序文
法然上人、親鸞聖人におかれては、「ただただ、阿弥陀仏の「南無阿弥陀仏」と称える者を極楽へ迎えるというお誓いを深く信じ、阿弥陀仏にお任せし、念仏するだけなのです。」と申されました。これが、本願念仏です。
しかしながら、煩悩に眼を遮られた疑い深い私には、「自身のはからいを捨てて、阿弥陀仏にお任せする」という意味が身をもって、理解できませんでした。そこで、先を行く念仏同朋の先輩方の著作に学び、自身の考えをまとめ、畏れ多くも、改めて法然上人、親鸞聖人が説かれた教えを整理し、学び直します。
まず、①宗教とはなにかについて触れ、次に、②仏教の概論を述べます。その後、仏に成りたいと思うきっかけになる③世界の不条理について記し、本願念仏宗の理解の前提となる④因縁果の道理、⑤宿業、⑥凡夫について、認識を共有します。
そして、本願念仏の核心となる⑦阿弥陀仏とはなにか、⑧念仏とはなにかを理解し、⑨信心を獲得する過程を整理します。
最後に、⑩念仏者の生き方を説き、大乗仏教として外すことが出来ない、⑪慈悲の実践について、私見を含めて述べさせていただきます。
五濁悪世の世においては、最も尊い念仏の教えすらも、龍宮に隠れてしまっているようです。自身、また同じく念仏の道を行く者のため、ここに本願念仏宗の教えを記します。
本願念仏宗 慈恩庵 庵主
念仏者 釈 和大
人はだれしも、自分が主人公で、自分なりの意味や目的を見つけながら、生きています。いわば、自分なりの「小さな物語」の中を生きているのです。ですが、この世界では、突如として、常識では解決できない苦しみや不条理に直面することがあります。その時に、時間や空間といった常識的な考えを超越して新たな視点を提供し、自分の人生の意味に納得できるようにする「大きな物語」。それが宗教の本質です。
また、多くの人が勘違いしていますが道徳と宗教は全くの別物です。道徳とは、人格を高めて、規律、集団社会への愛着、自律心を育て、人生の目的を達成する手段です。しかし、宗教とは、それ自体が人生の目的、生きる道となります。
自分の人生に、心底納得し生ききる道を示す大きな物語、それが宗教です。だからこそ、信じない人にとっては、神や仏はどこにもいませんが、本人が信じれば、主観的事実として、神仏は必ず存在するのです。
仏教は、およそ二千五百年前にインドで、ゴータマ・シッダールタ(釈尊)が、人生に付きまとう生老病死といった苦しみから抜け出して、真実に目覚めることを目的として説いた教えです。初期仏教では、自分一人が真理に目覚め悟ること(仏になること)を目的にした修行者のための教えでしたが、時代の求めにあわせて、修行者以外の在家信者も含む、全ての生命を救うことを目的とした大乗仏教が成立し、様々な仏が生み出されました。
ですから、釈尊以外の仏については、実在ではなく、人間の切実な要求によって生まれた象徴的な存在というわけです。本願念仏宗の聖典である無量寿経が説く、阿弥陀仏は、四十八の願いを誓われたとおり、人間の本質的な願い(悲願)の象徴として捉えられています。
一般的な、仏教では、生命力に自発的な誓い「戒」で方向性を与え、方向性を与えられた生命力により、精神を統一して心を一定にする「禅定」という状態になり、物事の関係性の全てを知る「智慧」を手に入れる「三学」というプロセスを経て、苦しみから解放され、仏になり慈悲を実践していくことが基礎となります。
しかし、本願念仏宗では、三学すらできない凡人が、どのようにしたら仏になれるかを極限まで、簡略化して突き詰めた教えが説かれますので、読み進めていきましょう。
この世界は大変に不条理です。例えば、世界の上位26人の資産合計額が、下位半数と同額である(オックスファム・ インターナショナル 2019.1.21報告書)と言われています。また、日本の貧困率は15.4%(厚労省 令和4年国民生活基礎調査)と言われ、先進国最悪となっています。おおよそ6.5人に1人が相対的貧困というわけです。そして、世界中で争いが絶えることはなく、ロシアやイスラエルによる戦争は終わりません。
このような社会の不条理は、人々が解決に向けて取り組んできましたが、糸口を見つけることすらできていません。もし、志があっても、利害関係や既得権益によって、阻まれてしまっています。
もちろん、個々の人生における不条理にも苦しみます。死はどんな人にも平等に訪れ、私も貴方も、この世界に生まれたので、必ず死にます。また、真面目に努力しても報われることは多くありませんし、なんの前触れもなく突然、病気になることもあります。大切な家族が亡くなることもありますし、更には、人に裏切られたり、災害にあったりすることもあります。このように、どんなに辛く苦しくても、生きていかねばならず、体も心も、ボロ雑巾のようになりつづけてしまいます。
もし、これらの不条理を解決できなければ、世界にも自分にも絶望し、なぜ生まれてきたのか、人生の目的は何かと人間の根本について、考えざるを得ない時が必ず訪れます。
ですが、これらの問に通常の常識の範囲では答えを与えてくれることはありません。そのため、多くの人が、答えを求めなかったことにして、やり過ごすか、どうにもならないこととして、棚上げし先送りにするという対応しかできません。
ここに、一筋の道筋を与え、人生のよりどころになるのが宗教の教えというものなのです。
これから話を進めるうえで、避けて通ることができない仏教の言葉について、認識を共有できればと思いますので、少々お付き合いいただけますと幸いです。まずは、仏教が教える「因」「縁」「果」の道理についてです。
「因」とは、物事の直接的な原因のことです。分かりにくいかと思いますので、花が咲くことで説明いたしますと、「因」は花の種だと考えていただければと思います。
次に、「縁」ですが、直接的な原因を取り巻く無数の間接的な原因のことです。花が咲くことに例えると、水、日当たり、気温、土・・・等々数えることができないほどの周りの環境になります。人間が生まれることで例えたならば、受精卵が「因」で、両親の出会いや両親が生まれてくる原因となった祖父母の出会い、はたまた生まれてくる時代や家庭状況そういった無数の要因は、すべて「縁」なのです。
最後に、「果」ですが、こちらは結果になります。種という直接の原因である「因」と、水や日当たりといった無数の環境要因である「縁」が合わさることで、結果として、花が咲きます。そして、この花も、なにかの「因」や「縁」となって、無数に網目のように繋がっていくことになります。
このように、あらゆる事象は、因縁果が重々無尽にはたらいて、網目のように絡まりあうことで成り立っています。仏教でいう「智慧」とは、この因縁果という網の繋がりを、すべて理解することをいうのです。そして、因縁果をすべて知ることが「悟り」であり、それを見通す存在が「仏」なのです。
ですが、残念ながら、仏ではない私たちが認識できているのは、一部分のみであり、因縁果の事実関係が見えてません。だからこそ、思い通りにならず苦しみに悩まされるのです。
さらに悪いことに、この道理を理解できない私達は、自分があらゆることを自由に決められていると勘違いし、自分の都合の良いように物事を歪めてしまいます。このような色眼鏡を外していくことが最も重要なことなのです。
宿業とは、過去の行為のことです。「宿」が過去、「業」が行為を意味します。現代では、たった一度の人生なのだから大切にしようと言いますが、仏教では、「生き死に」を何度も重ねて迷いの世界を彷徨い続けていると考えられています。
ここでいう宿業も、今の自分が生まれてくる前からの無数の行為の積み重ねと無数の他者との関係が複雑に絡み合って生じた結果として存在しているということを教えています。もし、分かりやすく言い換えるならば、自分自身ではどうしようもない個性といったところでしょうか。
私達の行為というのは、自分の意志で決めているように見えますが、実際には、自分の意志だと思っているのは、氷山の一角であり、目に見えない遥か過去からの行為の積み重ねの結果として、今、現れてきただけなのです。
だからこそ、道徳的に善いことをしようという心が起こることも、悪いことをしようという心が起こることも、すべて宿業がはたらくためであり、自分の意志でコントロールできているのではありません。善いことをしようと思うから、善行ができるのではありませんし、悪を犯すまいと決意するから悪行を免れているのではありません。
ただし、宿業とは、自己を内省するための自己認識の手法であり、決して他者の不幸の説明や悪事を正当化する論理ではありません。決定論や運命論のような形で安易に使うことのないように注意が必要となります。
仏教が教える「凡夫」とは、修行により煩悩を完全に滅ぼすことが出来ず、仏になることが出来ない人のことを言います。一般的に使われる平凡な人を指し示す使い方とは異なるため注意が必要です。同様に、仏教で凡夫と似た形で使われる「悪人」も、仏と比較した時の人間の在り方を示す用語であり、仏になれない人間を言います。
ところで、煩悩とは、一体どのようなものなのでしょうか。一般的に言われる金、酒、男女関係、名誉、ギャンブル等々あげていけば終わりがないかと思いますが、総括すれば、自己へのこだわりや執着心ではないでしょうか。つまり、言い換えれば、他人への優越性を求め、自己拡大しようとする自己中心性にとらわれて、欲望が総動員される姿なのです。
この煩悩にとらわれて、絶対に自身の力(三学)では、仏に成ることができない存在であると気づき、自覚したその時、自身が凡夫であり、悪人であると認めることができるのです。
現代では、「主体的な生き方」が求められています。主体性を持つと聞くと、良いことばかりに思いますが、見方を変えると、我を張るエゴ中心の生き方ということです。自己の欲望を、手段を問わずに追及していくことが資本主義経済という風潮の中で、もし、自分が失敗しても、他人や時機(タイミング)のせいにしているのではないでしょうか。
そのような時代では、自身が凡夫であるという認識が生まれることは難しいです。自己中心であることによって生じる摩擦・軋轢・悲劇を逃げずに、正面から見つめていく覚悟を持つことが必要になります。
阿弥陀仏は、無量寿経という物語の主人公です。その物語によれば、元は一人の人間の国王でした。遥か昔、その国王が、世自在王仏という仏の説法を聞いて感動し、自身も仏になりたいと思い出家するところからはじまります。王は、法蔵と名乗り、人々を救済するため四十八の願いを立てられて、常識では考えられない長い長い時間をかけ修行され、やがて、願いを成就し、すべての人を救済する方法を発見し、仏になりました。これが、阿弥陀仏の願いを説く無量寿経の簡単なストーリーです。
阿弥陀仏は、真理の象徴であって、形や色や重さがある存在ではありませません。だからこそ、表面上の文字だけでなく、この経典の作者は、この物語を通じて、どのような真理を伝えたかったのか、それを意識しながら読み進めていくことが重要になります。
まず、名前から探ってみましょう。阿弥陀仏とは、古代インドのサンスクリット語で「アミターバー」(限りない光)、「アミターユス」(限りない生命)の意味を掛け合わせた造語です。「ア」は否定の接頭語であり、「ミタ」は限界や量という意味です。ミタは、英語のメーターの語源でもあります。この2つを合わせた「アミタ」は、「限界の無い」や「量に限度がない」という意味になります。ここに、光という意味の「アーバ」と、生命という意味の「アユース」がくっついてできた言葉です。この言葉が、中国に入ってきて漢訳されると、それぞれ、無量光、無量寿と訳されました。
このように、阿弥陀仏とは、この宇宙に生き続けている際限なく広がる「いのちの光」のことなのです。では、「いのちの光」とは何か。それは、自然科学的な真理とか事実というメカニックな冷たいものではなく、生きとし生けるものすべてを救いとろうとする慈悲であり、迷妄の闇を破る智慧の光なのです。
次に、当時の時代背景を見てみましょう。阿弥陀仏が主人公である無量寿経という物語の成立については、諸説ありますが、おおむね西暦紀元前後から二世紀初めごろのインド北西部から中央アジアであるといわています。この時代のインドは、インド初の統一王朝であり、仏教を保護したマウリヤ朝が紀元前2世紀後半に滅亡し、数百年にわたる暗黒の時代でした。無量寿経の本質が、法蔵が誓う四十八の願いであるように、悲惨と絶望という時代の要請を受けて、阿弥陀仏は「希望の仏」として登場したのです。
国王が菩薩になり、仏になろうとするのは、四十八の願いを成就するためです。まさしく、人間が実現困難であるが、それがなければ生きていけない願い(悲願)を実現するためなのです。つまり、人類が蓄積してきた悲願が成就し、阿弥陀になったのです。
実際に、法蔵菩薩が誓った四十八の願いを大きく分けてみると、以下の3つに分類することができます。
①現実の人間の恐怖心に応え、その恐れを除く願い。例えば、第一願では、「怒りと憎しみに満ちた地獄、貪欲な餓鬼、無知な畜生というような迷い苦しむ存在はいない」、第三十八願では、「衣服の自由な入手」等が誓われています。また、無量寿経の下巻では、食や住といった生存の制約から解放を説かれています。
②浄土に生まれるものの平等性を説く願い。例えば、第三願では、「すべての人々の体が金色に輝く」、また、第四願でも、「すべての人々の姿は異なることなく、美しいものも醜いものもない」と重ねて誓われて、絶対の平等が説かれています。
③慈悲の自在な行使を可能にする願い。例えば、第五願~第九願では、神話的な過去世を知る能力、遥か遠くを見通す能力、あらゆることを聞き取る能力、他者の心を知る能力、瞬時に移動する能力を得ることができると誓われています。これらの力を使って、諸仏を供養したり、現世に菩薩として戻り、自由にあらゆる生命を救ったりすることができると説かれています。
このように、どの願いを取ってみても、実現を容易に期することはできませんが、法蔵は神話的な時間をかけることで、願いを成就し、阿弥陀仏になりました。不条理に絶望し、すべての手段を絶たれた人間にとって、大きな励ましを与え、最後の手段を保証する仏なのです。
ところで、阿弥陀仏がいらっしゃるという西方極楽浄土とは、いったい、どんな場所なのでしょうか。経典によれば、ここから遥か、十万億の仏の住む国土を隔てたところにあると説かれています。金、銀、瑠璃、珊瑚といった美しい宝石の大地が広がり、池には黄金の砂が敷き詰められていて、迷いの心をやわらげるそよ風が吹いている夢のような世界です。間違いなく素晴らしい世界なのですが、どこか即物的で物悲しさを感じてしまうのは私だけでしょうか。また、仏教とは、欲望を抑え、コントロールし、捨て去っていくことが理想であるはずです。
では、なぜこのような形で説かれているのでしょうか。実は、このような黄金や宝石や美しい音楽があるところが極楽なのではなく、何もないのにあるように思える境地に導くために作られた話(方便)なのです。
極楽とは人間にとっての最高の境地なのですが、最高の境地を示すのに、抽象的な観念によって哲学的に説いても、一般の庶民には通じなかったのです。だからこそ、まずは、この娑婆世界で最高のものを選んで関心を向けさせて、真理に導こうとしたのです。
経典で説かれる西方に十万億もの仏国土を過ぎたという比喩は、この世界を生きる上での尽きることのない苦しみや不安を果てしない距離で表現していると考えられます。現実の自分と仏という存在の絶対的な隔たり(ギャップ)がここに表れています。他方で、経典では、「今現在説法」(今、現にましまして法を説く)とも説かれています。まさに今、阿弥陀仏は、他の誰でもなく、悩み苦しむ私自身のために法を説き続けてくれていると教えてくださっています。この限りなく遠いようで、限りなく近くにいらっしゃる存在が阿弥陀仏なのです。
また、親鸞は、真実の浄土(真仏土)とは、無量の光明に満ち、智慧に満ちた境地であると説いています。つまり、因縁果の道理を離れた不生・不滅の永久不変(無為涅槃)の世界、煩悩を離れた悟り(寂滅)の境地であり、悟りの世界です。阿弥陀仏の願いを信じ、気づかせてもらう悟りの世界が浄土であり、そう信じ得ることができれば、この穢土がそのまま浄土であると感じられます。これが阿弥陀仏の極楽浄土なのです。
本願念仏宗が説く念仏とは、一般に思われているように、死者の安楽を願うものでもなければ、罪を消し去ったり、福を呼び込んだりする呪文でもありません。
私達の念仏とは、自身の本質を自己愛に満ち溢れた自尊心の塊と知り、とても戒律を守ったり、修行をしたりすることができないと自分自身の本質を認識した凡夫に対して、阿弥陀仏が与えてくださった仏になる(真実に目覚める)ための最後の手段です。阿弥陀仏は、四十八の願いのうち、十八番目に「わが名を称するものは、いかなる人間であっても、かならず我が浄土に迎えとって仏にする」という誓いを立てられて実現しました。この誓いを信じ、自身のはからいを捨て、ただただ名を口で称える行為が念仏なのです。
では、阿弥陀仏は、なぜ名を称えるということを条件にしたのでしょうか。法然によれば、阿弥陀仏の平等の慈悲心のあらわれだといいます。例えば、智慧が条件であれば、愚かなものは仏になれない、戒律を条件にすれば、破戒のものは浄土に縁がないことになります。もし、仏像や寺の建立を条件にすれば、貧乏なものは救われなくなります。だからこそ、極限まで単純化し、名を称えるという最もシンプルで、誰にでも実践可能な方法を条件にされたのです。
世間の一般常識に照らし合わせれば、凡夫や悪人には、それ相応の待遇が用意されているのが当然ですが、仏教の慈悲においては、極悪最下の人間を救うには、極善にして最上の教えが必要です。だからこそ、阿弥陀仏は凡夫である私のために、最上の念仏という教えを与えてくださったのです。
また、中国の宋代の僧侶である元照は、「阿弥陀さまは、名をもって、人々と交わる仏さまです。だから、耳に聞き、口にだして称えると、阿弥陀さまの尊い功徳(真理)が私たちの心の奥底に届いて、いずれ仏になる種となってはたらくのです。」と説明されました。日常生活で気づくことはありませんが、「南無阿弥陀仏」と称えることは、阿弥陀仏が、仏になるための種を私の深層意識の奥底に植えつけていることなのです。そして、煩悩の巣窟である肉体が亡んだときに、完全な仏として、芽を出すのです。
ところで、このように説明すると仏になることは、死後のことと考えるでしょう。しかし、すでに、私たちの心には、種が植えられています。人によって、生育状況の差こそあれ、すでに発芽に向けて準備は始まり、少しずつですが根が出ているかも知れません。つまり、阿弥陀仏の本願に基づいて、念仏を称えることは、仏となる道筋(仏道)を歩むことそのものなのです。
本願念仏宗は、Ⅰ不条理や矛盾ばかりの世界に向き合い、Ⅱ人間の根本について問い、Ⅲ真理への憧れを抱き、しかしながら、自己中心性の色眼鏡によって、Ⅳ自らの努力では自分自身を根本から救うことができないと知り、絶望の中で、Ⅴ阿弥陀仏の物語に出会い、Ⅵその物語に納得し選びとり、Ⅶ念仏をして仏になる道を歩み、Ⅷ慈悲を実践するというプロセスを教えるものです。
ここで要になるのが、物語に納得することです。私が、物語に納得し、選びとる決断をすることが仏教の教える「信心」です。信心は、どこまでも阿弥陀仏の誓願を信じようとする決断があってこそ、初めて成立します。法然から親鸞へと伝えられた本願念仏の精髄が記されている歎異抄によれば、「本願を信じ、念仏をしようと決断するとき、阿弥陀仏は直ちに私の決断を御覧になって、私をおさめ取って、迎えとってくださる」と教えられています。
しかしながら、本願を信じることほど難しいことはありません。本願を素直に信じることができるかは、ひとえに、自らを罪悪深重の煩悩熾盛(しじょう)の凡夫と受け取ることが出来ているか次第です。
自分がいかに自己中心性から免れがたい凡夫であるか。その故に、はるか昔より、今まで迷いの世界を流転してきたのであり、今後も永遠にこの迷いの世界を繰り返していくしかないという痛烈な自己認識を経て、初めて、阿弥陀仏の願いが私のためにあったのだと納得し、信じることができるのです。そうすれば、本願念仏という教えが私の生きる根拠となるのです。
はじめに申し上げると、念仏をしても仏教が説く因縁果の道理から逃れることはできません。ましてや、災いを避けて、福を呼び込むようなこともできません。念仏をするとは、ただただ仏道をひたむきに一歩ずつ歩き続ける姿なのです。
繰り返しになりますが、どのような存在も、仏教が説く、因縁果の道理から決して逃れることは出来ません。そのため、親鸞は、この姿を「業報にさしまかせて」と表現されています。「業」とは、行為を指し、「報」とは、結果や報いを指します。業報とは、自分がした行為の結果が自らに返ってくることをいうのです。つまり、良いことも悪いことも、遥か過去から続く自身の行為の結果として現れたものなので、それを受け入れながら、生きるしかないと説かれているのです。
我が身を襲う不幸も、過去の行為が様々な形ではたらいて、結果として現れたものですから、逃れることはできません。ですが、もし、本願念仏の教えと出会い、阿弥陀仏の物語に納得して、信じることができているのであれば、そもそも、自身が正しい行いをするか、悪いおこないをするかを自分で選べるものではないこと。ましてや、自分本位な姿から逃れることができない凡夫であることを理解しているでしょうから、様々な形で現れる過去の行為の結果に、心を揺さぶられることは少なくなります。そして、心に余裕が生まれてくる。余裕が生まれてくれば、凡夫なりの主体性と精神の自由を得ることができるのです。
親鸞は、このことを「念仏する人は、金剛心(ダイヤモンドのような堅い信心を受け取る」と教えられています。また、親鸞は金剛心を得ることは、必ず仏となることの決まった正定聚という菩薩と同じ位だと表現されて、弥勒菩薩と等しいと言われています。ここに至ることができれば、①自分を中心に見る状況を脱して、自他を平等に見る智慧。②自分を基準にして他者を評価することを脱して、他者との違いを客観的に認識し、人と人との違いがはっきりとわかる智慧。の二つを少しずつ手にすることができるはずです。
言い方を変えれば、自分という存在を離れ、一瞬でも阿弥陀仏の視点に立って、物事を考えることができるようになるということです。難しいことは、やめにして、一言でいえば、あらゆる制約がある中ではありますが、少しでも客観的に他者を思いやることができるようになっていれば、それは念仏のおかげといえるでしょう。念仏者は、業報にさしまかせながら、それぞれのスピードで、一歩ずつ仏道を歩んでいくのです。
大乗仏教では、仏になって、何者にも遮られることがなく、智慧とそれに基づく慈悲を行使できる自在な存在になることを目標としています。慈悲を実践することにつながらなければ、仏教ではなく、ただの哲学(考えることを考える)的な知識の探求でしかありません。ところで、慈悲とは、どのようなものなのでしょうか。
道徳でいう、慈悲・思いやり・人情とは、自分の立場から、他者の苦しみを推し量り、救うための手段を考えることですから、苦しみの本質を見つめないまま、自分の基準で考えて他者に施します。だからこそ、どうしても相手と齟齬が生じてしまい一貫した行為をすることができません。
それに、比べて、仏教の慈悲とは、「慈」は友愛。特定の人への友情ではなく、すべての人々に平等に友情を持つこと。他者に安楽を与えること。「悲」は悲しい気持ちをともにすること。他人に対する憐れみ、同情することです。慈悲は、「与楽抜苦」ともいわれ、苦しみを抜き取り、安楽を与えることと説明されています。
苦しみを抜き取るためには、苦しみの原因を見極めなければなりません。つまり、因縁果の道理を理解する智慧をもつことが必要になります。言い換えれば、智慧の最高のはたらきが慈悲であり、慈悲とは、智慧を持つ仏が衆生に施す行為になります。
念仏をするということは、阿弥陀仏が心の奥底に入ってきて、仏になる種を植え付けることですから、念仏者は仏になる道を歩んでいるということです。ですから、もちろん、仏のような完璧な慈悲は期待することはできません。むしろ、道徳的な慈悲にとどまることが多いかも知れません。ですが、挫折に挫折を重ねても、仏となる道を歩むと決断した以上は、たとえご都合主義で矛盾に満ちた慈悲心であったとしても、凡夫なりの力を尽くして実践していくしかないのです。
人は、一人では生きていけません。ですから、人との繋がりが、いかに尊く、大切であるか知っています。一方で、他者を蹴落としてでも、自分の欲望を実現したいという自己中心性や他人への優越性を求めることから逃れることは出来ません。
ですが、悲願の象徴である阿弥陀仏の物語を聞き、念仏する人は、阿弥陀仏の人間に対する絶対的な平等性と、それぞれ背負う十人十色の業縁に基づいた個性を認める慈悲心の片鱗を手に入れることができます。だからこそ、たとえ、何度挫折しても、あらゆる命を大切にしようという思いが持続していくはずです。ここに念仏者の慈悲の本質があります。
残念ながら、仏道を歩んでいる最中の私たちには、それぞれの進み具合に応じた僅かな慈悲の実践しかできないかもしれません。また、日々の暮らしだけで精一杯であることもあるでしょう。ですが、念仏を称えれば、かならず何らかの慈悲心を生むはずです。
本願念仏の精髄が記されている歎異抄の結文では、親鸞の二つの語録が記されています。少し長くなりますが、引用させていただきます。
一つ目は、 「阿弥陀仏の、きわめて長期間にわたって思惟された願いは、よくよく考えてみると、ひとえに、私、親鸞一人のためなのであった。そう思うと、多くの悪業に縛られたわが身であったのに、その身を助けようと思い立ってくださった本願のなんとありがたいことか。」であります。
これは、自分自身が悪業をもつ身であり、自らの力では自分を解放することができないという痛切な自覚をもったうえで、そのような極悪最下の私だからこそ阿弥陀仏の慈悲は決して、私を見捨てないことを表現された言葉だと考えています。
自分自身が、いかに自己中心から免れがたい身であり、その故に、遥か昔より、迷いの世界で生死を繰り返してきて、今後も流転するしかないという自己認識を経て、はじめて阿弥陀仏の物語に納得することができるのです。
二つ目は、「善悪の二つについては、私はまったくわきまえるところがありません。なぜならば、阿弥陀仏がよいと思われるほどに、よいことを徹底的に知っているのであればこそ、善を知ったということになるでしょう。また、阿弥陀仏が悪いとお知りになるほどに、悪を知り尽くしているのであればこそ、悪を知ったということになるのでありましょうが、煩悩具足の凡夫と火宅無常の世界においては、善悪の二つをふくめて、一切が空言であり、戯言で真実がないにつけても、ただ念仏だけが真実でおわすのです。」であります。
これは、阿弥陀仏の物語は、道徳的な善悪の二つの立場を離れてこそ、共感できる教えであることを表現されているのではと考えています。私たちは、自己の価値観や利害をもとに善悪の判断をしていますが、長期的な視点や違う立場から見れば、善悪は入れ替わり、一貫することもなく勝手で頼りないものです。だからこそ、親鸞は、世界の一切は、嘘いつわりで、でたらめなことだと痛烈な言葉で教えられています。
しかし、その中で、仏教でも、阿弥陀仏でもなく、ただ一つ念仏だけは、凡夫の私が称えるものでありますが、一方で、阿弥陀仏という真理が私の中ではたらいている姿でもあります。「真理がはたらく姿」である以上、真実というしかない。嘘偽りだらけの自分の中に、念仏を通して、少しずつ真実が開かれ、仏になる道を歩んでいくのです。
私は、この2つこそが、本願念仏宗の教えの要であり、阿弥陀仏の物語を納得して、人生のよりどころとすることができるかの境目になるはずです。どうかどうか、一人でも多くの方が阿弥陀仏の物語と出会い、朋に念仏して、真実の浄土へ生まれることができますように。
以上