人間の記憶は視覚によるものが圧倒的に多い。しかし聴覚による記憶も少なからずある。 “思い出のメロディー“ といわれるものはその例である。これについて私の場合をすでに書いた。ここでは嗅覚が記憶に関与する例について述べたい。
2021.2.11
私は小学校の3年生から6年生の間(1936~1939)、台湾の高雄市で過ごした。当時台湾は日本領であった。日中戦争が始まると、高雄市の発展が加速した。港には屡々海軍の軍艦が停泊し、飛行艇が離着水するようになり、街一帯は要塞地帯*に指定された。人口も増えてきた。そして私が6年生の夏、高雄市に初めてデパート(百貨店)ができた。呉服屋だった店が百貨店に進化したのである。学校の門を出て広い道路を横切った所にその店があった。“躍進高雄の新名所 吉井の百貨大売出し”という幟が翻った。 (*要塞地帯では写真を撮ると、要塞司令部に提出して検閲を受けなければならない。)
私は友達と昼休みに学校を抜け出し、吉井百貨店に出かけた。店に入ったとたん、「あっ、デパートの匂いだ!」と感じた。東京上野広小路の松坂屋が思い出された。吉井デパートは5階建て、建坪は松坂屋上野店の3分の1程度(?)の小さな店に過ぎなかったが、エレベーターが1機あり屋上まで行けた。私達は階段を駆け上り駈け下りして、エレベーターとスピードを競った。
この年の8月をもって私達は台湾を去って東京に帰ることになった。夏休みの最後の日、私は母と吉井デパートに行き、屋上のレストランでアイスクリームを食べた。港の埠頭の倉庫の向こうに、翌日乗る船のマストが見えた。
1939年9月1日、私達一家は大阪商船の貨客船屏東丸に乗って高雄港を離れ、東京港に向かった。この船中でドイツ軍がワルシャワを爆撃したと船長から聞かされた。第二次世界大戦の始まりであるが、我々の航海は穏やかだった。東京に着いて、池袋の小学校に登校した最初の日、作文の時間があり、夏休みの思い出について書かされた。私はこの航海と台湾の思い出を綴った。翌年3月、この小学校の作文集が印刷されて配られたが、そこには私の上記作文が選ばれていた!
デパートの匂いとは化粧品売り場の匂いだと分かったのは、再び東京に戻ってからだったかもしれない。どこのデパートでも化粧品売り場は1階にあるようだ。昔も今も。
デパートの匂いとは化粧品売り場の匂いだと分かったのは、再び東京に戻ってからだったかもしれない。どこのデパートでも化粧品売り場は1階にあるようだ。昔も今も。
私にはもう一つ臭いの記憶がある。それも建物に関連し、大学の入学試験に結びつく。
私が高等学校の2年の夏に、日本は戦争に敗れた。東京をはじめ多くの町が米軍の空襲で焼け野原になり、食料は不足、猛烈なインフレーションに見舞われた。私のいた武蔵高等学校も空襲の被害はあったが、さいわい教育施設はほぼ無事だったので、講義に差しさわりはなかった。しかし食糧難のため学校が機能しなくなった。1945年暮れから1946年の終わりまでに、何回も“食料休暇”を余儀なくされた。私は高等学校の寮にいたが、寮の賄いから、「明日からは食事を出せません」といわれる。田舎では食料が闇ルートで何とか手に入るので、地方出身の寮生は故郷に帰って食料を手に入れて帰ってきた。こうしている間に、大学の入学試験の時期が迫ってきた。以下当時の日記から拾って見る。
昭和22年
1月13日(月)雨暖 始業式。数学の授業あり。
1月30日(木)2月からの全官公庁のゼネスト、政府態度決まらずゴタゴタ。夕方千川の写真館に行って受験写真撮ってもらう。(ゼネスト下では写真も撮れないかと心配して)。
1月31日(金)マッカーサーがゼネスト禁止の指令を出した。
2月6日(木)米が遅配で、寮の賄いが外食券をくれる。(外食券食堂で食えと。)
2月8日(土)東大理学部の入試の模様大体判明。化学科は物理、化学、英語、ドイツ語で数学がない。募集人員は不明。
2月12日から15日まで最後の期末試験。
2月17日(月)大学への願書提出のため朝から学校に行き,結局一日つぶれる。
(以後受験まで毎日試験勉強が続く。屡々停電に悩まされ、ローソクが欠かせない)。
3月10日(月)大学入試始まる。初日身体検査、性病の検査もされる。(御殿下グランドの横の剣道場で)。化学科は4.5倍という未曽有の競争率なのに仰天。
3月11日(火)試験会場である化学教室の前に集まり、受験番号を呼ばれて建物に入る。この時独特の臭いを感じた。それが昔父の勤務していた理研の2号館の臭いと同じであることに気づいた! 多くの薬品のしみ込んだ、すえた臭いの建物!(理化学研究所は当時本郷駒込にあった。私の幼年時代、父はよく写真を撮ってくれ、それを理研の暗室で現像、引き延ばしをした。そこに私も連れて行かれた。そのため当時の理研2号館の臭いを記憶!)。
9時から11時半、化学教室の2階の端の200号教室の右端最前列の机で外国語の試験。問題を渡され、ドキドキしながら目を通したら、英語もドイツ語も知らない単語はない!これで落ち着いた。ただ和文欧訳に“米の供出云々”という文章が出てこれには困った。午後1時から4時半、物理試験。問題がひどく難しく、すっかり弱った。電気の問題と電子の質量については書けたが、力学、音、光学の問題についてはまともな答案にならなかった。(試験終了後、教室を見渡したら、誰も彼も顔を真っ赤にして疲労困憊の体であった。出来なかったのは自分だけではなさそうとも思った)。
3月12日(水)午後1時から3時半化学。問題はみなできそうなので、安心して存分に書いていたら、時間一杯になってしまった。
3月25日(火)発表の日。自信を失っていたので見に行くのが辛い。重い脚を引きずって 鉄門を入って行くと理学部掲示板の前に人が大勢群がっているのが見える。恐る恐る近づくと,そちらから同級のT君が歩いて来る。彼は私の方を見て変な顔をしているので、やはり駄目かと思ったら、すぐ近くまで来て急に「やあ おめでとう」と言った。瞬間 気が抜けて呆然とした。「君の態度からてっきり落ちたのだと思ったよ」と文句を言ったら、「自分は目が悪いから近くに来るまで君だと分からなかったのだ」と弁解した。急に元気になって掲示板を覗いたら、真っ先に自分の名前が目に入ったのも妙だった。化学科の合格者30名の中に、同級の遠藤明太郎君と松尾禎士君の名もあった。T君は工学部冶金学科に合格していた。
化学教室に出入りするようになってからは、その臭いを特に意識しなくなった。しかし忘れたわけではない。それ故この文がある。
(写真:上から、日本統治時代の高雄港(https://www.twmemory.org/?p=4473https://www.twmemory.org/?p=4473から借用)、高雄駅、吉井百貨店(片倉 佳史氏の「高雄 (2)―台湾の産業と経済を支える港湾都市」https://www.koryu.or.jp/Portals/0/images/publications/magazine/2016/8/08_02.pdfから借用)
以上
2020.5.13
菊池韶彦さん、池田加代子さんからのメールでの通報をうけて、Natureの4月15日号を読みました (1). R型ピオシンの立体構造をペプチド・レベルで表していて見事なものでした。こちらの理解できるレベルを超えているので、ただ感嘆するのみでした。動画もあるのには脱帽。 しかし私達がずっと昔に研究したものが、なぜ今頃取り上げられているのか、疑問になって、あの論文に引用されている文献のいくつかに当って見ました。(2,3,4) そしたら意外なことが分かりました。
私たちは当初から、R型ピオシンの殺菌効率が極めて高いことを認識していました。殺菌作用を調べてみると、一粒子のピオシンが一匹の感受性緑膿菌を殺しうることがわかりました。(それまで知られていたコリシンなどで、殺菌作用をしらべると、数十分子が必要になります。)
その殺菌性に注目して、ピオシンを改変して、ほかの菌を殺せるようにしようとしているのです。ピオシンが感受性菌に吸着するのは、末端にあるファイバーが感受性菌の表面にあるリセプターを認識するからです。そこでファイバーを取り換えれば他の菌を殺せるのではということです。大腸菌のファージの遺伝子からそのファイバーの遺伝子を取り出し、ピオシンのファイバーの遺伝子と結合させます。この時できるファイバーはN末端がピオシンの、C末端は大腸菌ファージのものにしたそうです。そうしてできたものの中に、大腸菌をよく殺すものがあったのです。ペスト菌を殺すものも出来たそうです。これらの中には食用肉から有毒性大腸菌を除去するという実験に成功したという例もありました。抗生物質よりはずっと有効というのですが、高価につきますよね!
1)の論文では、私と池田さんの論文しか引用されていませんが、2)、3)、4)には私達の論文が東大時代から生命研時代まで多数載っています。昔の業績が生き返ったのか、不思議な感慨を覚えます。眼が悪くてPCで英語論文を読むのに苦労しました。
1. Ge, P., et al., Nature vol. 580, 658-662 (2020)
2. Scholl, D., et al., Annual Rev. Virol. vol. 4 453-467 (2017)
3. Scholl, D., et al. , Antimicrob.Ag. Chemother. vol.53, 3074-3080 (2009)
4. Williams, SR., et al., Appl. Emviron. Microbiol. vol. 74,3868-3876 (2008)
去年私は「生命研同窓会に思うこと」という文を書いて、私のホームページに載せました。その中で、あるアメリカ人研究者が緑膿菌のピオシン-ミュータントを探しているという話にふれました。それは大隅、四宮、景山が1975年に発表した論文に載っているピオシン変異株でした。その株は残念ながら失われていましたが、それを探していた方は下記の論文1)の著者のひとりでした。
(この図は、Nakayama, K., et al., Mol Microbiol. vol. 38(2) 213-31 (2000) から [PubMed] [Google Scholar])