おしゃらく踊りとは、化粧をして派手な長襦袢、着物を着て手ぬぐいを使い、手踊りまたは扇で踊る踊りである。伴奏には「ななつばち」というリズムに合わせ、摺り鉦、絞め太鼓、三味線を使い、歌い手は一人ないし二人で歌う。御洒落(おしゃれ)をして踊る「おしゃれ」がなまって「おしゃらく」になったと言わている。
戦前までは小念仏踊(こねんぶつおどり)ともよばれ、念仏講(ねんぶつこう)に由来する関東地方発祥の代表的な農民芸能の一つで、江戸中期(1690年~1780年)以降に旅芸人などを介して流行し、幕末(1850年頃)から明治期(1900年頃)にかけて盛行して、結婚式などめでたい席で演じられた。
厳しい農作業に明け暮れた生活の中での娯楽のひとつとして、活気に満ち溢れた当時の暮らしの様子を今に伝える貴重な無形民俗文化財である。
おしゃらく踊りの歴史を話す前にまず念仏講の説明をしなければならない。
念仏講とは、日本の仏教において、信者が念仏を唱える講中を指す言葉である。多く、浄土教系寺院において行われるが、葬儀の際や村の行事など、多くの民俗行事と密接に関係している。念仏講は虫送り・風送り(豊作祈願の呪術的行事)や、疫除け・雨乞い等の際にも行われていた。
念仏講は次第に念仏踊りとして変化していく。念仏踊り最古の記述では、菅原道真が880年ころ讃岐守(さぬきのもり)を務めた時に行った「雨乞いの踊り」とされ、村人達が感謝の意味で踊ったのが起源とされる。後に正式に「念仏踊り」と言われるようになったのは1207年に法然上人(浄土宗)が宗教上の争いから讃岐国に流され、この踊りを見てセリフとして「念仏」を唱えるようにさせたことによる。この時の念仏踊りは、太鼓や摺り鉦などに念仏(南無阿弥陀仏)をひたすらに唱えながら踊るもので、その後全国にさまざまな様式で分布している。現在でも香川県(讃岐国)では「滝宮の念仏踊」が行なわれ、全国に残る「念仏踊り」のルーツとして国の重要無形民俗文化財に指定されている。
また自ら念仏を唱えながら踊るものを踊念仏(おどりねんぶつ)とも言い、こちらは宗教的、儀式的意味合いが強く、現在でも念仏踊りとは違う派生に入っている。一説には平安時代(900年)に空也上人が始め、鎌倉時代(1200年頃)に一遍上人によって広められたと言われ空也念仏と呼ばれた。
前述したように当初、法然上人が広めた念仏踊りは念仏を広める目的として全国に流布していったのだが、その後民衆に溶け込んでいく中で次第に宗教的意味合いが薄くなり、娯楽の目的に変わっていく。
室町時代(1336年~1573年)には疫神祭や、念仏(踊り)、田楽などに起源をもつ芸能と考えられている風流踊(風流とも)がある。日本の中世芸能のひとつで、鉦・太鼓・笛など囃しものの器楽演奏や小歌に合わせて様々な衣装を着た人びとが群舞する踊りである。後世、亡者慰霊のための念仏踊や盆踊り、雨乞踊、虫送り、太鼓踊、浮立(ふりゅう)、剣舞(けんばい)、迎講、仏舞(ほとけのまい)、小歌踊、願人踊(がんにんおどり)、綾踊、奴踊、花笠踊、棒踊、祭礼囃子、三匹獅子舞、太鼓打芸など、多くの民俗芸能、民俗行事の源流となった。
江戸時代(1600年頃)には出雲大社の巫女でもあった出雲阿国(いずもあくに)が念仏踊りや神楽を取り入れて創作した、かぶき踊り(ややこ踊りとも)といわれる踊りが挙げられる。このかぶき踊りは今日の歌舞伎の元と言われているが当時は小唄(当時の流行り歌)に合わせて派手な装いや斬新な動きで女性が踊るというものである。その後、「かぶき踊り」は女性が踊るということもあり遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、三味線を入れた歌舞伎やチンドン屋が出来上がったとされる。
その頃(江戸時代以降)から女旅芸者が流行していた記述もあり(芸妓の起源)、各地に広まった念仏踊りがこれら(風流踊やかぶき踊りなど)の影響で変化していいったと考えられる。念仏踊りから派生した踊りとして、盆踊り、阿波踊り、万作踊り、飴屋踊り、粉屋踊りなどがある。
おしゃらく踊りの転機として考えられているのが明治維新と思われる(1860年ころ)。その理由は日本舞踊における家禄(家に代々伝わる俸禄)の廃止である。古来より「舞」と「踊り」は明確に区別されており「舞」は専門的技能を要するもので世襲的に伝えられ、その多くが禄の対象とされていた。対して「踊り」は民衆の中から生まれ、遊女や旅芸人などの間で広がり特に身分制度の厳しかった江戸時代(1603年~1868年)においては蔑まれる存在であり、「舞」が禄の対象に対し「踊り」は厳しく取り締まりを受け(一揆へつながる集まりなどとされていた)、時には禁止令を出す時代もあったと言われている。しかし明治時代に入り規制の無くなった「踊り」は庶民の中で娯楽として広まっていくことになる。おしゃらく踊りもこの時期、主に関東、東北地方を中心に広まっていった。千葉では特に浦安の「お洒落踊り」が盛んで当時、各所に「お洒落踊り」を広めていったと言われている。
軽井沢のおしゃらく踊りは明治時代(約120年前)に東葛飾郡浦安より伝承されている。120年より前は大師講(旧東葛飾郡地区で四国八十八か所になぞらえて行われる講)の席(中食と呼ばれる食事の席)で踊られていた小念仏(念仏踊り)がおしゃらく踊りを取り入れたことで次第にお祝いの席や祭りなどにも踊られるようになり、農閑期の娯楽として地域に定着していった。1945年(昭和20年頃)の鎌ケ谷市市内では各地区で盛んに踊られていたが高度経済成長期(1955年~1973年)末期の1965年(昭和40年頃)には鎌ケ谷大仏や旧入道池(初富と粟野の堺)などの一部でしか残っておらず、1986年(昭和61年)には市内では軽井沢地区のみになっていた。これらの背景には時代の流れで娯楽の普及、変化や農民芸能ゆえに農耕の減少とともに廃れていったと考えられる。軽井沢地区おしゃらく踊りは昭和61年に地元有志によって保存会が立ち上げられ、長く続く旧東葛飾郡地区での「大師講」での小念仏やその派生である「鎌ケ谷市おしゃらく踊り」を現在まで残すことができている。