗期に変えてしまった呼び方がそのまま定着したとかそういう話ではなく、幼稚園に入ったばかりの頃、ふと、ある時、なんとなく、おっちゃんと呼んでみたら妙にしっくりきたのだ。変な話だけれど、母のことは疑いもなく母だと思えるのに父のことはどうしてか父だと思えなかった。最初のうちは父親をそんな風に呼ぶのは変だ、駄目だと直す努力をしたが、一度おっちゃんと呼んでしまってからはそれ以外の呼び方では落ち着かなくなってしまった。半年もしないうちに父さんと呼ぶよりおっちゃんと呼んでしまうことのほうが多くなった。おっちゃん呼びが定着してしまってからも友達の真似をしてパパとか親父とか他の呼び方を試したが、全部駄目だった。そういう呼び方をすると奥歯に物が挟まったような気持ち悪さがあった。おっちゃんには、近所の、苗字しか知らない人に呼びかけるように、おっちゃん、これがすっきりきた。これはたぶん、おっちゃんがあんまり父親らしくなかったせいだと思う。
おっちゃんは一緒に出掛けると僕を母さんに任せて何処かに行くか、そうじゃなければ自分の行きたいところにしか行かなかったし、自分のやりたいことしかしなかった。公園に行けばその時のおっちゃんの気分次第でボール遊びか、バドミントンか、四つ葉探しか、どんぐり拾いか、やっぱりすぐに帰るか決まる。僕の意見はちっとも聞いてくれなかった。博物館に連れていってもらった時は、おっちゃんはすぐに飽きて先に出てしまって、そのせいで僕は迷子として保護されてしまった。海遊館に連れていってもらった時は、恐いから嫌だ早く出よう、と言っても全然聞かずに三時間ぐらいタカアシガニの水槽の前にへばりついていた。おっちゃんはいつも自分勝手だった。
それから、おっちゃんは僕の面倒をちっとも見てくれないし、心配もしてくれなかった。一緒に留守番の時に自分の分のご飯しか用意しなかったし、出掛けた先の階段で僕が転んで滑り落ちても立ち上がったらそれでよしとして怪我の確認さえしなかった。一番酷かったのは四歳の時だ。母さんがどうしても休めない日に限って僕はおたふく風邪にかかって、仕方なしにおっちゃんが休みをとって面倒を見ることになった。ところが、おっちゃんは昼食と薬を持ってきただけであとは一日中自分の部屋で漫画を読んでいて、僕の様子を見に来ることもなかった。僕は症状が悪化して嘔吐し、飲んだ薬も出してしまって、母さんが帰ってくる頃には衰弱しきっていた。お陰様で、熱で苦しい中、母さんのヒステリックで心臓がバクバクする響きの声を聞く最悪な目にあった。
そんなこんなで自分のことしか考えていないおっちゃんには常々ろくでもない目にあわされたし、嫌気がさすことも多かった。それでも、僕は、おっちゃんに逆らったことがほとんどない。覚えている限りでは、おっちゃんの実家に初めて帰った六歳の時に、もう何が原因の喧嘩だったかは忘れたけど、おっちゃんとおばあちゃんが喧嘩して、それでおっちゃんが理不尽なことを言ったから、それは違うと言った時の一度だけ。おっちゃんは一瞬驚いたような顔をした後で獣みたいに唸って、シャンプーをするみたいに頭を激しく掻いて、それから千鳥足でふらふらしたかと思えば近くにあった電話機を持ち上げて僕の頭に向かってぶんと振り下ろした。きっと凄い音がしたはずなのに、聞こえたのは受話器が床に落ちた鈍い、ゴトッという音と、その後に続いた小さな金属の部品のたてる、チリンという、小銭が落ちたような音だけだった。十秒ほど呆然と立っていたら鉄棒の匂いがして、後頭部を触ると血が出ていた。夜の十時ぐらいだったが、恐ろしくなって裸足で逃げた。探しに来た母にタオルで止血をされ、一時間ぐらい防波堤で話して、それから帰れば、子犬のように縮こまったおっちゃんがいて、それを見れば恐ろしさは不思議にあっさりと消えてなくなった。その代わり、優しくしてやらなくちゃあいけない、とぼんやりと思った。
以来、自分で言うのも変だけれど、僕はとてもいい子になった。いつも大人の言うことをよく聞いて、また、礼儀正しく、大人しく、調和を好むということで、先生方や同級生の親なんかには大層褒められた。同時に年の近い子どもからはなんだか気味が悪いと言われて少々距離を置かれるようになった。そのことについて当時の僕は周りの成長があまりに遅いから僕のような正しい生き方の良さをわからないのだと思っていた。何でもいいから、大人のことを満足させなくてはならない、そうすると、毎日平穏に過ごせるし、美味しいアイスクリームも手に入るし、運が良ければゲームや漫画だって買ってもらえるし、とにかく、大人の逆鱗に触ってはいけないと思っていた。友人の家族が遊園地に僕も一緒に連れていってくれて初めてどうもそれは違ったらしいと悟った。十二歳の時だった。遊園地自体は前にも何度か行ったことがあったが、着くなり自分の行きたい場所を聞かれることはそれまでなかった。普通はこうなのかと思うと、急に辛く悲しくなって、入場ゲートをくぐったばかりなのに、もう帰ります、一人で帰りますから、帰らせてください、と言い出して友人家族を困らせてしまった記憶がある。他人の家族を相手にして初めて僕は子どもになったのだ。実の父親の前では僕のほうが、保護者みたいに優しく気遣ってやらなくちゃいけなかったから。
ただ、そんな風でも、たぶん、おっちゃんは僕が憎いとか邪魔でそういう態度だったわけではなかった。単純に自分のことで手一杯で他を忘れてしまうという風だった。本当のところおっちゃんは自分のことさえどうにもできていなかったのかもしれない。おっちゃんは大きな子どものようで、自分の気持ちのコントロールはおろか、自分が何を思い感じているかの理解すらままならないようなところがあった。たとえば、おっちゃんはお腹が空いていても、自分でそれに気がつかなかった。時間帯で予測できる時は自分で煎餅を開けて食べていたけれど、たまたま昼食の時間が早かったとかおかずが少なめだったとかそういう時は、お腹を空かせ、だけどもそれに気づかず、よくわからないけれど不快だという風で、新聞を無意味に丸めたり、僕の髪や犬の耳を強く引っ張ったりして母さんに怒られながらお菓子を渡されていた。そういう人だったのだ。
おっちゃんのそういう性格というか性質は外でも出ていたのかもしれない。小学生になる頃、おっちゃんはリストラを短期間で二回も受けて、それからは前にも増して余裕がなくなった。その頃から母さんは僕が何か失敗する度、お父さんに似て、と言うようになった。母方の親戚連中も皆、お父さんみたいになるなとしつこく言うようになって、もっと年上でもっとずっといい加減にやっている従姉は見逃されているのに僕だけテーブルマナーを細かく注意されたり、人付き合いについてあれこれ講釈を聞かされたり、学校の成績にもやたらと口出しされたりした。大人の逆鱗に触れてはならないと思っていたから、大人しく聞いていた。けれども、わからなかった。どうしておっちゃんが悪の代名詞みたいに言われるのか、まるで見当がつかなかった。確かに、おっちゃんは全然余裕がないし、だらしないし、料理も掃除も洗濯も駄目、面倒見も駄目な人だけれども、だからといって、全部駄目かというと、それはわからない。気分じゃないと答えてくれないのが玉に瑕ではあったけれど、おっちゃんは母さんより賢かったし、歌もうまかったし、気分屋なぶん珍しいものを見つける才があった。それなのに、おっちゃんのようになるな、なんて、おかしいんじゃないか。僕が本を読む理由には百科事典みたいに何でも答えるおっちゃんのようになりたいという気持ちも少なからずあるのに、毎週図書館に連れていってくれるからと全て母さんの手柄にするのは何か変というか、傲慢というものじゃないか。それでも、皆がこれほどまでにおっちゃんのことを悪く言うなら、やっぱり悪いのか。何が、何がそこまで悪いのか。余裕がないのが駄目か。それなら失敗した僕を𠮟る母さんがヒステリックになるのは許されるのは何故か。小学校三年生の時、クラスメイトとの大喧嘩で呼び出された母さんは僕を強くぶった。母さんが許されるのは役割を果たそうとしているからか、おっちゃんが咎められるのは役割を果たさないからか、それなら自分の役割はなんだろう。考えれば考えるほど、わからなくなった。あの頃から親戚連中と会話がうまくできない。何をどう言ったらいいのか、わからない。
中学生になる頃には両親の仲はいよいよ悪くなって、遂に離婚した。生活力のないおっちゃんに子どもは任せられないということで形ばかりの話し合いの後、親権は母さんのものになった。すっかりおっちゃんを悪の代名詞扱いする母さんについていくのは実は嫌だったけれど、おっちゃんについていったら衣食住も危ういと思ったので何も言えなかった。始めは毎月最後の日曜日に会って僕に小遣いを渡すという約束だったけれど、三ヶ月もしないうちにおっちゃんは約束を忘れてしまった。それからどんどん会う頻度は減って、中学二年生になる頃には僕もすっかりおっちゃんが来ないことを前提に予定を組むようになった。おっちゃんと最後に会ったのは高校受験が終わった頃。僕に会いに来てくれたわけではなくて、持っていき忘れていた漫画を取りに来ただけだった。帰り際、ふと思い出したように「もう高校生だったか。どこに行っているんだ」と言われて「まだ中学生だよ。行くのは大学付属の学校」と返事をしたら「高いんじゃないか」と聞かれ、「奨学金で実質タダだよ」と言った。そしたら、おっちゃんは「何かいるものがあれば用意してやる」と、珍しい気遣いを見せて、でも、僕はもうおっちゃんに頼らないのに慣れてしまっていて、頼るほうが疲れるとわかってしまっていて、「自分で用意できるし何もいらない」とぶっきらぼうに答えた。おっちゃんは、「そうなんだな」もう一度「そうなんだな」と、それだけ呟き、銀とも白とも灰とも違う鈍色の車に乗っていなくなってしまった。
おっちゃんとは本当にそれきり、連絡さえとっていない。必要ないし、そうしないほうがいいと思っているから。けれども、高校生になってから、たまたま知り合った人が詩を書くからそれを真似てみるようになって、おっちゃんのことを思い出す日が増えた。
全然父親らしくないおっちゃんだったけれど、絵本の読み聞かせは時々してくれた。自作の絵本だ。幼稚園児の頃、僕は同級生と遊んだり子ども向け番組を見たりするのが嫌いで一人で本を読むことが多かったが、ある日先生に周りの子に合わせなさいと言われて大層拗ねた。おっちゃんに言ったら、どういうわけか急に機嫌がよくなって、椅子に座ったまま足をばたつかせ「やっぱりお前は俺の子だ」と、嬉しくてたまらないような口調だった。もしかすると、父親であるはずの自分のことを殆ど父さんと呼ばず、大抵の場合はおっちゃんと呼ぶものだから、自分の子じゃないのではと不安だったのを性格の類似を知ることで安心したのかもしれない。
おっちゃんは自由帳と色鉛筆を貸すように言って、さらさらと絵本を書き始めた。まだほとんど使っていない自由帳が半分ぐらい埋まる長さだったのに、あらかじめ考えていたのではないかというぐらいにすぐ、止まることなく物語は完成した。夜の世界をつくる国のお話だった。星々は星職人が金木犀を乾燥させて飴をまとわせて綺麗なのを選別して空に飾ったものだから時間が経つと溶けて星雲になるんだとか、それを掃除する仕事をしている人もいてシャワーのヘッドの向きを間違えると雨が地上に降るとか、かなり子ども向けで変なものだったけれど、僕だけのためのものだと思うと嬉しくたまらなかった。
「このお話、他の絵本と一緒に本棚にいれてもいい?」
そう聞いたら、おっちゃんは、静かに低い声で、それは駄目だと言った。その代わり、母さんに知られないうちは気が向いたらまた聞かせてやるし、もしかすると他の話も書いてやるかもしれない。だから、聞きたければいい子に黙っているんだな、と僕の頭をぐりぐり雑に撫でまわし、色鉛筆だけ返して、というか使ったままに放っていって、自由帳は自分が持っていってしまった。
約束通り、おっちゃんは時々、金木犀の星職人の話を読み聞かせてくれた。また、他の話も書いてくれた。さすがに全部ではないけれど、いくつかはまだ覚えている。遠足で迷子になった日に作ってくれたのは、道の下には大きな蛇がいて魔女たちが杖で叩けば道は望むほうに動くがその蛇に嫌われているから好きに動けないでいつも迷子になってしまう出来損ない魔女の話。将来の夢が決まらないという話をした時にしてくれたのは、空を飛びたいと神様に願い続けたら人面蝶になってしまい、虫取り網につかまりそうになって間一髪逃げたけれど恐ろしくなって人に戻りたいと再度祈ったら蝶として過ごした時間の分一気に老けてしまった男の話。小学生になっても、漢字がだいぶわかるようになっても、おっちゃんが僕につくるのは変わらず絵本だった。それでも僕はおっちゃんが休みの度、どうにか話を聞かせる気分になってもらおうと色鉛筆を食卓に置いたりお菓子を沢山渡したりした。おっちゃんの書く絵本は僕の本棚のどの本よりも好きだったし、大事に思っていた。ボールペンで書いた絵は色鉛筆で着色していたけれど乾く前に塗って汚くなっていたりそもそも途中で飽きて塗っていなかったりした時もあったし、読み聞かせは文として書いていない話までしたり話を変えたりすることさえあった。なんていうか、もう、滅茶苦茶で、でも、それが好きだった。
親戚連中に聞かれようものなら、なんだ、そんなことをしてくれたから好きというのか、と嘲笑されてしまうだろう。でも、僕、おっちゃんのこと嫌い。ちゃんと、嫌いだ。めちゃくちゃ嫌い。全然面倒みてくれなくって、理不尽で、怪我させてきた人を嫌いって思う気持ちが無くなるものか。僕はおっちゃんを恨んでさえいる。ただ、同時に好きなだけだ。好きの反対は無関心と言う。嫌いも恨みもおっちゃんへの好意を打ち消してはくれなくて、心の中、同じアパートの別部屋に暮らしている。
おっちゃんと最後に会った日からそろそろ七年経つ。会いたいとは思わない。会いたくないとも思わない。たぶん、どっちも嘘だし、どっちも本当。たとえば、おっちゃんが、本当に近所のおっちゃんみたいな、義務とか責任とか求めなくてもいい関係にある人だったら、躊躇うことなく会いたいと言えただろうと思う。二年前、電子の海で偶然におっちゃんを見つけた。始め、面白い話を書く人だと思って見ていたのだけれど、話の傾向、絵の雰囲気、文字の癖、なんだか懐かしさを感じるな、とだけ思っていた。ある日、生年月日を知って、おっちゃんなんだと悟った。相互に関わっていたわけではないからそれきりそっとミュートしたのだけれど、相手がおっちゃんだと気づくまでの間、数ヶ月にわたって、なんだか仲良くできそうなんだけれど、いつ、どうやって話しかけようなんて考えていた。たぶん、父でさえなければ、よかった。おっちゃんは時折、夢の中に出てきて、物語を聞かせようとしてくる。だから、なんて言うか、他人だったらよかったのになって、それだけ。