「お前は私の言うことさえ聞いていればいいのよ! 親に逆らうつもり!?」
早くに父親を亡くしたせいだろうか。母親はいつも甲高い声で俺を怒鳴る。
実家には追い出され、近所からも見放され、夜の仕事で稼いでいるらしい彼女に、誰も子育てを教えてはくれなかった。
中学三年生の夏。返却された模試の結果には、志望校への判定の英字だけが大きく書いてある。希望のなさを突きつけるその英字を見て、母親は激昂した。
無理に決まってる。俺がそんな名門校、受かるわけがなかろう。ましてや特待生でなんて。
ひとしきり俺を怒鳴り叩いたあと、それでも満足しないらしかった母親は、俺をアパートから追い出した。
ボロボロの木造アパートには、ろくな住民がいない。全員何かしらを抱えた人しかいないものだから、隣人がどうなろうと興味がない。
鍵も握れぬまま追い出され、途方に暮れた。ドアを叩いても返事はなく、かといって行くあてはない。
もうすぐ彼女の出勤時間だ。そうしたら、この扉は開く。
それならばドアの前に座って待って、その隙を見て中に入ろう。
ひどく冷静だった。怒鳴られても叩かれても、感情は揺らがない。目の前の女性がなにかを叫んでいる。それは俺が原因で、俺が悪いのだ。
だから、俺がなにかをいうことはできない。俺が悪いのだから。
扉が開いたら謝ればいい。今度は殴られるだろうけど、構わない。
俺にはここしか居場所がない。俺は彼女の世間体のために勉強をして、良い学校に入るためにある。
ミン、ミン。
蝉の声が響く。
その蝉の鳴き声が尽きてもなお、扉は開かなかった。
誰も俺がここにいることを気に留めなかった。路地裏の最奥にあるボロアパート。あらゆる勧誘や配達物すらここを避けていく。
それでも俺は扉の前にいた。
空腹感もないまま三日そうしていたけれど、学校のことを思い出して登校する。鞄も持たず制服もシワだらけの俺を見て、先生は血相を変えた。
三日も不登校だったこと、ご家族はどうされてるの、なんて聞かれても、俺はあの日から扉の中に入れない。
わからない、と答えるほかない。
ひどく面倒そうな声音で家庭訪問も兼ねて家に行くと言われ、先生とあのアパートへ向かう。
そこにはパトカーと救急車がいて、何やら騒いでいた。
何があったのか尋ねれば、二階の部屋から異臭がすると通報が入ったらしい。
他人に興味を示す住民もいたのかと思えば、その異臭は俺が入れなかった扉の奥からだという。
こじ開けられた扉の奥から、担架に人が乗せられているのが見える。そこに乗っていたのは、蛆に集られ、泡を吹き、目をぐるりと回転させた母親だった。
ヒッ、と先生が悲鳴をあげる。
それを聞いて、あれを見たら恐怖するのかと知った。
目の前にいた警官に彼女の息子だと伝える。すると、警官は慌てたように俺をパトカーに乗せた。
それから俺は警察からの事情聴取、部屋の清掃と退去に追われ、俺は病院へと閉じ込められた。
部屋の清掃費用は彼女の両親、つまりは俺の祖父母が支払ったらしい。清掃のときに一度顔を合わせたが、俺のことは徹底して無視していた。
それが、去年の夏。
一年経ち、本当なら高校一年生の夏休みを迎えていたのだろう。
彼女の望む有名校に特待生として入ることはなかったとは思うが。
長く過ごした精神病棟を、俺は今日出る。
そうして孤児施設へと入るらしい。
あと一時間で迎えの車が来るから、それまで外の空気を吸っておいで。
看護師に言われ、俺は一年ぶりに外へ出た。
あの日と同じ、蝉の声が聞こえる。
ミン、ミン。
向こうの木からだろうか。それとも、あっち?
病院の前には、道路を挟んで向かいに大きな公園がある。たぶん、その木の何処かにいるのだろう。
なぜだかわからない。ただ、その蝉を見たくなった。
足を動かす。走る、走れる。
駐車場、そして道路の先を目掛けて走る。
夏の風がシャツを靡かせる。それが心地良い。
自分の意志で、今走っている。
自由って、こういうことなのかな。
あの日の彼女の声のような甲高い音が、耳の奥を貫いた。
体が軋む音がしてすぐ、頭蓋骨が熱く黒い塊にぶつかる。
視界が赤黒い。
ミン――。
蝉の声が止む。
ああ、やっと扉が開いた。