背景画像は,千手観音胎内から発見された白銅鏡(重要文化財附指定)
本ページは制作中につき,たびたび改定します.
起草者:吉富政宣
大町市八坂地区は藤尾にある覚音寺(カクオンジ)は,古代より安曇の人々に尊ばれ,集落の人々からは「藤尾の観音さま」と親しまれてきました.ご本尊は「千手観世音菩薩」で,脇侍の「持国天」「多聞天」とともに、国の重要文化財に指定されています.(旧八坂村による解説を引用し,一部改変した)
覚音寺は,かつて坊を十二ヶ所持つ大寺であり,その創建は平安時代の初期にまでさかのぼると推定されています.
この寺に本尊の千手観音が施入されたのは平安時代末期の治承3年(1179),今から800年以上も昔のことです.京都奈良で開発された「寄木造り」によって造られており,昭和9年の仏像の解体修理の際,観音像の胎内から「墨書木札」1枚・「紙本千手観音摺仏」28枚・「白銅鏡」1面が発見され,それにより施入されたのが治承3年だと判明しました.
木札は,当時大町を中心にして広く北安曇地方を治めていた豪族の仁科盛家が,その妻子とともに現世の安穏や所願の成就を願って千手観音を造り覚音寺に寄進した旨を伝えています.また,この木札は,長野県における信州の文字の初出でもあります.
千手観音の造像が平安時代末期であるにもかかわらず造像の技法や彫り方にはそれ以前の古風を感じさせ,脇に立つ四天王のうちの二天の持国天・多聞天像も背に彫られた陰刻銘には鎌倉時代初期の建久五・六年(1194・95)とあるにもかかわらず四天王にありがちな力みをおさえた穏やかな彫り方になっていることもまた古風を感じさせます.(旧八坂村による解説を引用し,一部追記・改変した)
覚音寺は,金峯山修験本宗の末寺です.山伏の集まりだといえば,わかりやすいでしょうか.修験(しゅげん)は原始より続く日本独自のアニミズムに始まっており,仏教的なものの考え方,山岳修行・神仏混交などを特徴としています.
修験を行う者を修験者(しゅげんじゃ),ないし,山伏といいます.山伏は,おまじないの専門家であるとともに,明治時代までは深山の薬草を用いて患者を治療する医者であり諸国をさすらう知識人であったことから,民衆から「ホーゲンサマ」と親しまれてきました.
日本史の教科書でも習ったように,修験は修験宗ではなく修験道と呼ばれます.哲学宗教カテゴリにおいて,なぜ,修験宗でなく修験道と呼ばれるかというと,分け隔てなくカミホトケを敬い,おてんとうさまや山や巨石を拝み,一木一草,野の花を尊ぶ修験のふるまいが,日本人の暮らしそのものだからです.
修験は日本人の暮らしそのものですから,修験寺院には地史や自然とのつながりが色濃く遺っています.覚音寺もそのような寺院の一つです.
<地史地勢>
安曇平(あずみでーら)では,覚音寺の位置する山地を,東山(ひがしやま)と呼びます.東山は,約100万年前頃から東西日本が押し合うことによって隆起した山地です.地理院地図をお確かめください.覚音寺のやや西側,南北数十キロメートルにわたって連なる標高1000m弱の連峰が東山です.次に東山の東側をご覧ください.小さな平地や湿地が多数見つかります.これら平坦地は,東山の山頂部が東方に滑り落ちることにより形成された土地であり湧き水に恵まれています.水道の無い時代,人々は湧き水を求めてこれら山中の平坦地に定住しました.藤尾に位置する覚音寺もそのひとつです.平安期の覚音寺開創にあたって,いくつもある湧水地の中から特に藤尾の地が選ばれたのは,仁科神明宮(仁科神明宮から見て覚音寺は北東2㎞に位置する)の鬼門封じを狙ってのことでしょう.
<生物相>
覚音寺周辺は現在薄暗い林となっていますが,かつては明るく開けた里山でした.日本の里山植物が多数残っていることがその証拠です.無雪期,できれば5月頃に相川から覚音寺まで歩いてみると良いでしょう.
早春には,イヌナズナ・フクジュソウ・ヒトリシズカ・エドヒガン(野生の桜),5月の連休頃にはウラシマソウ(長野県絶滅危惧Ⅱ類)・フデリンドウ(リンドウは長野県花)・ジュウニヒトエ・アマドコロ・イカリソウ・ムラサキケマン・ラショウモンカズラ・ホタルカズラ・日本タンポポ(エゾタンポポ,もしくは,シナノタンポポ),オドリコソウ,夏にはヤクシソウの花を見ることができます.※石段の下,本堂に向かって左手には園芸種(セイヨウジュウニヒトエ・ヒガンバナ・スイセン等)が僅かにあります.誤認に注意ください.
動物では,春にミヤマセセリ・ルリタテハ,その後はコジャノメ・クロヒカゲといった蝶,それからニホンザル・ニホンジカ・カモシカ(国天然記念物・長野県獣)を見かけます.ほかには,リス・ツキノワグマが棲息しています(これらの哺乳類に関しては筆者未確認).
ぶつぞうな日々の管理人さまが,「【信濃仏】覚音寺(大町)~「藤尾の観音さま」に家族の愛を想う~」と題して,近年の覚音寺,および,ご住職のお人柄について多くを語ってくれています.必読です.
日本史の教科書でも習ったように,修験は修験宗ではなく修験道と呼ばれます.また,哲学や比較宗教学において修験は,「宗教」というよりむしろ書道・茶道・柔道・神道というときの「道」に分類されています.これに対し「宗教」の語は,一神教を念頭に置いた英語religionの訳語です.一神教は一つのカミを崇拝しますから,それ以外のカミを排斥しさげすむ傾向を有します.しかし,日本の歴史にそのような宗教はあまり見当たりません.このような事情からか,日本の比較宗教学ではこの英語的宗教の概念を拡大し,明確でさほどブレの無い教義を有していることを宗教の資格として認めています.
歴史学・哲学・比較宗教学がなぜ修験宗でなく修験道と呼ぶかというと,他にも理由があります.修験道は,おてんとうさまや山や巨石を拝み,カミ・ホトケ・一木一草を分けへだてなく敬い尊びます.その儀式は,仏教・儒教・神道,果ては,道教まで混然一体としています.このようなふるまいは,日本人の暮らしそのものですから,それをあらためて宗教と呼ぶことに何の意義がありましょうか.むしろ,民俗といったほうが適切と思われます.これが,人文科学的な修験の見方です.
他方,法律ということを考えてみましょう.法律は国民の意向に基づき国会にて制定されます.宗教法人法も法律の一つです.この宗教法人法ということを考えてみましょう.宗教法人法は,宗教法人の権利義務を明確にするものです.そして覚音寺は,宗教法人覚音寺,です.先の人文科学的なものの見方に基づきますと,宗教法人法でいう「宗教」と学問上の「宗教」とが同じではないことがわかります.
護摩供養,および,先祖供養が執り行われます.
大般若経六百巻が広げられます.
歴史的に寺運盛衰の著しい覚音寺ですから明治以前の様子が詳しくわかってはいませんが,大正期の納経をきっかけにそれまで行われてきてやがて途絶えてしまった行事を復活したものだと考えられます.昭和期に中断しましたが,平成期から再開しています.
池田町池田二丁目にて高瀬川火まつり実行委員会が主催する高瀬川火まつりでは,覚音寺住職を導師に大護摩供が執り行われます.令和6年2月,高瀬川火まつりは,環境省より,生物多様性条約のCBDCOP14/8の価値5に相当すると判定され.自然共生サイトの価値を担うことになりました.またこの自然共生サイト(高瀬川の生物多様性サイト)は,令和6年度8月にOECMとして,国連環境計画(UNEP)に登録されました.
八坂公民館の前で大護摩供が執り行われます.参加者は火渡りをすることができます.
火まつりは,令和5年,150年ぶりに復活しました.産業管理外来種に指定されているハリエンジュを護摩壇に用い,生物多様性の維持回復に寄与するお祭りとなっています.毎年,10月最終日曜日に開催されます.令和7年度は10月26日(日)を予定しています.
左がご住職.対岸に薪を求めた昔の人々に思いを凝らして下さっています.
祈りを込められているご住職
左がご住職.
高瀬川火まつりは,環境省「自然共生サイト」国連UNEPの「OECM」の構成要素となっています.
高瀬川火まつりは,有識者からなる環境省の審査委員会より,激賞いただきました.審査基準は,生物多様性条約です.