先に制服に着替えてリビングに降りると、父さんはコーヒーを飲みながら新聞を読んでいて、母さんは趣味で育てている庭の植物にジョウロから水をあげていた。カレンダーを破ってまだ日の浅い第一火曜日の朝、昨日まで三日間ぶっ通しで降り続いていた雨はようやく上がり、フローリングの床に爽やかな朝日が眩しい帯を作っている。
我が家の教育方針は基本的に放任主義だから、たとえ僕が寝坊しても父さんと母さんは起こしに来てくれない。二人はそれを「将来一人で生き抜いていくための力をいまから付けさせるため」だなんて言っているけど、本当のところでは楽をしたいからだと僕は知っている。小学五年生になるまでは、家に頻繁にお手伝いさんが来て、家を空けることの多い二人の代わりに家事をお願いしていた。本当に僕のことを思っているなら、僕に家事を教えるべきだろう。家事だって「一人で生き抜いていくための力」なんだから。
ダイニングテーブルは、父さんの斜め前が僕の定位置だ。食洗機から自分のコップを取って椅子に座る。「おはよう」と挨拶すると、父さんがボソボソした声で「ああ」と返してくれた。文句は色々出るけれど、愛されていないわけではないと思う。たぶん。たまに遠くまでドライブに連れて行ってくれるし、欲しいものを言えば余程へんなものじゃない限り買ってくれる。挨拶だって、たとえそれが「ああ」でも「おお」でも返してくれるだけマシだ。
テーブルの上にはいつも通りのごはんが並んでいた。水差しからコップに水を注ぎつつ、もう片方の手で机上中央の新聞の束から一番上に置かれているもの引き寄せる。
小笠原家では新聞を二種類取っている。一つは日本経済新聞だ。父さんはどんなに朝が忙しくてもこれを読むことを欠かさない。紙だけでなく電子版も契約する念の入れようで、海外旅行に出掛けたときはタブレットを使って読んでいる。だったら最初から電子版だけでいいじゃないかと僕なんかは思うのだけど、父さん曰く「それは違う」のだそうだ。紙媒体に絶大な信頼を寄せているらしい。だから、父さんの書斎には膨大な紙の本が積み上がっている。一時期、それを見かねた母さんがしきりに電子書籍の魅力を訴えて電子書籍に切り替えさせようとしたのだけど、結局は電子書籍と紙の本が併存するという中途半端な結果に終わった。
もう一つがジャパン・タイムズとニューヨーク・タイムズだ。この二つはセットだから同じ括りにしている。全面アルファベットの英字新聞で、これはもう僕しか読まない。僕を英語に慣れさせるために父さんが購読し始めたのがきっかけで、取りたての頃は僕の注意を引くために父さんや母さんがしかつめらしい顔で読んでいたのだけど、いつの間にか僕しか読まなくなっていた。きっと父さんは数字を見ている方が面白いのだろう。
上から文字を追っていく。日付、「The New York Times」というゴシックの紙名、そして見出し。テーブルの上には今日の分だけじゃなく数日分の新聞が積まれているから、まずは日付を確認しなければならない。僕がニューヨーク・タイムズを読み始めたのを、両親(特に父さん)は自分たちの働きのおかげだと思っているみたいだけど、その効果を全面的に否定はしないにせよ、実際のところ僕はニューヨーク・タイムズのレタリングに惹かれたのだ。おどろおどろしく、それでいて高貴な「The New York Times」の文字を僕は気に入ったのだった。インターネットで調べてみると、このような文字のことを普通日本語では「ブラックレター」と呼ぶらしい。発祥はドイツなんだとか。
テーブルロールを齧りながらページをめくっていく。行儀の悪いことだけれど、朝食を摂りながら新聞を読むように仕向けたのは父さんと母さんだから見咎められることはない。
「何かあったか」
父さんが訊いてきた。テーブルから顔を上げると、父さんの視線は新聞から動いていない。父さんはたまにこうやってその日の新聞の内容を僕に尋ねてくる。僕がポーズだけじゃなく本当に読んでいるか確認のつもりなんだろう。
いつも質問の内容が大雑把だから、僕は一番印象に残った記事を答えることにしている。
「黒人……の人がまた白人の警察官に撃ち殺されたんだって」
少し前にも同じような記事を読んだ。最近は日本のニュースにも取り上げられている。きっと父さんの読んでいる日経にも同じ話題が載っているのだろう。父さんは、
「そうか」
と短く反応した。
「人種差別はなくならないわね」
庭から戻ってきた母さんが僕の横に座る。父さんはそれには直接返事をせずに、
「今日は別に水やりは必要なかったんじゃないか」
と、呟くように言った。
「そうかもしれないけど、やっぱり心配だから毎日見てあげないと。むしろ雨が心配」
僕は母さんに「枯れてなかった?」と尋ねた。「そう簡単に枯れないわよ」母さんは怒ったように口を尖らせた。
そのとき、後ろのドアから大きな黒い影がのっそりとダイニングに入ってきた。それは黒山羊だった。体長一メートルくらいの子供で、角なんかまだとんがりコーンみたいに小さい。そいつがこっちに近づいてきたので、僕は慌ててテーブルロールを水で流し込んでリビングに向かった。ソファに腰を下ろすと、そいつは僕の太腿に頭を擦り付けてきた。よしよしと頭を撫でてやると、気持ち良さそうに「メェ」と鳴き、首を伸ばして顔を近づけてくる。
手には今日付のニューヨーク・タイムズが握られていた。いつもは古いものをあげているのだけど、いまさらダイニングテーブルに戻ることもできない。僕は両親に聞こえないように慎重に新聞紙を丸めていって、物欲しそうな顔をする仔山羊に手ずから与えてやった。「メェ」と鳴きながらくしゃくしゃのニューヨーク・タイムズを食み始める。
僕はこいつを「メリー」と呼んでいる。オスなのかメスなのかは分からない。生殖器官も乳首も付いていないからだ。それどころかこの世の存在なのかも分からない。メリーの姿は僕以外の人間には見えないし、メリーの立てる物音は僕以外の人間には聞こえない。鼻を近づけると、メリーの身体からは何年も押し入れに放置された布団のような臭いがするけれど、それだってきっと他の人には分からないだろう。
こいつが初めて現れたのは一年くらい前のことだ。春物の服をクローゼットの奥から出そうとして扉を開いたら、ハンガーに掛かった上着に隠れるようにしてこいつがいた。心底驚いてすぐに母さんを呼んだけれど、母さんは「何もいないじゃない。馬鹿にしないで」と怒るだけだった。
はじめは僕の頭がおかしくなったんじゃないかと思ったけど、どうやらそういうわけではないらしい。メリーには実体があるのだ。姿や音、臭いと違って僕以外の人間が触れてもメリーの感触を得ることができる。
メリーはクローゼットから出ると、僕に見せつけるように、部屋から出て行こうとする母さんのお尻に頭を押し当てた。母さんは怪訝そうに僕を振り向いたけど、僕は遠いところに立っていたから気の所為にすることにしたようだった。そして夜、父さんが帰ってくると、メリーは僕の目の前で母さんにやったのと同じことを父さんにもやった。
メリーは新聞を食べ終えると、来たときと同じようにゆっくりした動作でドアを出ていった。僕の部屋に戻ったのだ。メリーの主食はニューヨーク・タイムズだ。けれど、一日三食を毎日食べるわけではなく、気が向いたとき――ほとんどが朝――にふらっとリビングに降りて来てはおねだりするように鳴く。その他にメリーが対外的に働きかけることはない。排泄もしないし、老廃物も出さない。ただ、毛だけはよく抜けるから僕が掃除しなきゃいけない。新聞紙をねだりに来る以外は僕の部屋にいるから、家中毛だらけになる事態は避けられているけれど、抜けた毛を含めてメリーの感触はあるから、僕は母さんに「部屋の掃除は自分でするから勝手に部屋に入らないで」とお願いしなければならなかった。
代謝を行っている様子のないメリーだけれど、成長はしているようだ。見つけたときは角なんか生えていなかったのに、いまは小さいのが二つ、ちょこんと頭の上に載っているし、体長だって一・五倍くらいに大きくなっている。
後ろのダイニングで父さんが椅子を立った。仕事に出るようだ。僕は壁掛け時計を見た。八時になろうとしている。そろそろ僕も家をでなきゃいけない。
どうか父さんと母さんが今日付のニューヨーク・タイムズがなくなっていることに気付きませんように。そう祈りながら玄関で靴を履いた。
登校する間、メリーとニューヨーク・タイムズのことを考えた。キリスト教においては、黒い山羊は不吉なものとして忌み嫌われているらしい。でも、自分で部屋に掃除機をかけなくちゃいけなくなったことと、ニューヨーク・タイムズを食べられてしまうことは、不吉というにはちょっとスケールが小さい。もしこれからもメリーが消えず、僕の部屋に居続けるのだとしたら、いずれもっと身体が大きくなったときどうすればいいのだろうという心配はあるけれど。
ニューヨーク・タイムズを与えるのを止めたら成長は止まるだろうか。いや、そうしたらきっとメリーはテーブル上の新聞紙を見境なく食べてしまうだろう。誰も家にいないときに父さんの書斎の本にも手を出す、いや口を出すかもしれない。それだけは避けなければならない。もし紙の本を食べたのがメリーだとバレたら、たとえ姿が見えなくても父さんはメリーを探し出して殺してしまうだろう。メリーから血が流れるとも思えなかったが、それはあまりにも可哀相な気がした。動物だって一生懸命生きている命だ。無闇に殺していいはずがない。僕は、半分メリーは生きていると考えていた。
同時に、僕は今朝の記事を思い出していた。黒人が白人警官に射殺された事件。見栄っ張りな正義感からではなく、心の底から許せなかった。動物に対しても人間に対しても僕は差別なんてしない。どうしてそんなことができる? するわけがない、と思った。
正門が近づいてきた。僕の通う学校は、私立の中高一貫校で、ここらへんでは頭の良い子供が集まる学校として通っている。父さんから聞いたところによれば、実際に有名大学の合格者を毎年何人も輩出しているらしい。だけど、そう言われても僕には遥か先のことに思えて実感がわかない。何せ中学校生活は始まったばかりで、ようやく一人での登校に慣れてきたところなのだ。
ちょうどいまは最初の期末テストを控えている。
*
ホームルームが終わって帰宅の準備をしていると寺脇くんが僕の机の前に立った。
「小笠原、今日この後空いてるか?」
特に予定はなかった。「何で?」と尋ねると、寺脇くんは「放課後、二組で勉強会をやるんだ。来ないか?」と言った。その奥で富田くんがにこりと笑っている。僕は「行くよ」と答えて、二人と一緒に隣の教室に移った。
二組には既に男女合わせて二十人くらいが集まっていた。富田くんが教卓の前で仕切り始める。横には寺脇くんが控えていた。
「みんな今日は集まってくれてありがとう。今日から期末テストの準備期間だ。わからないことがあったらみんなで教え合っていこう。俺や拓磨にも遠慮なく訊いてくれ」
この学校には一学年に二クラスしかない。だから体育や芸術科目を一緒に受けていれば顔と名前くらいは自然に覚えてくるけれど、一組の寺脇拓磨と二組の富田正和と言えば一年生の間では有名になっていた。
入学したばかりの四月、一年生全員が全国模試を受けて、五月に結果が返ってきた。色々な種類がある模試の中では、僕たちの受けたものは難しい方だったようだが、寺脇くんと富田くんは五教科で四九〇点以上を取り、全国的に見てもかなりの好成績を収めた。学内順位は寺脇くんが一位、富田くんが二位だったらしい。模試の結果が学年全体に開示されることはなかったけれど、その噂は口伝てに広がっていき、二人はそれぞれのクラスのリーダーになった。他にも成績のよかった子たちが集まって、なんとなくクラスには上位グループみたいなものが出来上がった。
「あ、でも英語は小笠原に訊いた方がいいな。なんたって全国一位だし」
寺脇くんが大げさに言った。皆の注目が僕に集まる。僕は「あんまり期待しないで」と曖昧に笑ってやり過ごした。
僕の模試の成績と言えば、はっきり言って散々だった。同じ試験を合格して入学しているはずなのに、こんなに違うことがあるのかとちょっと信じられなかった。先生は「いまの皆さんの学力はほとんど同じです。これからの六年間をどう過ごすかで少しずつ差が出てくるので有効に時間を使うように」と言ったけど、既に埋められない溝があるように思えて仕方がなかった。
ただ、英語だけは別だった。他はボロボロだったのに英語だけは一〇〇点だったのだ。一〇〇点を取れば席次は一になる。単純な話だ。たぶん僕の他にも「一位」はいるのだろう。ただ、一〇〇点は寺脇くんにも富田くんにも取れなかったらしく、二人は英語に関してだけは僕を立ててくれる。嬉しくないと言えば嘘になるけど、僕はそれにちょっとした居心地の悪さを感じていた。
問題集がめくられる。ノートがめくられる。シャープペンシルがノートを引っ掻く音に、時折誰かの質問する声とそれに答える声が混ざり合う。勉強会に参加したのは初めてだったけれど、正直あまり集中できる環境じゃなかった。たとえメリーがいても自分の部屋の方が集中できそうだ。ただ僕が集中を欠いてしまうのは、なにも環境音だけのせいじゃなかった。
ノートに写していた数式から斜め前の席に視線が引きつけられる。そこではクラスメイトの樋口さんがやはり皆と同じように机に向かっている。樋口さんは問題に悩むとシャーペンのお尻を頬に当てるのが癖だった。カチカチカチと何回か押しては出過ぎた芯をノートに押し当てて引っ込める。またカチカチカチ。その動作を問題が解けるまで繰り返す。僕はそんな樋口さんの様子を断続的に何遍も盗み見ていたものだから、勉強なんて進むわけがない。勉強会が始まって一時間半後、寺脇くんが皆に「ちょっと休憩しようか」と言ったとき、僕の問題集は一ページしか終わっていなかった。
皆が思い思いに雑談を始めても樋口さんは相変わらず問題集に向かっていた。何だか焦っているみたいにも見えた。しばらくするとまたシャー芯が伸びては引っ込み始めた。しかし今度はいままでと違ってなかなか終わらない。樋口さんは大分長いこと格闘していたが結局解決しなかったらしく、横に座ってお茶を飲んでいた竹内さんに「これって何でなの?」と尋ねた。竹内さんは身を乗り出したが、その問題は竹内さんの手にも余ったようだ。「ごめん、わかんないよ」と言って匙を投げる。だけど投げっぱなしというわけでもなかった。
「小笠原くんに訊いてみたら? 絶対答えてくれるよ」
と言ったのだ。突然水を向けられた僕は慌てて樋口さんから目を逸らした。問題集を見つめる。耳元で心臓の鼓動がうるさかった。
二人は連れ立って僕の席までやってきた。
「ねえ小笠原くん、ちょっといい?」
竹内さんが言った。僕はまるでたったいま気づいたという風に顔を上げた。問題集を持っているのは樋口さんで、それはイディオム集だった。そのなかの一文を指差す。
「ここがわからないんだけど、なんでこうやって言うの?」
訳の分からないことを訊かれたらどうしようという心配は杞憂に終わった。それは僕がよく知っている表現だったのだ。僕はその表現の成り立ちと、文法を覚える際のちょっとしたコツを樋口さんと竹内さんに教えてあげた。それを喜んだのは意外にも樋口さんではなく竹内さんの方だった。
「へえ、そうなんだ!」
と響く声で感心し、じゃあこれは何で? と別の問題を指して訊いてくる。僕がそれにも答えてやると「わあすごい」とまた声を上げた。すると樋口さんが、
「何でそんなによく知ってるの?」
と僕を見た。印象的な目だ。午後の暖かな光を湛えた大きな瞳と長い睫毛は、枝葉のかかる明月を思わせた。クラクラしたけれど、僕は辛うじて「……し、調べたんだ」と答えることができた。しかし、それだけではどういうことから分からなかったようだ。僕の言葉の続きを待つように首を傾げる。説明を取捨選択する余裕がなかったので、結局僕は家で取っているニューヨーク・タイムズのことを喋るはめになった。三、四年くらい前に父さんが購読し始めたこと。手に取ったきっかけは紙名のブラックレターであること。はじめは全然読めなくて母さんの電子辞書が手放せなかったこと。他にも単語帳なんかで勉強を始めて、いまではほとんど辞書がなくても読めるようになったこと。メリーが現れて食べるようになったことはさすがに言わなかったけれど。
訥々と語る僕の話を、二人は相槌を打ちながら聞いてくれた。誰かに新聞の話をしたのは初めてだった。全国一位の模試が返って来たときは騒然としていて、それどころではなかったのだ。
「凄いなぁ。わたしには真似できないや」
竹内さんがため息を吐く。
「たしかに」
二組の男子が同意した。いつの間にか僕たちの周りにギャラリーが集まっている。遠巻きに鳥越くんがこちらを伺っていた。長い前髪から切れ長の目がちらちら覗いている。鳥越くんは僕と同じように英語ができるクラスメイトだった。僕はその視線に穏やかならぬものを感じて慌てて目線を外した。皆に向かって手を振る。
「そんなことないよ。こんなことはやれば誰にでもできるんだ。根気さえあれば」
僕に語学の才能があるとは思えなかった。国語の方はまるでできないのだ。僕がやったのは継続することだけだ。ただ愚直に。
数学の得意なクラスメイトが「いや、俺にはとてもできないよ」と言った。僕は開いていた数学の問題集に手を添えながら「スラスラ暗算できる方がよっぽど凄いよ。僕にはできるようになる気がしない」と返した。
すると、その子は照れたように「まあ、慣れだよ、慣れ」と頭の後ろを掻いた。
そのとき、出し抜けに樋口さんが「……やればできる」と呟いて、水を掛けられたように静まり返った。
寺脇くんが場を繋げるように、
「そうだな。大抵のことはやればできるようになる」と頷いた。それから、
「小笠原が言いたかったのもそういうことだろ? 続けていればできるようになる」
と僕に振ってきた。
「あ、うん。そうだね……」
情けない返事が皆の間に染みていく。寺脇くんが力強く言うと本当にその通りであるような気がしてくるので不思議だった。彼は勉強だけでなく運動も得意だ。五十メートルを七・一〇で走るし、ハンドスプリングだってできる。富田くんが、
「なんか緩んじゃったな。今日はもう終わりにするか?」
と皆に投げかけると、まだ続ける人と帰宅する人に別れることになった。僕は帰ることにした。いいかげん真面目に問題集を進めなきゃいけなかったし、樋口さんも帰るというのであれば残る理由は特になかった。
鞄に参考書を入れていると、ふと「僕が継続できたのはひょっとすると父さんのおかげだろうか」という思いが頭を横切った。
『何かあったか』
あの質問があるから、僕は読むのを止めるわけにはいかなかったのかもしれない。
鞄を肩に掛けるとまた不穏な視線を感じたような気がした。その出処を探ると、鳥越くんがいた。視線を合わせないように、僕は鞄の肩紐を握り直した。
*
あの日以来、勉強会はほとんど毎日開かれることになった。開催場所は一組教室か二組教室であることが多かったが、カフェやファストフード店でも行われた。
寺脇くんに誘われて、僕も参加を続けていた。相変わらず勉強には集中できなかったけれど、竹内さんに連れられて樋口さんが僕のところに来てくれるのが嬉しかった。
樋口さんは大抵英語の質問を僕にして、僕はそれ以外の教科の質問をした。僕ほどではないけれど、樋口さんはあまり勉強が得意な方ではなかった。だから、僕が質問してもすんなり問題が解決することは少なかったが、別に問題を解決することが目的ではなかったからそれで一向に構わなかった。どうしようもないときは寺脇くんを呼ぶと丁寧に解説してくれた。
あるとき竹内さんに「小笠原くんはどうやって英単語覚えてるの?」と尋ねられた。
「うーん、あんまり考えたこともなかったな」
僕がやってきたことは分からない言葉に出会ったら辞書で調べることと、検索履歴を見直して反復することだけだった。しかしそう答えて樋口さんに落胆されるのは嫌だったので、英単語にはある程度法則性みたいなものがあることを教えた。
「漢字には〈へん〉と〈つくり〉があるだろう。読み方や意味が分からなくてもへんから何となく意味が推測できたり、つくりから音読みが分かったりする。英単語も要素に分解できるんだ。要素の方を覚えておけば結構覚えるのが楽になるよ」
もっとも、これはある程度僕の中に単語が蓄積されてから気付いたことだった。あとから世の中にはそういった語源を収録した本があると知ったときにはかなりショックだったけれど。
「言われてみれば確かにそんな気がする」
と二人は膝を打った。喜んでもらえて僕も満足だった。毎朝父さんの前で新聞を読んできた努力が報われたような気がした。
こんな日々がずっと続いてほしいと思い始めていたが、期末テストはいよいよ三日後に迫っていた。日々の授業が前に進む度に範囲は広くなっていた。他の学校のことはよく知らないけど、たぶん一年生の期末試験でやる量ではないだろう。英語に関して言えば、僕たちの学校では春に「アルファベットの書き取り」を一度もやっていない。先生たちはそんなことは出来て当たり前というラインに立たせてくる。もちろん生徒がドロップアウトしないようにケアする先生もいるけれど、基本的には勝手に付いて来いというスタンスだ。
どうも樋口さんは切羽詰まっているみたいに見えた。僕の方も決して順風満帆というわけではなかったけれど、何とか力になってあげたくて単語帳を作ってあげようと思い立った。出来上がってみると、試験範囲の単語とその語源をまとめた、自分で言うのもなんだけれど、よく出来た単語帳になったと思う。
家で作り、翌朝学校で渡すつもりだった。ところがなかなかタイミングが難しい。僕と違って樋口さんは四六時中誰かと一緒にいるのだ。女子の群れを掻き分けて行って、樋口さんだけに単語帳を渡すなんてことは、とてもじゃないができそうになかった。
そうやって手を拱いているうちに午前の授業が終わり、午後の授業が終わり、放課後になった。これが最後のチャンスだと一念発起する。しかし、そのときには樋口さんは教室からいなくなっていた。自分の気の弱さが嫌になった。ラブレターを渡すわけでもないのに、僕は一日も無駄にしてしまったのだ。明日渡しても、試験までもう二日しかない。それともいまから走れば追いつくだろうか? 僕はその考えをすぐに打ち消した。まだ正門から見える範囲を歩いていれば分かるだろうけれど、もう手遅れだろう。それよりも問題なのは、明日渡せる保証もないことだった。
悩んだ末、僕は単語帳を樋口さんの机の中に忍ばせることにした。これなら直接手渡さなくていいし、明日、ほんの一瞬の隙をついて単語帳の送り主が僕であることを伝えさえすればいい。それくらいなら僕にもできるような気がした。
「小笠原」
鳥越くんの声だった。樋口さんの席の傍にいた僕は一瞬で凍りつき、それを無理やり溶かすように振り返る。さぞぎこちない動きに違いない。鳥越くんは相変わらずに長い前髪を揺らし、バツの悪そうな顔で立っていた。
「な、何?」
「……今日は勉強会参加するかって寺脇が」
「い、いや、今日はやめとくよ。一人で集中したいから」
そう言って、僕は逃げるように教室を飛び出した。脇の下に気持ちの悪い汗を大量にかいていた。
正門を出てから一応周囲を見渡してみたけれど、やはり樋口さんの姿は見えなかった。
*
翌日は、思えば朝から様子がおかしかった。まず、昨日新聞紙をねだりにきたばかりのメリーが今日もリビングに降りてきたのだ。メリーがクローゼットに現れて以来、二日連続で餌を要求したのは初めてのことだった。すっかり油断していた僕は面食らって、まだ一面しか読んでいないニューヨーク・タイムズを全部あげてしまった。しかし、今日のメリーはそれだけでは満足しなかった。いつもは一部食べれば満足して部屋に戻るのに、「メェメェ」と鳴き続け、テーブルに積まれていた新聞を、日経を含めて四部も平らげてしまったのだ。
それだけ食べるとメリーは鳴かなくなったが、しかし一向に部屋へ帰ろうとはしなかった。僕に引っ付き、移動するとツカツカと後ろを歩く。振り返ると足を止めるので、何だか「だるまさんが転んだ」をしている気分だった。
メリーは学校にも付いて来ようとした。屋外に出て来ないように急いでドアを閉める。幸いにも体当たりや引っ掻く音は聞こえてこない。部屋に戻ったか? と思い、恐る恐るドアの隙間から覗き込むと、メリーは物言わず玄関に佇み、こっちを見つめていた。まるで僕がこうして確認するのを分かっていたかのように。
父さんはもう家を出ていたけれど、放っておけば母さんが蹴ってしまう恐れがあった。母さんにメリーの存在が露呈するのは好ましくなかったので、仕方なしに僕は学校にメリーを連れて行くことにした。
樋口さんに声を掛けるチャンスがあるとすれば、授業の直後をおいて他に考えられなかった。三限が終わると、僕は竦む足を叩いて樋口さんに近づいた。
「あの、昨日机の中に単語帳入れといたんだけど……」
情けないことに声は若干震えていた。しかしどういうわけか樋口さんは小首を傾げた。
「……たんごちょう? ……何のこと?」
「黄色の表紙の英単語帳なんだけど……机の中になかった?」
「そんなのなかったけど……」
なにが起きているのか分からなかった。僕はきちんと入れたはずだ。それも見落とさないように手前の方に。ストローからシャボン玉が吹き出すように、色々な可能性が頭に浮かんでは消えていく。
「あの、もう行かないと……」
樋口さんが教室の時計を見やって言った。四限は音楽だった。音楽室に行く必要があるから時間に余裕はない。
「ああ……、うん」
僕は友達と音楽室に向かう樋口さんの背中を呆然と見送った。
音楽室にもメリーは付いてきた。階段教室を優雅に闊歩している。一限の国語は気が気じゃなかったけれど、メリーはあの日母さんや父さんにやったように自分の存在を周囲にアピールするつもりはないようだった。誰かが足を伸ばして身体に当たりそうになると跳んだり跳ねたりして綺麗に避けるのだ。
僕はそんなメリーのことよりも消えた単語帳が気掛かりだった。いったいなぜ、どこに消えてしまったのか……。
視界の端に鳥越くんが映っていた。また、こっちを気にしている。僕は単語帳を机の中に入れたときのことを思い出した。……そうだ、鳥越くんは現場を見ていたじゃないか。――彼が犯人に違いない。一旦そう思い始めると、それ以外の可能性は考えられそうになかった。
だが証拠がない。このまま詰め寄ってもはぐらかされるだけだろう。きっと裁判にすらならない。証拠不十分で不起訴だ。
授業が終わった。期末テストの科目には音楽も含まれているというのに、内容はまるで頭に入ってこなかった。僕は依然証拠となるものを探していた。
音楽室は五階にあった。クラスが一塊になって教室に戻る。僕はそこから少し離れたところを歩いていた。一つはメリーがいたからだけど、もう一つは鳥越くんの様子を観察するためだった。犯人ならいつか何かボロを出すだろう。
二階に到着すると、黒い塊が僕を追い抜いた。僕の半歩後ろを歩いていたメリーだった。そのまま一階に続く階段を踊り場まで降りると、立ち止まって僕を見上げ、再び歩き出す。
「あ、おい。どこ行くんだよ」
戻るべき教室は二階にあったけれど、構わずメリーがずんずん降りて行ってしまうので、僕は後を追いかけないわけにはいかなかった。新しい行動パターン。今日だけでもう三つ目だ。家に帰ろうとしているのならいいが、また誰かに自分の存在を認知させようと働きかけようとしているのであれば止めなければならない。
一階に降りてもメリーは歩みを止めない。進む方向から、どうやらこいつが向かおうとしているのはロッカールームのようだった。
大きく開かれた扉の境界を越えると、中等部から高等部まで全校生徒ぶんのロッカーが等間隔に並んでいて、その扉にはAからLまでのアルファベットと1から46までの数字がハイフンで繋がれたプレートが貼られている。アルファベットは学年とクラスを表していて、数字は出席番号を示しているのだ。
メリーは中等部一年の区域に足を踏み入れた。一組のロッカーは手前に並んでいる。もしメリーがロッカーに用があるとすれば、僕のもの以外にあり得ない。しかし、意外なほどあっけなくメリーは僕のロッカーの前を通り過ぎた。
僕は胸を撫で下ろした。ロッカールームを出るとすぐ正門だ。きっとメリーは家に帰ろうとしているのだ! どうして今日メリーが学校まで付いてきたのかは分からないけれど、おおかた物見遊山のつもりだったのだろう。年中家に籠もっているメリーだ。たまにはそういう日があってもおかしくない。
そのとき、突如としてメリーが四足を停止させた。見ると、「A‒27」と「A‒28」のロッカーの前だった。木製のロッカーはすべて二つ重ねになっている。
メリーは下の方、「A‒28」のロッカーに頭を擦り付け始めた。さらに低い声で「メェェ」と鳴く。僕はほとんど直観的に「A‒28」ロッカーの主が鳥越くんであることに思い至った。それから心中で「あかさたな……」と唱え、確信する。扉に錠前は付いていない。
辺りを確認するが、人影はない。ドクリと心臓が震えた。屈み込んで腕を伸ばす。取手に人差し指が掛かる。ゆっくり手前に引くと、蝶番の軋む音が静謐なロッカールームに響く。僕は身を強張らせた。
ロッカー内はどれも二段構造になっている。下段には靴を、上段には教科書等を入れている生徒が多いのだが、問題は上段の方だった。
――破れ、黒ずみ、悼ましい姿に変わり果てた単語帳がそこにはあったのだ。
*
僕は食堂で昼食を摂っていた鳥越くんを人けのない自販機の前まで引っ張り出し、右手を突き出した。殴ったわけじゃない。僕の手に握られているのが単語帳だとわかると、鳥越くんの顔はみるみる蒼白になり、唇がわなわなと震え始めた。
「ち、違うんだ。俺じゃない」
あまりに定型通りのセリフに失笑する。
「きみのロッカーにあったんだ。違うんならどうやってこれを説明するんだ」
鳥越くんは僕が勝手にロッカーを開けたことを批難しなかった。代わりに、
「それは……」
と言ったきり俯いてしまう。何かプランがあるわけじゃなかった。鳥越くんに謝らせたかったわけでもないし、ましてや賠償請求するつもりもない。ただここで動かないのは間違いであると感じただけだ。
沈黙が降りる。鳥越くんが頑なにアスファルトの地面を見つめながら言った。まるでそこに蟻の行列でも見えているように。
「本当に俺じゃないんだ……信じてくれ」
「きみ以外に誰がいるっていうんだよ」
こんなに冷たい声を出したのは人生で初めてだった。鳥越くんは肺の空気を底から押し出すようにして言った。
「……ひ、樋口だ」
何だって?
「小笠原、お前のやった単語帳をそんな風にしたのは……樋口なんだよ」
鳥越くんは訳の分からないことを口走っていた。そんな馬鹿な話があるものか。
「……嘘だと思うならそれでもいい。でも俺ならもっと信憑性のある言い訳を考える。昨日の放課後、ロッカー室で見たんだよ。……その、それを踏みつける樋口の姿を……。それに俺には動機がない」
「それはきみが僕に英語で……」
多くのことがいっぺんに降り掛かってくるなか、僕の脳は異常に冷静に働いていた。冷たい言葉は頭まで冷やすのかもしれない。机の中に何かを入れたと言われて、全く身に覚えがなかったらどうするだろうか。普通はすぐに机を確認するだろう。知らずに本を入れてぐしゃぐしゃにしてしまっていないか心配になるのが人情じゃないか。樋口さんはそんな素振りちょっとだって見せなかった。
「放課後、図書館で勉強してたんだが、途中トイレに行ったら個室が空いてなかったからロッカー室の方に行ったんだ。そしたら何かを叩き付ける音が聞こえてきて……」
図書室もロッカールームと同じく一階にある。テスト前で図書館の利用者が多いとトイレも混むのだろう。鳥越くんの言い分を認めたわけじゃない。だが、僕の口からはうわ言が漏れていた。
「何で……」
「樋口、『恵まれた環境に生まれたくせにやればできるなんて偉そうなこと言いやがって』とか『できるところを見せてそんなに楽しいか。できない人の気も知らないで』とかかなりの剣幕だったぞ。……最後にロッカー室のゴミ箱に捨てていったから、俺が回収したんだ。……その、お前が樋口の机の中に入れたのは知ってたから、そのままだとまずいと思って……。いったい何したんだよ」
「何って……」
心当たりなんてこれっぽちもなかった。樋口さんを怒らせるようなことなんて僕は一度だってしていない。
「じゃあきみが最近ずっと僕の方を気にしていたのは……」
鳥越くんは奥歯に物が挟まったように、
「小笠原、海外の小説読んだりするのかなって思って。その話をしたかったんだ」
と言った。
だらりと下がった手からボロボロの単語帳が地面に落ちる。メリーがやってきて安全を確かめるように匂いを嗅ぐと、丸ごと口に含んだ。メリーが新聞紙以外のものを食べるのを見るのは初めてだった。硬い咀嚼音が聞こえる。それがなくなると、メリーは口から円状の何かを吐き出した。それは単語帳を束ねる金属のリングだった。鋭い音を立てて地面に落ちた後、数回転してその場に留まる。
低い声でメリーが「メェェェ」と鳴いた。僕は、いまの光景は鳥越くんにどう見えたのだろうと考えていた。