中性子散乱法は、中性子が原子核 (あるいはスピン) で散乱される際の強度の運動量遷移 (ℏQ) とエネルギー遷移 (ℏω) に対する依存性から、動的構造因子S(Q,ω)を得る手法です。中性子散乱には、回折、非弾性散乱、準弾性散乱があります (図1)。弾性散乱 (ω=0) の強度のQ変化は、いわゆる中性子回折パターンです。観測したい対象が軽原子やスピンの場合は、X線回折では得られない構造情報を得ることができます。中性子が試料とエネルギー交換をする過程 (ω≠0) は非弾性散乱とよばれます。フォノンやマグノンの分散関係、振動状態密度、磁気励起の観測などに用いられます。準弾性散乱は、原子/分子やスピンが緩和運動をしている場合に、弾性散乱ピークにブロードニングが生じる現象で、拡散やスピン緩和の情報が得られます。中性子散乱で観測できる領域は、時間と空間スケールに換算すると、1ps〜100nsと1〜100Åで、ミクロスコピックな (比較的速い) ダイナミクスを調べることができます。この時間・空間領域は、ひとつの装置ではカバーできないため、見たい領域に応じた装置を選んで実験します。
図1: 中性子散乱法の説明
X線や電子線と比べると、中性子は軽元素、とくに水素の観測に適しています。私達が過去に行ったパラジウム水素化物ナノ粒子の研究では、中性子回折、非弾性散乱、準弾性散乱を駆使し、パラジウム格子中の水素の状態を解明することに成功しました (図2) [1-4]。回折実験では、水素原子の位置を知ることができますが、ナノ粒子の表面付近ではバルク状態とは異なる四面体サイトにも水素が配置することを明らかにしました [1]。四面体サイトはエネルギー的に非常に不安定であると考えられており、驚くべき結果です。非弾性散乱で観測できる振動励起を解析すると、ポテンシャル形状の情報を得ることができます。表面付近の四面体サイトは非調和性の強いトランペット型ポテンシャルであることがわかりました [2]。準弾性散乱では、速い拡散を検知し [3]、トランペット型形状によりポテンシャル障壁が低くなったと考えると整合する結果です。パラジウム水素化物の研究には、国内外の6台の最新鋭中性子散乱装置を用いています。
今後は、プロトンやヒドリドイオン伝導体の拡散機構の解明や、水素の量子ダイナミクスの観測に取り組みたいと考えています。水素は量子性が強い元素として知られていますが、水素の量子効果が顕になるケースは稀です。偏極中性子 (中性子のスピンが揃った状態) を利用すると、1粒子の運動と協同的な運動を切り分けることが原理的には可能です (実験技術的に難しいため、ほとんど報告例はない)。新しい中性子の手法を駆使して、水素ダイナミクスの新たな一面を捉えたいと思っています。
[1] H. Akiba et al., J. Am. Chem. Soc. 138, 10238 (2016). [2] M. Kofu et al., Phys. Rev. B 94, 064303 (2016). [3] M. Kofu et al., Phys. Rev. B 96, 054304 (2017). [4] M. Kofu et al., J. Phys. Soc. Jpn. 89, 051002 (2020).
図2: パラジウム水素化物ナノ粒子の中性子散乱研究の結果
単分子磁石 (single molecule magnet: SMM) とは、ナノスケールの単一分子が大きな磁気モーメント・磁気異方性を有し、磁化反転過程が非常に遅くなる物質群です。通常の”磁石” (強磁性体) と同様に磁化過程にヒステリシス (保磁力) が現れますが、長距離秩序はなく常磁性状態です。このような挙動を示す理由は、上向きと下向きの磁気モーメントの状態の間に大きな障壁があるからです (図3(a))。磁性ナノ粒子などの超常磁性体と異なり、スピン副準位が離散的になり、副準位間の混成によるトンネリング過程が顕著であることが特徴です。
研究初期の頃は、MnやFeなどの3d遷移金属を含む単分子磁石が盛んに研究されてきました。これらの物質では,ひとつのクラスターに4〜12個くらいの磁性イオンが含まれています。その後、少数の磁性原子からなる希土類系単分子磁石が注目されました。希土類系単分子磁石では、より高い温度で保磁力を示すことが期待され、ナノ磁気デバイスにも応用可能です。私たちはTbとCuから成る錯体(図3(b)) [5,6] 、ひとつの磁性イオンのみを含むZn-Ln-Zn錯体 (図3(c)) の磁気特性を中性子散乱で調べました。現在は、単分子磁石挙動を示す非常に珍しい無機化合物Li2(Li1-xFe)N (図3(d)) に注目して、研究を行っています。
[5] M. Kofu et al., Phys. Rev. B 88, 064405 (2013). [6] M. Kofu et al., Chem. Phys. 427, 147 (2013).
図3: (a) 磁化反転緩和, (b) Tb-Cu錯体, (c) Zn-Ln-Zn錯体 (Ln = Ce, Pr, Nd, ...), (d) Li2(Li1-xFe)N
スピングラスは、ランダムネスとフラストレーションを有する広範囲の磁性体で現れます。スピングラスの特徴はスピングラス転移温度の存在とその近傍での複雑な磁気緩和現象で、実験・理論両面から研究が進められてきました。一方、励起特性に関する研究は非常に限定的で、よく分かっていませんでした。スピングラスに固有の磁気励起はあるのか、という基本的問題に取り組むため、磁気秩序相から乖離した3種類のスピングラス物質、アモルファス物質である磁性イオン液体(C4mimFeCl4)とアルミノケイ酸ガラス(FeO-Al2O3-SiO2)、結晶性の希薄磁性合金Cu1-xMnxを中性子散乱で調べました [7,8]。
スピングラス転移温度以下で、ボーズ統計に従うブロードな局所磁気励起を観測することに成功しました。転移温度以上では、磁気緩和が現れました。磁気励起のエネルギースケールは物質によって異なるものの、定性的な振る舞いは3物質でほぼ同じであり (図4左)、結晶・非晶質、絶縁体・金属によらず、古典系スピングラスに普遍的な現象であると考えられます。この局在磁気励起は構造ガラスでみられる局在振動励起 (ボゾンピーク) と類似した特徴をもっており、古典的な不規則系に普遍的な振る舞いだと考えています。スピングラス状態では多数の準安定状態が存在し、複雑な自由エネルギーの多谷構造を形成すると理解されています。各々の準安定状態は、サイズやスピン配置の異なるスピンクラスターで記述され (図4右)、固有の磁気励起 (”閉じ込められたマグノン”) をもち、それらの足し合わせがブロードなスペクトルを形成すると考えられます。構造のボゾンピークの起源はまだよくわかっておらず、磁気ボゾンピークとの比較することにより、不規則系における素励起の理解が深まること期待しています。
[7] M. Kofu et al., Sci. Rep. 11, 12098 (2021). [8] M. Kofu et al., Phys. Rev. Res. 6, 013006 (2024).
図4: (左) さまざまなスピングラス物質の局在励起スペクトル (右) エネルギーランドスケープの模式図