<気づきの思考法ブログ>
●2024年07月24日 《悩みの本質》
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さて、私たちは、日々、さまざまな悩みを抱えて生きています。
些細なことから、重大なことまで、その悩みはさまざまです。
しかし、人の悩みは、あくまでも主観的なものです。
それゆえ、その悩みの大きさが、必ずしも実際の問題の重大さを反映しているとは限りません。
些細なことが、その人にとっての大きな悩みとなったり、あるいは、重大な問題であっても、その人があまり気にしなかったり、ということもあり得るのです。
なぜ、そのようなことが起こるのでしょうか。
ある精神科医は、これは、「防衛機制」と呼ばれる心理的な働きがあるためだ、と述べています。
その説明によれば、
「これは、受け入れがたい苦痛や危険に直面したとき、不安を低減させるため、無意識に発動する心理的な働きです。
つまり、物事がうまくいかないと葛藤が生じますが、その葛藤を中和するために、自分の気持ちを加工してしまう傾向があるのです。
この防衛機制の働き方は、人によって異なります。
目の前の事実を無意識に否認したり自分の気持ちを否定したり、自分の気持ちを他人のものだと投影したりすることもあります。
さまざまに防衛機制が働くことで、自分が感じる物事のストレスの大きさは変化してしまいます。
つまり、自分が感じている悩みの大きさは、必ずしも問題の重大性を反映していないということなのです。
あまりにも重大な問題に直面すると、人間は逃げてしまう傾向があります。これも一種の防衛機制で、意識的に問題をスルーしてしまう面があるのです。
そうなると、大きな問題でありながら、あまり悩んでいないという事態も起こり得るのです」
とあります。
しかし、この説明によれば、一つの疑問が浮かんできます。
それは、防衛機制が働くのならば、なぜ些細な問題を重大な問題だと捉える人がいるのか、ということです。
重大な問題だと捉える段階で、防衛機制が働いていないことを意味します。
要するに、これは、防衛機制とは何ら関係がないのです。
人が悩みを抱えるのは、あくまでもその問題を解決できないと感じているからであり、その問題を些細なことと捉えるか、重大なことと捉えるかの違いは、その人が自分の能力をどのように捉えているかの違いによるものなのです。
無意識に問題を解決できる、と思っていれば、その問題はその人にとっては些細な問題となります。
しかし、無意識に問題を解決できないと思っていれば、その問題は、たとえ些細なことであっても、その人にとっては重大な問題となります。
何れにしても、私たちは、自分のコントロールできることしか解決することができません。
例えば、朝、上司に挨拶をして無視されたとき、
「嫌われたのではないか」
と悩むかもしれません。
しかし、上司が挨拶するかどうかは、上司がコントロールできる問題であって、こちらがコントロールできる問題ではありません。
あるいは、上司は、こちらの挨拶に気がつかなかっただけかもしれません。
このように、私たちは、往々にして、自分のコントロールできないことで大いに悩んでいることが多いのです。
従って、悩みを抱えたときには、それが自分でコントロールできることか、それともコントロールできないことか、を考え、コントロールできることに全力を尽くすべきなのです。
●2024年07月22日 《性格は何歳になっても変えられる》
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さて、多くの人たちが、
「性格は生まれつきのもので、変えることができない」
と信じていると思います。
しかし、アドラー心理学では、
「性格は後天的なもので、いつにても変えることができる」
と考えます。
最近の脳科学の研究によれば、性格は後天的なもので変えることできる、とするアドラーの説を裏付ける報告がなされています。
たとえば、これはイギリスの実験ですが、占星術を信じている2000名以上を調べた結果、星座通りの性格の人が多かったそうです。
しかし、占星術を知らない子どもたち1000名を調べた結果、性格と占星術にはほとんど相関が見られませんでした。
つまり、これは、
「さそり座の人は情熱的な恋愛をする」
「おひつじ座の人はおとなしい」
というような言葉を信じると、実際に性格が変化してしまうことを意味しています。
このことを専門用語では『信念バイアス』とも言います。
また、人のパーソナリティは、「気質」と「性格」の2つの部分から成っているとする説もあります。
「気質」とは、遺伝子によって生まれたときから決まっている先天的なパーソナリティです。
イライラしやすい、喜びを感じやすい、新しいことに興味を持ちやすい、人が好きなど、これらは生まれつきドーパミンやセロトニンなど脳内の神経伝達物質の量によってある程度決まっているとされます。
そして、「性格」(キャラクター)とは、生まれてからの後天的な体験や出来事によってつくられるパーソナリティだとされているのです。
遺伝子が同じ一卵性双生児の研究でも、大人になるにつれて性格や好みが異なってくる現象があります。
これはまさに後天的な体験や環境の違いで、後天的に性格がつくられているからです。
行動遺伝学の研究でも、私たちのパーソナリティは全体の約40~50%が遺伝的な影響であることが示されています。
つまり、残りの50~60%は後天的というわけです。
では、どのようにして後天的な性格がつくられていくのでしょうか。
それを紐解くために必要なのが、「快感学習」と「恐怖学習」と呼ばれるものです。
「快感学習」とは、体験した出来事を「快感」として記憶する脳の学習です。
たとえば、あなたが訪れた新しいレストランで、珍しい魚が出されたとします。 その魚がとてもおいしかったら、それは「快感」として脳に記憶されます。
これがいわゆる「快感学習」です。
ところが、逆にその魚を食べて、お腹をこわしたとします。
すると今度は、「もうこんな魚なんて絶対に食べない」と、脳は「恐怖(痛み)」として認識してしまうのです。これが「恐怖学習」です。
実は、この「恐怖学習」と「快感学習」が、後天的な性格をつくっていることが研究でわかってきているのだそうです。
つまり、私たちは、性格が生まれつきのものである、と諦める必要はないのです。
アドラーに言わせれば、
「人は亡くなる直前まで変わることができる」
と述べています。
それは、性格が後天的に作られたものであるからに他なりません。
私たちは、自らの人生の目標を達成するために、自らの性格を形成するのです。
それゆえ、自らの人生の目標を変えることが出来さえすれば、性格も変わっていくのです。
●2024年07月20日 《根性論という隠れ蓑》
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さて、職場には、さまざまな人が存在します。
中には、何かにつけ気合と根性を持ち出す人がいます。
ある食品会社の営業部長を務める50代の男性がそのタイプで、
「営業で大切なのは気合と根性」
と日々力説し、何軒訪問したか、何人に電話したかを毎日報告させ、少ないと「気合が足らん」と激高するのだとか。
しかも、自分が若い頃気合と根性で営業成績をあげた話を何度も繰り返したうえ、残業を暗に強要し、定時に退社した社員がいると翌日デスクを廊下に出したこともあるのだそうです。
この部長のような営業職に多いのが、体育会系の根性論を仕事に持ち込むタイプです。
「ノルマが達成できないのは気合も努力も足りないからだ」
「根性さえあれば絶対にできるはずだ」
などと力説し、現実的に無理な目標を達成させようとしたり、計画不足を根性論で無理やり何とかしようとしたりします。
このような思考回路の根底には次のような傾向が潜んでいる、とある精神科医は言います。
例えば、根性論を持ち込む上司は、
「みんながやる気を出せば、すべてがうまくいく」
と考えがちですが、こうした思考回路の根底にはしばしば
「~だったらいいのに」
という願望と現実を混同する傾向が潜んでいる、というのです。
それは、
「すべてがうまくいけばいいのに」
という願望と
「すべてがうまくいく」
という現実を混同するもので、精神医学で言うところの「幻想的願望充足」です。
この「幻想的願望充足」は子どもに認められることが多いのですが、成長するにつれて否が応でも目の前の現実と向き合わざるを得なくなると、次第に影を潜めていきます。
根性論を持ち出すタイプの人は、この「幻想的願望充足」を引きずっている人であり、目の前の現実を受け入れられず、直視したくないため、つまり現実否認の傾向が強いためだと考えられる、というわけです。
また、このようなタイプの人は、
「あの頃俺はすごかった」
「自分が○○の契約を取ったときは……」
などと過去の栄光を大いに自慢する傾向にもあります。
言わば、このようなタイプの人たちは、現実を直視していないのではなく、自分自身を直視していないのでしょう。
つまり、現在の自分の力量が現実の状況に見合っているかどうかを直視していないのです。
そして、その根底には、自分の能力に対する疑いの気持ちが横たわっています。
要するに、自分では、今の現状に対応することができない、と思い込んでいるわけです。
そこで、何でもかんでも根性論に結びつけ、その場しのぎの対策でお茶を濁そうとしているのです。
彼らが、自分の過去を自慢するのは、現状では自慢するものがないからです。
そうして、何かを自慢しなければ、自分には能力がないと思われているのではないか、という恐怖の中で生きているのです。
そのために、自分の過去を持ち出し大いに自慢するわけです。
従って、彼らは、彼らにとっての根性論を、自分の能力のなさを覆い隠してくれる隠れ蓑だと思っているのです。
●2024年07月19日 《哲学的ゾンビという思考実験》
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さて、みなさんは、
『哲学的ゾンビ』
という言葉をご存じでしょうか。
分かりやすく説明すれば、例えば、医療や科学技術が進歩し、ウイルスや人工知能、ロボットの研究でも大きな進展が見られた近未来において、ある研究チームが、死人を生き返らせることのできるゾンビウイルスを開発したとします。
このゾンビウイルスで生き返った死人は外見や行動、言語能力など、元の人間に非常に近い能力を持っています。
この研究チームは、元の人間の脳の構造と機能をほぼ完全に生き返らせるウイルスを開発しましたが、このゾンビウイルスでゾンビとなって生き返った死人には意識や感情が全く存在しないことがわかりました。
つまり、このゾンビは外見や行動だけでなく、物理的にも全く人間と同じように振る舞いますが、意識や感情がありません。
このゾンビは周囲の環境に反応し、知覚し、行動しますが、それらの反応はすべて機械的な計算処理によって実現されているとされています。
果たして、私たちは、このゾンビと人間を見分けることができるでしょうか。
これが、「哲学的ゾンビ」の思考実験です。
思考実験とは、言わば考えるゲームのようなもので、実際の実験を行わずに頭の中で問題を考えるものです。
この思考実験は、意識や心の問題を探求するために、オーストラリアの哲学者デイビット・J・チャーマーズ氏によって考えられました。
哲学的ゾンビに登場するゾンビは、見た目は普通の人間ですが、意識がありません。
感情が表に出ていても、それは機械的に計算されて出力されているだけに過ぎません。
このような場合、哲学的ゾンビと人間とを区別することは非常に難しいでしょう。
私たち人間でも、表に出している感情と心の中で実際に思っていることが必ずしも一致しているとは限りません。
・納得していないけど、とりあえず「ごめん」と謝っておこう。
・もらったプレゼントが嬉しくないけど、とりあえず「やったー」と喜んでおこう。
・ケンカをしているときに「お前なんか死んじゃえ」と言ってしまった。
など一致していないことが多々あります。
つまり、人間でさえも、相手の感情を完全に読み取ることは不可能なのです。
それが、家族や友人、パートナーであっても同じことです。
だからこそ、相手の関心に関心を持つ、という共感の能力が必要になってくるのです。
相手を理解するためには、大いなる努力が必要です。
この努力をなおざりにすると、人間関係は一気に悪化へと進むことになってしまいます。
家族やパートナーとの関係が時に修復不可能なまでに悪化してしまうのは、お互いに近過ぎて、相手を理解しようとする努力を全く忘れてしまっているからなのです。
そのために、相手に対する憎しみだけが増幅されるのです。
あるいは、自分の気持ちを理解してもらうことばかりを考えて、相手の気持ちを無視してしまっているのです。
人は、他人を理解するためにはお互いに努力が必要であるということを、常に忘れずにいたいものです。
●2024年07月17日 《横柄な態度を取る人たち》
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さて、世の中には、非常に横柄な態度を取る人たちをよく見かけるものです。
特に多いのが政治家で、彼らの会見などを見ていると、記者に対して実に横柄な態度で臨んでいる者が多々います。
また、選挙前は実に腰が低く丁寧な受け答えをしていたのに、選挙で当選したとたんに横柄な態度に変わる、という者さえもいます。
その他にも、部下に対して横柄な態度を取る上司や、何かを勘違いしているかのように横柄な態度の客、あるいは、子どもに対して横柄な態度を取る親もいます。
彼らは、偉そうにするのが、さも自分たちの権利であるかのように振る舞っています。
その姿からは、さぞ自分のことを偉い人間だと思っているのだろう、ということが推察されます。
しかし、実際は、その逆なのです。
彼らは、自分たちのことを人よりも劣った人間だと思い込んでいます。
つまり、強い劣等感を抱えているのです。
ただ、人は劣等感を抱えたまま生きることはできません。
そのため、何らかの形でこの劣等感を穴埋めする必要があります。
そこで、彼らが取るのが横柄な態度なのです。
横柄な態度をして、さも自分が偉くて大きい人物であるかのように見せかけようとするのです。
そうして、その見せかけによって、自分の持っている劣等感を穴埋めしようとしているわけです。
言うならば、劣等感の歪んだ補償の仕方の一つなのです。
そればいわば、つま先立ちして自分を大きく見せようとしている姿に他ならないのです。
なぜなら、自分に能力があると思っている人は、わざわざ自分を大きく見せる必要性を感じないからです。
老子は、次のように述べています。
「爪先立つ者は立たず、自ら矜(ほこ)る者は長からず」。
無理につま先で立ってまで自分を大きく見せようとする人は、バランスを崩して挫折することになる、という意味です。
自らの劣等感を横柄な態度によって穴埋めしようとする人間は、やがては誰からも相手にされず、結局は、挫折を味わうことになってしまうのです。
●2024年07月16日 《よく怒る人たち》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、世の中には、とてもよく怒る人がいます。
俗に言う「怒りん坊」と言われる人たちです。
そのような人たちには、家の中で怒る人もいれば、家の外で怒る人、あるいは、家の中でも外でも怒る人がいます。
例えば、家の中では、奥さんに怒鳴り散らしたり、子どもを叩いたり、家の外では、コンビニ店員に怒声を浴びせたり、中には土下座を強要する人たちもいます。
ある心理カウンセラーの方は、
「人が怒るのは、相手に期待し過ぎるからだ」
と言います。
先で言う、コンビニ店員に怒る場合なら、それは、笑顔で接客してもらおうとか、丁寧に接客してもらおうとか、優しくお釣りを渡して欲しいとか、などと期待をし過ぎるからだというのです。
そして、その期待を裏切られた時に、大いに腹が立つ、というわけです。
その姿はまるで、子どもが親に期待し、
「親が自分の気持ちに気付いてくれなかった、親が自分の期待に応えてくれなかった」
と言って、泣いて駄々をこねている幼い子どもを連想させる、というのです。
従って、相手に期待をしなければ、何も腹が立つことはない、というわけです。
アドラー心理学的に言えば、人が怒るのは、相手を支配したい、という目的があるからです。
自分の思い通りにならないときに、相手を従わせるために怒るのです。
この中には、議論などをしていて相手に勝ちたいとか、自分の望みが邪魔されたので、相手に仕返ししたい、という気持ちも含まれています。
要は、相手の上に立ちたいのです。
つまり、すぐに怒る人は、常に相手と競争関係を築いているのです。
そうして、その競争に怒りを用いて勝とうとしているわけです。
従って、相手に期待しないというのは、相手との間にそのような競争関係を築かない、ということを言い現わしているのでしょう。
相手との間に「ヨコの関係」、即ち「対等の関係」を常に築くようにすれば、相手の行動に一喜一憂することもなくなるのです。
●2024年07月15日 《すべてを運命のせいにする人たち》
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さて、
「親ガチャ」や
「職場ガチャ」
など、何でも「○○ガチャ」と表現することが一時期話題になりました。
この表現は、カプセル玩具の販売機やスマホゲームでアイテムを引く「ガチャ」になぞらえて使われており、人生のさまざまなシーンにおいて、運次第で結果が決まることを指しています。
「親ガチャ」は、親との関係や環境によって、人生の選択肢が大きく変わることを意味しています。
一方、「職場ガチャ」は、就職や転職において、どの部署や職場に配属されるかが運次第で決まることを意味しています。
これらの「ガチャ」要素は、社会的な不平等や運命の偶然性を示すものとして、特に若い世代の共感を呼んでいるようです。
しかし、これらの表現は、ただ単に、すべてを運命のせいにし、自分が他力本願の人生を歩んでいることを示しているに過ぎないのではないでしょうか。
確かに、幼い頃の子どもは、親や環境の影響を大いに受けて育ちます。
その中で、自分に対する認識や周囲の世界に対する認識を育むようになっていきます。
そうして、この世界の中でどのように生きていけばいいのか、という目標を持つようになるのです。
つまり、人生の目標は、運命ではなく、あくまでも自分で決めているのです。
問題は、「親ガチャ」ではなく、幼い頃に自分に対する認識をどのように持ったか、ということなのです。
この場合、自分に対する認識を低く持った人は、すべてのものごとに対して乗り越えられないと思うことでしょう。
そうして、すべてを運命のせいにし、自分の運命を呪いながら生きることでしょう。
一方で、自分に対する認識を高く持った人は、すべてのものごとを乗り越えられると信じ、ものごとに果敢に挑んでいくことでしょう。
そうして、自らの手で自らの人生を切り開いていくことでしょう。
ただし、ある環境が必ずしもある認識を持たせる、というわけではありません。
同じ環境下で育ったきょうだいが、違う認識を持って育つことはよくあることです。
従って、「○○ガチャ」とすべてを運命のせいにして、それを呪う前に、自らがどのような認識を持っているかに気づくことが、自らの人生を切り開く上で、大切になってくるのです。
●2024年07月14日 《他人の人生を生きている人たち》
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さて、社会では、とても多くの人たちが、周囲の目を気にしながら生きています。
「自分は人からどう見られているのだろうか?」
そのことばかりを気にして生きています。
そうして、他人の言葉に大きく傷ついています。
あるいは、常識に囚われすぎ、四角四面の人生を生きることを余儀なくされています。
それは、言ってみれば、自分の人生ではなく、他人の人生を生きているようなものなのです。
言わば、他人に踊らされているのです。
アメリカの実業家であるスティーブ・ジョブズ氏は、次のような言葉を残しています。
「時間は限られています。
それを他人の人生を生きることで無駄にしてはいけない。
常識にとらわれてはいけない。
それは、他人の考えた結果を生きることです。
他人の意見によりも自分の内なる声に耳を傾けてください。
そして、何よりも大切なこと、それは自分の心と直感に従って生きる勇気を持つことです。
どういうわけか彼ら(心と直感)はあなたが真に望んでいることをあなたよりも早く知ることができるんです。
それ以外のことはすべて二の次で構いません」。
彼の言う通り、私たちの人生には限りがあります。
周囲の目を気にして生きるということは、その限られた人生を無駄にしていることになるのです。
常識に囚われないとは、非常識な行動をして他人に迷惑をかけることを言うのではありません。
常識に囚われないとは、肩にはまらない自由な発想で目の前の事物に即した対応をするさまを言います。
それは、新しいアイデアや創造的なアプローチを意味し、常識を超えて考えることは、問題解決や革新につながることがあります。
人が自分の心や直感に耳を傾けることができないのは、自分に自信がないためです。
「自分にはものごとを成し遂げる能力がないのではないか」
という疑心暗鬼の中で生きているからなのです。
その自分の能力を否定するという思い込みが、ものごとに挑戦することを阻み、すべての課題から逃げるという欺瞞の殻の中に自らを閉じ込めているのです。
それゆえ、まずは、自らの欺瞞に気づくことが、自分の人生を生きるための第一歩となるのです。
●2024年07月13日 《個性的という否定の言葉》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、
「いまの若者たちにとって「個性的」とは否定の言葉である」
という論考を掲載している著書があります。
それによれば、
「「個性的な人間でありたい」と切望する気持ちがないわけではあるまい。
どんな人間だろうと自分の存在意義を求めようとするものだ。
思いをストレートに口に出すと、周囲から自分だけが浮いてしまう。
みんなと同じでなければ安心できず、たとえプラスの方向であったとしても自分だけが目立つことは避けたい。
近年はそんな心性が広がっているように見受けられる。」
とあります。
ある中学校の生徒たちは、
「個性的と言われると、自分を否定された気がする」
「周囲と違うってことでしょ? どう考えてもマイナスの言葉」
という反応だったというのです。
また、
「「個性的であること」は、組織からの解放を求めるには好都合だが、組織への包摂を求めるには不都合である。
自分の安定した居場所が揺らぎかねないからである。
今日の若者たちは、かつてのように社会組織によって強制された鬱陶しい人間関係から解放されることを願うのではなく、その拘束力が緩んで流動性が増したがゆえに不安定化した人間関係へ安全に包摂されることを願っている。」
とも書かれています。
ただ、若者たちの人間関係が希薄である、というわけでもなく、
「上役と仕事以外のつき合いはあった方がよい」
と考える割合は若年層ほど高く、20代では70%を占めるといった調査データも紹介されています。
この著書に書かれていることが真実かどうかはわかりませんが、この説に基づくならば、若い人たちは、それだけ、自分の能力に対して否定的な認識を持っている、ということなのでしょう。
周囲の人と違うことを怖れる風潮は、何も若い人に限ったことではありません。
日本では、周囲の人と同じことで安心を得る人たちがいます。
そのような人たちは、先にも示した通り、自分の能力に対して否定的な認識を持っています。
つまり、
「自分には他人よりも秀でた能力がないのだ」
と思い込んでいるわけです。
そのために、自分の能力が試される状況になることを極端に怖れるわけです。
それが、言うならば、自分の個性が試される状況ということになります。
そうして、そのような状況になることを避けようとします。
従って、彼らは何も好き好んで、周囲の状況に溶け込む擬態を演じているのではないのです。
自分にスポットライトが当たることが怖いゆえに、それを避けるという欺瞞を演じているに過ぎないのです。
●2024年07月12日 《ネガティブな感情の効果》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、厚生労働省の「令和4年 労働安全衛生調査」によると、仕事や職業生活で強い不安やストレスを感じると答えた人の割合は、実に82.2%で、前回の調査から約3割増加した、ということです。
まさに、現在はストレス社会と言われる所以です。
多くの人が、
「ストレスなどなければいいのに」
と思われることでしょう。
しかし、このストレスですが、なければないで困ったことになります。
それを表すのが「ヤーキーズ・ドットソンの法則」という生理心理学の基本とされる法則です。
これは心理学者のR・ヤーキーズ博士とJ・D・ドットソン博士によるパフォーマンスとストレスの関係を示した理論で、
「高すぎず・低すぎない」
適度なストレスがある方が、最適なパフォーマンスにつながるということを示したものです。
そもそもストレスは物理学用語で、モノに刺激が加わったときのあらゆる反応を意味します。
これを「ストレス反応」と呼びます。
例えば、柔らかいボールがあるとして、ボールを凹ませる力がストレッサー(刺激)、その刺激に対する反応が「ストレス反応」になります。
ストレスが低すぎる状態とは、この刺激がまったくないということを指し、例えるなら、誰にも会わない、仕事もしない、何の予定もないといった状態です。
これでは、変化に反応しない=柔軟性を育めないので、パフォーマンスを発揮できないどころか、日々の生活が無気力・無反応になり、人として生きる気力が失われていきます。
その結果として、さらに深いネガティブな感情を抱くようになると考えられるのです。
つまり、人が、
・仕事がうまくいかなくて落ち込む
・将来を考えると不安になる
・人の発言に対して嫌な気持ちになる
・最近パートナーとの会話がうまくいかない
などのネガティブな感情を抱くのは、ストレスがあるからではないのです。
「そのストレスに対して自分は対応することができない」
と無意識に思っているからなのです。
それが、ネガティブな感情となり、ストレスから逃れようとさせるのです。
大抵の場合、人は、ネガティブな感情を悪いものだと考えてしまいます。
しかし、例えば、
「明日の会議は遅刻できない。でも電車が遅れたらどうしよう」
と心配になれば、
「いつもより早く起きて、早い時間の電車に乗ろう」
と前もって準備ができます。
つまり、ネガティブな感情は、視点を変えると健全な成長を促す「原動力」につなげられるということなのです。
しかも、心にネガティブな感情が生まれやすい人ほど、その先の成功を自らの力で掴み取るケースも多いと言われています。
従って、ネガティブな感情そのものをなくそうとするのではなく、それに対してどのように対処するかを考えることが大切になってくるのです。
●2024年07月09日 《逆ギレする人たち》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、最近は、街中でイヤホンをつけている人が増えてきました。
イヤホン自体の性能も画期的に向上したこともあり、昔のような音漏れで周囲の人間がイライラすることはなくなりましたが、ただ、イヤホンをつけていることでさまざまな弊害が出ているようです。
最近も、ある人気ラーメン店が、接客に弊害が出るということで、
「店内でイヤホンをつけるのをやめて欲しい」
とSNSで訴えて話題になりました。
また、とあるコンビニでは、イヤホンで電話をしながら、店に入ってきた男性がいたとのこと。
男性は、自分の声の大きさがわからないのか、周りのお客さんがギョッとするような大きな声で話をしていました。
彼は、何も買わずにレジに並ぶと、タバコを指差しました。
レジの女性がどのタバコかわからずに戸惑っていると、男性は、身振り手振りでタバコの番号を知らせようとしました。
それでも、わからないでいると、最後には、
「何でわかんねーんだよ。34に決まってんだろ」
とキレられた、ということです。
まさに理不尽極まりないキレ方です。
最近は、このように、自分に非があるにもかかわらず、逆ギレする人が多くなっているように思われます。
そもそもキレるという行為にも、やはり目的があります。
その目的とは、思い通りにならないときに、相手を従わせるためにキレることが考えられます。
また、これには、その場を支配したい、(議論などに)勝ちたい、望みを邪魔されたので相手に仕返しをしたい、という気持ちが含まれています。
あるいは、自分の権利を守りたいときに使う場合もあれば、相手を譲歩させたいときにも使われます。
言うならば、その場を支配して、自分の思い通りにしたいという目的を持ってキレる、ということになります。
しかし、ものごとが自分の思い通りにならなくてうまく行かないのは、日常茶飯事のことです。
そのために、多くの人は、そのようなストレスに対する耐性ができている、と言えるでしょう。
キレる人間は、そのようなストレス耐性が極端に弱い人たちだと言えます。
これには、幼い頃からの家庭環境が大きく影響していることが考えられます。
また、幼い頃から、自分の思い通りにならないとキレるという行為を続けてきたのでしょう。
あるいは、周囲の人にすぐにキレる人がいたのかも知れません。
何れにしても、そのような行為に効果があるということを学んできた、ということも考えられます。
確かに、キレれば、その場は自分の思い通りに行くことがあるかもしれません。
しかし、その状態が長く続くこともなければ、問題が解決することもありません。
そのため、キレる人間は、常にキレていなければならず、その代わりに、失うものはあまりにも大き過ぎるのです。
●2024年07月07日 《アレキシノミアという欺瞞》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、
「Alexinomia(アレキシノミア)」
という恐怖症があるのをご存じでしょうか。
これは、「名前を表現できない」という意味のギリシャ語が由来で、その人物を知っていて名前を呼びたいにも関わらず、会話の中で人の名前を使用できなかったり、使用することにひどい恐怖を覚えたりするというあまり知られていない恐怖症です。
罹患者は、親しい友人や愛する人の名前やあだ名さえも口にできなくなることがあり、その恐怖は日常生活における社会的交流、人間関係あるいは職業機会に対して大きな影響を与える可能性がある、とされています。
研究によると、アレキシノミアを患っている人たちは以下の症状を示す傾向がある、ということです。
・精神的苦痛
名前の使用が必要な状況における高度の精神的苦痛、否定的自己認識、恐怖、不安、恥ずかしさ、後悔および困惑をともなう。
・回避行動
罹患者にきっかけが必要な状況を回避させ、その結果、社会的交流を損なうことにつながる。罹患者は自分の恐怖心を隠すことに全力を尽くすため、人とつながりたいと思っているにも関わらず、会話を避けるようになる。
・代償戦略
自分の恐怖を隠したり補ったりするために、アレキシノミアの人は、他人について話す際、その人の社会的役割や身体的特徴、たとえば髪型や普段の服装などで人物を表現することがある。「私はいつも、『近所の人と歩いていました』『学友と会います』などと言い、下の名前を言いません」と別の研究対象者は述べた。代わりにメールやテキストメッセージに人の名前を書くことで安心感が増すと報告した対象者も複数存在した。
また、潜在的な原因としては、以下のことが挙げられています。
・社交不安
アレキシノミアは、社交不安や社会環境における判断と棄却に関わる恐怖全般と相関がある。アレキシノミアは、社会交流の中で名前を使うことに対して特に神経をとがらせたり自意識を強く持ち、他者が自分をどう見ているかを心配する。すなわち、社交不安は人間関係の緊張と相関がある。
・不安定な愛着スタイル
不安定な愛着スタイルは、若年期における一貫性のない育児に由来するものであり、アレキシノミアを悪化させる。多くの研究対象者が、愛着不安(親しくなることへの不安)や忌避行動を示し、他人の都合や応答性に対する不安感と不信感にもがき苦しんでいる。彼らはその感情に打ちのめされながらも、人との感情的親密さを切望している。それは相手の名前を口に出すことに関係があり、彼らはそれをすることができない。
・幼児期の体験
通常、アレキシノミアは幼年期あるいは青年期に始まり、治療を受けなければ持続すると研究者らは示唆する。困難な幼児期体験、たとえば学校でのいじめ、頻繁な引っ越し、暴力、トラウマ、ネグレクト、離婚、あるいは家族の精神病歴といった不安定な家庭環境と直面したことが、アレキシノミアに寄与する場合もある。
・弱さを見せることへの恐れ
アレキシノミアの罹患者は、オープンな感情表現、愛と親密さの表現、あるいは感情の調節に苦労することがある。下の名前を使うことを、親しすぎ、個人的すぎて、自分の本当の感情をさらけ出すように感じる人たちがいる一方で、人間味がなく相手との間に望まない隔たりを作るのではないかと感じる人たちもいる。いずれの解釈も感情的に耐え難い気持ちを生む。
・劣等感
アレキシノミアは権威ある人や罹患者より優れていると考えられている人の存在によって悪化することがしばしばある。「学校では、先生を名前で呼ぶことが好ましくない場合が時々あり、相手が権威をふりかざす人の時は特にそうでした」とある対象者が述べた。「名前を呼ぶだけでは返事をしてもらえません。自分が取るに足らない存在のように感じました」と別の対象者は説明し、この恐怖症における低い自尊心の果たす役割を浮き彫りにした。
以上のことから考えるに、このアレキシノミアと呼ばれる恐怖症は、人間関係という人生の課題に直面したときに、発症するように思われます。
罹患者は、幼いころの不安定な愛着スタイルや不安定な家庭環境によって、自分自身の社交に対する能力に疑問を抱くようになったのでしょう。
つまり、自分には人間関係を構築する能力がない、と誤って思い込むようになったと考えられます。
その結果、人間関係を構築する場面に直面すると、相手の名前が呼べなくなる、という症状が出るようになったのでしょう。
2024年の論文の著者らは、この恐怖症が時間と訓練と専門家の支援によって克服が可能であることを示唆しています。
そのためには、自らが持っている自分に対する誤った認識に気づくことが大切であり、それを改めていく訓練が必要になってくると思われます。
●2024年07月06日 《指示待ちタイプの若者》
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さて、現在の20代の若者、いわゆるZ世代には、指示待ちタイプが多い、と言われます。
つまり、言われたことしかしない、というものです。
これには、その育てられ方に影響があるという意見が多々見られます。
まず、少子化の影響もあってか、親や教師が子どもを大切にし、すべてお膳立てしてくれる環境で育ってきたことがあります。
このような環境では、子どもが傷つくことも転ぶことも防ぐべく、周囲の大人は危険物を極力取り除き、危ないことは一切させないように配慮しまず。
それゆえ、子どもが自発的に何かをやる機会はどうしても限られてきます。
せっかく子どもが自分から「~したい」という意思表示をしても、大人に「危ないからダメ」と却下されることもあるはずです。
そうすると、必然的に受け身になりやすく、自主性も育ちにくくなる、というわけです。
また、試験では、あらかじめ正解が決まっていて、それに沿った答えを答案用紙に書くほど点数が高くなります。
教師からの評価も、指示されたことをきちんと実行するほうが上がります。
指示されていないのに、自分の頭で考えて余計なことをすると教師からの評価が下がることさえあります。
そのため、指示されたことだけをきちんとやるほうがいいと子どもの頃から経験的に学習しつつ成長していきます。
当然、周囲の仕事の進捗状況を見ながら、気を利かせて、必要であれば同僚を手伝うような柔軟性はなかなか身につかない、というわけです。
一般的に、子どもが上げ膳据え膳で育てられると、大いに勇気をくじかれてしまいます。
過保護にするほうが子どもが守られるように感じられますが、実際にはその逆で、過保護にされればされるほど、子どもの勇気は失われていきます。
子どもの環境において、安全である、ということは非常に大切なことですが、それは過保護であるということではありません。
子どもは、自分で何もさせてもらえなければ、
「自分は何もできない人間なのだ」
という間違った思い込みを持つようになります。
そして、その思い込みが、子どもの勇気を奪っていくわけです。
その結果、ものごとにチャレンジする勇気を失ってしまうのです。
若い人たちが指示待ちタイプであるのは、過保護であるゆえに勇気をくじかれているのです。
そのため、新しいことにチャレンジする勇気を失っているのです。
その結果、言われたことだけをして、自分の責任の範囲を狭くしようとしているのです。
●2024年07月05日 《熱中症で亡くなった園児に思う》
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さて、おととし、通園バスに3歳の女の子が置き去りにされ、重度の熱中症で亡くなる、という事件がありました。
事件が起きたのは、静岡県牧之原市の認定こども園「川崎幼稚園」。
その日、女の子はいつものように首から水筒を下げ、午前8時半に家を出て送迎バスに乗りました。
午前8時50分ごろにバスは園に到着しました。
しかし、元園長は座席の後方の確認をせず、女の子は、バスに取り残されました。
当時担任だった女は、女の子がいないことに気づきながら、欠席だと思い込み、両親への連絡を怠りました。
事件当日、牧之原市は最高気温が30.5℃まで上がりました。
警察が行った実験では、車の中の温度は45℃に達していた、ということです。
女の子が見つかったのは、およそ5時間後の午後2時。
バスの中で衣服を脱いた状態で発見され、麦茶を入れた水筒は空っぽでした。
元園長は、事件直後の会見で、女の子の名前を言い間違える場面もありました。
先日、この事件に対する判決公判があり、元園長の男に禁錮1年4カ月、元担任だった女に禁錮1年、執行猶予3年の判決が言い渡されました。
女の子一人の命が奪われた割には、刑が軽いようにも思います。
裁判長は、判決文を読み上げた後、被告に次のように語りかけました。
「2人の仕事は人の未来を育てる素晴らしい仕事です。その分、人の命を預かる責任は重い」。
そして、声を震わせながら、次のように続けました。
「(女の子の名前)ちゃんはお父さんやお母さんを不幸にするために生まれてきたわけではなく、お父さんやお母さんを幸せにするために生まれてきました。
教訓にするために生まれてきたわけではありません。
お父さんやお母さんの泣く顔を見るために生まれてきたわけではありません」。
この事件は、この被告の二人に、ほんのわずかでも子どもに対する関心があれば、簡単に防げていた事件です。
元園長は、女の子が亡くなった後も、その名前を言い間違えるほど、女の子に関心を持っていませんでした。
恐らく、自分の保身のことで頭が一杯だったのでしょう。
それだけ、この仕事をするには、不適格な人物であったと言えます。
私たち人間は、社会性の生き物です。
つまり、他者と協力しながらでなければ、生きていくことができません。
それゆえ、他者に関心を持つことは、生きていく上で、非常に大切な要素だと言えます。
この社会は、他者に関心を持たず、自分自身にしか関心を持っていない人間には、大変生きづらい世の中になっています。
そのような人間は、決して幸せになることはできないでしょう。
この事件は、そのことを改めて気づかせてくれる事件でもあります。
裁判長の言う通り、女の子は、教訓のために生まれてきたわけではありませんが、彼女の死を無駄にしないことが、残された私たちにできる唯一のことなのかもしれません。
●2024年07月03日 《愛の課題とストーカー》
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さて、今から2000年以上前、正確には紀元前380年に、古代ギリシャの哲学者であるプラトンは、『饗宴』を記したとされています。
その中で、アリストファネスという人物が次のような話をします。
その話によれば、大昔、男性と女性は「オトコオンナ」という1つの生き物だったそうです。
ちょうど今の男女が背中合わせにくっついていた状態で、1つの体には、手が4本、足が4本あり、顔というか頭も2つありました。
そして、そのような人間たちは、とても横暴な振る舞いをしていました。
そこで、神様がお怒りになり、オトコオンナを背中のところで真っ二つに割ったのです。
つまり、男性と女性に分けたのです。
その結果、人間の力は確かに弱くなりましたが、男性は絶えず自分の半身である女性を探し求めるようになり、女性も同様に、自分の半身である男性を探し求めるようになりました。
そのため、私たちは、自分の半身に出会ったとき、激しく恋焦がれ、惹かれ合い、一つになるのだとか。
また、自分の半身と再び別れなければならなくなったときには、身を切られるような痛みを感じるのだ、ということです。
この話は確か、男性と女性が赤い糸で結ばれている、という説の基になった話だったと記憶しています。
つまり、この話によれば、恋人とは「もうひとりの自分」なのであり、それは要するに「自分」なのであり、したがって別れとは、自分と別れることを意味することになり、だから「身を切られるように」痛いのだ、ということなのです。
最近では、恋人と別れた後に、しつこく付きまといストーカーに発展するケースが多々あります。
そして、最悪のケースでは、元恋人の命を奪うことに発展することもあります。
アリストファネスの説によれば、これは、自分で自分を殺すことになり、一種の自殺と言うことになってしまいます。
もちろん、そうではありません。
彼らがストーカーに発展するのは、自分の恋愛をする能力に対して自信を持っていないからであり、今の恋人と別れてしまうと、二度と恋愛ができないのではないか、と強く思い込んでいるからに他なりません。
そのために、彼らは、元恋人に対してしつこく復縁を迫るようになるのです。
そのときに利用するのが、嫉妬という感情です。
そうして、元恋人がそのことに応じず、自分を避けるようになると、ますます嫉妬の気持ちが強くなり、
「別れるくらいなら、いっそ……」
と相手の命を奪うことになるのです。
愛の課題は、人間が果たすべき人生の三つの課題の中でも、最も難しい課題だと言われています。
特に、現代社会では、この課題を達成できている人たちは、とても少ないと言わざるを得ません。
多くの人たちが、愛の課題に対して勇気を失っているがゆえに、身を切るような別れを乗り越えることができないのです。
●2024年07月02日 《周囲に八つ当たりする人たち》
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さて、先日、宮城県仙台市で、64歳の無職の女が逮捕されるという事件がありました。
容疑は、傷害の疑いです。
警察によりますと、女は6月30日の午後4時10分ごろ、公園で小学5年生の男子児童に金属バットを投げつけ、左ひざに軽い怪我をさせた疑いがもたれている、ということです。
男子児童は当時、同じ小学校に通う小学3年生から6年生の児童6人と野球をしていました。
児童たちが公園で野球をしていると、女が現れ、
「野球に交ぜて欲しい」
と声を掛けてきた、ということです。
その後、女は、金属バットを児童に投げつけ怪我をさせることになるのですが、その理由がなんと、
「野球をしている途中に自分のプレーに腹を立て、バットを男子児童に投げつけた」
ということなのです。
幸いにも、左ひざの軽い怪我で済んでよかったですが、金属バットが頭にでも当たっていれば、取り返しのつかないことになっていたかもしれません。
否、児童にしてみれば、たとえひざの軽い怪我であったとしても、トラウマとなって後々まで残るかもしれません。
この女の行動は、やはり劣等感のなせるところのものであり、劣等感の歪んだ補償と言えるでしょう。
女は、自分がうまくプレーできないことに劣等を感じ、その劣等感を穴埋めするために、児童に金属バットを投げつけたと思われます。
言わば、児童に金属バットを投げつけることによって優越感に浸ろうとしたわけです。
何とも愚かな行為です。
しかし、このような行動を取るのは、何もこの女だけではありません。
ものごとが自分の思い通りにならず、周囲の人たちに八つ当たりする、という人は、どこにでも見られるものです。
彼らは、先の女と同じように、ものごとがうまく行かないがゆえに抱いている劣等感を、周囲の人たちに八つ当たりすることによって穴埋めしているに過ぎません。
そうして、優越感に浸ろうとしているわけです。
しかし、このような場当たり的な劣等感の補償は、その場では優越感に浸れたとしても、長続きするものではありません。
なぜなら、劣等感から逃げようとしているに過ぎないからです。
人間の劣等感は、勇気を持って真正面から向き合わない限り、克服することはできないのです。
●2024年07月01日 《他人のやることを否定する人たち》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、世の中には、他人のやることをいちいち否定してくる人たちがいます。
例えば、転職をしようかと思っていると相談すれば、
「ただ逃げているだけだ」とか
「我慢が足りないんじゃないか」
などと言ったり、あるいは起業しようかと思っていると言えば、
「世の中、そんなに甘いものじゃない」とか
「今更やっても」
と言ったりしてきます。
要は、人が何かを始めようとすると、
「そんなことやってどうするの?」
と否定してくるわけです。
このようなことを言われると、せっかくのやる気も失せてしまうものです。
このような人に対しては
「価値観が違うから仕方がない」
という方もいらっしゃいますが、これは価値観が違うからではありません。
もし本当に価値観が違うのなら、相談したときも
「ふーん」
で終わるでしょう。
なぜなら、そのことに何の価値も持っていないからです。
敢えて否定するということは、そのことに対して何らかの価値を感じているということを意味しているのです。
ではなぜ、彼らは、人のやることをいちいち否定してくるのでしょうか。
それは、相手のやる気を失わせるためなのです。
私たちが何かをやりたいと意思表示したとき、それを否定する人もそのことに対して価値があると感じているのです。
そのために、相手の人がそれをやってうまく行けば、自分だけが取り残されるような危機感を抱いているのです。
そこで、そのことを否定し、相手のやる気を削ぐことによって、自分よりも前に行くことを阻もうとするわけです。
つまり、人のやることをいちいち否定してくる人は、
「あなたのやろうとしていることは大いに価値がある」
と言っているようなものなのです。
●2024年06月29日 《不愉快なことをする相手には》
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さて、私たちは、他人に不愉快なことをされると、当然のことながら、腹が立ちます。
そして、その相手に対して、何とかして反撃したいと思います。
その場合には、単なる反撃では物足りず、何とか相手をギャフンと言わせて、その上で謝らせたいと思います。
言わば、スカッとしたいと思うのです。
巷には、どうすれば相手をギャフンと言わせてスカッとすることができるか、という相談があふれているように思います。
また、そのようなテレビ番組もあります。
しかし、結論から言えば、そのような都合のいい方法はありません。
なぜなら、たとえそのときには相手をギャフンと言わせることができたとしても、いつかは、その相手からまた反撃をされる可能性があるからです。
要するに、いたちごっこになる可能性があるからです。
人が、他人に対して不愉快なことをするのは、端的に言えば、本人が抱いている何らかの劣等感を穴埋めし優越感に浸りたいがためです。
そして、他人に不愉快なことをされて腹が立つのは、端的に言えば、劣等を感じるからです。
そうして、相手をギャフンと言わせたいと思うのは、その劣等感を穴埋めし優越感に浸りたいがためです。
その結果、相手も劣等を感じるようになり、それを穴埋めし優越感に浸るための行動に出る可能性が出てくるのです。
即ち、お互いやっていることは同じと言うことなのです。
そのために、同じ土俵で同じように優越感に浸ろうとして、いつまでも終わりのない争いが続くのです。
それならば、どうすればいいのでしょうか。
まずは、毅然とした態度で臨むこと。
そして、その土俵からさっさと下りることです。
つまり、そのような相手と関りを持つことを極力少なくするということです。
そうして、その相手が到底手の届かないような高みへと昇り詰めることができるように努力をすることです。
言うならば、人間としての格の違いを見せつけることです。
そうすれば、相手の人間も、あなたと関りを持つことを諦めるようになることでしょう。
●2024年06月28日 《立派な人とは》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、私たちは、他人に迷惑なことをされると、当然のことながら、不愉快な思いをします。
にも拘わらず、小さい頃から他人に迷惑をかけることもなく、真面目に生きてきた人を見ると、
「面白みが足りない」
と言っては毛嫌いします。
その代り、若い頃にヤンチャでさんざん悪さをしてきて、他人に迷惑をかけまくっていた人間が、更生してまともな人になると、
「素晴らしくて立派な人だ」
と言って褒めたたえます。
例えば、昔、やくざをしていたが、改心してお坊さんになった人がいたりすると、そのお坊さんの法話を、他のお坊さんの法話よりもありがたがって聞くものです。
とてもおかしな話です。
本来なら、誰に迷惑をかけることもなく真面目に生きてきた人こそ、
「素晴らしくて立派な人だ」
と褒めたたえられるべきであるはずです。
しかし、そのような人は、一般的に目立つことなく、あまり人から相手にされません。
人が、昔悪さをしていてその後更生した人の話をありがたがって聞くのは、自分自身が真面目でないのを知っているからです。
つまり、今まで真面目に生きてきたわけでもなく、また他人に迷惑をかけないで生きてきたわけでもないことを知っているからです。
そのくせ、完全に悪くもなかったという極めて中途半端な存在であることを知っているからです。
それゆえに、昔悪くてその後立派になった人に憧れを抱くのです。
そうして、真面目な人に対する自分の負い目を穴埋めしようとするわけです。
私を含めて、そういう人が圧倒的に多いのです。
しかし、何度も言いますが、本来は、誰にも迷惑をかけることなく真面目に生きてきた人こそが、立派で素晴らしいのです。
残念ながら、そのような人は、大変少ないですが。
●2024年06月26日 《ものごとをすぐに諦める人たち》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、私たちは、往々にして、すぐに結果を求める傾向にあります。
そして、すぐに結果が伴わなければ、
「自分には能力がない」
「自分はダメな人間だ」
などと思っては、自分を責め立てます。
あるいは、ものごとを成し遂げることをすぐに諦めてしまいます。
しかし、ものごととはそんなに簡単に成し遂げられるものではありません。
簡単に成し遂げられるものなら、そんなものは価値のないものだと言ってもいいかもしれません。
古代ギリシャの哲学者であるエピクテトスは、次のように語っています。
「素晴らしいものが突然生まれるなどということはないのです。
たとえ、それが一房のブドウであっても、一粒のイチジクであっても。
もしあなたがイチジクが欲しいと言うなら、私は
『それには時間が必要だ』
と答える。
まずは花を咲かせ、実をならせ、そしてそれを成熟させる」。
人が、すぐに結果を求めるのは、ものごとをすぐに諦めるための言い訳にするためなのです。
結果が伴わなければ、諦める口実になります。
また、ものごとが目標に近づいた途端に、やる気がなくなる人がいます。
そのような人は、大学受験が近づいたり、就職活動が大詰めを迎えたり、やりたかったことが出来そうになったりした時に、突然やる気を失い、すべてを放棄してしまうのです。
これらは、すべて、欺瞞に過ぎません。
なぜなら、すぐに諦めてしまえば、あるいは、やる気を失えば、自分の能力を完全に使ったことにはならないからです。
その結果、
「あの時、あきらめさえしなければ」
「あの時、やる気さえあれば」
「もっと多くのことを成し遂げられたかもしれないのに」
という可能性を残しておくことができるからです。
自分の能力に自信が持てないとき、人は、欺瞞の中に自らを閉じ込めようとするのです。
●2024年06月23日 《より良い人生を送るために》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、世界最高峰の教育機関である米ハーバード大学では、合計2000人以上の人生を調査する「ハーバード成人発達研究」が85年前から行われています。
この研究は何千人もの人生を追跡していくもので、彼らの人生がどのように展開していったのか、一人ひとりに唯一無二の人生について調査をするものです。
調査の中では、80代になった被験者に
「自分の人生を振り返ったときに誇りに思うことは何か、また後悔していることは何か」
という質問をします。
この質問に対して、被験者の中には、社会的地位が高く輝かしいキャリアを積んできた方もいるのですが、自分の肩書きや業績、資産についての話題は出ませんでした。
その代わりに多くの人が話すのは、素晴らしいパートナーに恵まれたこと、良い親になれたこと、仕事で同僚と良い関係を構築できたこと、といった人間関係に関することだった、ということです。
また、一番人生で後悔したことも人間関係に関することでした。
自分の時間を労働に使いすぎた、本当に大切な人たちのために時間を使うべきだった、という声が多くあるのだそうです。
ただ、どれだけ多くの人間関係が必要か、ということは人によって変わってきます。
多くの人間関係を構築することでエネルギーを得る人もいれば、限られた人数の中で深い関係を構築することに幸せを感じる人もいるということです。
この研究でわかったことは、人間は、自分が助けを必要とした時に頼れる人が1人か2人は必要だということらしいのです。
また、この研究では、人間関係を持つことによって人は幸せになるだけではなく、身体的にも健康でいつづけることができることが判明しています。
そして人間関係は、必ずしも家族や友達である必要はなく、よりカジュアルな関係でもいいということなのです。
例えば、スーパーやコーヒーショップで知らない人と立ち話をしたりというような、そういった小さな交流も、幸せな人生を送るカギだということです。
アドラーは、
「人間のすべての問題は、人間関係にある」
と述べています。
このハーバード大学の研究は、このアドラーの言葉を大いに裏付けていると言えます。
●2024年06月22日 《自己愛のない人たち》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、職場には、否、職場に限らず世間には、何があっても自分が悪い、とは、絶対に思わない人たちがいます。
彼らは、事あるごとに自己正当化に終始します。
このことに関して、ある専門家は、
「現在の日本社会では、「自己愛過剰社会」と呼べるほど強い自己愛の持ち主が増えていることも大きい」
と言います。
そして、次のように続けています。
「うまくいかないことがあっても、自分がダメだからとは決して思わない。
いや、思いたくない。
なぜかといえば、自己愛が傷つくからだ。
そこで、他人に責任転嫁して、被害者面をする。
あるいは、うまくいっている人を見ると強い羨望を覚え、誹謗中傷したり、引きずりおろそうとしたりする。
しかも、強い自己愛の持ち主ほど、自分は特別扱いされて当然と思い込む。
つまり、特権意識が強くなるわけで、これはさまざまな形で表れる。
たとえば、職場に対しては、「仕事量は少なく報酬は多く」という希望を抱く」。
しかし、以上のことを考えてみれば、おかしな点があります。
それは、自分のことを絶対に悪いと思っていないのであれば、自己正当化をする必要性を感じないのではないか、ということです。
つまり、彼らは、自分のことを悪いと大いに思っているからこそ、自己正当化を懸命にしようとするわけです。
従って、彼らは、自己愛が強いわけではないのです。
むしろ、自己愛がないのです。
自己愛が強ければ、自分を受け入れることができます。
自分を受け入れることができれば、自分の失敗に対してもそれを認めることができます。
なぜなら、自分の能力を信頼しているからです。
つまり、何があっても自分が悪いとは絶対に思わない人とは、自分の能力を信頼していない、自己愛のない人間だと言えるのです。
それゆえに、自分の責任を他者に押しつけ、自分を守ろうとするのです。
彼らが守ろうとするのは、自分の価値であって、自己愛ではありません。
要するに、自己保身に走る人間とは、常に、自分の能力を信頼しておらず、自己を受け入れることができないがゆえに自分を愛することができない、自己愛の乏しき人間だと言えるのです。
●2024年06月21日 《他者に関心が持てない人間》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、今から2年前の2022年6月18日午後8時ごろ、広島県福山市である事件が起きました。
事件とは、自動車事故のことで、福山市の医師である男が、所有するスポーツカーで直進中、右折してきた軽自動車と衝突したのです。
この事故で軽自動車に乗っていた当時9歳の女の子が車の外に放り出され、全身を強く打つなどして死亡。
軽自動車を運転していた女の子の祖父(当時63歳)も腰の骨を折る大けがをし、歩道を歩いていた男性(当時68歳)も事故に巻き込まれてケガをしました。
しかし、男にケガはありませんでした。
警察が、現場付近の防犯カメラ映像を解析するなどした結果、男は、時速120キロの猛スピードで運転していたことが判明。
法定速度を実に70キロもオーバーしていたとのことでした。
この男は、この事故を起こす前にも、3回ほどスピード違反で捕まったことがあり、スピードを出したことについて、
「せっかちな性格が元々あり、目的地に早く着きたかったからです」
と述べていました。
また、医師として、交通事故の被害者を診察したこともあり、
「大変だなと思っていた」
とのことでしたが、
「自分のことと直結していませんでした」
とも述べていました。
そして、自分の運転に過信があったということです。
この事件に対して、最近、広島地裁福山支部で判決が言い渡されました。
判決では、なんと、この男は、「過失運転致死傷罪」の罪で、禁錮3年執行猶予5年の有罪判決でした。
この、70キロオーバーで運転していながら「危険運転致死傷罪」が適用されず、さらに執行猶予付きという大甘な判決には大変驚かされました。
これでは、何のために「危険運転致死傷罪」があるのか、意味がわかりません。
むしろ、このようなケースでは、殺人罪を適用してもいいと私は思っています。
このような事故が起こる根本にあるのは、この男のように、
「自分にしか関心がない」
という他人に対する無関心さです。
否、むしろ、自分にしか関心が持てない、と言ったほうがいいかもしれません。
このような人間は、常に、周囲を敵に囲まれているかのように無意識に感じています。
そのために、常に不安に駆られ、リラックスすることができないのです。
そこで、何かに追われるように、せっかちに運転し、スピードを出してしまうのです。
そして、自分にしか関心が持てないために、他者に対する配慮ができずに、最終的には他人を傷つけてしまうのです。
アドラーは、
「他者に関心を持つことがすべての問題解決の根本である」
と述べています。
この男に、他者への関心が少しでもあれば、今回のような事故は起こらなかったと強く言えるのです。
●2024年06月20日 《勇気を失った野心家》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、昨日の午後、京都市東山区にある知恩院の職員から
「三門に落書きされた」
との通報が警察にありました。
警察が確認したところ、国宝に指定されている「三門」の柱に、ひっかかれたような複数の傷が発見されました。
傷は、縦およそ18センチ、横およそ12センチありアルファベットの「S」や「D」の文字のようにも見え、警察が文化財保護法違反の疑いで周辺の防犯カメラを調べている、ということです。
取材に応じた知恩院の執事、新谷仁海さんは、怒りを露わにし、
「言語道断、許せない。柱にも傷をつけていますが、(つけた人は)自分の心にも傷がついていると思います」
と話されている、ということです。
三門は1621年、徳川2代将軍・秀忠の命を受けて建立、高さ24メートル、横幅50メートル、屋根瓦約7万枚ある国内最大級の木造の門です。
昨今、京都は特にインバウンドが増えすぎ、ひどい観光公害の渦中にあり、この事件は、起こるべくして起こった事案だと言えるかもしれません。
この事件が、日本人によるものなのか、それとも外国人観光客にするものなのかはわかりませんが、今回のように、文化財に落書きをするという事件は、昔から後を絶ちません。
文化財に傷をつける人間は、どのような目的を持っているのでしょうか。
彼らは、言わば勇気を失った野心家です。
つまり、野心は大いにあるのですが、それを表立って達成するほどの勇気を失っているのです。
そのために、適切な方法によっては、自らの野心を達成できないと思い込んでいるのです。
それでも、野心があるがゆえに、どこかでその野心を達成したいという欲望に駆られています。
そこで、不適切な方法によって、その野心を達成しようとするわけです。
それが、今回の例で言えば、知恩院の三門にこっそり落書きをする、という方法です。
この例で言えば、犯人は、目立ちたいという野心を持っていたのでしょう。
しかし、勇気がないために、適切な方法によってその野心を達成することができなかったのです。
そこで、知恩院の三門にこっそり落書きをする、という不適切な方法によって、その野心を達成しようとしたのです。
そして、このことが報道されることによって、自分の持っていた目立ちたい、という野心が達成される、というわけです。
何とも愚かな行為です。
人は勇気を失うと、人生をまともに生きることができなくなります。
それゆえ、子どもの勇気をくじく子育ては、断固としてやめさせるべきなのです。
●2024年06月15日 《子どもを怒鳴るという無意味な方法》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、怒鳴りたくないのに、怒鳴らないと子どもが言うことを聞いてくれない、そんな悩みを抱えている親御さんも多いかと思います。
どんなに穏やかで、前向きで、つねに子どもと向き合うことができている親でも、ついついわが子を怒鳴ってしまうときがあるものです。
子どもが許容できない行動をしたり、言いつけを守らなかったりした場合は特にそうです。
しかし、子どもを怒鳴ることは、お互いを嫌な気持ちにさせるだけで、根本的な解決には至りません。
また、長期的に怒鳴られ続けることは、子どもにとって有害になりうるという研究があります。
親から日常的に言語による虐待を受けた子どもは、うつ病になったり、問題行動に出たりするリスクが高いとする研究結果が複数存在するのです。
こんなとき、ある専門家は、なぜ自分が怒鳴ってしまうのか、その理由を理解することが大切だと言います。
それは、わが子とのコミュニケーションに何らかの問題を抱えているせいなのか、それとも、家に帰ってきたとたん、仕事のストレスが吹き出すせいなのか、などなど。
そして、
「大きな声を出すのは、ストレスへの感情的反応です。
自身の置かれた環境や日常生活におけるそうしたストレスの原因について考えるのは、ストレスコントロールの向上に役立ちます」
と述べています。
確かに、人が声を荒げるのには、ストレスが大きく影響していることは事実です。
ストレスを感じているときと感じていないときとでは、子どもの言動に対する許容範囲も変わってくるでしょう。
しかし、そもそも親が子どもを怒鳴るのは、親自身が子どもを怒鳴らないと言うことを聞かせることができない、と思っているからに他なりません。
もし、親が、子どもを怒鳴らなくても言うことを聞かせることができる、と思っているとすれば、怒鳴る必要性を感じないでしょう。
悲しいことに、子どもを怒鳴ることは、短期的には効果があるかもしれませんが、長期的には何の役にも立たず、親子関係や親に対する信頼、親近感を損ないかねません。
そもそも、子どもに言うことを聞かせるために、何度も怒鳴らなければならないとすれば、たとえそのことを何百回繰り返したとしても効果は期待できないでしょう。
では、どうすればいいのか。
他の専門家は、
「自身の内面と向き合うことに加え、親は『よほどのことがない限り大きな声を出さない』というメッセージを子どもにはっきり伝えるべきです」
と述べています。
そして、
「『なぜゴミを捨てに行かないの?』と言う代わりに、『遊びに行くのはゴミを捨ててから』というように、期限や要望をはっきり伝える言い方をするように心がけよう」
と言います。
そうして、
「子どもに指示を出すときは何かをしながらではなく、自分の手をとめ、子どもがこちらの言うことをしっかり聞いているかを確認するよう勧めています。
幼い子どもの場合は、その子の目線に合わせて、わかりやすく指示を与えましょう。
このやり方なら、どんな親御さんでもうまくいくと思います」
と付け加えています。
つまりは、子どもを怒鳴らないと言うことを聞かない、という自分たちよりも劣った人間として扱うのではなく、きちんと話をすれば理解することができる、という自分たちと対等な人間として扱うようにすることが大切だということでしょう。
●2024年06月14日 《不安という欺瞞》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、日々の生活を、
「漠然とした不安」
の中で生きている方がいらっしゃいます。
そのような人たちは、特に、何かしようとするときに、強い不安に襲われます。
例えば、それは、家を出るときとか、同伴者と別れるときとか、ある仕事に就こうとするときとか、あるいは、恋に落ちたときなどです。
この不安という感情は、非常に広範囲にわたって見られる現象であり、幼児期の初期から老年期に至るまで、人間についてまわり、人生を途方もないほどつらいものにしてしまいます。
なぜなら、恐怖というものは、人間生活のあらゆる関係にまで及ぶものだからです。
人は、外の世界を恐れることもあれば、自分自身の内的な世界に恐怖を感じることもあります。
そういう人たちは、社会を恐れるがゆえに社会を避けているように、一人でいることをも恐れることがあるのです。
そのために、彼らの人格や業績を築く力の発展は阻害されることになります。
それは、こういう人たちが、いつでもすぐに震え始めたり、逃げ出したりする、ということを意味しているのではありません。
そうではなく、その足取りが重くなり、ありとあらゆる口実と言い訳を見つけるようになるのです。
そうして、自らが担うべき課題から逃げようとするのです。
また、彼らは、すぐに過去のことを考えます。
つまり、過去の失敗について、あれこれ考えるのです。
このように過去について考えることは、自分自身を「圧迫」するための、目立たない、それゆえ好んで用いられる手段なのです。
不安の最初の、そして、最も原始的な形は、一人にされるたびに不安を示す子どもにおいて見られます。
そのような子どもが求めていることは、ある人がその子のところに来る、ということだけではまったく満たされません。
その子が求めていることは、親に面倒を見させることであり、親を支配することにあるのです。
この場合、誤った対応を取ると、子どもは自立的な態度を取るようには導かれなくなります。
そのために、この子どもの不安が解消されることはないのです。
このように、不安な人間のなかに見られるものは、より多くの自分のことを考えることが必要だと感じる人、そのために、他の人のことを考える余裕がないような人たちなのです。
つまり、自分にしか関心がない人たちなのです。
それゆえ、人間の不安は、個人と社会とを結ぶ帯によって解消されると言えるのです。
要するに、自分が他者と結ばれているのだということを強く意識できる人たちだけが、人生を不安なしに生きることができるのです。
●2024年06月13日 《「身体論」という考え方》
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さて、フランスを代表する哲学者にメルロー・ポンティという人がいます。
彼は、「身体論」という説を唱えているのですが、ある哲学者は、その説を次のように説明しています。
ポンティの説によれば、私たちの身体は「意識とはまったく独立に」自分が置かれている状況を判断する能力を有していると主張している、と言います。
例えば、ストーブの上で湯気を出しているヤカンに手を触れない赤ちゃんは、かつてそれを触って火傷したからという理由だけで触れない「のではない」とポンティは言います。
赤ちゃんの身体はヤカンが発する危険信号を察知したのだ、と主張するのです。
そこには、私たちがなぜか生まれながらにして持っている「自分を対象化する身体能力=自分の身体を客観的に捉える能力」が前提されるはずだ、というわけです。
すなわち、自分の置かれている状況を「主=メイン」と見た場合、身体は「客=サブ」となります。
反対に、自分が置かれている状況を「客=サブ」を見た場合、自分の身体は「主=メイン」になります。
何を主と捉えるのか、あるいは、一度主と捉えたものを瞬時に客と捉え直せるか――そういった能力の高低や有無によって、私たちの人生観や他者の見方は変わってくる、ポンティの身体論とは、ざっくり言えばこういうものだ、というわけです。
例えば、両親とも東大卒だという姉妹がいた、とします。
両親は、この姉妹に、小さい頃から
「東大に行け」
と言い続けていたとします。
これに対して、姉のほうは、親になにも言えず、我慢に我慢を重ね、親の言いつけどおり勉強し、一浪のすえ東大に入りました。
妹のほうはというと、名門私立中学の合格発表の日、両親に向かって
「ね? 私、合格したでしょ? これでいいでしょ? 満足したでしょ? というわけで、私は地元の公立中学に通います」
と言い放ちました。
その後も、姉は、両親の言いなりになり、生きづらさを抱えたまま、親と表面上仲のいいふりを続けることでしょう。
一方、妹は、その後も一生自由に生きることでしょう。
この違いがどこにあるかと言えば、ポンティの説に従えば、その身体性にある、というわけです。
姉は、親を前にした時、身体が硬くなってしまうという生まれもった身体性であり、それ自体はどうにもならないものだというわけです。
それは、身長の高低や鼻の高低、痩せやすい体質・痩せづらい体質などと同様、どうにもならないものなのだというのです。
そして、妹のほうは、両親の前でも身体が硬くならない身体性であり、自分の身体を客観的に見ることができるために、両親から自由に生きることができる、というわけです。
つまり、生きづらさの理由は、親のせいではない、というのです。
しかし、これでは、人は、一生変われないことになってしまいます。
アドラーは、
「人は死ぬその瞬間にまで変わることができる」
と述べています。
それは、人の性格は、持って生まれたものではなく、後から身についたものだからです。
つまり、性格とは、幼い頃に決めた自分の人生の目標を達成するために、後から身につけた手段に過ぎないわけです。
先の例で言えば、親の前で身体が硬くなるかならないかは、その人の性格によるものであって、生まれついた身体性のものではない、ということです。
従って、自分の人生の目標を変えることができさえすれば、その人の性格も変わっていくのです。
●2024年06月11日 《怒らない人になる方法》
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さて、このブログでは、人間は、怒りという感情を、状況に応じてコントロールしている、ということを書いています。
ただ、そうは言っても、怒りという感情は、どうにも意識的にはコントロールすることができない、と思っていらっしゃる方も多いかもしれません。
ある若者もそうでした。
そこで、若者は、彼のおじいさんに、
「おじいちゃん、僕は怒りに負けない強い心を手に入れたい! そのためにどんな訓練をすればいいの?」
と尋ねました。
このおじいさんとは、かの有名な「ガンジー」のことです。
すると、ガンジーは、とてもシンプルな方法を教えてくれました。
静かでじゃまの入らない部屋に一人で座り(現代社会では、何よりもまずスマートフォンを持ち込まないこと!)、何か美しいもの(たとえば花)を目の前に持ってきて見つめる。
本物の花がなければ、花の写真でもいい。
そして一分以上、目の前の美しいものだけに意識を集中する。
それから目を閉じ、さっきまで見ていた美しいものを、できるだけ長く思い浮かべる。
最初のうちは、目を閉じるのとほぼ同時に、美しいもののイメージも消えてしまうだろう。
でも訓練を続けていれば、イメージが頭の中にとどまる時間が長くなる。
それはつまり、雑念にじゃまされず、自分の精神をコントロールする力を手に入れたということだ。
そしてもっと成長したら、訓練の第二段階に進む。
また静かな部屋に座り、目を閉じて、今度は自分の呼吸だけに意識を集中する。
ただ吐く息と吸う息のことだけを考え、それ以外のことは一切考えない。
この訓練を行えば、自分の反応をコントロールする力が身につき、怒りにまかせて衝動的な行動を取らなくなる。
若者は、その翌日から、ガンジーに教わった訓練を始め、今でもそれを続けているそうです。
そして、彼曰く、
「この訓練は、私の知るかぎり、精神をコントロールするいちばんの方法だ」
ということです。
この方法は、一種の瞑想を利用したものですが、瞑想には、さまざまな効果が期待できることが、科学的にも証明されています。
よく知られているのが、瞑想によって、「セロトニン」という神経伝達物質の分泌が活発化することです。
セロトニンは、「幸せホルモン」ともいわれ、ストレスを軽減して免疫力を高めるといわれています。
そして、瞑想によってセロトニンが活性化すると、意識を覚醒する促進系の神経伝達物質・アセチルコリンの過剰な働きが抑制されます。
すると、感情の情報処理が上手になり、必要以上に感情に振り回されることのない、節度のある覚醒状態を維持できるようになるのです。
体は起きているのに休息しているかのようなリラックス感を得られ、静かな湖面のような精神状態でいられる、ということです。
これが、ガンジーの言う、
「怒りに負けない強い心を手にする方法」
ということなのでしょう。
この他にも、瞑想には、自律神経を調整したり、痛みを和らげたりなどの効果が期待できる、ということです。
普段からイライラすることが多い人は、一度、試されてみてはいかがでしょうか。
●2024年06月10日 《攻撃性という欺瞞》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、近年、世界に眼を転ずれば、イスラム主義組織ハマスによるイスラエルへの越境攻撃に端を発した戦闘が続いており、イスラエルもハマスも徹底抗戦の構えを崩さないため、犠牲者の増加に歯止めがかからず、ガザ地区はがれきの山になっています。
また、2022年に始まったロシアによるウクライナ侵攻も泥沼化の様相を呈しており、今ほど戦争について考えさせられることはないのかもしれません。
戦争について問うなら、物理学者のアインシュタインと精神分析家のフロイトの往復書簡『ひとはなぜ戦争をするのか』というものがあります。
この往復書簡は、1932年に国際連盟からアインシュタインが
「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄を、いちばん意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」
と依頼され、相手としてフロイトを選んだことによって始まったものです。
アインシュタインは、
「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」
というテーマを選び、フロイトに問いかけをしました。
この問いに対して、エロス的欲動と破壊欲動に関する議論を展開した後、フロイトが導き出したのは、
「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」
という結論でした。
ただ、これでは答えにならないと思ったのか、フロイトは、
「文化の発展を促せば、戦争の終焉ヘ向けて歩み出すことができる!」
という言葉で結んでいます。
何とも身も蓋もない結論です。
しかし、本当に、人間には攻撃性という性質が備わっているのでしょうか。
もし備わっているとすれば、なぜ、街中いたるところで、喧嘩や紛争が行われていないのでしょうか。
そもそも攻撃性という性質は、本来は、方向性のない衝動だと考えられます。
そして、その衝動に方向性を与えるのは、本人に過ぎません。
例えば、街中で、女性と肩がぶつかった男性がいたとします。
男性は、顔を真っ赤にして怒りをあらわにします。
つまり、攻撃性の性質を現していると言えます。
しかし、その女性の隣に強面の彼氏がいると分かった途端、怒りという衝動はどこかに消えていってしまいます。
つまり、攻撃性という性質を引っ込めてしまったわけです。
このように攻撃性とは、本来、方向性のない衝動であり、それに方向性を与えるのは、本人の認識だと言えるでしょう。
また、そもそも支配者とは、強い劣等感の持ち主だと言えます。
彼らは、劣等感が強いために、権力を握りたい、人々を支配したい、という強い衝動に駆られます。
その時、この人物に行動力が備わっていなければ、支配者となることはないでしょう。
しかし、この人物に行動力が伴っていたとすれば、その人物は支配者になるべく行動するようになります。
そうして、人々を支配し、権力を握ると、さらにもっとという衝動に駆られるようになります。
そう考えると、戦争とは、強い劣等感を持つ支配者による劣等感の歪んだ補償の一つの形に過ぎない、と言えないでしょうか。
そして、その支配者に迎合する民衆が存在するとき、戦争という攻撃性が他国へと向けられると考えられるのではないでしょうか。
アドラーは、
「人間には、本来、社会に貢献しようとする共同体感覚という能力が備わっている」
と述べています。
果たして、人間に備わっているのが、フロイトの言う攻撃性の性質なのか、それとも、アドラーの言う共同体感覚なのか、その答えは分かりませんが、私は、アドラーの考えに人類の希望を託したいと思います。
●2024年06月08日 《後悔という欺瞞》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、
「後悔先に立たず」
ということわざがあります。
もちろん、みなさんご存じのように、このことわざは、
「すでに終わってしまったことを後から悔やんでも遅い」
という意味になります。
しかし、わかっていても、後悔してしまうのが私たち人間です。
どんなにベストを尽くしたとしても、
「あのようにしておけばもっと良くなっていたかも」
などと自分を責めてしまいます。
ただ、裏を返せば、後悔するからこそ、自分自身を見直し、軌道修正できると言えるのかも知れません。
問題は、後悔することそのものではなく、後悔することによって、自分を責めたり、落ち込んだりすることにあるのかも知れません。
しかし、人生において、どんなに悔やんでも悔やみきれないものがあります。
それは、
「時間」
です。
例えば、失敗をして後悔をしたとしても、後からそれを取り戻すことができるかもしれません。
しかし、時間だけは、どんなに悔やんでも取り戻すことはできないのです。
「あのとき、ああしていれば」
「あのとき、始めてさえすれば」
「もっと早くに始めていれば」
「もっと自分が若ければ」
などなど。
こうして、私たちは、過ぎ去った時間を取り戻すことができずに、大いに後悔することになるのです。
これは、後悔という欺瞞なのです。
つまり、時間を無為に過ごし、後から後悔することによって、自分は能力がなかったから人生がうまく行かなかったのではなく、時間を無為に過ごしたために人生がうまく行かなかったのだ、という言い訳をしているのです。
後悔するという言い訳です。
人の人生における最大の欺瞞とは、この、時間を無為に過ごし後から後悔するという、取り返しのつかない言い訳である、と言えるかもしれません。
みなさんは、時間を無為に過ごすことを人生の言い訳にしてはいないでしょうか。
●2024年06月06日 《自分は不幸だという欺瞞》
ご訪問いただき、ありがとうございます。
さて、人生が苦しく、自分は不幸だと感じている人がいます。
あるいは、どうせ幸せになれないと、人生を諦めている人もいるかもしれません。
そのような人たちは、例えば、失敗をして不幸だと感じるかもしれません。
しかし、失敗は単なる経験であって、決して不幸の原因ではありません。
単に不幸な人が失敗をしただけなのです。
病気で幸せな人もいれば、健康で不幸な人もいます。
貧しくて幸せな人もいれば、お金持ちで不幸な人もいます。
離婚して幸せな人もいれば、結婚していて不幸な人もいます。
離婚して不幸な人はつい
「私は離婚したから不幸」
だと思いがちです。
しかし離婚して不幸な人は、結婚していても不幸な人なのです。
ことは単純で、不幸な人が離婚をしただけなのです。
嫌な仕事で不幸だという人は、不幸な人が嫌な仕事をしているだけなのです。
要は、彼らにとっては、原因は何でもいいのです。
ただ、
「自分は不幸だ」
と感じることが重要なのです。
なぜなら、
「自分は不幸だ」
と感じていれば、いつまでも人生に立ち向かうことをしなくて済むからです。
自分のことを不幸だと感じる人の行動の目的は、この、人生に立ち向かうことを自分自身に諦めさせることにあるのです。
彼らは、幼い頃に勇気をくじかれ、自分というものを確立できずに成長してしまったのです。
つまり、自分という存在を見つけられずにいるのです。
そのために、自分の人生に立ち向かうことに恐怖を感じ、不安の中で生きているのです。
そこで、自分の人生に立ち向かうことを自分自身に諦めさせるために、ある出来事と不幸とを結びつけ、さもそれが原因で不幸であるかのように振る舞っているのです。
言わば、自分は不幸だという欺瞞なのです。
従って、このような人たちは、起きてしまったことを受け入れる、つまり、自らの不幸を受け入れることができれば、前へと歩を進めることができるのです。