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タイトル写真:『横河橋梁工事史』より
隅田川の第一橋梁であった勝鬨橋(かちどき ばし)は,1940(昭和15)年6月に竣工しました。
ユニークな橋で,かつては橋が開いていました.しかし残念ながら,昭和45年以来"あかずの橋"になってしまいましたしまいました。
完成当時は東洋一の規模をほこり,わが国最初のシカゴ式二葉の跳開橋として知られていました.二葉とは,両側に「ハ」の字にひらく橋桁を,かろやかな 葉っぱにたとえた優雅な表現です。
戦後,アメリカ軍がこの橋を見たとき,日本人が設計・施工したことを信じなかったそうです.近代史としても技術史としても,大変価値ある橋なのです。
もし現在,この橋を動かすことができれば,世界の橋の中でも,指折りに大きな「動く橋」になります.毎年の定例行事にすれば,東京の活性化,隅田川国際 観光の大きなシンボルにもなります。
それは橋の動態保存にもなり,世界的にも貴重な事例になります。
わたしたち「勝鬨橋をあげる会」は、国の重要文化財に指定(平成19年)される以前から、橋の保存のあり方や利活用についてみんなで話し合い、「跳開」した勇姿を再び見ることがで きるように・・・と活動を続けているグループです。
先人の残したこの橋をもう一度よみがえらせたい・・・・それがわたしたちの願いです。
「勝鬨橋をあげる」ことについて考える
歴史性
勝鬨橋は、かつては東京の隅田川の一番下流にある橋(第一橋梁といいます)で、1940(昭和15)年に竣工しました。この年は「紀元二六〇〇 年」にあ たり、国をあげていろいろの行事が計画されました。なかでも東京オリンピックと万国博覧会の開催は、日本の威信と躍進ぶりを、国の内外に示す国家的イベン トとして取り組まれました。
東京オリンピックおよび万国博覧会の会場予定地は晴海・有明・東雲および豊洲の一部で、勝鬨橋は、その幹線交通路(晴海通り)にあたり、会場へのメイン・ゲートとして位置づけられました。また船で来る人には、“歓迎門”の役割を期待されました。しかも勝鬨橋は、デビューにふさわしく、 当時のハイテク技術の粋を集めた可動橋でした。だが、これらのビッグ・イベントは、日中戦争がはげしくなったため中止、橋だけが完成しました。
橋の開通式は昭和15年6月14日。開通式には橋の長久を願って、ふつう親子三代による渡り初めがおこなわれるのですが、勝鬨橋ではさらに開いた橋の下 を船でくぐる“くぐり初め”もおこなわれました。
しかし、戦後の高度経済成長によるモータリゼーションにともない、橋が開くと交通渋滞をおこすことから、昭和45年を最後に橋の開閉はやめられ、開かずの橋になりました。
勝鬨橋は、日本の近代史・現代史を語る上で欠かせない橋であり、平成2007(平成19)年に国の重要文化財に指定されました。
(※紀元二六〇〇年:日本神話の天皇の暦年を戦前の皇国史観にもとづくと、1940年が神武天皇以来2600年になることから、昭和15年を「皇紀二六〇〇年」として、全国的に盛大な祝典が催されました。)
近代橋梁史
日本の橋梁技術は、関東大震災後の震災復興事業を機にようやく自立し、事業が終了すると担当部局であった内務省の復興局は解散、各技術者はもとの職場に もどったり、あたらしい橋梁技術の指導のために各地へ散らばりました。しかし東京市の技術者たちはそのまま在職したので、東京市には最新の土木技術を会得した技術者集団がいました。
勝鬨橋の跳開部分の設計者は、安宅(やすみ)勝。娘さんにあたる田中ルリさんの話によると、勝鬨橋の架橋計画がもちあがったとき、アメリカン・ブリツジ 会社から援助の申し出があったそうです。しかしそれを断り、日本人の手で設計・施工をおこなったのが、勝鬨橋です。シカゴの橋をモデルにつくられたので、 シカゴ・タイプの二葉の跳開橋といわれ、当時東洋一の規模を誇りました。(注:わたしどもの調査で、勝鬨橋より大きな海珠橋(1933年)が中国につくられていたことが判明(ponte46号,簡佑丞論文参照)。二葉とは、両側に「ハの字」に開く橋桁を、軽やかな葉っぱにたとえた優雅な表現です。
可動方式ではいくつかの特許がとられ、可動橋の技術では、当時世界の最先端の設計でした。ふたつの橋桁が開くとき、シカゴの橋はバラバラに開閉することがあるのですが、勝鬨橋では、二つの橋桁がそろって開き、そしてまた閉じるように工夫されました。日本人の美意識が反映されたともいえます。
また橋上には市電が通るので、軌道が敷かれていました。橋の開く中央部では、レ―ルが切れていると、市電の乗り心地が悪く、しかも橋にも衝撃荷重となっ てよくないので、レールの一部が伸縮して連続する装置などを考案したのです。
これらの成果が「技術的に優秀なもの」として評価され、2007(平成19)年6月に国の重要文化財に指定されました。
勝鬨橋は、震災後につくられた東京の橋を代表するとともに、近代につくられた可動橋の金字塔であることがわかります。
橋の動態保存
勝鬨橋は、ふつうの橋とちがい、動く橋でした。全国には道路橋だけで十万をこえる橋があるといわれていますが、可動橋は全国的にみても数はたいへん限ら れています。今から数年前ですが、明治以降現代までどのくらいの数の可動橋がかけられたのかを調べたことがあります。架け替えられたり、取り壊されたりし たものをふくめても100橋前後しかありませんでした。そのうち近代につくられた可動橋で、現存(動く・動かないを問わず)するのはわずかに6橋、また 動くのは3橋しかありません。
勝鬨橋は現在、動きませんが、手入れをすれば動かすことができるのです。機械類は錆が出ているのでオーバーホールし、電線類は潮風でやられてしまったの で、配線しなおせばよいのです。モーターは修理はできますが、維持管理が大変なので、そのまま保存し、あたらしく小型で性能のよいものにすればよいのです。
「動態保存」とは、ただ単に橋を保存するのではなく、当時のように動く状態で保存することをいいます。わたしたちは、それをめざしています。
2007(平成19)年6月、勝鬨橋は国の重要文化財に指定されました。指定理由は「技術的に優秀なもの」でした。近代における動く橋としての価値がとくに認められ たものです。それゆえ、現在および将来までも、記念物扱いではなく、「動いている姿の重要文化財」と共に暮らしていくことこそ、保存の意義があると強く主張します。
下町の活性化
多くの人たちは橋が動くなんて余り考えたことがないと思いますし、可動橋が少なくなったことを考えると動く橋を見る機会も限られると思います。勝鬨橋が再 び動くようになれば、下町のみならず、東京にとっても大きな観光名所になります。
伊東孝 (「勝鬨橋をあげる会」代表・元日本大学教授)