私がカリフォルニアのStanford 大学医学部(Department of Genetics, Prof. J. Lederberg)で研究を行うためである。始めは妻萬里子と二人だけで渡米し、妻はカリフォルニア大学医学部(UCSF)眼科で研究に従事させてもらった。1964年9月6日に直美が生まれたので(Stanford 大学病院、Dr. Baba)、UCSFを止め、日本に残していた優理子を同年11月に、力と母信子を12月に呼び寄せた。私は三年目をNIH(National Institutes of Health, Bethesda, Maryland)で研究することになり、東部まで自分の車で引越しをした。
その横断旅行の記録を、萬里子の当時の日記に沿って大略そのまま書き写し、注釈や追加を記載してまとめた。1965年10月13日、私達一家、眞、萬里子、優理子(4才3ヶ月)、力(2才6ヶ月)、直美(1才1ヶ月)と母信子の6人は1843 Park Boulevard, Palo Alto, Calif.の借家を出発した。 Bethesda, Maryland までの10日間のドライブであった。以下、一ヶ月ほど前の準備段階の記録から始める。
9/21 火 AAA(American Automobile Association)に行程計画を依頼。(同じLabの大学院生がAAAに頼むのがよいと教えてくれた。)この頃より荷造りを始める。
9/23 木 Stanford Shopping CenterのEmporiumで直美の写真を受け取って来る。(誕生一年記念として、サービス価格で撮ってくれた)。かわいく撮れていた。
9/25 土 荷造り。夜Daly Cityの米田先生(UCSF医学部)に招かれ二人で行く。サンフランシスコの夜景がきれい。
9/29 水 大島泰郎さん(Ames Research Center)の運転免許合格を祝い招待する、赤飯。
10/1 金 Dr.Babaに健診、異常なし。胃薬の処方を貰う。お礼にパールのタイ・ホルダーとチョコレートをあげてお別れ。郵便局で荷を出す、衣類6箱、本5包、印刷物8包。
10/2 土 Mrs.Dolenz来訪、子供達と母にプレゼント貰う。お礼に雛人形を上げる。
(Mrs.Dolenzはスタンフォード大に留学する外国の学生や学者を支援する会Visiting International Students and Teachers Associationの主催者。何度もパーティーに招いてもらい、お陰でこのエッセイに登場する何人かのアメリカ人や日本人学者と知り合った。)
10/6 水 Harry Okazaki(二世の自動車修理屋さん、Alma Street, Palo Alto)でChevrolet station wagon 1957(Harryが自分用に使っていた車)を買う約束をする。うちのFordを引き取ってもらい差し引き$500となる。
10/7 木 Prydeさん姉妹(共にアメリカ人と結婚した日本女性)見える。ノリタケ・チャイナのディナー・セット持って帰って貰う。(日本から持参したもので、ほとんど使っていなかったものを譲った)。
10/8 金 車受け渡しする。AAAより行程map(Triptik)を貰って来る。(Triptikは横12cm縦24cmの短冊に、道路を100~300マイルに区切って詳しく示したもので、ルーズリーフ式に綴じてある。これを辿って行くと約三十枚でサンフランシスコからワシントンDCに達する。道路工事中の箇所が赤ペンで記入してあり、裏面には名所案内やモーテルの紹介もあって便利であった。マイレージはこの地図から計算した。)
10/9 土 一家でMr.& Mrs.Kaufmanに招待される。Redwood Cityのhill side。
10/11 月 サンフランシスコの島運送店に茶箱5個、トランク2個、ダンボール箱7個をステーション・ワゴンで運ぶ。夜Hunwickさん(牧師)の招待受ける、ハム・ディナー。
朝洗濯、買い物、眞大学へ。昼頃、野村さん(京大医)が岡林さんの奥さんを連れて来てくれる。野村さんにおもちゃ、本、木炭をあげる。Mrs.Wilson (萬里子に英語を教えてくれた一人)来て萬里子と母をAllied Art Guildに連れて行ってくれ、そこのレストランで昼食、グラタン、サラダ、お茶とパイ。(子供達は岡林さんに見て貰う)。二時半に帰って弁当づくり。眞三時半に帰り、岡林さんを送る。鏡、食料品をもって帰って貰う。夜吉崎さん、三浦さん(自動車修理工)一家、小松さん、最後に大島さん挨拶に見える。家主親子親切に、後の掃除しなくてよいと言ってくれる。(写真1、大島さん)
10/13 水 出発の日。大島さん来てくれ最後の荷造り。荷が多すぎて、缶詰は大部分大島さんに上げ、砂糖、醤油、粉などはPrydeさんのところへ持って行く。やっと出発したのが11:30 a.m. Szeto(家主の中国人、司徒と書く)のお母さんは涙を浮かべ、サヨナラ、幸福を祈ると書いて見せる(中国語、漢字)。大島さん最後まで見送ってくれる。
車はワゴンなので後ろのシートを倒して広い平面にし、片側に荷を積み(紙おむつが一杯)、残りの平面に大人と子供達が寝そべられるようにした。前のベンチシートには三人座れた。Palo Altoからfree way US State Highway 101に入る。Stanford大学の Hoover Towerがだんだん遠くなり、やがて見えなくなるとこの町ともお別れ、一路南下する。Gilroyまで眞運転、氷を積み、以後二人で交替運転、車中昼食。萬里子頭痛眠気で後ろの席で横になる。子供達退屈し、泣いたり前後に動き回ったりと騒がしい。
4時近くBakersfieldの手前Pixleyを過ぎたあたりで、プシューと言う鈍い音を聞いた。「何だろう」と言っているうちに車はガタガタと揺れ、右に左にメチャメチャによろけるように走り、free wayの右出口側道との間のアイランドにあたって右へ180度転回、ザザーッという大きな音とともに後ろ向きになって止まった。その瞬間左側に積み上げていた荷物がドドーッと後部座席にくずれ落ちる。息も止まる思い。幸い誰にも怪我はない。無事で何よりだった。左後輪がパンクしていた。近くを走る車の人が降りてきて、親切にもジャッキで車を挙げスペアタイヤとの交換を手伝ってくれた。
恐る恐る運転してBakersfieldの町に入りモーテルに泊まる。3-bed roomの素晴らしい宿。(Rancho Bakersfield Motel, $20程だった?)。夜タイヤの買い換えのため、サービスショップを探す。タイヤだけでなくリムも潰れていた。リムの新品は高いので中古を探してあげるが、明朝でないと手に入らないと一人の店員が言う。事故は4時頃で高速道路が空いている時間だったのが幸いした。さもなければ、他の車とぶつかって悲惨なことになっていたろう。快適な道だったので時速75マイル(当時カリフォルニアの制限速度は80 miles/h)で走っていた時 突然パンクした。眞が運転中であったが、蛇行する車はハンドルでは制御できなかった。あわててブレーキを踏まなかったこともよかった。身体は無事ではあったが、初日の災難にはかなり精神的ショックを受けた。(おかげで以後の行程は観光を最小限にしてもっぱら目的のワシントンに向かうことになる。Las Vegasなど省略。)(初日の行程277マイル)
必要最小限を残して、荷を作り直し郵送することにする。朝飯の後眞が出かけて、ひも、テープを買い、昨日の店でリムつきタイヤを求めて来る。(パンクしたタイヤには5センチほどの金属片が堅く食い込んでいた)。10:30 a.m.頃モーテルを出、郵便局で荷を7個送る。$20以上かかる。(NIHのNIDRの飛田さん宛。)結局出発は11:30頃になった。Mojave砂漠に出て、茫々たる平原を行く。ジョシュアの木(踊っている人影に似たサボテンの一種?)が沢山ある。道は一直線に続くが、うねうねと起伏し、下りの時はエレベーターで降りるような感じがする。黒い帯が重なり合ったような形に、はるか彼方まで気も遠くなりそうなほど果てしなく続く。Needles(Calif.)を経てKingman(Arizona)に至る。7:30 p.m.、モーテル(Arcadia Lodge?)に泊まる。非常に疲れた。(二日目行程359マイル)
トマトだけ食べて出る。Kingmanの町のgas-stationに入ったらshock absorber(タイヤを支えるスプリング)が全部駄目になっていると言われ、交換して貰う。$60以上掛かってしまった。この間レストランで朝飯、氷を積み9:30に出発。事故以来50~60 miles/hで走ることにした。
行けども行けども長い道、茫々と拡がる黄色い平原をひた走る。Williamsの近くで工事のため停められていた時、突然ピーッとエンジンが鳴り出す(冷却水不足)。ハイウェイ・パトロールの警官が水をくれたが、まだ足りず大ボトルの飲料水も注ぎ込んだ。Williamsの町でミルク、ジュースを買い、ガソリンを入れてグランド・キャニオンに向かう。(ガソリンはハイオクタンを使った)。長い平原の道の後、久しぶりの森に入った。1:45 p.m.にグランド・キャニオンのEntrance(south)に着く。しばらく行くとView pointがあったので降りて見る(写真2,3)。道の側から眼下はるかに切り立った谷間となり、遠く向こう側には巨大な岩盤が延々と続いている。水成岩の層が赤、茶、黄、黒の筋になり、上は平で、左右に果てしなく拡がる巨大な峡谷を形成している。その雄大なこと言葉もない。ただただ驚く。Bright Angel Lodge に入る。広くてよい山小屋。メイドは小柄なアメリカ・インディアン。眺望を求めて西の端まで行って見る。突風が吹き出し、ついで雨となり雷鳴までとどろき嵐となった。しかし景色は本当に素晴らしい。(三日目行程200マイル)
を見ようと早起きしたが空は真っ暗で見られない。朝飯を終え9時過ぎLodgeを出る。ところが車から水が滴っていると人に注意され、Grand Canyon Villageの garageで視てもらった。water pumpが壊れていて交換しなければならない、Chevroletの部品ならある、出来上がりは午後3時といわれ、すっかり予定が狂う。(Chevrolet車でよかった!)。
朝から霰、雪、みぞれ、雨、時々薄日と天候が次々変わる。吹雪に峡谷は現れたり隠れたりする。雪片は広い深い峡谷に吸い込まれて行くようだ。こうして見物をしたり、Lodgeの近くのmuseumやお土産屋で買い物したりして時間をつぶす。昼食
後ロッジを出て修理できた車を受け取り乗り込む。東に向かって進み、所々のView pointで停まって見る。天気の悪いのが残念だが景色は素晴らしい。最後のView pointでは古い塔が見えたので、降りてその下まで雪道を行ってみた。そこの崖から明日行く方向のdesertが眺望された。人影はなく4時だが薄暗い(写真4,5)。
ここでGrand Canyonと別れるが、その後も山道で嵐、雪に逢う。途中Indian ruinの一つに寄って見る(Wupatki National Monument の中のCitadel ruin)。煉瓦を積み重ねた砦の廃墟、茫々とした大平原の中にぽつんとある。6時過ぎここを発ち8時にWinslowのモーテルに入る。暖房がなくて寒い。(全行程の中で一番安い宿、$9)(四日目行程156マイル)
10時に Petrified Forest National Parkに着く。広漠たる desert の中に化石した大きな木の幹(丸太)がごろごろ転がっている。ここは三畳紀Triassic time(一億九千万年前)に水によって流されてきた針葉樹が火山灰の沈積で埋められ、鉱物性液が徐々に木の組織を満たして、木が硬い石になった。後にこの地域が隆起して化石になった丸太が露出したのである。まずmuseumに入り化石のサンプルを見る。化石の木の切り口は磨かれて、赤、白、青、灰、茶と美しい模様を見せている。広い広いパーク内に化石の木が転がっている所が何カ所かあり、子供達を丸太に坐らせて写真を撮る。(写真6)。
化石が壊れて小さいかけら(めのうagate、縞めのうonyx、紅玉carnelian、碧玉jasperなど)になり,地上に散らばっている所もあるとか。ただし如何なる破片も持ち帰れば重い罰金、禁固刑に処せられる。
News Paper Rockと言って古代人が象形文字のようなものを刻んだ岩もあった。次に Painted Desertに行く。広い砂漠が、主に赤、他に茶、黄、青色の砂岩でできている。広大な無機的な景観、真に希有。正午に東口に着き Parkを出てすぐの土産物屋で化石を買い、昼食。アメリカ人のおじさんが優理子を可愛がってキャンデーの箱をくれる。ここを出て間もなく Arizonaを離れ New Mexico に入る。5.45 p.m. N.M.最大の都市Albuquerqueに着く。(五日目行程284マイル)
は1706年にスペイン人によって建設された都市である。old townにはスペインの歴史の形跡が残っているというので、一周して見る(7:40 a.m.)。道幅は狭く古風な二階建ての商店が軒を連ねているが、朝が早いせいか、ひっそりしていた。そのあと Santa Rosaの町でガス・スタンドに入ったらcar balanceが崩れているから直した方がよいと言われる。さらにパンク時に入れ替えたタイヤ(スペヤー)に割れ目があって危ないとも言う。結局また新しいタイヤも買い、バランスも直してもらう。1時間、$40かかってしまう。(初日の事故の後遺症というか、次々悪いところを指摘されると修理せざるを得ない)。
道はやがてTexasに入る。広い茶色の平原、カウボーイ・ハットをかぶった青年が多い。Texasは北部をかすめたのみで、すぐに Oklahomaに入り、平らな緑の草原にかわる。道は真っ直ぐに延び、遙か彼方の地平線で急に登っているように見える。そこまで行くと何か変わった景色があるかと思ったが、その上り坂の頂上に達すると、また同じような平原が続き、うねうねとした道は地平線で登る形になって区切られている。行けども行けどもこの繰り返しで疲労感を覚える。たまに反対車線を高速で走る巨大なトラックとすれ違うと、バーンという轟音とともに、こちらの車が飛ばされたかと思うほど揺れる。すごい風圧。こうして、たどりたどって東に進んで行くのだ。アメリカの広さを実感させられる。一目散に走り続けてElk Cityに着いたのは 6:50 p.m. マーケットでミルク、食品を買い、夜の食事と明日の弁当のサンドイッチづくり。(六日目行程435マイル)
を出る。朝も昼も車中食。Oklahomaの有料道路を二回通る。右手にOklahoma Cityが望まれる。牧場らしい緑の草原が延々と拡がる。Joplinより Missouri州に入ると、土地が起伏して丘も多く、くねくねと曲がる道のわきには農家、木立、畠も見られ人の気配が身近に感じられるようになった。6時に Rollaに着く。初めて夕食をモーテルのレストランでとる(ここは本格的なレストランだった)。着せ替えが大変だった上、子供達はよく食べず、行儀も悪いので落ち着かない。でも廻りの大人たちからはcuteと言われる。(アメリカ人は愛想よし、直美はよくbeautiful babyと言われた)。(七日目行程520マイルと旅行中最長)
間もなく側道にそれて20分程行った山のなかにMelamec Cavernがあった。大きな鍾乳洞で見事なものらしいが、時間がないので入らず St.Louisに向かい10:00 a.m. 到着。Missouri最大の都市で、さすがに賑やかだが、建物は茶か黒が多く古風な感じ。人々の服装も地味な色合いで、カリフォルニアとは大分違う。有名な Forest Parkに行く。黄、赤の紅葉が緑と混じり合って美しい。池に降りるとダックが沢山寄って来た。市内を回ってMississippi Riverの岸に出た。Show boatが幾艘もうかんでいた。アメリカ最大の川もこの辺では余り大きく感じられない。
12:00にここを出てMississippi 川を渡るとIllinois州になる。そして間もなくIndiana州に入る。道の両側に山が迫り、起伏した丘に牛、豚、羊の牧場があり、木立が黄、赤に紅葉して絵のように美しい農村風景。Indiana州のcapitalであるIndianapolisに4:45 p.m.着、雨本降りとなる。市の中心 Memorial Plazaを見物、無名戦士の記念碑、世界大戦記念堂など立派な建物と公園がある。市内のモーテル満員で、ひとまずdrive-in restaurantで夕食後、“vacant”の看板を探しながら進む。暗くなったので優理子が「お部屋あるの」と心配する。隣町 Cumberlandまで行きやっとモーテルに泊まれた。(八日目行程358マイル)
生憎の雨で時々激しく降る。ふと日本の秋の驟雨を思い出す。カリフォルニアでは実に雨が少なかったので。9:30頃 Ohio州に入る。美しい紅葉の農業地帯、cornの畠や、芝生のような畠もあった。 Daytonを経て Athensの町に至る。Ohio大学 を横に見てドライブ、Ohio Riverを渡ると West Virginiaの Parkersburgとなる。道は山に入りくねくねと続く。両側は赤や黄色のあざやかな紅葉、それに濃緑、浅緑が混じり素晴らしい色彩で野山が埋められている。こちらのもみじの木は空高く真っ直ぐに立っている。大木が多く葉も大きくて、燃え立つようだ。雨が激しくて写真が撮れないのが残念。 Clarksburgに 5:00 p.m.に着く。この町は南北戦争時代、華やかな舞台であったという。モーテルで夕食をとる。子供達が騒いで一苦労。(九日目行程373マイル)
今日も生憎の雨、迂曲した山道は紅葉で実に美しいが、霧が深くて先がよく見えずドライブは大変だった。写真を一枚も撮れず残念!道はWest VirginiaからちょっとMarylandをかすめ、またWest Virginiaになり、間もなく Virginia州に入った。 Washington D.C.のCapital Belt Wayを通って Bethesda のNIH に着いたのは1:00 p.m.と思ったら2時だった。(西と東で時差三時間、Indiana州以東では時差はなかったが、夏時間の設定は州により異なり、Marylandではまだ夏時間であった。一日が23時間となった。)飛田さんに会い、Dr.Cantoniの研究室に行き挨拶。飛田さんにモーテルに案内して貰う。長い旅を終えほっとする。皆元気で着き本当に幸いだった。入浴し久しぶりにさっぱりした。夜はモーテルのレストランで食事。飛田さん(東大)、近藤洋一さん(群馬大学)見え、この辺の事情について話を聞く。(十日目行程221マイル)
9時起床。同じモーテル内で、も少し狭くても安い部屋に換えて貰い、一日アパート探しに走る。飛田、近藤両氏協力してくれる。土曜日のせいもあろうが、大変な人出で、急に都会に来たようで驚く。Bethesdaは Washington D.C.に隣接する町で、車も混み、住宅は高くてなかなか適当なものが見つからない。
を見に行ったあと、疲労困憊で出歩く元気なく、いくつか電話で問い合わせるが思わしいものがない。子供達はモーテルの一室で過ごすはめになり、泣いたりわめいたり。
をする。銀行で口座開設。Cantoniの Lab のDr.Herzigが自分のアパートメントに空きがあると教えてくれた。早速見に行き、気に入ったので手続きしたが、すぐには入れない。NIHの掲示板を見て家具の売り立てを探す。
出かける。古くくすんだ町の中心にある Immigration OfficeでVisaの書き換えをした。手続きに二時間近くかかる。黒人の多い町だ。近くの公園に行き、車内で昼食後Bethesdaのモーテルに帰る。
NIH の飛田さんに預かって貰っていた荷物を受け取って来る。11:30 a.m.にモーテルを引き払い、皆でアパートに入る。広くてきれいなので大喜び。午後家具探し。NIHの掲示板に出ていた一軒に行く。故国に帰るインド人研究者が沢山の家具を安く提供してくれるので、これに決めた。ところが車に載せてみると多数のゴキブリが這い出してきたので、二人ともびっくり仰天。薬屋で殺虫剤を買い込み、家に入れる前に噴霧して、よく拭いてから運び込んだ。ダブルベッド、引き出し戸棚、食卓と椅子のセット、机、椅子など殺虫剤を十分にかけて、大きなクローゼット*に一週間閉じこめた。(このあとも連日の消毒、清拭は大変な苦労だった。)
LV : living room, K : kitchen、Cl : closet, Cr : crib, BR : bathroom, DB : double bed , SB : single bed
アパートはNIHの広大な敷地のすぐ隣にあった。4901 Apt.#2, Battery Lane, Bethesda Md.(3-bed rooms, utilityを含めて $167.5/mon.)。 子供達は旅行中狭いワゴン車内に閉じこめられ、遊びもままならず、座席の前後を移動して喧嘩をしたり、やたらキャンデーをねだったりした。Bethesdaに着いてからも5日間はモーテル暮らしで不自由だったのでストレスがたまったのか、すっかり我が儘になり聞きわけがなくなって困った。(ふだんは良い子供達で、それだからこそ、こんな大旅行を企てたのだが)。母は病弱なので心配だったが意外に元気で子供達の面倒見を助けてくれて幸いだった。なんとか落ちついたのは11月になってからである。
眞と萬里子互いに助け合って交替で運転し、途中で思いもかけぬ事故に遭遇しながら、ともかく無事で十日間の旅を終えることが出来た。振り返って見ると危険と紙一重のスリルに満ちたドライブだったが、今ではみな懐かしい思い出である。アメリカ版膝栗毛の全行程はAAAの地図で計算すると3183マイル(5120 km)であった。
(初版2004.6.10、 改訂版 2020.10.3)