OECDの「教育とスキルの未来2030/2040」は、21世紀の生徒に必要な知識、スキル、態度、価値観について共通理解を構築することを目的としています。また、各国が将来のカリキュラムの設計、実施、評価に関する新たな知識を共有し、創造することを支援し、支援します。
Learning Compass 2030 は、「評価フレームワーク (assessment framework)」でも、「具体的な教科カリキュラム (curriculum framework)」でもありません。あくまで 「これからの教育で育みたい、生徒の『資質・能力 (competencies)』や価値観、目的意識のビジョン (orientations)」を示す、一種の羅針盤 (compass) です。
このメタファー「羅針盤」は、「教師からの固定された指示 (固定された道筋) を受ける」のではなく、生徒が 自ら未知の未来/社会 (変化の激しい世界) において、自分の方向性を自律的に見つけ、ナビゲートする力を持つ ことを重視するという理念を象徴しています。
また、この枠組みは グローバルな共通言語 (common language) を提供することを目的としており、同時に 各国・地域の文脈に応じてローカライズ (適応) 可能 な設計となっています。
Learning Compass 2030 は、「生徒が将来の不確実な世界で「生き抜き/生き抜き、かつより良い世界を創る」ために必要な力」を、多面的に整理しています。主な構成要素 (components) とその意味は以下の通りです。
構成要素
内容と意義
Core Foundations (基盤)
学びの土台。基礎的な知識 (knowledge)、スキル (skills)、態度・価値観 (attitudes & values)。これらがあって初めて、変革的な資質 (transformative competencies) やエージェンシーを育てうる。
Knowledge (知識)
単なる事実の暗記ではなく、「理論的・概念的知識」と「実践や経験を通じた理解」の両面。さまざまな状況や文脈で応用可能な知識 (transferable, contextualised knowledge) を重視。
Skills (スキル)
単なる専門技能にとどまらず、批判的思考、問題解決力、協働、コミュニケーション、学び方 (学習スキル) など、状況に応じて活用できる汎用的なスキル群。
Attitudes & Values (態度・価値観)
倫理観、責任感、他者や社会への配慮、多様性の尊重、共感、持続可能性への意識など。知識・スキルだけでは補えない、人間性や社会性の側面を強く重視。
Transformative Competencies (変革的資質・能力)
既存の知識やスキル、価値観を用いて、個人と社会のより良い未来を創造・変革する力。たとえば、未知の問題への対応力、創造性、適応力、責任ある市民性など。
Student Agency (生徒エージェンシー)
生徒が自らの人生や社会に働きかけ、能動的に行動する力。目標を設定し、行動し、責任を持つという「自律」と「責任感」。また、学びを他者とともに構築する「共創 (co-agency)」の考えも含む。
さらに、これらの要素は単独で機能するのではなく、「Anticipation–Action–Reflection(予見–行動–省察)」というサイクルの中で繰り返されることで、持続的な成長と変化を支えるよう構想されています。
Learning Compass の提示背景には、以下のような社会・教育を取り巻く変化と課題があります。
グローバリゼーション、技術進展、社会の複雑化・不確実性:将来、若者が直面する問題や職業、社会は非常に変化が速く、予見困難なものとなる。従来の「知識習得 → 定型的職業」で通用する保証はない。
学びの多様な場の拡大:学校教育だけでなく、家庭、地域、オンライン、職場など、非形式教育 (informal / non-formal learning) の意味合いが増大。Learning Compass は、それらすべてを含めた「生涯学習・生活世界の学び」を見据える。
教育の目的の再定義:単なる学力・知識ではなく、「ウェルビーイング」「社会への貢献」「持続可能性」「市民性」「多様性尊重」など、広義な教育の目的 ― 社会全体の幸福や持続可能な社会を見据えた教育を目指す。
国際共有のビジョンと、地域への適応 (ローカライズ):グローバルな共通語 (competencies, values) を持ちつつ、各国・地域の社会・文化・制度に応じて適応可能な柔軟性。これにより、共通の目的のもと多様な教育実践が可能となる。
このように、Learning Compass は、教育制度や教科の枠組みにとどまらず、未来の社会における人間のあり方、生涯にわたる学びのあり方、社会参加、市民性などを教育の中心に据える包括的なビジョンといえます。
ただし、この枠組みには以下のような課題や批判・議論もあります。
「教科知識 (disciplinary knowledge) の扱い」に関する批判:ある批判論文は、Learning Compass が技能・資質 (generic competencies) を重視するあまり、教科固有の知識 (理科・数学・歴史など学問としての深さ) を軽視しがちと指摘する。特に、知識を「すぐ使えるツール (市場価値)」としてのみ捉える傾向がある、という批判がある。
「理念と現実 (ローカル文脈) のギャップ」:共通言語や価値観を提示する意義は大きいが、教育制度、教員の力量、教育資源、文化などが異なる各国・地域で、どこまでローカライズ可能かは簡単ではない。制度改変・教員研修・教育資源整備など、実装コストが高い。日本においても、この点は教育関係者の間で議論されている。
評価・アセスメントの困難さ:従来の試験や成績評価では、知識・スキル・価値観・態度・ウェルビーイング・市民性などをどのように評価するかが難しい。Learning Compass 自身は評価枠組みではないため、評価・評価基準の設計は別途検討が必要。
私が取り組んでいる、情報教育/AI・ドローン/世代間・ジェネレーション Z/ネットいじめ/ウェルビーイング/地域教育 (地方創生含む) など多面的なテーマは、Learning Compass の理念・構成要素と高い親和性があります。特に以下の点で、研究・教育実践の理論的枠組みとして活用できると考えられます:
AI/デジタル技術の教育利用における倫理性・価値観の育成:単に技術を使うスキルだけでなく、態度や価値観 (情報倫理、デジタル市民性、共感・他者理解など) を育てる必要性。
地域・文化・災害対応など社会課題を背景とした教育:地域に根ざした教育 (地方・過疎地・震災記憶など) を考える際、生徒のエージェンシーや変革的資質を育むビジョン提供。
ウェルビーイングと教育の統合:メンタルヘルス、ネットいじめ、情報依存、ソーシャルメディアのリスクなどに対処する「生き方の質 (生き抜く力)」を育む枠組み。
教員養成・教員の専門性 (ティーチング・コンパス等) の再考:教師自身も変革を担うプロフェッショナルとして、Learning Compass の理念を学び・指導に反映する。
Learning Compass は単なる知識や技能の習得ではなく、「知識 (Knowledge)」「スキル (Skills)」「態度・価値観 (Attitudes & Values)」「変革的資質 (Transformative Competencies)」「生徒のエージェンシー (Student Agency)」を包括的に育む枠組みであり、情報社会・AI社会の変化に直面する若者にとって求められる能力像と整合的です。
また、日本でも最近の教育政策(たとえば 2023年の新しい教育振興基本計画など)で「ウェルビーイング」「生徒の主体性」などが重視されており、Learning Compass の理念と親和性が高まっています。
情報教育/AI教育という分野は、単に技術リテラシーや操作スキルを教えるだけでなく、 情報倫理、価値観、社会性、批判的思考、多様な背景をもつ人々との共生、責任ある行動などを教える必要があり、Learning Compass の「知+スキル+態度・価値観+エージェンシー」という包括的コンピテンシーの枠組みが非常に適合的です。
以下に、Learning Compass の各構成要素を日本の中高・情報教育に落とし込む際のモデルや授業・カリキュラム案を示します。
コンポーネント/理念
適用アイデア
Knowledge + Skills
- 情報科/技術・家庭科・総合的な学習 (探究) の授業で、プログラミング、データリテラシー、AIの基礎、メディア リテラシーなどを取り入れる。
- ただし「ただ使える技術」ではなく、「なぜ使うか」「どのような責任が伴うか」「社会・倫理的な意味」 を含めた授業構成。
- 地域や社会問題 (例:地域の過疎化、人口減少、高齢化、災害リスク) をテーマにしたプロジェクト学習や探究課題を通じて、知識やスキルを実践に結びつける。
Attitudes & Values (倫理・価値観・社会性)
- 情報モラル、プライバシー、フェイクニュース、SNSでの表現責任などを扱う「情報倫理・メディアリテラシー」の必修化/カリキュラム化。
- AI やドローン、ロボットなど新技術の導入を議論する際に、「誰のため?」「どんな社会を目指すか?」という価値観・社会性を含めた授業やワークショップ。
- 地域課題 (高齢化、人口減少、災害、地域資源) を題材に、生徒が地域との関わりや共生、多様性尊重、持続可能性を考える探究学習。
Transformative Competencies (変革の資質・能力)
- 地域・社会の課題 (例:地方の過疎化、災害復興、少子高齢化、高齢者支援、環境保全など) に関するプロジェクト型学習 (PBL) を実施。生徒が「自分たちで解決したいテーマ」を選び、調査・企画・提案を行う。
- AI/ドローン/ICT を活用した地域貢献型実践 (例:地域災害マップ作成、環境モニタリング、地域歴史文化のデジタルアーカイブなど)。これらは寛子さんの関心とも重なる。
- 生徒の「共創 (co-agency)」を促すグループ活動や地域連携。たとえば、地域住民や自治体、NPO と協働するプロジェクト。
Student Agency(主体性・責任ある行動力)
- 探究的・選択型授業の導入。たとえば、総合的な探究の時間、課題研究、自由研究、地域連携プログラムなど、生徒にテーマ決定を任せる授業形態。
- 生徒主導のワークショップ、学校運営 (生徒会や委員会)、地域ボランティアなど、教室外での学び・実践機会を充実。
- 授業や学習のサイクルとして、Learning Compass 推奨の 「Anticipation – Action – Reflection (予見–行動–省察) サイクル」 を取り入れる。例えば、学期初めに社会課題を予見・仮説立て (Anticipation)、グループで調査・実践 (Action)、期末に振り返り・成果発表 (Reflection) を行う。これは、生徒の自己調整的学習 (self-regulated learning) を促す構造として有効。
ウェルビーイング (個人・社会・地球規模)
- 学校の教育目標や指導要領に、学力や進路だけでなく「生徒の心身の健康」「社会参画」「持続可能性」「多様性の尊重」などの価値を明示。
- 授業や学校行事、部活動、地域活動を通じて、生徒が自己肯定感・社会的つながり・他者理解を育む機会を設計。
- ICT/AI を活用したメンタルヘルス教育やコミュニケーション支援 (ただし倫理的配慮を含む) を検討。
教員の役割の再定義 (教師も含めた適用)
- 単に「知識を教える人」ではなく、「学びをファシリテートする」「生徒のエージェンシーを支えるコーチ/メンター」としての教員像を育成。これは最近 OECD でも提案されている OECD Teaching Compass の考え方と整合。 壁のないあそび場-bA-+1
- 学校・地域・家庭を含めた学びのネットワークを構築。教員だけでなく、地域の専門家、保護者、自治体、民間団体などを巻き込んだ協働。
- カリキュラム設計、評価方法、時間割、校務の見直し。プロジェクト型学習、探究、社会参加型プログラムを持続的に運営するための制度整備。
情報教育の深化と拡張
単に技術やツールの使い方を教えるだけでなく、情報倫理、社会性、責任、創造性、他者への配慮を含む「情報リテラシー」/「デジタル市民性」の教育が可能。AIやドローンなど新技術を扱う際の倫理基盤・価値観も扱える。
生徒の主体性・創造性の育成
特に探究学習やプロジェクト学習を通じて、生徒が自らテーマを選び、行動し、社会や地域と関わることで、自律性・責任感・実践力を育てられる。
地域・社会とのつながり・課題解決型学び
地域課題 (人口減少、高齢化、災害、地域文化の保存など) を教育に取り込むことで、教室の学びを「現実世界」とつなぎ、生徒の社会参加や地域貢献を促せる。これは地方の大学教員である寛子さんの立場で特に意味がある。
ウェルビーイングと包摂性のある教育
心身の健康、多様性の尊重、共生、社会的公正、持続可能な社会という価値を教育の中心に据えることで、生徒の総合的な成長―学力だけでなく、「生きる力」「社会力」「倫理性」―を育てられる。
教員養成・学校運営のイノベーション
教師の役割、カリキュラム、評価、学校の制度を見直す契機となり、教育実践と制度の両面にわたる改革を促す。
教員・学校の負担増
プロジェクト型学習、探究、地域連携、評価の多様化などは、教員の負担や校務の複雑化を招く可能性。制度 (時間割、校務量、評価体制) の整備が必要。
評価の難しさ
知識・スキルのみならず、態度・価値観・社会性・協働性・創造性などの資質をどのように評価するか。既存の知能テストや学力テストでは対応困難なため、新しいアセスメント手法が必要。
制度・文化・地域差への適応
日本の教育制度、教科構成、文化、地域の実情 (都市 vs 地方、過疎 vs 都会、学校資源の差など) によって、同じ枠組みが必ずしも同じ効果を持つとは限らない。ローカライズが必要。
教員研修・リソース不足
教員自身が変革的資質を持ち、ファシリテーターとして機能するには、教員研修や支援体制が不可欠。現状では十分な整備が難しい可能性。
研究関心と Learning Compass を組み合わせると、以下のような研究および実践プロジェクトが考えられます:
地域 × AI × 教育プロジェクト
たとえば、地方 (山形県など) の過疎地域で、ドローンやデジタル技術を活用して地域資源 (文化遺産、自然、災害リスクデータなど) を可視化・アーカイブし、生徒による地域課題解決型学習や地域づくりワークショップを実施。これにより、地域への帰属意識、社会参画、デジタル市民性、持続可能性などを育成。
AIリテラシー × 倫理 × メディア教育
生成AI、ソーシャルメディア、フェイクニュースの拡散、ネットいじめなど、現代の情報環境における倫理や社会性を扱う授業設計。生徒に「情報を使う責任」「他者への配慮」「自己/他者のウェルビーイング」を考えさせる「価値教育 × 技術教育」の融合。
生徒エージェンシー (主体性) の育成に関する実証研究
探究学習、プロジェクト型学習、地域連携、社会参加などを通じて、生徒がどのように「自ら考え、自ら動き、社会に働きかける」か ― その過程・成果・困難・条件を分析する研究。特に地方/過疎地域の文脈で。
教員養成・教員意識改革の研究および支援
ICT/AI を教育に取り入れようとする教員、あるいは地域教育や情報倫理に関心を持つ教員が、Learning Compass の理念を取り入れられるような研修プログラムや支援体制の開発。
ウェルビーイングを軸とした教育評価および制度設計
成績や学力だけでない、「心の健康」「社会的つながり」「生徒の社会参加」「持続可能な行動」などを教育評価や校内制度 (学校行事、部活動、地域連携) に組み込むモデルの提案・実験。
Learning Compass 2030 は、従来の「知識・学力偏重」「教科中心」「学校中心」という教育観を見直し、 生徒の主体性 (agency)、価値観 (values)、汎用的スキル、多様な学び、社会参画、ウェルビーイング を統合的に育む「未来の教育の羅針盤」として提案されたものです。
しかし、その実現には 制度・カリキュラムの再設計、教員の専門性と意識改革、評価システムの構築、地域・文化・制度への適応 といったハードルがあります。
寛子さんの研究テーマ (AI 教育、情報教育、地域教育、若者のウェルビーイングなど) と強く親和する枠組みであり、今後の論文や実践計画の理論的基盤としても、有力な資源となり得ると思います。