思い出のメロディーと言っても、テレビやラジオでよく特集している、いわゆるナツメロの番組とは異なる。私には、あるメロディーを聞くと特定の人が思いだされる場合があり、逆にある人を思いだすと、決まったメロディーが浮かんでくる例がある。いずれも懐旧の念にひたることになるのだが、そういう例を拾って見た。
私の幼稚園時代には日本は満州に軍を進めて傀儡国家を創りだしていたが、幼稚園や小学校では、まともな童謡や唱歌が歌われていた。ところが1937年から“日支事変”がはじまると、様子がおかしくなってきた。軍歌、軍国歌謡がのしてくる。
”兵隊さんよ ありがとう“ とか、
”勝ってくるぞと勇ましく“(露営の歌)とか、
”見よ東海の空明けて“(愛国行進曲)等々。
日本はドイツやイタリアと防共協定を結ぶ。そして1939年9月、ドイツがポーランドに攻めこみ、第二次世界大戦が始まった。私は1940年に小学校を卒業し、七年制の武蔵高等学校尋常科に入学した。
ここから “メロディー ⇔ 人物”が始まる。
一年生のある日、私の机のそばに来た遠藤明太郎君が
♪砂漠に日は落ちて 夜となるころ♪
と歌った。前後の経緯は憶えていない。このメロディーが気にかかった。これは何時か読んだ漫画の主人公が歌っていた。そうだアラビアの唄だ。アラビアンナイトだのアリババだのシンドバットの冒険だのが頭に浮かんだ。これ以後、私の頭には “遠藤君⇔アラビアの唄” という回路ができたしまった。彼は私と一緒に東大化学科に進んだ。卒業後は関西方面に務めたので、会う機会は少なくなったが文通は続いていた。しかし上記の件は彼に話していない。彼は2015年5月に亡くなった。
インターネットでしらべたら、この歌のもとはアメリカの映画、それを堀内敬三が訳したものだそうだ。
♪砂漠に日が落ちて夜となるころ
恋人よ なつかしい唄を歌おうよ
あの淋しい調べに今日も涙流そう
恋人よ アラビアの唄を歌おうよ♪ (以下略)
二年生の時、田中幸太君が私の席の近くに来て口ずさんだ。
♪ヒットラー殺せば世界は平和♪
メロディーはナチス党の党歌であった。私は呆気にとられた。ドイツは盟邦であり、ヒットラーはその指導者である。こんな風に歌ってよいものか?寮にはこんな歌を歌う先輩でもいるのか?(彼は寮から通っていた)。理科の和田八重三先生はヒットラーを礼讃しておられるのに! その一方で私の頭の中には、ヒットラーがいなければ戦争はないのかもという思いが一瞬よぎった。
当時私のいた学校では、一年生と二年生には音楽の授業があり、東京音楽学校の先生が唱歌と楽典を教えておられた。通常の歌のほか英仏独及び満州国の国歌やナチス党、ファシスト党の歌まで習った!(全部原語で)。ナチスの歌もファシストの歌も音楽の国だけあってかメロディーだけは素敵だった。
♪Die Fahne hoch, die Reihen dicht geschlossen,
SA marschiert mit ruhig festem Schritt,
Kameraden die Rotfront und Reaktion erschossen
Marschieren im Geist im unseren Reihen mit. ♪
(大意)
旗は高く隊列は密に 突撃隊(SA)は進む
確かな足取りで
赤との 反動との戦いに散った同志の魂は
我々とともに行進している
これはHorst Wessel Liedと呼ばれたナチス党の歌である。 H.Wesselはナチスの興隆の闘争の途上、事故で死んだ若者であるが、彼を讃える歌を作って党歌としたのである。
ドイツ語はどんどん忘れて行くのに、歌で憶えたドイツ語だけは何故か残っている。田中君が歌ったメロディーはこの3行目にあたる。なお、この歌は現在ドイツでは歌ってはならないとされている。特に親しい友というわけではなかったのに “田中君 ⇔ ナチ・メロ” の回路ができた。彼は後に東大法科を出て、銀行に勤めた。
昭和16年(1941)12月に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まった。私達の生活にも緊張が続く時代となるのだが、初めのうちは真珠湾やマレー沖海戦の戦果もあったり、香港やシンガポールの陥落もあったりで、浮かれていた面もあった。しかし翌年の半ば過ぎると形勢が怪しくなってきた。ミッドウェー海戦、年末にはガダルカナルの死闘。
そんな時期なのに私は学校の山岳部主催のスキーの合宿に参加した(昭和18年12月)。新潟県妙高山麓の燕温泉。そこには先生と生徒だけではなく、先輩方も少数だが参加しておられた。大学生だった田宮信雄さんもその一人。温泉宿の広間で、ある晩コンパが行われた。色々余興が行われた中で、田宮さんが歌を歌われた。
♪待ちぼうけ 待ちぼうけ ある日せっせと野良稼ぎ
そこへ兎が飛んで出て ころり転げた木の根っこ
タンタカタッタ タンタカタッタ タッタッタッタッタ♪
(北原白秋詩、山田耕筰曲)
5番か6番まであるこの歌を、田宮さんは全部歌い切った。中間の伴奏部分も口三味線風に。 ここで田宮さんがやめて置かれたら、私の記憶には残らなかったかもしれない。
しかし彼はさらに続けて歌った。
♪大佐中佐は老いぼれて 少佐大尉にゃ妻がある
と言うて少尉じゃ頼りない 女泣かせは中尉どの
腰の短剣すがりつき 連れて行きゃんせ ソロモンへ
連れて行くのは易けれど 女乗せない戦船♪
左から三人目が1959年頃の田宮信雄さん
この歌は戦争中のはやり歌であった。ラジオで放送されることなどないのに広がった。陸軍用のバージョンもあった。田宮さんは後に海軍に入隊された。軍艦など無くなった戦争末期、“陸戦を専攻しました” と言っておられたが、兵隊の位は如何だったのだろう? 中尉どのかな! 伺っておくべきだった。 かくして“待ちぼうけ ⇔ 田宮さん ⇔ 中尉どの”。 ちなみに田宮さんのスキーは豪快だった。
昭和19年、私は高等学校の理科に進み、寮に入った。ある日、音盤室から流れてきたメロディーに、この曲聞いたことがあると言ったら、川村俊夫君に、“田園交響曲ではないか、知らないのか“と言われてしまった。
寮にはクラシック・ファンが多くいて、時々寮内でレコード・コンサートが開かれたりした。その影響で私も洋楽を聞くようになった。空襲を受けるようになった昭和20年でも、日本交響楽団は活動していた。私は6月6日、級友に誘われて始めて日比谷公会堂に行き日響の演奏、ベートーベンの第六、第八交響曲を聴いた。続いて6月15日には、同じく日比谷で日響、ベートーベンの第九番、合唱付を鑑賞している。空襲警報が鳴ったら演奏中止、退避の条件で、日響の団員は全員国民服を着ていた(国防色で詰襟の服)。
そして8月15日を迎えた。戦争は東京を焼け跡だらけにして終った。学校は9月3日には再開。10月25日には早くも日響を聴きに日比谷に行っている! ドヴォルザークの“新世界より” ローゼンストック指揮, “ピアノ協奏曲No.1 チャイコフスキー” 井上園子。翌年には学校の講堂で 諏訪光世の(5/24)、また巌本真理の(11/24)バイオリン・ソナタの演奏会があった。こうして私はクラシック・ファンに仲間入りした。これは川村俊夫君の影響に違いない。彼は大学では ”ライトブルー タンゴ アンサンブル“ に参加して金を稼いでいたが、後に文化放送に入った。多種の楽器をよくした。 “川村君 ⇔ 田園交響曲”。
昭和22年(1947年)に大学に入った。化学科では毎日午後が実験に当てられた。そこに初日から全く慣れた態度で振る舞う男がいた。助手かと思ったが さにあらず、夏目晴夫君だった。彼は無機、分析化学の知識が突出していた。それはさておき、ある日彼は実験室で歌を口ずさんでいた。それがドヴォルザークの “新世界より“ のメロディーであることは直ぐ分かった。しかし当時私はそのメロディーに歌詞がついていることを知らなかった。それを知ったのは数年後であったろう。夏目君とは専門も違うので、卒業後会うことも少なかったが、 “夏目君 ⇔ 新世界より” の回路は残っている!
♪遠き山に日は落ちて 星は空をちりばめぬ
今日の業をなし終えて 心軽く安らえば
風は涼しこの夕べ いざや楽しきまどゐせん まどゐせん♪
(堀内敬三訳)
この歌にはもう一つ思い出がある。1963年10月、私はアメリカのスタンフォード大学で研究することになった。そのラボにリンダという女性がいた。日本人が来たという話を聞いた彼女の夫のレイがやってきた。私が着任して数日以内のことである。彼はもとアメリカ海軍の航空隊のパイロットで、占領軍として日本にいたことがあるという。コークーボカンとか、日本の軍艦の名前とかを憶えていた。ゼロ戦のことを訊いてみると、あれはスピードの速い戦闘機だったが、あれには乗りたくない、飛行士を防御する構造がない、操縦席を撃たれたらお終いだと言ったのが印象に残っている。
彼は私達が車を探しているのを知ると、大学の掲示板に出ていた家に一緒に行き、500ドルという売値の中古ポンティアック(1957年型)を350ドルまで値切ってくれた。私は即座に銀行小切手を切って購入し、それに乗って帰宅した。(写真アルバムの日付によると10月27日のこと)。
11月10日、彼等は私達夫婦を海岸沿いの景色の好い町カーメル-モンテレー地区への観光ドライブに誘ってくれた(彼の車で)。そのあと彼等の家に行った。そこで彼はレコードをかけ、これは何という曲か知っているかと訊ねる。それは “新世界より” であった。
驚いたのはその経緯、私はラボで ♪遠き山に日は落ちて♪ を無意識に鼻歌でうなっていたらしい。それに気づいていたリンダがそのレコードをかけさせたのだった! 英語では ドヴォルザークではなくて、 ドヴォラークということも知った。 かくして“夏目君 ⇔ 新世界より ⇔ レイ&リンダ夫妻” となった。
江上研では ほかにも大勢の人々が メロディーで私の記憶に結びついている。一応年の順にあげる。
“江上不二夫先生 ⇔ Waltzing Matilda”。 どういう経緯だったか生物化学科の教授方数名がオーストラリア視察に行かれたことがある(1960年代の半ば頃か?)。 その時憶えたということで、先生自身が研究室で歌われるという珍しい事件があった。大島泰郎さんにかかると、江上先生がマチルダらしきものを歌った ということになる。しかしこの歌、歌うのも、原文の英語も難しい。インターネットで調べたのだが、とんでもない意味であることが判かった。これがどうしてオーストラリアの第二の国歌のように扱われるのであろうか? 皆さんも調べて御覧なさい。
大島泰郎さんが歌うのは聞いたことないが、フルートを吹いたことが忘れがたい。曲は “遠くへ行きたい”。
♪知らない町を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい
知らない海をながめてみたい --- 遠い町 遠い海 ---♪
フルートだから歌詞はわからなかった。私が調べて書いた。(永六輔詩、中村八大曲)
藤本大三郎さん、何かの機会に、「ここで “クワイ河マーチ” をかけて入場!」と叫んだ。 演出家を気取っていたらしい。 映画 “戦場にかける橋”のテーマ曲“。
“中村桂子さん ⇔ 河は呼んでいる”。 何処で何時だったかは忘れたが、長い歌詞を確かに歌った。
♪デユランス河の流れのように 小鹿のような その足で
駈けろよ 駈けろ 可愛いオルタンスよ
小鳥のように いつも自由に♪
これも映画の主題歌だったか。
あった。大勢の学生に交じって、私も歌った。 その一つ “アルト ハイデルベルク” が忘れがたい。
♪Oh alte Burschenherrlichkeit, wohin bist du verschwunden? ---- ♪
ここの最初のローマ字は音もあらわしている(ドイツ語読みにする)。石本さんが茶目っ気たっぷりに歌ったのが印象的だった。
も一つは “メルツエルさんのメトロノーム ”で、 ベートーベンの交響曲第8番に出てくるメロディーに歌詞をつけたもの。 メルツエルという人が新しいメトロノームを発明したのを喜んだ曲という。
♪タッタッタッタ タタタ タタタ タタタータ
メルツエルさん おはよう ---
タッタッタッタッタッター 拍子を刻みます --- ---
素敵なメトロノーム おめでとう♪
第8番を聞くたびに、第2楽章で石本さんを思い出す。
昼休みに銀杏並木のアーケ-ドで大きな看板に楽譜を張って、合唱を指導されていた時期が
戦後の歌声運動のなかで石本 眞さんの果たした役割は大きい。彼から私は数えきれない多くの歌を教えて頂いた。その中から石本さんだからこそと思う歌を三つ挙げる。
♪CAFFEE 飲むなよ カフェ 飲むなよ 子供ら飲むな
身体に触るぞ 飲むな
飲むな 飲むな 飲むな 飲むな♪
今のドイツではあの物語も、もちろん歌も忘れられているそうだ。かくて “CAFFEE ⇔ 石本さん ⇔ メトロノーム”, “石本さん ⇔ アルト ハイデルベルク” ここに残る。
山形達也、貞子夫妻、修士の業績報告会の後のコンパで、貞子さんがシャンソンを歌った。
♪---桜の花とリンゴの花が 風に吹かれて絡んで離れ
ためらいながら 口づけをする--- ---
--- --- 鐘がなります カン コン---- -♪
達也さんがクラリネットで伴奏した。メロディーの一部だけしか思い出せない. そして二人は結ばれたのさ!♪
江上研では内田庸子さん、井上貞子さん、池田加代子さんとは長く一緒だったのに、歌とは何故か結び着かない。反対に、笠井謙一さんや伊予部志津子さんは よく歌っていたせいか、私の記憶の中で一つのメロディーに収斂しない。ほかにも当時の学生諸兄姉には錚々たる人物がいたのだが、私の記憶のなかではメロディーと折り合わなくて残念。 わずかに次の例!
“林博司さん ⇔ 北帰行”。
♪窓は夜霧に濡れて 都すでに遠のく
北へ帰る旅人ひとり 涙流れてやまず♪
と歌ってくれた。 これは旧制旅順高校の歌で、色々エピソードがあるようだ。
“小池達郎さん ⇔ 若者たち”。
♪君の行く道は果てしなく遠い だのに何故---♪ と歌った.
“大野淑子さん ⇔ かあさんの歌”。
♪かあさんが夜なべをして 手ぶくろ あんでくれた♪
と歌っていたのが印象深く残っている。
例外として、菊池韶彦さんのお琴を挙げておく。彼はある日、何のためだったか、研究室にお琴を持ち込んで来た。それで私は昔を思い出した。妹がお琴を習っていた時期があり、うちの床の間にお琴が置いてあった。妹が習っていた曲を私も弾いてみたりした。“六段の調”の一段目はやさしいのですぐ弾ける。ほかに ♪月は朧に東山---♪ (祇園小唄)などはお琴に乗りやすい。さらには一高寮歌の ♪ああ玉杯に花受けて♪ などもお琴で弾きやすいことに気が付いた。菊池さんがあの時何を弾いたか忘れたが、ともかく“菊池韶彦さん ⇔ 筝曲”。
1972年に町田に研究所の建物が完成して研究活動が始まった。私はそこで20年過ごしたのだが、その間の思い出をひろってみた。 “人 ⇔ メロディー” 町田編。
大隅萬理子さんは新築の研究室で仕事を始めた仲間の一人である。 あるとき ♪京都大原三千院…♪ と口ずさみながら実験しているのに気付いた。私はその歌をはじめて聞いたと思う。生命研に来る前に彼女は京大にいたことがあったから、京都が懐かしいのだろうと思った。私にはその歌詞も気になった。“人⇔メロディー”の記憶関連に気付いたのは実はこの事からである:この雑文の原点! 今回ネットで歌詞を探して驚いた。
♪京都大原三千院 恋に疲れた女がひとり
結城に塩瀬の素描の帯が 池の水面にゆれていた ----♪
♪京都栂尾高山寺 恋に疲れた女がひとり
大島つむぎにつづれの帯が ----♪
♪京都嵐山大覚寺 恋に疲れた女がひとり
塩沢がすりに名古屋帯 ----♪ (永六輔、いずみたく)
恋に疲れてなんかいなかった方が、凝った和服に執りつかれたのでしょうか!
“大隅萬理子さん ⇔ 女ひとり”
小林三枝子さんもよく実験室で あるメロディーを口ずさんでいた。テープを回していたかも?
“恋は水色(ポール モーリア)”
これはその頃の流行曲:ラジオからよく流れていた。
大川いづみさんは実験室で
♪犬のおまわりさん 困ってしまって ワンワン ワワン----♪
小さいお子さんを育てながら、頑張っていたのです。
“黒田和史さん ⇔ 星影のワルツ” 新入所員歓迎会で歌った。
♪別れることはつらいけど 仕方がないんだ君のため
別れに星影のワルツをうたおう----♪
なんとダサイ歌をと思った。 しかし、正直者らしいとも思った。
四宮知行さん 今小学校で流行っているんだとて
♪カラス何故啼くの カラスの勝手でしょ♪
お子さんが入学したてのころだったか。
“星野歳三さん ⇔ 展覧会の絵”。 どういういきさつだったか、実験室にそのメロディーが流れた。何かの機器のタイマーが鳴ったのか,業者が持ち込んだ機器の音だったのかも。 “これは 展覧会の絵(ムソルグスキー)ではないか” と私、 星野さんは “そう プロムナードですね” と答えた。 これが何故か忘れがたい。
水野猛さんは実験中、しばしば歌謡曲を歌っていた。 “水野さん ⇔ 無縁坂”
♪運がいいとか悪いとか 人は言うけど-----
忍ぶ忍ばず無縁坂--♪ (さだまさし)
私は昔 不忍池から無縁坂を上りながら、森鴎外の“雁”の舞台はこのあたりかな?などと考えたことを思い出す。 彼はどういう気持で歌っていたのだろう。 私が昔は実験用の兎が用済みになると,その肉を食べたものだと言ったら、水野さん “兎の肉はおいしいんですよね、 ♪兎おいし かの山♪ と言いますから” と応じた。
鍵山高橋律子さん 実験室で口ずさんでいたメロディーが
♪ワーテルローの戦い♪ (ピアノ曲)だと気づいた。 さては そうか なるほど—-(その時確かめなかった)。
平井啓子さん 研究所で何かコンパがあったとき、皆がいろいろ勝手に歌を歌っている。少しは違いを見せてやろうと、“私は ”朧月夜“ の下のメロディーを歌う、だれか上を歌って!合唱しよう“ と発言した。それに応えてくれたのが平井さんだった。
♪菜の花畑に 入り日うすれ-----♪
と歌いだしたのだが、私の実力不足と練習不足で、残念な出来栄えだった。 “平井さん ⇔ 朧月夜”
佐野弓子さん 研究所に放射性物質を取り扱う実験室が造られた。ここで実験したい人は、研究所の講習を受けなければならない。私が放射能概論を、RI取扱主任資格のある佐野さんがRI室での“作法”について講じた。毎年の新入所員に同じことを繰り返すので、ビデオテープが作られた。そこに前奏曲を入れることになり、佐野さんが選んだ曲がモーツァルトのディヴェルティメントだった。メロディーの一部分は憶えていたが、確かな曲名は今回インターネットで確認した。 “佐野さん ⇔ Mozart Divertimento K136 D-DUR” 第一楽章の初めのメロディーでした。
“菊池 洋さん ⇔ パフ”。 何時のことだったか、研究所でギターを弾きながら歌っていた。英語だったかも。そのメロディーに 私の子供が学校で習ってきた歌だと気付いた。
♪不思議なパフ 怪獣だ きれいな海から毎朝おはよう
なかよしジャキー 島のチビッコ すぐにかけてきて ヤーヤおはよう♪
アメリカのフォーク ソングでした。
“鶴谷緑平さん ⇔ 仕事の歌”。 赴任後まもなくの頃、研究所の食堂で大きな声で歌った。「職場で歌うのは やはり仕事の歌でしょう」 とて ロシア民謡を。素人の域を出ていると思った。
♪悲しい歌 嬉しい歌 たくさん聞いた中で
忘れられぬ一つの歌 それは仕事の歌---♪
“今堀和友所長 ⇔ 黒猫のタンゴ”. 何の都合か、私ほか二、三人で立ち話の時、今の流行は ♪黒猫のタンゴ♪ だよと、それを歌いだされたことがあった。 食堂での歓迎会では ♪与作--- ♪ と歌われたので驚いた。今堀さんはクラシック音楽に通であることを知っていたから。
以上、“人⇔メロディー” の思い出をまとめて見た。親しい人がよく歌っていたという場合よりも、意外な歌が意外な時に、という例が多い。アメリカにいたある日、研究室に入って来たwork-shop(医学部の共通工作室)の男が口ずさんでいたメロディーに、「それは日本の歌だよ」と言ったら、「そうだよ スキヤキ ソングさ」 と答えられた(もちろん英語で)。 びっくり仰天。 よせよ それは ”上を向いて歩こう“ だよ!(ここは日本語)。
最後に私の音楽素養にふれておく。学校で唱歌を習った以外、何の教育も受けていない。小学校の時ハーモニカを買ってもらって自己流で吹いていただけで、ピアノその他の楽器は全く演奏できない。楽譜も読めない。音痴ではないと思うが、人前で歌えるような才能もない。ほかの方から見れば “景山 ⇔ no melody” という事になろう。ただ音楽を聞くのは嫌いでない。石本さんのお蔭で歌も好きである。 ただし演歌は嫌い。
(2020.3.10 東京大空襲75周年の日、 3.11 東日本大震災9年目の日)