弘起の一存
ペット僧侶としての私なりの仏教観です
弘起の一存
第一回
あくまでも私の一存にすぎないことを記していこうと思います。
仏教はかみさまにお願い事をするのとは違います。ほとけさまにお願い事をするのではなく、自分自身が「仏」になること。それが本来の仏教です。
できたら、毎週更新していきたいと思っています。
2023,1,27
第二回
仏教はほとけさまにお願い事をするものではなく、自分自身が「仏」になることと書きました。では、どのようにすれば「仏」になることができるのでしょうか。
お釈迦様「八正道」という仏になるための方法を説かれました。ただ八正道はやや抽象的であり、後に大乗仏教が菩薩行として六つの行いを解きました。それは「六波羅蜜
行」といわれるものです。
※八正道
正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定
2023,2,5
第三回
修行などというと、その道を究めようとする特別な人がする特別なこと。そんなイメージがあり、自分には縁遠いものと思われるのではないでしょうか。しかし、修行とは
簡単にいえば単なる「行い」「行動」ということです。仏になる修行とは、仏になるための行いなのです。基本となる六つの行い。それが六波羅蜜行なのです。
2023,2,11
第四回
六波羅蜜行の一番目にあるのが「布施」というおこないです。お坊さんに渡すお葬式代ではありません。施しということです。布施行には三つの種類があります。財施、無
畏施、法施の三つです。
財施とは財物を施すこと。
無畏施とは不安になっている人を安心させてあげること。
法施とは教えを説いてあげること。
2023,2,20
第五回
布施をいいかえると「半分ずっこ」ということです。半分だけあげる。ここがポイントです。全部あげたり、新しい物を用意したりしては布施にはなりません。
どうして?
そんなことをした途端「~してやった」という思い上がりが生まれるのです。
2023,2,26
第六回
私の好きな言葉に、一休さんの言葉があります。仏になるための行いとはどのようなものかと問われ、一休さんが答えます。
「腹立てず 心は丸く 気は長く おのれ小さく 人は大きく」
思い上がりの心は「おのれ大きく 人は小さく」です。仏になるための行いとは、全く逆です。
布施をする時「半分だけでごめんねごめんねめんね」という気持ちが、おのれを小さいままにしてくれるのです。
2023,3,4
第七回
六波羅蜜行の二番目は「持戒」です。
仏教には十善戒といわれる10の戒めがあります。
不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不綺語 不悪口 不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見
殺さない、盗まない・・・など、当たり前のことです。当たり前のこととは分かっていても、ちょっとした隙が人の心を迷い道に誘い込むのです。
2023.3.13
第八回
六波羅蜜行の三番目は「忍辱」です。
耐えること。我慢すること。
仏教の教えに中道という言葉があります。良くも悪くも極端にならないこと。我慢も過ぎれば身体も心も病へと追い込みます。とは言え少しの我慢も出来なければ社会から
あふれてしまいます。なにごとも、ほどほどに。
第九回
六波羅蜜行の四番目は「精進」です。
努力すること。手間暇をおしまないこと。心のを込めたおこないをすることです。
好きな人にプレゼントを用意するとき、あれこれと時間を掛けてえらびます。しかし、そうでもない人への形ばかりのプレゼント選びはあっという間。
ヤッツケ仕事をしないことです。
2023.3.26
第十回
六波羅蜜行の五番目は「禅定」です。
落ち着いて行動すること。常に落ち着きをもって行動するのはなかなか難しいこと。
禅定のもうひとつの意味は、視点を変えること。視点を変えることで気持ちも変わる。気持ちが変わると、心の動揺を早めにしずまっていくもの。
2023.4.1
第十一回
六波羅蜜行の六番目は「智慧」です。
知識はインプット。智慧はアウトプット。得た情報をいかにアウトプットしていくかです。
アウトプットする時は、あらゆる人の目線でその情報を見つめなおす必要があります。仏教でいう同事の心です。
2023.4.10
第十二回
この世にあって、この身このままでほとけになるための六つの行いをしょうかいしました。
ところで、人間はなぜ仏をめざすのでしょうか。
この宇宙にあって、それぞれやくわりをになっているとおもうのです。人間のやくわりは、仏になることなのではないかと私はおもうのです。
2023.4.17
第十三回
仏になるための行いを紹介しましたが、実行するとなるとなかなかできないもの。小説家の遠藤周作さんの著書のなかに生きることには「人生と生活」の二面があると書か
れていました。仏になることはじんせいをいきること。しかし、まいにちのせいかつのなかで、人生を生きる思考は薄れてしまいます。そこで懺悔と発心を繰り返していく
のです。
2023.5.7
第十四回
毎日の勤行においても、まずは「懺悔文」というものを唱えます。そののちに発心の真言をとなえます。
皆さんも同じです。まずは今日一日を振り返る。のちに明日への決心をする。その繰り返しです。特別なことのように思われますが、誰もが知らず知らずのうちにこの繰り
返しで生きているのではないでしょうか。
2023.5.15
第十五回
布施行のうちの財施について。
財施とは、お金を寄付することです。しかし、一円もかからない布施もあるのです。しかも簡単に、だれでも、いつでもできる布施です。
2023,5.22
第十六回
一円もかからない布施行。それは「無財の七施」といわれているものです。
その一つが「眼施」やさしいまなざしを人にむけること。
朝のラッシュアワーなどで駅や電車で行きかう人たちの眼差しには、どこか余裕がありません。ですからトラブルもおこりがち。トラブルは本人も周りの人も気持ちの良い
ものではありません。まずは、優しいまなざしから。
2023.5.29
第十七回
無財の七施 「和顔悦色施」
おだやかな笑みを浮かべること。「あなたの敵ではありませんよ」という無言の意思表示が笑顔。特に初対面の人には不安を取り除いてあげるためにも、和顔悦色でせっし
てあげましょう。
2023.6.5
第十八回
無財の七施 「言辞施」
やさしい言葉をかけること。
言葉をかける時、その声にも、口調にも穏やかさを忘れずに。同じ言葉でも声や口調で相手に与える印象はかわります。
また、「やさしい」ということばには、わかりやすいと言う意味もあります。相手の立場に立ってことばを選ぶことも、思いやりです。
何度いってもわかってくれないと、いらいらしたり、嘆くまえに自分の発した言葉をもう一度見直してみては。言葉を伝えることは意外と難しいものなのです。
2023.6.12
第十九回
無財の七施 「身施」
手助けをすること。
見て見ぬふりをしないこと。
先の二つとは違い、これは意外とむずかしいもの。できることからはじめよう。
2023.6.19
第二十回
無財の七施 「心施」
真心をほどこすこと。
人は楽な方へと心が傾きます。すると目の前の仕事がめんどうくさくなり、その結果はいい加減なものになってしまいます。
真心のないやっつけ仕事は自分の信用を失う事にもなります。
真心を施すことは自分自身の戒めでもあります。
2023.6.30
第二十一回
無財の七施 「床座施」
席を譲ってあげること。
電車やバスに乗っていなくても、道を譲りあう事も同じ。
自分が一歩引く。昔の日本では当たり前の文化だったような気がする。
2023,7,6
第二十二回
無財の七施 「房舎施」
気持ち良くお客様を向かい入れる事。どんなお客様でも、玄関をきれいにして向かい入れましょう。ひょっとしたらその人が思わぬ福の神かもしれません。
2023.7.10
第二十三回
布施の三忘
財産がなくてもすぐにできる布施行として、無財の七施というものをご紹介しました。
笑顔や穏やかな物言いなど、いつでもどこでもできるものです。
しかし、布施行には大きな落とし穴もあります。この落とし穴におちないようにしなければなりません。
そのために「布施の三忘」という言葉があります。
2023.7.21
第二十四回
布施の三忘
布施行は初めのうちはよいのですが、しだいに初めの気持ちをわすれてしまうのです。
それは「~してやった」という気持ちが、心のどこかに芽生えてきてしまうのです。いつしか、見返り
を求めはじめてしまうのです。
それはもう布施でもなければ、修行でもないのです。
2023.11.19
第二十五回
布施行の落とし穴に落ちないために「布施の三忘」が求められます。
いつ、誰に、何をしたかを、忘れてしまえというのです。
「あの時、あいつに、こんなことをしてやった」となってしまうからです。
そして究極的には布施行をしたこと自体を忘れてしまえというのです。そこまでできてはじめて、布施行だといえるのです。
2023,11,29
第二十六回
「供養」という言葉を聞いて、思い浮かべるものは何でしょう。
法事をしたり、お墓参りをしたり、お仏壇にお供え物をする。そのようなことを思われるのではないでしょうか。
本来の意味としては、修行しているお坊さんに食べ物などをお供えすることでした。
そこから、日本の仏教では死者にたいしての行いに変わって行ったのです。
2024,2,1
第二十七回
供養とはお墓や、お仏壇にお供え物をしたりお経を唱えたりすることなのでしょうか。
お仏壇にお団子を供えたり、お花を飾っても現実として死者がたべたり、おはなを眺めたりすることはできません。
では、我々がどうすることが本当の供養なのでしょうか。
2024,2,8
第二十八回
死後の世界とはどのようなものなのでしょうか。
そもそも、死後の世界などというものがあるのでしょうか。
命(魂、霊・・・)は、エネルギーであり、肉体が滅んでもエネルギーは存在し続ける。何故なら、宇宙には「エネルギー保存の法則」というものがあるからです。
死後の世界とは、新たなエネルギーの再生だと、私は考えます。
2024,2,14
第二十七回
一周忌、三回忌、十三回忌など、耳にしたことがあるとおもいます。人間が亡くなった後の節目の供養です。
皆さんはご自分の愛したペットのために供養の法事(法要)をしたことがありますか。供養だけでなく、長年ともに過ごしたペットが亡くなった時、別れの儀式(葬儀)
を、しましたか。あるいは、考えたことがありますか。ペットの死に涙し、ペットロスに落ち込んだりとはあっても、法要や葬儀となると、どうでしょうか。
2024,2,29
第二十八回
供養とは、次の世(あの世)へ行ったエネルギーへの応援です。
死は終わりではなく、次の世への移り変わりです。この世での死は、そのまま次の世での誕生なのです。
愛おしむ者への応援は当然のことだと思うのです。応援の仕方は様々です。その様々な形の一つが、僧侶による法要というセレモニーなのです。
2024,3,8
第二十九回
私はペットの供養、葬儀を専門とする僧侶です。今までの仏教界において、その対象は主に人間でした。中には動物に対する供養や葬儀を否定する方さえいます。
釈迦涅槃図をご覧になったことがありますか。亡くなられたお釈迦様のもとには、人間だけではなく動物達の嘆き悲しむ姿が描かれています。
仏教は本来、全ての命に差別をつけるものではないのです。
2024,3,14
第三十回
私のペット供養、葬儀は私独自のかたちです。それは、そもそもペット用のやりかたなどないからです。
ただし、人間の供養、葬儀であるような金額による法要のなかみにちがいなどありません。心からの供養を願う依頼主様と共に、僧侶としてのお勤めをしてまいります。
2024,3,21 (南無大師遍照金剛)